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また君に恋い初むる  作者: シュリ


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第一話 奇妙な再会①

 十月も半ばともなると、昼間でもひやりとする風が吹く。


 冬乃は庭に散らばる落ち葉を箒で掃き集めながら、頬へ受ける風に目を細めた。


 うだるような残暑が終わり、遠くに見える山並みが少しずつ冬支度を始めるこの季節が、冬乃は好きだった。想像でしかないが、おそらく――()()()()()()()も好きだったんじゃないかと思う。


 そのとき、背後で「冬乃さん」と呼ぶ声がした。振り返れば、女主人である北村ナミ江が縁側に立っている。


 ナミ江は〈職業婦人〉を絵に描いたような断髪の中年婦人である。ハイカラな幾何学模様の着物姿で、その上につけた絵の具まみれのエプロンさえ洒落て見えるほどに粋であった。


「ちょっとお願いがあるの」ナミ江は申し訳なさそうに大きな角封筒を差し出した。「今から急いで郵便局まで行ってくれないかしら」


 途端に冬乃は箒を取り落としそうになった。


「郵便局……でございますか」

「ええ……ごめんなさい、あなたの事情は重々承知してるし、なるべく外に出なくていいようにと思ってたんだけど、急に出版社から電報があって、締め切りが変更になって……本来なら明後日にでも適当に持って行こうと思ってたのよ、なのに今から出さなきゃ間に合わなくなってしまって」


 ナミ江はぶつくさと忌々しそうに言った。


「それに今、海子さんもいないし……もう頼めるのはあなたしか……」


 海子とはもう一人の女中である。彼女は現在、(いち)へ買い出しに出かけていて不在だった。


 冬乃は箒の柄をぎゅっと握りしめた。


「かしこまりました。すぐに行って参ります」

「ごめんなさいね、本当に……あなたは殿方が怖いのに」

「女中なのですからおつかいへ参るのは当然のことです。どうかお気になさらないでください」


 そう言って、冬乃は封筒を受け取った。マチいっぱいにぎっしりと中身が詰まっていて、ずしりと重かった。


「郵便局の窓口は女子職員ばかりだし、着いてしまえばあとは預けるだけだから」


 ナミ江はひどく申し訳なさそうに言った。


「あと、玄関にパラソルを置いているから使ってちょうだい。少しは視界を遮れるでしょう」

「そんな、恐れ多いです、奥様のお日傘を――」

「いいから使ってちょうだい! そして無事に帰ってきて。いいわね」


 ナミ江はそう言って踵を返したが、思い出したように振り返り、「(シニヨン)が乱れているわ、行く前に直したほうがいいわよ」と告げ、アトリエまで慌ただしく戻っていった。


 冬乃は一旦、女中部屋に戻り、襷と前掛けを畳に放ってから鏡を見た。 

 ナミ江の言ったとおり、後ろで結っていた髪がほどけかけている。手早く紐でくくり直しながら、鏡の向こうの自分を見つめて思わずため息がこぼれた。


 ――ああ、相変わらず顔色の悪いこと……


 女中だから化粧はしないが、してもいいなら今すぐ頬紅が欲しいくらい、青白い顔だった。なんだか幽霊みたいだ。

 いや、実際、自分はからっぽなのだから、幽霊に似ていて当然かも知れない……


 封筒を手に部屋を出る。

 廊下を右手にいけば、正面玄関がある。その片隅に白いレースの日傘が立てかけられていた。おそるおそる手に取り、広げてみる。


 百貨店に並んでいるような上品で繊細なレース細工に、思わず「まあ」と小さく声を上げてしまった。メリンスの地味な着物とは悲しいほどに合わないが、これで視界をある程度さえぎられるならありがたいことだった。


「奥様、お借りいたします」


 そうひとりつぶやいて、冬乃は北村邸を出た。


 この邸は日本家屋を洋風に増改築した、ちょっとモダンな建物だ。そのせいで下町の住宅街の中ではかなり目立っている。特にアトリエのある白塗りの六角窓なんかは、遠くから見てもすぐにわかるほどハイカラだった。


