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また君に恋い初むる  作者: シュリ


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18/33

 勝市が客間の床に入るころ、外の風は幾分か落ち着きを見せはじめていた。少なくとも雨飛沫が叩きつけられるような激しい音はしない。


 客間には小さな文机があり、その上に小さな洋燈が置かれていた。埃をかぶっていないので、わざわざ用意されたものだとわかる。煤汚れひとつなく、これを冬乃が細い指で丁寧に掃除しているところを想像してしまい、なんだか汚すのも申し訳ないので使わないでおくことにした。


 行灯の明かりだけをつけて床に入ると、襖の向こうでとん、と控えめな足音がした。続いて衣擦れの気配。やがて、


「失礼いたします」


 と、遠慮がちな声がして、勝市はがばりと半身を起こした。

 冬乃の声だ。

 だが、なかなか襖が開かない。


「……どうぞ」


 焦れったさに重ねてそう言うと、冬乃の小さく息を呑む気配が伝わった。


 彼女は今、ものすごく頑張っている。頑張って襖を開けようとしている。ならばここは黙ってそれをじっと待つしかない。

 ややあって、襖が小さく隙間を空けた。すす、すすす、と遠慮がちに開き、奥から不安げな白い顔が現れる。


「あの……蕎麦湯はいかがですか」

「蕎麦湯?」

「今晩は冷えますので……寝しなにいかがかと思いまして」

「もらおう」


 冬乃はどこかほっとしたような顔で、さらに襖を開けた。


 盆を手に、そっと敷居の内側へ足を踏み入れる。その足先は緊張のためか震えており、歩き方もどこかぎこちない。まだ俺が怖いのか……と落胆しかけたが、行灯の柔らかな光の中に冬乃の顔が見えたとき、(違う)と確信した。


 冬乃の恐怖の顔はよく覚えている。はじめて会ったとき、この屋敷で再会したとき、下男として屋敷に取り入ったばかりのころ……彼女はいつも引きつけを起こしそうな顔で勝市を見ていた。いや、見もしなかった。直視すら出来ない恐怖の対象だったはずだ。


 だが、彼女の顔は今、緊張の強ばりこそあるものの落ち着いて見える。布団の横を通るときはさすがに息を詰めている様子だったが、盆を文机に置き、よどみない足取りで入り口まで戻っていった。


「失礼いたしました。他に何か……ご所望のことはございませんか」


 冬乃が膝をついて問う。勝市は「ない」と言いかけて、その言葉を喉の奥へ引っ込めた。


 本当は、言いたい。


 ――病が治ったら、俺と結婚してくれるのか。


 だが、それを口にするのは憚られた。彼女の病が治るまで、返事は待つと当初に伝えてある。待ちきれずに訊ねるのは彼女を困らせるだけだろうし、何より格好がつかない。


 それに……恐ろしくもあった。今、ようやく彼女との距離が少し縮まっている気がしているのに、愚かな問いがすべてを無為にしてしまうかもしれない……


「ない」

「左様でございますか。では、失礼いたします」


 冬乃は丁重に低頭し、廊下へ下がると、滑らかなしぐさで襖を閉めてしまった。


 ぱたん、と閉じられた音の余韻に思わずため息を重ねてしまう。


 彼女がいなくなった途端に、客間が妙に広く感じられた。先ほどまでは治まったと思っていた風の音がびゅうびゅうと大きく響いて聞こえる。


 勝市は苛立ちながら布団にもぐりこんだ。だが目を閉じると、先ほど布団の横を通り過ぎた冬乃の姿が瞼に浮かぶ。


 薄暗い寝室に、冬乃がいた。二人きりだった。たったそれだけのことがいやに特別なことのように思えて、心臓の鼓動が速くなる。


 いや、彼女は女中としてここへ来ただけだ。それ以外に他意はないのだ。何も特別なことじゃないのに、どうして一喜一憂しているんだ莫迦者め!


