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また君に恋い初むる  作者: シュリ


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17/33

 午後三時にもなると、家全体が揺り動かされるかのごとく強い暴風が吹き荒れ、さらに一刻もするとゴロゴロと恐ろしい雷鳴が響きわたってきた。


「か、か、雷ですわっ!」


 台所で海子が悲鳴を上げる。冬乃は羽釜を炊く火を見ながら「大丈夫よ」と苦笑した。


「こんなところへ落ちてきやしないわ」

「お、落ちるとか落ちないとかではありませんの、大きな音が鳴りますのよ、ピカッと光りますのよ!」


 直後、どかんと空気を殴りつけるような凄まじい雷鳴が轟き、フッと電球の光が消えた。


「ぎゃあああああーーーーっ!」


 海子が叫び声を上げてしゃがみこむ。


「海子さん」


 慌ててそばへ駆けつける。小さく丸まって震える背を、優しくさすった。


「大丈夫よ、大丈夫。びっくりしたわね、大きな音だったわ」

「も、もうだめ……雷様がこの町を滅ぼしてしまう……」

「こんな、帝都の脇の小さな町をわざわざ滅ぼしたりしないわよ」


 良くも悪くも信心深い海子のこと、本気で雷様が怒っていると思っているのだろう。


 冬乃は万が一停電が起きたときのためにと、事前に燐寸(マッチ)や蝋燭、石油洋燈を用意していた。それらを灯して台所のあちこちに置いていく。


「少しは明るくなったわ。海子さん、もう怖くないわよ」


 そうやって彼女をなだめすかしながら、冬乃は米が炊きあがるのを待った。


 炊いた米は丼鉢によそい、七輪で簡単に火を通して味をつけた野菜や漬け物をのせる。醤油を少しとだし汁をかけ、そぼろ状の卵も添えて盆に載せた。


「海子さん。夕餉ができたわ。お盆、運べる?」


 海子は泣きべそをかきながら立ち上がり、「もうじわげありまぜん……」とつぶやいて箱膳を手に取った。


「無理はしないでね」


 冬乃はそうつぶやいて、主人とお客の待つ座敷へ食事を運んだ。


「ご苦労様、暗い台所で」


 座敷につくと、ナミ江が労ってくれた。ちゃぶ台には蝋燭や石油洋燈の明かりが灯り、そばには長火鉢も置かれていた。五徳の下で炭がほんのりと赤く燃えている。冬乃はその上に鉄瓶を置いた。


「まるで冬みたいに寒いわねえ」


 ナミ江は物入れから引っ張り出してきたのか、綿の入った半纏を羽織っている。勝市も浴衣に着替え、同じく半纏を肩にかけていた。


「すみません、お台所が暗いもので、簡単なお食事しか作れず……」


 冬乃の隣で、目を泣きはらした海子が二人に茶漬けを配膳する。ナミ江は「あら、いい香り」と嬉しそうに箸をとった。


「たまにはこういうのも悪くありませんわよねえ、川島様」

「はい」


 勝市も慇懃に箸を取る。口数少ないが、彼は「いただきます」とつぶやいてすぐ出汁をすすり、うまそうに目を細めたので、冬乃も安心して茶漬けに口をつけた。


 食べている最中も、遠くでゴロゴロと雷鳴が轟き、海子が「ひっ」と肩を縮こまらせる。雷はまるで彼女を脅かすように突然大きくなったり、小さく不穏な音になったりを繰り返しており、海子はすっかり憔悴しきっていた。


「海子さん、相変わらず雷が苦手なのねえ」


 ナミ江がほほほと笑う。


「もうおへそを取られるような歳じゃないでしょう」

「恐ろしいものはいつまでも恐ろしいものですわ」

「去年だったかしら? 雷が夜中に鳴り始めて、たしか冬乃さんのお布団に転がりこんだって――」


「はい」冬乃もくすくす笑った。「まるで子猫みたいに俊敏にお布団に飛び込んできたので、驚きました」


「だ、だってあのときは夜中でしたし本当にびっくりしましたのよ、怖かったのです、起き抜けにすごい音で」


 風がうなるたび、家のあちこちからミシ、ギシ、と不吉な音が聞こえる。時折凄まじい勢いで雨の飛沫が雨戸に叩きつけられ、そのたびに海子は「ぎゃっ」と叫んで冬乃の後ろに隠れてしまった。