 ナミ江は売れっ子画家だから、この封筒の中にはおそらく雑誌の表紙か、絵はがきか、はたまたポスターデザイン案などが入っているのだろう。そんな彼女に仕えられるのはとても誇らしかった。


 だから、街へ出ろと言われれば喜んで出る。たとえ、恐ろしい殿方がたくさんいる市街地でも――


 そう勇んで歩いていた冬乃だったが、市街地へ出たとたん、歩みは極端に重たくなった。


 下町の喧噪に満ちた賑やかな空気、巨大な電柱のひしめく店並み、これでもかと張り出され、風にひるがえる(のぼり)(はた)……鮮烈な色彩の広告や看板が立ち並び、視界は一気に賑やかになる。


 冬乃は日傘をかたむけ、できるだけ視界を狭めるようにして歩いた。するとタッタッタッタ……と軽快な足音ともに、脚絆をむき出しにした男の足が通り過ぎていく。冬乃はびくりと大袈裟にのけぞり道を空けた。


 さらに前方からガタガタと車輪の音が近づいてきて、(くるま)を引いた車夫がすぐ横をすれ違っていく。


 籠をかついで走る男、スーツに洋傘を持つ男……様々な男がひっきりなしに通りかかり、冬乃はそのたび、逃げるように道を空けるか、足早にその場から離れた。


 昼日中の大通りは特にひとけが多い。それは重々わかっていることだったが、どうして今日に限ってこんなにも男が通りかかるのか。冬乃は封筒をぎゅっと胸に抱えこみ、傘をいっそう傾けて足早に歩いた。


 背中から汗が噴き出している。無意識に呼吸まで浅くなっていた。自分の履く下駄の音がカランカランといやにうるさい。


 はやく、郵便局へたどり着かなければ。窓口の女子職員に渡したら、多少遠回りをしてもいいから路地を抜けて帰ろう……そんなことをぐるぐる考えていた矢先だった。


「危ない!」


 鋭い叱声がすぐそばで聞こえ、突如だれかに肩をつかまれた。


 ――刹那、目の前の道路を乗合自動車がエンジン音をうならせ走りすぎていく。生温かい空気が冬乃の前髪をふわりと持ち上げ、町の空気に溶け込んでいった。


「危うく轢かれるところだったぞ。もっと周りを――」


 冬乃がはじかれたように振り返ると、声もぴたりと止まった。


 声の主は、男だった。見上げるように背が高く、焦げ茶のスーツに身を包み、黒い髪を後ろへ流した男……その目は鷹のように鋭く、恐ろしい目つきをしていた。


 冬乃は「ひっ」と喉を鳴らし、反射的にあとずさった。今し方、この男に肩を触られていたという事実がじわじわと胸のうちに恐怖を押し広げていく。


 だが、男のほうもまた、いぶかしげに冬乃の顔をまじまじと見つめていた。やがてその目をわずかに見開いて、


「……冬乃」


 とつぶやいた。


 わけがわからない。

 なぜ、名を呼ばれたのだろう。


 自分ははこの男を知らないのに。会ったこともない……はずなのに。


 それでも男は、「冬乃、なのか……?」と信じがたいような面持ちでたずねてくる。つややかな革靴の足を一歩踏み出して。


 冬乃の心臓が恐怖に飛び跳ね、気づけば踵を返していた。道路を走り抜けようとしたが、「おい!」と鋭い叱声と共に、背後から再び肩をつかまれる。


「待て、なぜ逃げる! 俺がわからないのか!」


 肩が痛い。男の力だ。怖い。たすけて。逃げられない――!