 息を吸って、吐く。吸って吐く……目を閉じてそれを繰り返しているうちに、勝市はうとうとと、浅いまどろみにたゆたっていった。



 それからさらに数刻ほど経ったころ。


 勝市の眠る客間の前に、黒々とした人影がぬっと現れた。それは少しためらうように立ち止まっていたが、やがて襖に手をかけ、音を立てぬようそろそろと横へ引いた。そうして開けた隙間から中へ押し入り、足を止めた。


 客間の真ん中に布団があり、人ひとり分の膨らみが見える。人影は慎重に歩を進め、布団のそばまで近づいた。


 直後、がばりと布団が捲られ、中から勝市が姿を現した。


「誰だ」


 突然の出来事に面食らったのか、人影が「ぎゃっ」と悲鳴を上げる。ぼとぼとと何かが畳に落ちた。

 勝市はシュッと燐寸(マッチ)を擦り、手燭に火をつける。その小さな明かりに浮かび上がったのは、青ざめた顔で立ち尽くす海子の姿だった。


「やはり、君か」


 勝市の視線はそのまま、彼女の足もとへ移る。明かりを近づけてみると、布団のすぐそばに、四肢を広げた格好のまま干からびている蜥蜴や蛙、鼠や蚯蚓(みみず)などの死骸がちらばっているのが見えた。


「これは――」


 そのとき、廊下からどんどんと急くような足音が響き、「失礼いたします!」とナミ江の切迫した声が聞こえた。直後、襖がパンと開け放たれ、明かりを持った冬乃とナミ江がそろって姿を現した。


「海子さん……」


 言いかけた冬乃は、海子の足もとに散らばる死骸たちに気づき、両手で口もとを覆った。


「海子さん。どういうことか説明してくれる?」


 ナミ江が厳しい声音で問う。


「お客様が寝静まっているところへ、どうしてそんなおぞましいものを持って忍び込んだのか」


 海子は血の気の失せた唇を引き結んだまま黙りこくっている。


「黙っていてもどうにもならないわよ」

「……」

「答えなさい」


 海子はやがて、何か言いたげに顔を上げたが、勝市の視線とかち合ってしまい、また顔をうつむけてしまった。


「座敷童の正体は君だろう」


 勝市が静かに言い放つと、海子はびくりと肩をふるわせた。


「買い物へ行くたびにおかしなことが起こるというのも君の狂言だ。身の回りに不可解なことを起こし、そのすべてを私のせいに仕立て上げるために」


「実は少し前、見ちゃったのよ」ナミ江も続けて言う。「あなたが買い物に出ているあいだ、冬乃さんと一緒にあなたの寝床の袋戸を開けたの。あそこの床、外れるようになっていたのねえ。床下に、家から消えた物が詰め込まれていたわ」


 海子の顔からますます血の気が引いていく。膝の横で握る拳がぶるぶると震えている。


「だからといってその死骸は(いささ)かやり過ぎだと思うがな」勝市の皮肉めいた声。「君は迷信の類いが好きだそうだな。その死骸も、私が呪われている、穢れていると吹聴するために用意したんだろう」


「……」

「海子さん」


 冬乃がたまりかねたように部屋に踏み入り、海子に近寄った。


「どうしてこんなことをしたの? 何か理由があるんでしょう?」


「私の仕事道具や冬乃さんの私物には一切手をつけず、なくなった私物といえば海子さん自身の櫛や髪紐だけ」ナミ江が呆れた様子で天を仰ぐ。「その他はなくなっても困るのはその場限り。替えの効くものばかりでわかりやすかったわ。だから私も冬乃さんもすぐに気づいたのよ」


「今日、夕餉時に座敷童事件を聞いたとき、私もなんとなく君を疑った。君は私を嫌っているからな」


 勝市はどっかりとあぐらをかき、じっと海子を見やる。


「そんなに君の『お姉さま』が私と関わるのが嫌だったのか?」

「……っ」


 海子は手のひらに爪が食い込みそうなほどに強く拳をにぎりしめる。勝市はそんな彼女にさらなる追い打ちをかけた。


「私を追い出せば、一生彼女を独り占めできると思っていたのか?」

「……そんなんじゃ、ない」


 海子が、はじめて声を絞り出した。長い間押さえ込んでいた物が噴出したかのような、凄まじい声音だった。


「あ、あなたみたいなえたいの知れない人に……お姉さまを渡したくない。絶対後悔するもの」

「どうしてそう言い切れる」

「結婚なんて嘘。愛なんてない。まやかし。体に飽きたら捨てる。それが男というものでしょう」


 勝市は呆気にとられたように目をまたたく。海子は燃えるような瞳で勝市を睨めつけた。


「女は逆らえませんわ。あとでどんなに後悔したって逃げられやしない。女はいつも騙される。信じて、身を預けて、そうして地獄を見るの! お姉さまがそんな目に遭うなんて、そんなの……そんなの、耐えられないのよ!」

