第三話 嵐の夜の座敷童①
それから数日後、勝市から電報が届いた。なんでも、仕事の用事で今週末は訪ねられない、とのことらしい。
茶室で休んでいたナミ江のその旨を伝えると、「あらまあ。残念だったわね冬乃さん」 と茶化すような調子で返された。
「そ……そうですね、今週末は練習できないということで……」
「お姉さま、まったく残念なことはありませんのよ、良い休憩になりますわ。毎週毎週来られちゃ、お姉さまの身が持ちませんもの」
「あら、冬乃さん、まだそんなに怖いの? 川島様のこと」
ナミ江に真顔で訊ねられ、冬乃は少しドキリとした。
「え、ええと、どうでしょう……以前と比べて慣れたと……思っておりますが」
「なら、ことさら残念だったわねえ。まあお忙しい方ではあるし……すっかり忘れてたけど社長さんだものねえ」
ナミ江は冬乃の淹れた茶を一口すすり、視線を庭のほうへ投げたまま、ぽつりと訊ねた。
「さびしい?」
「……えっ?」
「ふふ。なんでもないわ。お茶ありがとう、仕事の続きをするわ」
ナミ江は空の湯飲みを置いて、のんびりとアトリエのほうへ行ってしまった。
「さびしい、なんて」海子が茶器を片付けながらぶつくさ言う。「むしろほっとしますわよねえ、お姉さま……」
海子がふと声をとぎれさせる。
冬乃は、ふきんを手にしたままぼうっと庭のほうを見つめていた。黄金色の陽射しが頬を柔らかく照らし、逆光の中に憂いの表情を浮かび上がらせている。
「お姉さま」
「あ、……ごめんなさい、すぐに拭くわ」
冬乃はいそいそとちゃぶ台を拭きあげる。
海子はそんな冬乃の姿をじっと見下ろしてから、盆を手に背を向けた。何かをこらえるように小さく下唇を噛みしめて。
ちゃぶ台を拭き、ふきんをひっくり返してから冬乃はふと目を上げる。秋色に染まった庭の向こうに、手ぬぐいを頭に巻いた勝市の社長らしからぬ姿がぼんやりと浮かんだ。
(今週末、あの方は来られない……)
週をあと一巡しなければ、勝市に会えない――ナミ江の「残念だったわね」が図星であったことに、今さら気づく。
(そう、残念だわ。練習の機会が一度減ってしまったということだもの)
別に茶化されるようなことじゃない。図星でも困らない……誰に聞かれるわけでもないのに、そう自分に言い聞かせて、冬乃も静かに茶室を去った。
その夜、冬乃は女中部屋で文机に半紙を広げていた。横に置いた家計帳簿を睨みつつ、枠線を引いた中に文字を入れていく。
「あ、お姉さま、お献立ですか?」
海子が後ろからひょっこりと手元を覗き込んできた。
「ええ。次の週のね……」
「でしたら私、前から食べたいと思っていたおかずがありますの。カリード・エッグスなんですけれど……」
「ああ……さては今月の〈婦人花報〉を読んだのね?」冬乃は悪戯っぽく笑った。「あれなら卵とカレー粉があれば出来るし、いいわね、たまの洋食として取り入れましょうか」
「できれば早く食べたいですわ!」海子が献立表を指で指ししめす。「ほら、ここ、ちょうど空欄でしてよ」
「あ、その日は……」冬乃は咄嗟にその欄へ手を置いた。「和食を作ろうと思ってたの」
「でも、まだお献立は決まってないんでしょう? いいじゃありませんか、洋食にしましょうよ」
冬乃は「どうしようかしら……」と言葉を濁す。その困ったような顔を見、海子は黙ってもう一度献立に目を落とした。
「もしかして……この日が週末だから、ですか?」
「え」
「あの人が来られるからですか? あの人が和食を好むから……とかそういう理由ですの?」
「あ……ええ、まあ」冬乃はわけもなく帳簿の端を指先でいじった。
「ほら、お客様ですもの。私のためにわざわざお忙しいところをいらしてくださっているのだし……せめてお出しするお食事くらいはお好みのものをと……」
なぜだろう。文机へ目をそらしているのに、海子の視線を痛いほど感じるのは。
彼女の大きな眼に射すくめられるような気がして、冬乃はなぜか、目を上げられなかった。
「そうですか。仕方ありませんわね。では翌日にいたしましょう」