「家が壊れてしまいますわ……!」


「壊れないわよ」ナミ江が呆れ声で言った。「この家けっこう丈夫なんですからね。お金をかけて増築してるんだし、我が家が潰れたら周りの家もおしまいよ」


「万一壊れたら、我が家においでくださればいい」


 薄闇の中、勝市の声がりんと響いた。


「部屋に余裕はあります。家を建て直すあいだ、滞在していただいて構いません」


「まああ川島様ったら、本当によろしいのですか?」


 ナミ江が上機嫌で笑う。冬乃は蝋燭の明かりの向こうに浮かぶ勝市の顔をじっと見つめた。彼は相変わらず仏頂面だが、なんだかひどく優しい顔に見える。


「そんなこと言って、お姉さまと同居なさりたいだけではありませんの……」


 海子がぶつくさとつぶやく。冬乃は慌てて「こら」とたしなめ、勝市の顔色をうかがった。


「いや、別に、そう他意はない」


 勝市はわずかに声を上ずらせて、残りの茶漬けをかきこんだ。なんだかひどく狼狽しているように見えるのは、蝋燭の火のいたずらか。


 外は暴風が暴れ狂い、家の中も停電しているが、時刻はまだ夜にさしかかったばかり。早めの夕餉を終えてもやれることがないので、皆で茶室に残ったままとりとめのない会話を続けていた。


「そういえば川島様、先日はお忙しいご様子でしたが」


 ナミ江が勝市に話を振る。勝市は「ええ」とぶっきらぼうに返した。


「何か大変なことでもおありでしたの?」

「ええ、まあ。ですが、もう解決しましたので。ご心配をおかけしました」

「参考までに、どんなご事情で? ああ、お答えいただける範囲で結構ですけれど」

「長年つきあいのあった取引先から縁を切られただけです」

「……まあ」

「その空いた穴を埋めるために奔走しておりました。まあ、会社を経営していればそのうち行き当たる問題だったでしょうし、もう過ぎたことですから」

「それは大変でしたわねえ。でも、川島様なら訳も無く解決なさったでしょう。そのお歳で社長の座につかれたほど敏腕でいらっしゃるのですから」


 蝋燭の火がゆらめき、ナミ江の瞳が一瞬、きらりと光る。この女主人がさりげなく勝市の社長就任にまつわる事情を聞き出そうとしているのを冬乃は感じ、思わず喉を鳴らした。


「大したことはしていません」


 勝市は静かにつぶやいた。だが、ナミ江の興味津々といった顔つきを見、箱膳の向こうで同様に勝市を見つめる冬乃の視線に気がつくと、こほんと小さく咳払いして、「面白い話ではありませんが」と前置きした。


「私は高等学校に通っている時分から、学業以外の時間を使って就職先を探しておりました。様々な会社をたずねては、見習わせてほしいと頭を下げていました。今では無謀で恥知らずな行為だったと自戒しております」


「どうしてそこまでなさったの? 高等学校に行けば、放っておいても学校側から斡旋がありますでしょう」


「学校の力にはなるべく頼りたくありませんでした。私は川島の家の子どもです。貿易で名を馳せた商家の子です。学校側もその名前を存分に利用して口利きするでしょう。それがどうしても嫌でした。

 そして、そんな私の無謀な願いを聞き入れ、見習いとして会社を見学させてくれた恩人が現れたのです。それが三ツ木製鉄の先代社長でした」


「まあ……」


「会社の内部を得体の知れない学生に見せるなど普通はありえないことです。ですが、先代のおかげで私は製鉄業に興味を持ち、その秘められた可能性の大きさに心を動かされました。この分野で必ずや成功をおさめてみせると硬く誓いました」


 製鉄業は、帝都を中心に近代化の進むこの国において、最も重要な分野の一つと言える。鉄資源も異国からの輸入ばかりでなく、国じゅうに鉱脈が掘られ、国産化も進んでいるのだ。勝市は製鉄業に魅せられていた。


「私は卒業と同時に会社に雇われましたが、それ以前から学業以外の時間を使い、会社の工場で実際に働かせてもらっていました。工場の管理者と親しくなり、先代とも顔見知りになっていた私は、就職後に下積みをしつつ、彼らと積極的に話をしました。製鉄業界のこと、会社の運営について……酒を飲み交わしながらひたすら話をしました」


