②
勝市のいない、土曜の夕方。
冬乃が台所で夕餉の準備をしていると、海子が勝手口から入ってきて、買い物籠を下ろした。
「お帰りなさい。ずいぶんかかったわね、混んでいたの?」
「それもありますが、お目当てのお魚がなくって」
「まあ。売り切れ?」
「そういうわけではなくて……その……どれも貧弱で、ウチの食卓に並べられるものはありませんでしたわ」
「そう……今季は不漁だったのかしら? でも、新聞ではそんな風には書かれていなかったけれど」
「そ、そうですわ。ですから妙だなと思いましたの。それに、買う予定だった秋茄子や里芋、ごぼうなどがすっかり売り切れてしまっていて」
「え、そうなの⁉」
「ええ、でも、なんとかめぼしい物を買って参りましたわ。お献立、なんとかなりますでしょうか」
「そうね……なんとかしてみましょう。買ってくれてありがとう」
冬乃は籠を受け取り、さっそく魚の下処理にかかる。海子のお眼鏡にかなったのは秋刀魚であるらしい。これも季節物だからおいしいのは間違いないので、冬乃は気にせず食卓に載せることにした。
不漁や不作はままあることだ。市の商人たちの買い付けが悪いことだって多少はある。だから次の買い出しは大丈夫だろうと冬乃は思っていた。
ところが、次の買い物のときも海子は落胆顔で帰ってきて、「目当ての物がすっかり売り切れていたので別の物を見繕ってきた」という。
妙だな、とは思いつつも、市へ行けぬ身の冬乃にこの眼で確かめるすべはない。もちろん、忙しい主人にこんなことを相談するわけにもいかないので、気になりつつもなすすべはなかった。
そして奇妙なことは、家の中でも起きはじめていた。
ある日、冬乃が庭の枯れ葉を掃除しようと納戸を開けると、入り口すぐに立てかけている竹箒の先が痩せているのに気づいた。
もうそんなに使ったのか、と思い、替えをさがしたが見当たらない。
「海子さん、竹箒の替え、知らない?」
と、縁側を拭いていた海子にたずねたが、彼女はきょとんと首をかしげ、「納戸にありませんでした?」と聞き返す。
「そのはずなんだけど見当たらないの。おかしいわね……もう二本ほど置いてたはずなんだけど」
また別の日になると、今度は海子が食料庫からすっ飛んできて、
「大変ですわ、買い置きしていたお芋や人参がありませんの」
と報告してきた。冬乃も一緒に庫内を探したが、海子の言った野菜ばかりが忽然と消えていた。
「鼠が持っていったのかしら……」
「お姉さま、発想がおかわいらしすぎますわ。持って行くには多すぎますし、第一、鼠の出入りできる穴なんてありませんわよ」
またある日は、海子が女中部屋で
「お姉さま、私の櫛を知りませんか?」
とたずねてきた。冬乃はもちろん見ていないので、二人して部屋中を探したのだが見当たらない。家のどこにも落ちていなかった。
櫛だけではない。縫いかけの足袋や裁縫針、替えの電球、湯飲み茶碗、海子の前掛け、燐寸、鋏、など、使おうとしたときに限って忽然と消えている。
原因ははっきりしないものの、放っておくにも気味が悪いので、ある日冬乃は思い切って、ナミ江が仕事の合間に茶室へ降りてきたときを見計らい、相談することにした。
「奥様。実は、ご報告したいことがございまして……」
「なあに? ハッ……わかったわ、川島様のことね? 一緒にお出かけする勇気が整ったとか?」
「あ、いえ、そうではなく……」
「近頃、身の回りでおかしな現象が起きていますの」
海子が急くように続けた。
「お買い物にいくと目当てのものばかり売り切れていたり、家の中ではいろんな物がつぎつぎになくなってしまって」
「ああ、そういえばあなたたち、近ごろ何か探し回ってるのをよく見かけたけれど……」
「はい、昨日なんて台所から火ばさみが消えていましたわ。火の後始末に困りましたのよ」
「ふーん……?」
ナミ江は冬乃の淹れた茶を一口飲み、ふう、と一息つく。「座敷童でも棲みついたかしら」
「このお屋敷は、それほど古い建物なのですか?」
「いいえ全く。でも、そうとしか考えられないわよねえ。だって常に家人がいるこの家に泥棒が入れるわけないし、入ったとして、盗っていくものが金品じゃなくて火ばさみだの裁縫針だの、いくらにもならないものばかりよ。誰かの悪戯じゃないかとしか思えないわ」
「い、悪戯なんかじゃありませんわ」
海子は顔を青くして、ぐっと拳を握りしめた。
「私、思うのです。こんなおかしなことが起こり始めたのは、あの人が来だしてからですわよね」
「ええ?」「川島様が?」
ナミ江と冬乃が同時に声を上げる。
