⑧
三時になり、海子は市へ買い物に出かけた。その出際、見送る冬乃や、その数歩後ろにいる勝市へキッと厳しい目を向けて、
「お姉さま、くれぐれもご無理なさらないでくださいませ。それから――あなたは――お姉さまに近づきすぎないよう、じゅうぶん、じゅうぅぶん、お気をつけなさいませ!」
と言い含めて、荒々しく歩いていった。
冬乃は勝手口からその背を見送り、くるりと振り返って、はっと息を止めた。台所の入り口に立つ勝市と思いきり視線がかちあってしまったからだ。
「……あの」
「喉が渇いたんだが」
二人同時に声を発し、あ、と口をつぐむ。勝市は気まずそうに後ろ首を掻いた。
「すまない。近すぎるか? もう少し遠ざるほうがいいだろうか」
「あ……いえ、この距離なら……平気です」
「あなたの同僚も言っていたことだが、無理をしてはいけない。練習相手が恐ろしくなっては本末転倒だ」
「お気遣い、痛み入ります。ですが……本当に平気です。平気だと……思えるようになりました」
「そうか」
すると、勝市はおもむろに台所の中へ一歩踏み出した。冬乃はびくりと肩をふるわせる。
「この距離では?」
じ、と鋭い目で冬乃を見据える。冬乃は後ろへ下げかけた足を強ばらせた。まるで視線に捕らわれでもしたみたいに、眼をそらせなくなる。
(似ている)
夢の中で、あの少年が最後に見せた、真剣な眼差しと重なる。
「どう……でしょうか、少し……」
「怖いか?」
「緊張、いたします」
「怖い、のではなく?」
「怖い……のでしょうか、でも……」冬乃はきゅっとこぶしを握りしめた。「あなたは、怖い方ではありませんから」
じり。勝市の足がまた一歩、中へ押し進む。もう少しで簀子に――土間に、入ってしまう。
「この距離でも?」
無意識に肩が浅く上下して、開いた唇から漏れる吐息は切迫していた。だが、冬乃は必死にその場へ留まっていた。
さらに一歩。勝市が近づく。「これは?」……冬乃はぎゅっと身を固くして、その場に立ち尽くす。
彼の視線は片時も冬乃から離れない。まるで追い詰められたような恐怖を覚える。だが、それは彼が男だからだ。もし、病がなかったら……この状況で、自分は何を感じているだろう。
からん、と乾いた音がした。勝市の足がいよいよ下駄にのっているのを見た瞬間、冬乃は思わず片足を引いてた。
途端に、勝市は進めかけていた足を止めた。そのまま後ろへ下がっていく。冬乃は慌てて「お待ちください」と言った。
「申し訳ありません。つい……ですが、まだ耐えられます」
「耐えられる、では意味がない」
勝市の視線は足元の簀子へ落ちていた。
「居ても平気でいてほしい。できれば、居たいと……そう思われなければ、結婚などできないからな」
その言葉はあまりに意外で、冬乃は戸惑いを隠せなかった。
結婚に女の意思などあまり重視されないはずなのに、彼は「居たい」という感情を求めている。
だが、彼が求めているのは、冬乃と顔がそっくりで名前も同じ「冬乃」であるはずだ。なのに、代わりの相手にも同じ感情を求めるなんて……そんなことがあるのだろうか。
「なぜ……そんなふうにおっしゃるのですか?」
「何がだ」
「わたしと、川島様は……初対面のはずです。それなのに、それほどの感情をどうしてお求めになるのですか」
「それは」
勝市は口を開きかけたが、言葉が見つからない様子で言いよどむ。
「申し訳ありません、このようなこと……あまりお聞きするのは失礼でしょうか」
「……いや」
「どうかお許しください。もうお聞きしませんから……」
冬乃は微妙な空気を誤魔化すように手を打った。
「――そうですわ、前回、日記で川島様の好物をお訊ねいたしましたが、もしよろしければ今この場でお聞きしてもよろしいでしょうか?」
「……ここで?」
勝市は、精いっぱいに微笑を浮かべた冬乃の顔をじっと見つめていたが、やがてふいと視線をそらした。
「大根汁がいい」
「えっ?」
「汁物だ。大根の。醤油とか出汁とか……で味つけしてある」
「お大根……だけですか?」
「大根だけだ、他には何も入っていない」
勝市は踵を返し、「そろそろ干した物を片付ける」と言い置いて台所を出て行ってしまった。
冬乃も廊下にかけられた時計を見る。海子が帰るまでにできるだけ片付けておこうと、茶室へ向かった。向かいながら、彼の言葉を頭の中で反芻していた。
三ツ木製鉄社長という肩書きを持ちながら、好物が大根の汁物なんて、とても変わっている。雑誌に特集される社長はみんな、ハイカラな洋食や老舗のうなぎだの牛鍋だのと、そんなものばかり挙げ連ねているのだが。
それとも、北村邸の食卓事情に気を遣ったのだろうか?
