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また君に恋い初むる  作者: シュリ


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19/33

 今しがた聞いた言葉が、冬乃の頭の中をわんわんと反響する。その意味が理解できないわけではない。ただ、受け入れがたかっただけだ。


 あまりにもすとんと腑に落ちてしまったのが、自分でも信じられなくて。


 勝市と接するとき、相変わらず体は震えるし、近づくのに勇気がいるし、心音もうるさくなるが、どんなに近づいたって気を失うことはなかった。そこに恐怖がないからだ。あるのは緊張だけだった。どきどきと心臓が高鳴って、向けられる視線を直視できないくせに横顔を盗み見てしまう、そんな恥じらいと緊張が、彼の前での所作をぎこちなくしていたのだ。


 自分は男性恐怖症があるからと、それらの現象を勘違いしていた。いつから……いつから自分は、勝市をそんな目で見ていたのだろう。


「わたし……わたし……そんな風に、見えてたの、いつから……」

「そんなのわかりませんわ。でも……お姉さま、昨晩はもう……まったく怖がっておられませんでしたもの」


 海子が恨めしげな目を冬乃の背後へ向ける。振り返ると、少し離れた場所に二つの人影が見える。勝市とナミ江だった。立ち止まってこちらの様子をうかがっている。


「お姉さまがあの人をお慕いになっていて、あの人もお姉さまを求めてらっしゃるんだもの、ご結婚なさいますわよね。私はもう……何も言えませんわ。何もかももうおしまいですわ」

「まだ結婚すると決まったわけじゃないし、たとえ結婚したってあなたとの関係がおしまいになるはずないじゃない」

「いいえ! お姉さまは社長夫人になられます。対して私は女中ですわ。関わりなんて……持てるはずも……」


 海子の大きな目に宿るのは深い諦念だ。寂しげに揺れるその瞳に、冬乃はかつての自分を重ねた。


 同じだ。彼女は冬乃の中にある自分の存在の大きさを信じていないのだ。だからいつでも終わってしまえる関係だと思い込んでいる……


 冬乃は二、三歩足を踏み出した。そうして、大きく両手を広げ、震える海子の肩を力いっぱい抱きしめた。


「お願いがあるの」


 この声が、心が、せめて彼女にまっすぐ届くよう、祈るような気持ちで告げる。


「わたしがたとえ結婚しようと……もしくは、それ以外に何かがあって北村邸を出ることになったとしても……わたしとずっと仲良くしてほしい」


「――え」


「言ったでしょう。いつかあなたとカフェーに行ったりお買い物をしたりしたいって。病が治って、本当に嫁入りしたとして、あなたと疎遠になったらもうそんなこともできなくなってしまうわ」