「そうですわ。あの人が来られるまで、この家は穏やかで平穏そのものでしたもの。それが、あの人が来られるようになって何かが歪められたのですわ。そうとしか考えられません」
「海子さんたら」ナミ江は呆れたように海子を見上げる。「いくらあの方が気に入らないからって、出鱈目なことを言うものじゃありません」
「ち、ちがいます! 私は本当にそう思ってますわ。あの人、何かに憑かれているのかもしれませんわよ。私、風の噂で聞きましたもの。あの人は以前、あの会社でただの従業員だったのに、急に先代に成り代わってその座についたって……いったいどんな手を使ったのやらわかりませんわ。もしそのせいで何か、そう、ケガレのようなものがたまっていて、ここに祟りのような現象が起きているのだとしたら」
「あなたまた変な雑誌を読んだでしょ。すぐ影響されるんだから」
「私は真剣に申し上げているのです。今からでも遅くありませんわ、あの方との縁談なんて取りやめに……」
「海子さん」冬乃が慌てて割り込んだ。「根拠もないことで、あんな親切な方を貶めてはいけないわ。あの方はわたしの病を治すために、お忙しい中をぬってこちらに来てくださっているのよ。それに……このあいだお話したわよね。一緒に心を鬼にして、わたしの治療を応援してくれるって……」
「応援はいたしますが、それとこれとは別ですわ。あの人に何か尋常ならざるケガレが取り憑いているならそれを祓うか、それでも駄目ならこの家には踏み込んでほしくありません。じゃなくちゃ次になくなるのは、この家の天井かもしれませんわよ」
海子のいつになく剣呑な物言いに、冬乃もナミ江もしばらく押し黙っていた。
やがて庭先に小鳥でもやってきたのか、チチチと囁く声が沈黙を破り、ナミ江は思い出したようにまた茶を啜った。
「まあ、どうしても必要なら、神社と縁の深い知り合いがいるからお願いして、この家を祓ってもらえばいいわよ。そのときついでに川島様も同席してもらえばいいわ。それでいいでしょ」
ナミ江は「ありがとう」と茶器を盆に置いて立ち上がる。
「幸い、私の絵筆やカンバスなんかは消えていないのだし。家の消耗品だって無くなれば買えばいいのよ。むしろ定期的に入れ替えられて気持ちがいいわ。あなたたちも、そのくらいの気持ちでいてね」
じゃ、とナミ江は手をひらひら振って茶室を出て行ってしまった。
「お姉さま、私の話、真剣に聞いてくださいました?」
「え、ええ……」
冬乃はなんと言っていいかわからず、ちゃぶ台を拭きながら曖昧に笑う。
「でも……わたしは川島様に原因があるだなんて思えないわ。お祓いをしていただくのには賛成よ。気味が悪いし……あまりにも続くようなら奥様にお願いいたしましょうか」
「……」
海子は何か納得のいかない顔をしていたが、「そうですわね」と言って盆を引き下げてしまった。
それから数日、頻度は減ったものの相変わらず家の中の小さなものが消え失せていた。冬乃は今に自分の着物の帯や足袋、前掛けなんかがなくなったらどうしようと身構えていたが、幸いにもそういったものは無事で、消えるのはいつも台所や、袋戸や納戸にしまわれているような小物ばかりだった。
海子は紛失物があるたびに「祟りですわ」「絶対にあの人のせいですわ」「あの人が来る前はこんなこと……」などと聞こえよがしに騒ぎ、冬乃が「こら」と諫め、ナミ江はこの騒動にすっかり慣れきったように涼しい顔で受け流していた。
そういうわけで、勝市のいない週末も、いつも通りにただ慌ただしく過ぎ去っていったのだった。
そして、二日後の月曜日。
冬乃は明け方に目が覚め、窓の外の不穏な風の音を聞いた。
窓の外は真っ暗で、庭の木々がざわざわとせわしなく揺れている。いつもなら空が薄く白んでいるはずなのに、深夜のように暗く沈んでいる。そして、鼻先にうっすら匂う、重く湿った空気……雨だ、と悟り、冬乃は再び布団の上へ横たわった。
雨が降るのは久しぶりだ。今日、ナミ江は出版社に招かれている。洋服を着ると言っていたが、大丈夫だろうか。雨傘やコートを出しておかなければ……
女主人の身支度について考えていると、やがて思考の中に突然、勝市のスーツ姿が浮かんだ。
彼はきっと今日も忙しいに違いない。雨はどのくらい降るだろう。あの上等な背広が濡れてしまったら大変だ。雨具や手ぬぐいをお出しして……そこまで考えて、慌てて目をぱちぱちとさせた。
いったい何を考えているのだろう。自分は彼の女中ではないのに。
――『さびしい?』
ふとナミ江のつぶやきが脳裏によみがえり、冬乃ははたと動きを止めた。
(さびしい……の?)