海子は拍子抜けするほど淡々と、次の枠へ指を止めた。
「この日も空いてましてよ」
「ええ……そうね」冬乃はほっとしたように微笑んだ。「じゃあ、この日は海子さんの日ということで」
「腕が鳴りますわ~。お姉さまに鍛えていただいた家事の腕を奥様にもお認めいただかなくっちゃ」
海子は鼻歌を歌いながら布団を敷き、行李の下から〈月刊摩訶不思議〉を引っ張り出してごろんと横になった。
冬乃は再び文机へ居直って、献立表を埋めていった。次の週末の和食が決まったのは結局最後の最後で、酢のものと煮魚、吸い物になった。
洋食より和食が、肉より魚が、焼くより煮る方が好きな客人のために。
***
その頃、勝市はようやく帰宅したところだった。アサがすっ飛んできて、「まあまあ遅くまでご苦労さまでございました」と上着を預かった。
「お風呂はできてございます、お夜食は……」
「いい。風呂だけ入って寝る」
「かしこまりました」
アサは帽子も受け取ると、そそくさと立ち去った。勝市はそのまま風呂場へ直行する。
熱い湯に肩まで浸かると、ふうぅ、と大きなため息が漏れる。今日一日で溜め込んだ疲れまで一緒に出て行くようで、勝市はぼんやりとタイル張りの天井を眺めた。
今週末は、冬乃に会えない。
これまでどんなに忙しくても、出張や会食が重なろうとも、週末だけはどうにか死守してきた。たとえ一刻ほどしか眠れない日が続いても、冬乃の顔を見れば不眠や疲労は吹き飛ぶからだ。
(くそ……)
急な予定変更の原因は、数日前に入った邦義からの報せだった。
「社長、戸村造船が我が社との取り引きを打ち切ると言ってきてます」
戸村造船とは、三ツ木製鉄から鋼材を買いつけている造船会社で、先々代からの付き合いのある顧客だった。
それが突然、取り引きを打ち切りたいと言ってきたのだ。勝市と邦義だけはその理由に心当たりがあった。
戸村社長は半年前に代替わりし、現在は先代の息子がその座についている。その若社長から先月、直々に会食を申し込んできたのだ。
まだ四十にも満たない戸村社長は、料亭の座敷につくや否や、着物の袖に手を入れて勝市を見据えた。
「頼みがあるのだが」
「はい」
「鋼材の売値を全体的に下げてはもらえないか」
社長同士の会食だというのに、社交辞令の一つもなくいきなり値下げ談判である。あとで邦義が車の中で散々に毒を吐き散らかしていたが、勝市も無論、いい気はしない。
勝市は戸村に負けず劣らずの気迫で見つめ返しつつ、しかし袖になど手を入れず膝へ手を置き、泰然と返した。
「もっと低質な鋼材をお求めでしょうか?」
「いいやまさか。あんたもわかってるだろう。うちは今、経営難の憂き目に遭っている。そちらとうちとは昵懇の仲だ、こういうときこそ互いに助け合って然るべきだと思うが」
「なるほど。でしたら造船の質に差し障りないよう、こちらから取り引き内容の変更をご提案いたしましょう」
「いや、いい。内容も量も時期も今までどおりで、売値だけ下げてくれ」
戸村は見るからに苛ついた様子でひらひらと手を振った。
「そちらも一度は経営難に陥っていただろう。ウチはそんな折でも取り引きを続けていたはずだ。先代から聞いていないのか?」
「聞き及んでおります。ですのでこちらから最良のご提案をいたしましょうと――」
「もういい」と村は立ち上がり、帽子を深くかぶりこんだ。「まさか次代がこれほど無能とは思わなかった。もう何も期待はしない」
そう吐き捨てるように言って座敷を開け放つ。ちょうど料理を運んできた女中と鉢合わせたが、そのまま体ごとぶつかる勢いで憤然と出ていってしまった。
「社長、まさかと思いますがあの戸村の言うとおりにするつもりはございませんよね」
帰り道、邦義は車を運転しながらかんかんに怒っていた。勝市は背もたれに深く身を預け、「当然、そのつもりはない」と答えた。
「あちらの言いたいことを理解はしている。戸村は昔、ウチが業績低迷で倒産の危機にあっても取り引きを続けてくれた。その恩を返せというのはもっともだ……しかし、だからこそ、当時の先代同士が築いた信頼関係を次代で歪めるわけにはいかない」