「そ、それは、私だって……ずっとしたいと思っていて……」


「だったら、しましょうよ。わたし、頑張って治すから。わたしがこの先どうなったとしてもずっと仲良くしてちょうだい」


 腕の中で、海子の息をのむ気配を感じながら、冬乃はゆっくりと告げた。


「わたし、海子さんが好きよ。大好きよ……本当の妹みたいに思ってるわ」


 うわああああ、と海子は泣き出した。


 その背をぽんぽんとあやすように叩き、さすりながら、冬乃はこの純粋で無邪気な少女の存在に、改めて深く感謝した。




「ほんっと、人騒がせな子ねえ海子さんは」


 抱き合う二人を遠目に見つめながら、ナミ江が呆れ気味につぶやいた。


「すみません、今回のこと……わざわざご協力いただいて」


「いえ。私も彼女に敵視されているのは気になっていましたので」勝市は淡々と答える。「この機会にわだかまりを少しでも解消できるならありがたいものです」


「そうですわねえ。あの子ははあなたからすれば小姑みたいなものですもの」


 勝市は改めて、遠くでわんわんむせび泣く海子に視線を向ける。


「彼女は、冬乃とエスになりたいのですか」

「ふふ、さあ、どうでしょうねえ。それに近い感情はあったかもしれませんが……それよりも依存の方が強いように見えます」

「依存……」

「頼りになる優しい姉……家族……あの子が幼いうちに失ったものを冬乃さんは持ち前の人柄で埋めてしまったんですもの」

「なるほど」

「だから、私、これでよかったと思ってますわ」


 ナミ江は改めて勝市に向き直り、深く頭を下げた。


「川島様。どうか冬乃をもらってやってください」


「……いや」勝市はうろたえる。「どうか頭をお上げください。まだ本人から返事をいただいていませんし……」


「では冬乃の返事が在り次第、迎えてやってください。私は彼女の身元を預かる身として、あなたとの結婚を望んでいます」


 勝市はぐっと唇を引き結び、短く低頭した。


「はい。彼女が望むなら、すぐにでも」


 吹き荒れていた風はいつしか穏やかになっていた。抱き合っていた二人は今は離れ、冬乃は少しかがんで海子の頭を撫でていた。




「これまでの数々の非礼をお詫び申し上げます。誠に申し訳ありませんでした」


 北村邸の庭で、海子が深々と頭を下げた。まだ頭上の雲は分厚く月は翳っており、辺りは暗い。ナミ江の持つ提灯だけが暗闇の中に穏やかな明かりを灯していた。


 勝市は海子の小さなつむじをじっと見下ろしていたが、やがて「もういい」と口火を切った。


「君は冬乃の妹分だろう。これからは、己の行動が大切な姉の評価を左右しかねないことを肝に銘じておくといい」

「……はい」

「それから、今回の件について、私自身は特に何も気にしていない。今後もその熱意で君の姉を支えてやってくれ」


 海子はがばりと頭を上げた。信じがたいような面持ちで、ぱちぱちと瞼をまたたいて。


「じゃ、今夜はこれでおしまいにしましょう」ナミ江がふわあと欠伸をかみころす。「もうすっかり遅くなってしまったわ。解散解散。冬乃さんも海子さんも寝坊しないでね」


「かしこまりました」


 冬乃が「お休みなさいませ」と低頭する。海子も慌てて倣った。ナミ江と勝市が先に玄関をくぐり、おのおのの寝床へ向かうのを見届けてから、女中二人も静かに寝室へ戻っていった。


 海子は「お姉さま。お休みなさいませ」としおらしい様子で布団にもぐりこみ、冬乃も「お休みなさい」と優しく返して床につく。


 早く眠らなければ、明日の仕事に支障が出る。


 瞼を閉じ、静かに呼吸をしていると、ふと海子の声が耳元によみがえった。


 ――だってお姉さま、恋する目をしてらっしゃるもの。


 ぱちりと目を開ける。隣で海子がすうすうと寝息を立てていた。冬乃はそろそろと手を動かし、そっと胸をおさえる。鼓動は熱く、速くなっていた。


(わたしは、あの方が……川島様が……好き)


 心の中でつぶやくことすら恐れ多かった。だがつぶやくたびに、胸の中ですとんと得心がいく。


 夢で小さな勝市に出会い、現実で勝市の姿を見るたびに、胸がどきどきと高鳴ったこと。体が熱くなってしまうこと。すべて病のせいで緊張しているのだと思っていた。いつからそれが恋に変わっていったのだろう。