 それが、冬乃の限界だった。


「キャアアーーッ!」


 最後に覚えているのは、自分の発した耳をつんざくような悲鳴。


 瞬く間に視界が暗く塗りつぶされ、次に目が覚めたときには、冬乃は布団の上で女中部屋の天井を見ていた。




「お姉さま、お目覚めになられましたのね!」


 はつらつとした声と共におさげ髪の少女が駆け寄ってくる。北村邸のもう一人の女中、海子だ。冬乃は少し混乱しつつ、ゆっくりと上体を起こす。


「あれ……わたし……」

「お加減はいかがですか? お水でもお持ちしましょうか?」

「い、いえ、大丈夫よ……」

「遠慮なさらないでくださいまし。ああそうですわ、奥様のお言いつけの封筒は私が代わりに届けさせていただきましたから!」


 彼女はふんすと鼻をならし、頬に小さなえくぼを作った。


 海子は今年で十七になる、元気なかわいらしい少女である。おさげ髪に女学生のような黄色い大きなリボンを結んでいるので、家中どこにいても一目でわかる。


「とにかく、ご無事で何よりでしたわ。お買い物から戻っている道中、お姉さまの悲鳴が聞こえたものですから、私、飛んで行きましたのよ。そしたらなんと暴漢が今にも襲いかかろうとしているではありませんか! それで私、こらしめてやろうと……」


「こら、嘘はいけないわ」


 いつの間にか戸口からナミ江が呆れ顔を覗かせていた。


「冬乃さん、あなたを運んでくださった車夫の方から聞いたわよ。町中でお知り合いと会ったのでしょう?」

「……知り、あい……」


 冬乃の脳裏に、市街地での記憶がまざまざと甦った。恐ろしい目つきの男に突如肩をつかまれたのを思い出し、血の気が引いていく。


「わ、わたし、あの方のことは存じません。なのにあちらは名前をご存知で……わけがわからず混乱して……それに、殿方にあれほど近寄られたのも久しぶりで怖ろしく……」

「お姉さまを怖がらせるなんてやっぱり暴漢ですわ!」

「あなたはちょっと黙ってなさい」


 ナミ江は冷静に続けた。


「冬乃さん、その方、きっと昔のお知り合いなんじゃなくて? あなたが記憶を失う前の」


 ――ああ。

 そうだった。


 この邸に雇われてもう四年。日常を生きるのにすっかり慣れきってしまい、危うく自覚を失いそうになっていた。


 冬乃は、記憶喪失である。


 この邸に雇われる前、病院で目が覚めた。それより以前の記憶はなく、覚えているのは自分が「冬乃」であることと、故郷や幼いころに亡くなった両親のことだけだった。十歳くらいでどこか大きな屋敷に雇われた……ような気がするが、それも曖昧で、それ以降の記憶はごっそり抜け落ちている。


 つまりあの男は、抜け落ちた記憶のどこかで会ったことのある人物である可能性が高い……


「そうとは限りませんわよ」海子がぐいと身を乗り出してきた。「世の中には自分のそっくりさんが三人はいるんですって。その暴漢も誰かとまちがえたんじゃありませんの? たまたま奇跡的に同じ名前だったというだけで……」


「海子さん、あなたまた変な雑誌を立ち読みしたでしょう」

「月刊『摩訶不思議』は変な雑誌じゃありませんわ!」


 きゃあきゃあとかしましく(さえず)る海子の隣で、冬乃は悶々と考え込んでいた。


 あの男に触れられた瞬間、恐怖で気絶してしまったが、もし本当に過去の知り合いだったのだとしたら……自分は、なんて失礼なことをしてしまったのだろう。


 もう二度と会うことはないだろうが、もし会えるのなら謝りたい。


 だが、それは叶わない望みである。


 冬乃は記憶を失うと同時に、原因不明の心の病を患っていた。それは男に近づこうとすると反射的に恐怖し、逃げたくなるという厄介なものである。


 以前、診察してくれた帝都精神病院の女医は、男性恐怖症(アンドロフォビア)と呼んでいた。


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