「……あ」
廊下の途中まで来て思い出す。彼は喉が渇いているはずではなかったか。
冬乃は迷った挙句、台所から茶器を取ってきて、彼の借りている座敷の前にそっと置いておいた。
半刻ほどで海子が戻り、片付けに加わってくれたので作業が一気にはかどった。
海子は「お姉さま、私のいない間にあの人に何かされてませんこと?」と鋭く訊ね、冬乃が何もないと答えると、「ようございましたわ!」と機嫌良く、市で目当ての秋鮭をお得に買えたことを自慢げに報告してくれた。
「海子さん。今日の夕餉のことなんだけど……」
書籍をせっせと書斎へ運ぶ勝市の背中を横目に、冬乃はそっとささやいた。
「汁物、今日はわたしに作らせてくれる?」
「もちろんですわ! あ、お献立、何か変更なさるのですか?」
「ええ。少しだけね……」
それから台所に立ち、竈に火を炊いて夕餉の支度をはじめた。冬乃が大根の皮をむいていたのを海子はしきりに気にしていたが、それを厚めのいちょう切りにして出汁へ入れるのを見て「まあ」と声をあげた。
「お姉さま、汁物なら人参とか、葱などは……」
「いいえ、大根だけよ」
冬乃はクスッと笑った。
「大根を煮ただけの汁物が、川島様の好物なんですって」
「……そう、なのですか」
「今日、お訊ねしたの。変わってらっしゃるわよね。もっと贅沢なものとか、ハイカラなものがお好きだと思ってたわ。聞いたこともないような西洋料理を言われたらどうしようかと身構えてたんだけど……これならあり合わせですぐ作れちゃうわね」
「……」
海子の目が、冬乃の微笑む口元を見る。それから、細められた目尻へと。
「あ、海子さんお米、お米見てちょうだい」
冬乃にせかされ、海子は我に返ったように羽釜の火を見に行った。
夕餉のとき、食卓についた勝市は、目の前の椀を凝視していた。
「まあ、おいしそうな秋鮭」とナミ江も食卓につき、勝市のただならぬ顔つきに気づく。
「どうかなさいまして?」
「……いえ」
食事がはじまり、勝市はまっさきに汁物の椀へ手を伸ばした。いつもならまず一口茶をすすらなければ箸を取らないはずの彼が、いの一番に椀のつゆを啜っている。
そして大根を一つ、口に放り込み……彼は目を見開いたまま動かなくなった。
ややあって、何か大事なものを確かめるような丁寧さで、ゆっくりと口を動かしはじめる。
「川島様……もしかしてお大根、お好きなのですか?」
「え? ああ、ええ、まあ……」
「わかりますわ、しみしみの大根ってどうしてこんなにほっとするのでしょうねえ。おでんなんて昔は里芋が一番好きだったのに、今ではすっかり大根が一番に……」
ナミ江の語りを聞いてるのかいないのか、勝市はただ黙々と、何やらひどく集中して大根を咀嚼していた。米もみるみる減っていく。
「……おかわりを」
勝市から茶碗を差し出され、冬乃は「はい」と、緊張気味に手を伸ばした。
「冬乃さんたら、お手渡しもすっかり平気になったのね?」
ナミ江が嬉しそうに言った。冬乃は「そう……ですね、これくらいなら、もう……」とはにかみ気味に答えつつ、お櫃から米をよそう。
「これなら、もう少し様子を見て、大丈夫そうなら一度外へ出てみましょうか」
「えっ?」
冬乃は危うく茶碗を取り落とすところだった。
「外……ですか?」
「ええ。ああ、安心して、ひとりじゃないわ。あなたと、川島様と、もう一人。私か海子さんがついて、少しだけ町へ出てみるの。そういうことを試してみてもいいんじゃないかしら」
「では私が共に参ります」
海子がさっと手を挙げる。
「奥様はお仕事がおありですから、私がお姉さまをお守りしますわ」
「ふふ、勇ましいこと。でも、できればそれは川島様にお願いしたいわねえ」
「え、ですが」
「あなたは、そうね……冬乃さんが怖がっていたら手を握ってあげてちょうだい。そういう役割よ」
ナミ江がにっこり笑う。海子は「はあ……」と納得したような、しかねるような顔つきで首をかしげていた。
「川島様、いずれお願いいたしますからね」
水を向けられ、勝市は「承知しました」と、ぶっきらぼうに答えつつ、彼女らに見えないよう、ちゃぶ台の下で汗ばんだ手のひらをぬぐっていた。
今日も交換日記は女中部屋の前に立てかけられていた。冬乃は夜、床へつく前に、文机に向かって帳面を広げ、目を通した。
〈まず質問に答えようと思う。私は洋食より和食が好きだ。仕事終わりによくかけそばを食べにいく。つきあいで喫茶やミルクホールへ行くこともあるが、バタやケチャップなどよりも、醤油や出汁の風味が体に合う。牛より豚、肉より魚、焼くより煮るほうが好きだ。