「入ったばかりの平社員が社長とそんなに仲良くしてたら、よく思わない人たちもいそうねえ」


「実際、よく思われていませんでした。何度か帰り道を付け狙われたり、仕事を回してもらえなかったり、間違った情報を教えられたりと嫌がらせは受けましたが、些細なことです」


 勝市は呆気にとられる婦人たちの面々を見回し、こほんと小さく咳払いをして続けた。


「そんな折、会社が倒産の危機に直面しました。本当は私が三ツ木に興味を持っていたころからすでに経営は危うかったのです。ご存知でしょうが、このご時世、製鉄業はめざましい発達を遂げたおかげで競争もはげしく、常に革新し続けなければ生き残れない時代ですから。


 そんな中、私はある新聞記事に目をつけ、社長に進言しました。海外で大戦が起こった影響で、ブリキ玩具の輸入が滞りはじめるはず。我が社で玩具を売りませんかと。私が持ち出した記事はちょうどその大戦の記事でした。


 社長は『どうせ倒れるならやれるだけのことをやる』と、私の進言を汲み、秘書に精査させて会議にかけ、すぐさま製造に乗り出しました。無論、私と同様に情勢を察知し、玩具に力を入れた会社は他にもありましたが、三ツ木は規模が小さい分、地域に根づいておりましたから、市場に確実に製品を卸し、広めることに成功したのです」


「と、いうことは」ナミ江がぽんと手を打つ。「川島様が社長の座につかれたのは、その進言の功績を認められて……ということですか?」


「まあ、有り体に言えばそうです。しかし厳密には違います。先代は長いあいだ重い病に罹っていましたが、それを隠して働かれていたのです。ブリキ玩具が功を奏したとき、緊張の糸がほどけたのか、社長は倒れました。


 今際の際に社長は秘書に伝えました。私が死んだら一旦、この会社はおしまいにする。社員にはじゅうぶんな退職金を渡してほしいと。だが、同時に、私へ三ツ木を踏み台に新たな会社を作って経営してほしいと託されました。そして、その会社で働きたいという社員がいれば引き続き雇ってやってほしいと。


 世間一般から見れば、ただの世代交代です。しかし先代は私に社長の椅子を明け渡したわけではなく、一から立て直すつもりでやってほしいと、その覚悟がないなら会社をおしまいにしてくれと、そうおっしゃったのです」


 勝市はそこで言葉を切った。しばしのあいだ、誰も一言も発することなく、暴風がびゅうびゅうと雨戸を叩く音だけが不気味に響いているだけだった。


「……聞いていた話と違いますわ」


 ぽつりと海子がつぶやく。そしてすぐはっと口を閉じた。


「聞いていた話とは?」

「あ、ああー、いえ、別に、なんでもありませんの」

「私が会社を乗っ取るために社員を買収しただの、先代の妻を寝取っただのという腹黒い噂のことか?」

「……」


 海子はバツが悪そうに首をすくめた。勝市はフッと笑う。


「私が会社を――文字通り建て直したとき、ほとんどの社員は退職金を受け取らず引き続き会社で働いてくれたが、一部の者は私を()く思わず出て行った。別にそれは構わないのだが、あちこちであること無いこと吹聴していて困っている。三文記者がそれに飛びついて節操なく書き立て、ゴシップ好きの読者がそれを真に受けているのだから、もうどうしようもないが」


 海子はますます背をまるめてしまう。雑誌が好きで、買い出しのついでによく立ち読みをする彼女のこと、やたらと勝市を毛嫌いしていたのはそんな背景もあったのだろう……と冬乃は密かに得心した。