「まるで、その地獄を知っているかのような口ぶりだな」


 勝市が静かにこぼし、背筋を伸ばした。


「俺は、冬乃にそんな地獄は見せない。冬乃の人生を預かる覚悟で求婚している。だが、彼女が俺を拒むなら潔く身を引くつもりだ」

「それこそ男の常套句ですのよ」

「そうかもしれない。だがそれを判断するのは冬乃であって、君ではない。病を治しながら彼女にそれを見極めてもらうつもりでここに通っている」


 海子はぐっと唇を噛んだ。勝市を睨みつけるその目は、憎悪や嫌悪の中に戸惑いと絶望が混じって震えていた。


 次の瞬間、海子は踵を返して走り出した。ナミ江と冬乃の間をぶつかる勢いで通り抜け、一目散に玄関へ駆けてゆく。


「海子さん!」


 冬乃も咄嗟に後を追った。廊下の暗闇の先に、淡い萌葱色の浴衣の背中がぼんやりと見える。それを必死に追いかけた。



 雨はおさまっているが、風はまだ強い。木々が大きく揺れて枝をしならせ、時折木の葉か塵か、わからない何かが額に飛んでくる。それでも構わず、海子は走り続けた。


 月が分厚い雲に覆い隠された暗闇の中、ぼやける視界に今や忘れかけていた光景がよみがえる。


 四つのころ、口減らしで親に売られた。気がつけば白粉と酒の臭気にあふれた小汚い置屋にいて、そこで姐たちの世話をさせられるようになった。


 いずれ自分も姐たちと同じ仕事をするのだと言われたので、いつも姐たちの様子を観察していた。彼女らは皆、華やかだった。華やかな顔と体の中に、おどろおどろしい毒を溜め込んでいた。


 彼女らの仕事は、男を喜ばせること。男は彼女らの華やかな顔と体を楽しみ、帰っていく。それ以外の時間、彼女らは花びらのような笑顔と化粧を落とし、溜め込んだ毒で他の華たちを苦しめた。他の華を貶めれば自分がより目立って美しく、男たちに求められると知っているから。


 評判を上げればもっと上等な部屋を与えられる。食事に、寝床に、着物に――主人からの期待は露骨に現れる。


 しかしどんなに上等な待遇を受けていても、彼女らは常に置屋から救い出されることを望んでいた。その救いの手をさしのべられるのはお客だけ。


 彼らは言う。いつか必ず――金が貯まったら――今の仕事が片付いたら――迎えに来ると。


 だが、実際にその救いが叶った例は数えるほどしか見ていない。だから水揚げされた姐たちの美しい笑顔を見たとき、自分も救われた気がして嬉しかった。


 だがある日、海子は彼女らのその後を知った。


 買われた彼女らを、正妻として幸せにした男などひとりもいなかった。愛妾として飼い殺し、見目が老いれば放り出す。酷いときには別の商売に売り払う畜生もいた。


 華の張りぼての下で毒を刺し合う醜い女。その女を嘘で苦しめ殺す男。そんな世界に耐えきれず、十一のときに置屋から脱走した。外行きの着物を売りはらい、寝間着のまま汽車に乗った。宛てもなく、宛てもなく、宛てもなく……


 気がついたら、駅の外に放り出されていた。外は真っ暗闇で、電灯がひとつだけ灯る下に座ったまま眠っていたのだ。


 ここがどこかもわからず、途方に暮れてただ座っていた。空腹で胃がへこんで息が苦しかった。


 ナミ江に拾われたのは、本当にたまたまだった。駅前に人力車を停め、降りてきた彼女は、今にも死にそうなずたぼろの子どもを気の毒がって声をかけてくれたのだ。


 ナミ江は持っていたあんぱんを分けてくれた。生まれて初めて食べたあんぱんの味は、今でも鮮明に思い出せる。それほど強烈で、鮮烈で、奇跡のように甘い味だった。夢中で食べながら、ナミ江に訊ねられるままに自分のことを話した。


 それからナミ江の家に連れていかれた。その数日後、ナミ江はこう言ったのだ。


「私、あなたを買ったから。今日から私があなたの主人ね」


 海子という名は自分でつけた。ナミ江に文字を教わったあと、はじめて買い与えられ自力で読んだ少女雑誌に、今をときめく女学校の学生たちが特集されていた。その中で、社長令嬢の海子という学生がインタビュウに答えていたのだ。その頁は鋏で切り抜き、今でも大切に持っている。