 海子の言ったとおり、もはや縁談を断る理由はない。明日にでも彼と一対一で返事をするべきだ。そうすれば、自分は勝市と結婚して、彼の妻になる……


 その瞬間、頭の片隅に突き抜けるような痛みが走った。生理的な涙が目尻に浮かぶほど鋭い痛みで、歯を食いしばりながら額を押さえる。


 まただ。いつもいつも……「結婚」について深く考えようとするとまるで邪魔するみたいに頭痛が起こる。


 彼に返事をしようとしても、邪魔が入るかもしれない。それに……何を浮かれているのか……自分は大事なことを忘れていた。


 勝市が慕うのは自分ではない。自分とよく似た「冬乃」だ。だから妻になったとして……彼に愛されるわけではない……


 冬乃は空いた手で静かに胸を押さえた。痛みが二つになった。そのどちらもなかなかおさまらなかった……


 *


 早朝。水場の戸を開け、冬乃は「きゃっ」と声をあげた。顔から水をしたたらせた勝市が振り返り、驚いたように目を見開いている。


「し、失礼いたしましたっ」


 大急ぎで戸をぴしゃりと閉め、壁に背をつけて深呼吸する。

 勝市がいた。寝癖のついた髪と、洗いたての顔……

 昨日の今日でのこれは、鮮烈すぎて目に毒だった。


(どうしよう、わたしも起きたての顔を見られてしまった……のよね……)


 寝癖はついていなかったか。むくんだり寝皺がついていなかったか。今まで気にもしなかったことが気にかかって仕方ない。


「お姉さま? どうかなさいましたの」


 海子が寝ぼけ眼でのそのそと廊下をやってくる。やがてガラリと戸が開き、ぬっと勝市が出てきたので、冬乃は大袈裟にのけぞってしまった。


「すまない。怖がらせてしまって」


 勝市はこちらをろくに見もせず、客間のほうへすたすたと行ってしまう。冬乃は大きく息を吐きながらへなへなとくずおれた。


「お、お姉さまーっ?」


 海子に肩を揺すぶられながら、冬乃は彼の背を目で追っていた。


(ちがう……怖かったわけじゃない……)


 昨日の今日ではっきりとわかった。彼はもはや「男」ではない、「勝市」なのだ。


 恋なんて、今までしたことがあったのだろうか。記憶がないから、わからない。記憶喪失であることをこれほどまでに恨んだのは初めてのことだった。



 朝餉が済むと、颱風(たいふう)の後片付けが始まった。ナミ江もこのときばかりは仕事など放って一緒に片付けをした。


 雨風の影響か、庭はところどころぬかるみ、どろどろの落ち葉やどこからか飛んできたバケツ、草鞋(わらじ)(はた)の切れ端までもが散乱している有様だった。冬乃と海子で周囲を手早く掃除し、勝市は雨戸を固定する板や縄を取り外していた。


 近所の民家も同様に、奥方や女中、子どもたちなどが家の周りを忙しく動き回っている。共同のごみ箱はあふれかえり、周囲に入りきらないものが集められていた。とてもじゃないが大八車に載りきる量ではない。


 焚きつけに使えそうなものは物置へ放り込み、どうしても処分しきれないものは、海子が抱えて共同のごみ箱へ運んだ。その往復のさなか、ふと目を上げると、北村邸の屋根の上に勝市の姿が見え、ぎょっと瞠目する。


 彼は「屋根が壊れていないか見てくる」と言っていたが、まさか本当に梯子で上まで自ら上ってしまうとは。もしも彼がいなければ自分がやって、冬乃に褒めてもらったのに……などと悶々としながら門の中へ戻ろうとすると、


「もし」


 と背後から声をかけられ、びくりと振り向いた。見れば黒と灰色の羽織袴姿の男が立っている。見たところ三十前後で、細面の神経質そうな顔立ちだが、どこかで見たような気がするのはなぜだろうか。