「長々と、失礼しました」勝市は膝に手をつき、改まって言った。


「いいえ、素敵なお話でしたわ」

「そういえばこの週末、北村家ではお変わりありませんでしたか」

「そうねえ、お変わりがあったといえばありましたけれど……ねえ、冬乃さん」


 ナミ江に水を向けられ、冬乃は「え、ええ」と同意した。


「何があったのですか」

「ほほ……実は我が家に座敷童が棲みつきましてねえ」

「座敷童?」


 勝市が目をすがめる。


「冬乃さん、よかったらご説明してさしあげて」


「は、はい」冬乃は緊張に声をうわずらせた。


「少し前から、物がなくなるようになりまして」

「物が?」

「はい。我が家にある物がなんでも、無作為に、突然消えるのです。使おうとするとそれに気づくということがしばしばありまして」

「それは……妙だな。例えばどんなものが」

「本当になんでも……竹箒や電球、燐寸(マッチ)、裁縫針など大小限らずです。海子さんの櫛や髪紐までなくなりました」

「幸い、私の絵筆などはまだ手をつけられておりませんから、仕事に支障はありませんけどね。座敷童もさすがに私には遠慮しているのかしら」

「それ以前からおかしかったのですわ」


 突然海子が割って入った。


「買い出しに行ったら目当てのものだけ状態が悪かったり不自然に売り切れていたりと、不気味な現象が続いてましたのよ。そこへ来て家の物がつぎつぎになくなるのですから、私、お祓いしたほうがいいんじゃないかと思っていますの」

「海子さん」


 冬乃が小声でたしなめたが、海子は構わず「以前はこんなことありませんでしたのよ。本当に、最近になって突然にですわ。いったいどうしてこんなことが起こるようになったのでしょうね?」と、勝市に挑戦的な目を向けた。


 勝市もその目をまっすぐ見返した。彼の眼光鋭い目が猛禽類のように細められると、さしもの海子もたじろぎ、ふん、と視線をそらす。


 その緊迫した空気を打ち破るように、ナミ江が燭台を持ち上げ「さて――」と壁時計を見上げた。


「お話に夢中になっている間に、もう八時にさしかかりますわ。今晩は早めに床へつきませんか?」


 ナミ江の提案により、皆はおのおの席を立った。冬乃が食器類を盆へ重ねて持っていこうとすると、


「台所まで先導しよう」


 と勝市が手燭を持ち、引き戸を開ける。


 冬乃は反射的に足を竦ませた。だが、勝市は冬乃をまっすぐに見つめたまま「足元が暗いと不便だろう」と諭す。


「あなたに必要以上に近寄ったりしない。足もとを照らすだけだ。それでも……怖いか」


「い、いえ」冬乃は首を大きく振って、盆をしっかり握る。それから、勝市の持つ明かりについて歩いた。


「お姉さま、私がついておりますから」


 海子が横から声をかけてくる。だが直後、強い風が思い出したように窓をガタガタと揺らし、「ぎゃあっ」と悲鳴を上げて飛び退いた。


「ずいぶん頼りない護衛だな」


 勝市が皮肉っぽくつぶやくと、海子は牙を剥いた猫のように唸った。


 台所へ到着し、持っていた盆を下ろしたが、まだ箱膳が茶室に残っている。


「すみませんが、もう一度往復しなくてはなりません」

「わかっている」


 勝市が手燭をかかげてうながした。その仕草がなんだか心強く思えて、冬乃は自分でも驚いてしまった。


 彼の少し後ろを歩きながら、冬乃は(こわくない)と感じていた。彼の持つ明かりもそうだが、暗闇も雷も物ともせず、当然のようにこうして手助けしてくれる彼に、不思議な安心感を覚えている。


 座敷に入り、箱膳を持ち上げ立ち上がる。だがその拍子に、冬乃の腕が勝市の腕に、かすかに擦れ合った。


「あっ――」


 互いに息を呑む。


「すまない」


 勝市のほうが先に距離を空けた。それは彼の、いつもどおりの優しい気遣いだ。だが、なぜだろう……ほんの少し、胸の奥がもやついてしまうのは。


 勝市の先導で座敷を出るとき、彼はぼそっと


「いやだったか」


 とたずねた。つぶやくような声だった。


「い――いえ」


 冬乃は思わずそう答えていた。


 勝市は一瞬ぎこちない動きを見せたが、すぐに「そうか」と言い、まっすぐに歩き出した。


 冬乃も黙ってついて歩こうとした。だが、すぐに後ろから袖を引かれた。


「お姉さま」


 海子だった。彼女の大きな瞳が、暗闇の中でも爛々と光って見えた。


「私が先を歩きます」


 え、と戸惑ううちに、海子は冬乃と勝市のあいだに割り込み、堂々と台所まで歩いていった。


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