第四話 恋い明かしのお出かけ①
颱風の訪れから四日が経った。幸い、勝市の率いる三ツ木製鉄に大きな支障はなく、工場の被害も最小限におさえられたとのことで、勝市も邦義も新たな取引先との商談に心血を注ぐことができた。しばらくは不眠不休の大仕事であったが、ようやく損失の埋め合わせができて、会社全体に安堵の空気が広がっていた。
何はともあれ、一件落着である。
今日も邦義に車で送られ、帰宅したのは夜の十時ごろだった。出迎えたアサから「旦那様」と小さな紙切れを渡された。
「夕方六時頃にお電話がありまして。北村ナミ江という方から……」
「北村女史からか」
紙切れにはアサの字で、「以前話にあった、三人でお出かけのご相談を。日時や行き先などご希望があれば」と書かれていた。
「また明日、同じ時間にかけてくださるそうですわ」
「わかった。だが、俺はその時間に帰れるとは限らないので……伝えてもらいたいことを書いておくから、その通りに返事してくれるか」
「承知致しました」
勝市は上着と帽子を預け、寝室へ直行した。扉を閉めるやいなや、ふううぅ、と長く深いため息を吐き出す。
(ついに来た)
以前、ナミ江は言っていた。冬乃の調子が良ければ、海子も連れて三人で外へ出かけてはどうかと。そのやり取りは今もはっきり覚えている。
次の土曜なら空けられる。邦義に車を出させて、百貨店にでも連れて行こう。ついでに何か贈り物をして、食堂か、近くのパーラーで甘味でも食べさせてやれば、きっと彼女らは眼を輝かせて喜ぶにちがいない。
勝市はひとりうなずいて、デスクの上に置きっぱなしにしてあった交換日記をおもむろに手に取った。深く考えず、手癖でぱらぱらとめくってしまう。最後の冬乃の頁は、もう今週中に何度も何度も読み返していた。
書き出しには、北村邸で近頃起きる奇妙な現象について書かれている。あの颱風が来るより前に書かれたものだから、まだ座敷童の正体を知らぬ冬乃の戸惑いが言葉の端々に見えてほほえましい。
だが、重要なのは次に書かれた文だ。
〈奇妙な現象はもうひとつ。わたし自身にもありました。近頃、似たような夢をよく見るのです。どうか笑わないでくださいまし。わたしはその夢の中で今より幼い女中となり、大きな古屋敷に勤めております。そして必ず、わたしより少し年若い男の子が出てくるのです。そのお顔立ちが、どこか川島様によく似ています。夢の中のわたしは心の病などなく、その男の子と親しげにしていて、羨ましく思います。
夢ですから、あまり情景を深くは覚えておりませんが……屋敷の外で床几に座って一緒に星空を見上げていたり。お務めのさなか、ふと眼が合ったり。そんな何気ない日常を、日々繰り返し見てしまいます。これはいったいなんという現象なのでしょうか?〉
勝市は頭を抱えたくなった。
深夜、一緒に屋敷の外で星空を見た記憶……それは勝市自身もよく覚えている。十六年前の、夏だった。寝苦しさのあまりよく眠れず、屋敷の裏手に座って火照る頭を冷やそうとしていた。そこへ偶然にも、冬乃が来たのだ。「わたしも暑くてなかなか寝つけないのです」「勝市様とおそろいですね」などと、なぜか嬉しそうな顔をして……
あの日の空はよく晴れていて、空気が澄み渡っていた気がする。星空もくっきりと鮮明で、きらきらと輝いていた……星空とはこんなに綺麗なものだったかと、生まれて初めて思った。だが、それを口にしようとして、結局できず、ただ延々星を見ているだけの時間になってしまったのだ。
てっきり、覚えているのは自分だけだろうと思っていた。だが彼女は記憶喪失になってもなお、夢に見るほど深く覚えていた……自分と同様、心に深く刻んでくれていたのだろうか?
胸が熱く震える。だが、喜んではいられない。これは危険な兆候ではないだろうか。もし、夢がきっかけとなり、冬乃が記憶を取り戻してしまったら。大怪我をした原因がなんであれ、思い出せば彼女は深く傷ついてしまうかもしれない……
勝市は重い腰を上げ、デスクに帳簿を置き、ペンを取った。
気の進まないことは、早めに終わらせてしまうに限る。
〈冬乃へ。
あなたの夢について。それは単に、日頃の記憶が凝縮されているにすぎない。私とよく関わっているから私に似た男児が夢に出るのだろう。心の病を一刻も早く克服したいと願うあなたの気持ちが、その男児との戯れに表れているのではないか。
だから、奇妙なことでもなんでもない。ごく当たり前の夢だ。安心してほしい。……〉