そっと、胸に手のひらを当てる。とくん、と心臓が小さく音を立てた気がして、なんだか頬が熱くなるような心地がした。
(今週末、会えなかったことが、そんなに……寂しいの?)
紛失騒動でうやむやになってはいたものの、こうして一人で物事を考えていると、頭のどこかに必ず彼のことが浮かんでいた。
ぎゅっと浴衣の胸元をつかむ。手のひらが汗ばんでいた。
(それは、だって、当然だわ。毎週毎週顔を見ていた人が、ある日突然来なくなったら。誰だって寂しいと思うはずよ)
これは決して特別なことじゃない。普通の感情だ。冬乃はそう自分に言い聞かせて布団をかぶりこんだが、結局寝つけなかった。
起床の時刻になっても辺りは夕方のように暗く、明かりをつけなければ炊事ができない有様だった。
昼頃には雨が降り始めたので、冬乃と海子は縁側の雨戸を閉めた。
ナミ江は昼餉が済むと冬乃が用意して置いた雨よけのコートを羽織り、傘を手に「行ってきます」と玄関の戸を開けたが、思いのほか風が強く、傘を差すのは断念して「いやな風ねえ!」と愚痴を吐きながら出かけていった。
主人を見送ったあと、冬乃と海子はいつも通り家事を済ませていたのだが、ごうごうと風鳴りがし始め、二人は顔を見合わせた。
不安のまま、二人して勝手口からそろそろ外を覗いた瞬間、ぶわっと雨飛沫が顔にふりかかり、「きゃあっ!」と同時に悲鳴を上げた。
「ひどい雨風! 暴風雨かしら?」
「お姉さま、あちらのお宅をご覧になって」
海子が遠くに見える家々を指さした。ちょうど家人たちが総出でばたばたと何やらせわしなく動いているところだった。
「もしかして……」
冬乃が青ざめていったとき、玄関の戸が開く音がした。
「あなたたち!」
ナミ江の声だ。二人が慌ててすっ飛んでいくと、女主人は全身から水を滴らせて息をきらせていた。
「大変よ、颱風が来てるんですって」
「ええっ」
「私も天気の様子が不安だったから、電車に乗る前に郵便局へ寄って出版社に電話をかけたの。そしたら、颱風の情報が役所の掲示板に張り出されてたって社員の方が教えてくださったものだから」
「た、颱風……ですって」海子は真っ青な顔でつぶやいた。
「暴風雨どころじゃありませんわ! た、大変ですわどうしましょう」
「とにかく、すぐに対策しましょう」
冬乃はナミ江に手拭いを渡し、びしょびしょのコートを受け取ってひとまず水場に置いてから納戸へ急いだ。一緒にやってきた海子は不安で泣きべそをかいている。
「まったく、もっと早く教えてほしいものですわ! お天気予報は昔より進化しているんじゃありませんでしたの?」
「颱風が近づいている、とは前に新聞で見たような気がするけど、まさか今日なんてね」
冬乃と海子はつっかえ棒や板きれを抱えて外へ出たが、びゅうびゅうと叩きつけるような雨風に足がすくみ、まともに目を開けていられない。
すると遠くからカァン、と甲高い音が響き、視界の向こうから何やら黒い塊が飛んできた。それは暴風に乗って瞬く間に冬乃の頭をかすめ、背後にゴンと落下した。
ふりかえればどこから飛んできたのか、あちこちへこんだ大きなブリキのバケツが転がっている。
「ヒッ……」
二人が血の気の引いた顔を見合わせた瞬間、
「大丈夫か!」
風鳴りの向こうで聞き覚えのある声がして、冬乃は瞬時に振り向いた。
見れば門の向こうに勝市が立っている。帽子が風に飛ばないよう抑えながら、こちらに向かって声を張り上げる。
「手伝わせてくれ! もっと颱風がひどくなる前に対策しなければ!」
冬乃は少し迷ったが、「よろしいのですか⁉」とたずねた。
「ああ、当然だ!」
言うが早いか、勝市は門を乗り越え庭に降り立つと、帽子と鞄を海子の手に押しつけた。