 女学生みたいになりたくて、髪型を真似た。お下げ髪につける黄色いリボンは、その二年後にこの屋敷に現れた、冬乃が作ってくれたものだ。


「待って!」


 後ろから、息も絶え絶えの声がする。


「海子さん、待って、お願い!」


 冬乃の声だ。だが、今さら足は止められない。


 悔しい。してやられた。恥ずかしい。傲慢だった。冬乃の結婚話なのに、自分の思い通りにしようとした。わかっている。いけないことだ。恥ずべきことだ。自分の醜さが白日の下に晒された今、もう合わせる顔がない。


 何が「お姉さま」だ。あんなに心の綺麗な優しい女性と自分が姉妹なものか。


 何か硬いものが足先に激突し、体が思い切りつんのめった。すんでのところで転ぶのは免れたが、痛みに足が動かせない。


「海子さん!」


 冬乃の声が、すぐ後ろに聞こえる。「大丈夫?」――優しい、大好きな声が海子をいたわってくれる。


「私……もうお屋敷にはいられません」

 気がつけばそう口にしていた。


「どうしてそうなるの? 私も、奥様だって、海子さんにいなくなってほしくないわ」

「嘘! 私、とんでもないことをしましたのよ。そう……あの人の言うとおり……私、お姉さまを取られたくなかったのです。でもそれ以上に、男というものが信じられなくて。お姉さまが、みんなと同じ目に遭うかもしれないと思うと耐えられなくて……」


「みんな?」冬乃は少し考え、少し躊躇うように訊ねた。「もしかして……海子さんが前にいたところの……?」


「……」


 冬乃に少しばかり境遇を知らせていたのを思い出した。記憶を失った彼女に、海子もまた訳ありであるのだと、ナミ江が短く伝えてくれていた。


「そうね……きっと……あなたはそういう光景を何度も見ていて……あなたはわたしを想って心配してくれていたのね」


 そうだ、と思うと同時に、違う、と別の心が答える。


 取られたくないからだ。いなくなってほしくないからだ。


 でも、心配していたのも本当で、ぐちゃぐちゃな心に自分でも訳がわからなくなる。


「でもね、あの方があなたの知る〈男〉と同じだとは限らないわ。だって別の人なんですもの」

「……そうやって、騙された人たちを何人も見ました。男なんて本質は変わりませんわ」


「じゃあ、わたしは?」冬乃が自らの胸に手を置いた。「わたしは女よ。あなたの周りで、あなたに意地悪なことを言っていた人たちと同じ女。あなたは彼女たちとわたしが同じだと思う?」


「……それは、ちがいます」

「どうしてそう言い切れるの? 優しいふりをしているだけかもしれないわ。隠れてあなたを虐める機会をうかがっていたとしたら?」

「お姉さまはそんなことなさいません!」

「海子さんは、わたしを信じてくれているのね」


 冬乃は慈愛に満ちた目で海子を見つめる。


「わたしも信じてるわ。でも少し前まで信じ切れていなかった。わたし、自分の心の病のせいであなたと奥様に疎ましがられるのを恐れていたの。愚かだったわ。日頃わたしに向けられている好意や信頼が見えていなくて、信じ切れなくて、恐れて……遠ざけていた。でも、そのことに気づいてからわたし、もう苦しくなくなったわ。前向きに病を克服しようと思えたの」

「どうして、そんな風に思えたのですか」


 冬乃は少し目線をそらし、はにかみながら答えた。


「川島様が、教えてくださったの。もっと周りを信じていいのだと。あの交換日記で、教えてくださったの」


 雷に打たれたような衝撃が胸を貫いた。


 悔しい。どうして、私じゃないのだろう。聞いてくれたなら何度だっていつまでだって、この気持ちを伝えたのに。


 きっとこれ以外にそんな機会があいくつもったのだろう。そうやってあの男は冬乃の中に信頼を積み重ねた。夜だけ揚屋にやって来る男たちとは違う、真に心に寄り添う行為と言葉を、きっとあの男は贈り続けたのだ。


「だからね、私……今ではあの方を信じてるわ。怖い〈男〉じゃないって思えるわ。海子さんもどうかあの方を信じてみてほしい。わたしを信じてくれているのと同じように」


 冬乃の切実な声が、耳に、胸に、痛いほど強く響く。いつも優しくてどこか儚げな声が、今は強い芯と熱をはらんで迫ってくる。


「お姉さま。あの人のこと、好きなんですのね」

「……えっ?」


 冬乃の声が狼狽に揺れた。それだけで、問いは確信に変わる。


「だってお姉さまがあの人を見るとき……恋する目をしてらっしゃるもの」

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