 男は「君はこの家の使用人かね?」とたずねてきた。そのずいぶんと不躾な物言いに、海子も「ええそうですけど」とつんとした声で返す。


 男はちらと目線を上げた。ちょうど海子の後ろ、北村邸の屋根を見上げ、そして「はあ」と露骨にため息をついた。


「あそこ……あの屋根の上で(とび)の真似事をしているのはうちの社長なのだが」


「はあ……え?」海子は目をぱちくりとさせた。「あの……つまりあなたは、三ツ木製鉄の方ですか?」


「そうだ。社長に、秘書が迎えに上がったと伝えてくれたまえ」

「秘書の方ですか……わかりました、ではすぐにお声かけいたしますわ」

「待ちなさい」


 鋭い声で引き留められ、北村邸へ向かいかけた海子は苛立ちながら振り返った。


「なんですの」

「君の目から見て、社長と……もう一人の女中との仲はどう見える」

「なんですって?」


 聞き返しながら、海子は問われた意味を考えた。


「仲……なんて、そんなの……」

「社長はまだ本気で女中と結婚するつもりなのか。昨晩、ここに泊まったろう。何か進展したことはあるか」

「そんなの、存じませんわ。社長様にお聞きになればよろしいのでは?」


 その途端、男の手が海子の手首をつかみ、もう一方の手でぐしゃりと紙幣を握らせた。あまりにも鮮やかで自然なすばやい動作に、海子は一瞬、何が起こったのか理解が追いつかなかった。


「今後、社長がこの家を訪れ、その女中と近しくなろうとするたび、君がうまく邪魔してくれたまえ。手段は問わない。ともかく社長が痺れを切らして女中をあきらめるまで妨害するんだ。女中のほうにもこの縁談が不釣り合いで馬鹿馬鹿しいものであると君から説得するように」

「……」

「成功した暁にはこの倍の報酬を出す。これで故郷に仕送りするなりマシな着物を買うなり好きにするがいい」


 パシン、と乾いた音が晴れた空にこだました。


 男の頬が真っ赤に染まる。海子は打った手を振り上げたまま、唇を戦慄かせた。気色ばんだ顔が大きく歪み、頬に涙が一筋こぼれ落ちていく。


「う……ウチを見くびらんで!」


 紙幣を足元へ投げ捨て、彼女は門の中へと走り去っていった。男は頬をおさえ、呆気にとられた様子でその背を見ていた。


「邦義」


 は、と瞬いた視界の向こう、門をくぐって勝市がこちらへ歩いてきていた。邦義は慌てて足元に散らばった紙幣を拾い、すばやく衿元を正して何食わぬ顔で居直った。


「旦那様。……まったく、昨日は突然『北村邸を見に行く』などと一方的に電話をなさったきりで、迎えに来てみれば家の後片付けまで……どういうおつもりなのですか。会社がこんな状況のときに……」

「すまなかった。だが颱風の報せは町の端まで届きにくい。心配になるのは当然だろう」

「しかし」


「それと――」勝市は邦義の頬や、後ろへ回した手のほうへ意味深い視線を向ける。「昨晩、俺は海子と和解したんだ。だから彼女を買収しても意味はないぞ」


「……」


 邦義は露骨に大きなため息を吐き出し、握った紙幣を札入れへ詰め込むと、雑に袂へ放り込んだ。


「それは残念です。一歩行動が遅れたようで」

「そうだな。俺は昨日まで彼女に恨まれていた。今も好かれてはいないだろうが、もう、仲を裂こうとは思っていまい」

「……はあ」


 邦義は呆れた様子で遠くを見やった。


「社長はもう、何があっても女中と結婚をやめるおつもりはないのでしょうね」

「ない。だからもう小細工はよせ」

「……」

「それから、会社の問題はもう片付いた」

「はい?」

「俺の高等学校時代の学友が、造船会社を継ぐことになってな。おまえが用意した資料を持って飛び込みで営業してきた」

「社長自ら……ですか」


 邦義は信じがたいような目で勝市を見る。


「そのほうが手っ取り早いからな。近日中に向こうが視察に来るからまた対応を頼む」

「社長――」

「俺は北村邸が片付き次第、会社に戻る。すまないが先に戻っててくれ」

「……」


 邦義は数秒、呆気にとられていたが、すぐにいつもの取り澄ました表情を取り戻した。


「承知しました」


 邦義は慇懃に頭を下げた。気のせいか、普段よりも深く、丁寧で、長かった。


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