「すまないがこれを中へ入れてくれ。玄関でいいから。――さあ、板と釘を」
彼は二人の手から板や紐、工具を受け取ると、雨戸へ打ちつけはじめた。
冬乃も外に出している籠や桶、庭仕事の道具などを中へ引き入れたり雨戸が開かないよう紐でくくりつけたりと作業にいそしんだ。いつもは勝市に文句を垂れる海子も、このときばかりは泣きそうな顔で彼を手伝っていた。
風はますます激しさを増し、なんとか作業を終えた三人は逃げるように玄関へ飛び込んで、引き戸を力いっぱい閉め切った。
「お疲れさま、二人ともありがとう」
ナミ江が手拭いを手にいそいそとやってきて、すぐに「あらっ」と目を見開いた。
「川島様? どうしてこちらに」
「ああ……いえ、仕事の都合で朝からこちらに来てましたので。ほんのついでです」
「ついで、ですか」
「はい、ついでです。そうしたら雨でびしょ濡れになっている二人が見えたので、たまたまこうして……」
「まあ、それは……わざわざ申し訳ありません、本当になんと感謝を申し上げるべきか」
冬乃はナミ江の手から手拭いを受け取り、真っ先に勝市へ差し出した。
「どうぞ、お身体を拭いてください。ああ、その前にまず上着を……」
「ああ、すまな――」
勝市の言葉がふっと途切れる。彼はものすごい目で冬乃を凝視していた。
ナミ江も、海子も、誰も一言も発さない。戸の外で風のごうごうと吹き荒れる音がいっそう大きく響き、冬乃は目をぱちくりとさせた。
「冬乃さん、あなた」
ナミ江が小さく声を上げる。そこで冬乃もようやく気がついた。
冬乃は、勝市の目と鼻の先に立っていた。ごく自然な振る舞いで手拭いを差し出し、もう片方の手をさしのべて上着を受け取ろうとしている。
「――あっ」
体がカッと熱くなり、反射的に後ずさる。背筋が震え、息が上がる。
「すまない」
勝市もあとずさった。ぐっしょりと濡れた上着を急いで脱いで海子に託すと、ナミ江から手拭いを受け取り、頭や腕などを雑に拭いた。
「川島様。今すぐ熱いお茶をお入れしますから、どうぞ客間へお上がりください」
ナミ江が勝市をうながし、奥へいざなう。そのあいだも冬乃は硬直したまま、ひたすら息をするだけだった。
「海子さん、悪いけど体を拭いたらお茶をお淹れして」
ナミ江に言われ、彫像のように立っていた海子もはっと動き出す。
「お姉さま」
去り際、海子は冬乃の震える手にそっと触れた。
「大丈夫ですか?」
「え、ええ、ちょっとびっくりしてしまっただけ……ごめんなさい、もう平気だから」
「お茶は私に任せて、どうか休んでいてくださいまし」
そう囁いて、彼女は台所の方へ行ってしまった。
冬乃は大きく息を吸い、吐いた。暴れていた心音は今や落ち着きを取り戻している。
――一瞬、治ったのかと思った。
右手をゆっくりと握り、開くのを繰り返す。すぐそこに……袖が触れあうほどの距離にいた勝市の、見開かれた目を思い出す。
すべて無意識だった。当然のように世話をしようとした。そこに一切の恐怖はなかった。ただ、彼が男だということを思い出した瞬間にいつもの感覚がぶり返したのだ。
(顔を見て飛び退くなんて、とんでもなく失礼なことを……)
思わず両手で顔を覆う。だがいつまでもくよくよしていられない。
むしろ、これは良い兆候だと考えられないだろうか。一時でも彼への恐怖を忘れることができた。これは今までにない進歩だ。こういうことを少しずつ積み重ねていけば、いずれ病を克服できるかもしれない。
(前向きに、努力する……それがわたしのすべきことだわ)
両手でパンと頬を叩き、よし、と玄関を上がる。まずは体を拭いて清潔な着物に着替えて、海子を手伝わなければ。