「それを聞いて安心いたしました。しかし……今後の戸村への対応はいかがします? あの社長の要求が今回で止まるとは思えませんが」
「無論、出来る範囲で協力できることはしよう。むやみに売値を下げるなど不誠実なことはできないが、たとえばあちらの開発部と協力したり、うちの取り引き先をあたって連携を組むなどやれることはいくらでもあるはずだ」
「……仕事が増えますね」
邦義はやれやれとため息をついた。しかしこういう時にこそ彼の手腕が最も発揮されることは、勝市もよく知っている。
そういうわけで、勝市は空いた時間を使って戸村のために動き出していたのだが、その甲斐もむなしく、電話を受けた邦義が飛んできたのだ。
戸村造船が三ツ木との取り引きを打ち切ることを決定した、と。
それから社内はてんわやんわだった。家庭用ブリキ製品の人気によって社名が世の中に知れ渡ってはいるものの、三ツ木はまだまだ発展途上の会社である。定期的に鋼材を卸していた戸村造船の取り引き打ち切りは会社の業績に大きな打撃を与えることとなる。
三ツ木は先代の頃より工場を増やし、たくさんの従業員を抱えている。彼らを路頭に迷わせるわけにはいかない……
後日、邦義がさっそく情報を持ってきてくれた。
「社長、どうやら戸村はウチと手を切ってすぐ、末広製鋼という会社にすり寄ったようです」
「動きが速すぎるな」
「ええ。元々あちらにも唾をつけていたんでしょうね。ですが付き合いの長いウチと組み続けるほうが何かと簡便に済むので、社長に強引な値下げ談判をした。しかし社長が突っぱねたので満を持して末広と取り引きを始めたんでしょう」
「末広か……」勝市は渋面をにじませる。「近頃あまりいい噂をきかないが」
「定めし安価で大量に卸す契約を結んだのでしょう。戸村の業績低迷も船の品質劣化だともっぱらの噂ですから」
「それもあっての、俺の提案だったんだがな……」勝市はやるせない顔でふっと笑った。「先の大戦から製鉄も造船も需要が増しているが雨後の筍のように新しい会社ができては消える。そんな中で質を落とすなど自殺行為に等しい」
「まあ、そんな愚劣な会社の行く末などどうでもよろしい」
邦義はぴしゃりと話題を締める。
「大切なのは我が社の今後です。戸村の空けた穴をどう埋めるかです」
「それについては、俺に考えがある」
「……本当ですか?」
邦義が眼鏡の向こうでうさんくさそうに目をすがめた。
「本当だ。ほぼ確実にうまく行くと思う。そのためにおまえや社員たちの力が必要だ」
「いったい何をなさるおつもりなんです?」
勝市は答えず、
「今から俺の言うとおりのものを用意してほしい。俺もやることがあるので完成したらここへ持ってきてくれ」
と言って席を立った。
それから勝市は多忙な日々を過ごしていた。あまり社長室へ帰っていない。社長室どころか、屋敷にも戻っていなかった。
今日、ようやく目処がついたので、屋敷に戻ってこうして風呂に浸かっている。人目もはばからずため息をはき出せたのは幾日ぶりだろう。
風呂場の戸の外でアサがごそごそと着替えを用意している音を耳にしながら、勝市の意識は再び冬乃のほうへ傾いていた。
先週、ついに彼女の作った大根汁を味わうことができた。大根を口の放り込んだ瞬間じゅわりとしみ出す出汁の味は、長年思い出しては心の中で味わい続けたものと同じ――いや、もっと鮮やかに、腹の底から「うまい」と感じるものだった。
記憶がなくなっても、長年体に染みついた家事の習慣は消えない。彼女の味付けは無意識のものなのだろう。ようやく味わうことができた。そしておそらく今後、彼女に「食べたい」と言えば、食べさせてくれるに違いない……
そう思うだけで、この一週間の気疲れなんぞどうでもよくなるくらい、身も心も奮い立つ。次に会えたら、また所望してみよう。
そのためにも、早く目の前の課題を片付けなければ。