それから、好物についてだが。特にこれといって好むものはない。だが、思い出の味ならある。幼少期、ある女中が間食に大根の汁物をくれた。質素なものだと思うだろうが、時々無性に食べたくなる。もし作ってくれるなら、大根だけを出汁で煮てほしい。他に具はいらない。……〉
冬乃は頬杖をついたまま帳面から目を上げる。今日、彼が大根をもくもくと咀嚼していた真剣な横顔を思い出していた。
「好物ではないが、時々無性に食べたくなるもの」……味覚は時に大切な思い出となる。勝市も、大根の味以上の何かをそこに感じていたのではないか。
目を閉じて、冬乃も過去に思いを馳せる。だが当然ながら、思い浮かぶのはすべて、海子とはじめて作ったコロッケーとか、ナミ江に無茶ぶりされて即興で作った栗入り茶碗蒸しとか、ここ四年のものばかりだった。なんだかそれが無性に悲しく思えてくる。
勝市の幼少期とは、どんなものだったのだろう。腹が減ったと女中に間食をねだったお坊ちゃま……黒髪をカラスの雛のように逆立てた、目つきの鋭い少年……ああ、いけない、それはあの夢の中の少年であって、勝市ではない。
わかっているのに、小さな彼が、女中に作らせた間食をおいしそうに食べる姿がなぜだか鮮やかに想像できてしまって、気づけば顔をほころばせていた。
そんな想像をしてしまったせいだろうか。それとも、今日一日、彼と長く接したせいだろうか。
その晩も、冬乃は夢で幼い少女になっていた。古い屋敷の廊下に這いつくばって、雑巾で床を拭いている。前回と打って変わって周囲は明るく、差し込む陽の光を反射して廊下は黒々と光っていた。
冬乃の視界は固定されていて、床と雑巾しか見えない。だが、ふと視界が動き、左手に半開きになった戸口が見えた。その隙間を冬乃は覗き込む。
その向こうに、あの少年の横顔が見えた。窓際に置いた文机に向かい、鉛筆で何やら熱心に書き物をしている。だが途中で鉛筆を放り出し、紙をくしゃくしゃに丸めて後ろへぽいと投げてしまった。「もったいない」と思わず声に出してしまいそうになる。――いや、出してしまった。声は聞こえないが、口と喉がそんな風に動いているのを感じた。
途端に少年がはじかれたようにこちらを振り向く。冬乃を見、かっと顔を赤くしたかと思うと憤然と立ち上がる。何やら口をぱくぱくさせているが、何を言っているのだろう。
だが、冬乃の憑依している少女はくすくすと肩を揺らしていた。少年は耳まで真っ赤にして口を開く――「笑うな」「見るな」――そう言った、気がした。小さな冬乃はくすくす笑いながらドアを閉め、雑巾がけを再開した。
直後、視界がぐるりと反転した。まるで冬乃の居た床が高速回転したみたいに景色が回り、気がつくとひとり、台所にいた。
薄明るい土間で椅子に腰掛け、ずず、と汁をすすっている。味はわからないが、感触はあった。椀が口もとから離れ、中身が視界に映る。――小さく乱切りされ、出汁の色に染まった大根が入っていた。
冬乃の息が止まりかける。少女が箸で大根をつまみ、口に放り込む感触を、ただ茫然と受け止めてしまう。
これは夢だ。きっと、自分が今日体験したことが夢に現れているのに違いない。
ふと視界が動く。台所の戸口の隙間から、小さな少年がこちらを覗いているのが見えた。
少女が口を開け、何事か呼びかける。立ち上がり、戸口を開ける。少年が何かを告げ、冬乃は廊下へ身を乗り出して、辺りを確認する。広い屋敷なのに、人の気配はなかった。
やがて少年を連れ立って台所へ入り、冬乃は火の気のない竈に立って、鍋のなかの大根を椀へ入れた。ほとんど切れ端しか残っていない。女中用によけておいたものだろう。おそらく少女は数々の下働きを終えて、今ようやく食事にありついていたのだ。
冬乃は振り返って、椅子に腰掛けた少年へ椀を渡す――わけではなく、なんと箸で大根をつまみ、少年の口へ近づけていた。
この少女の意思であって、決して自分がやろうとしたわけではないのに、なぜだか慌ててしまう。少年はもっと驚いていた。真っ赤になって何事か抗議している。少女は笑っていた。少年は椀も箸も取り上げ、耳まで赤くしながら汁をすすった。
少年の目が、ぱっと見開かれる。うまい、とでも言ったのか、なんだこれは、だったのか、何事か口走り、小さな冬乃も楽しげに応えていた。
くるくると景色が回る。薄暗い台所の灰色と、少年の髪の黒とが入り交じり、くるくる、くるくる……吸い込まれるようにして消えて、ぱちりと目が開いた。
窓の外は、まだ白みはじめたばかりの空が広がっていた。隣で海子が布団から腕や足をはみ出した格好で眠っている。冬乃はごろりと寝返りを打ちながら、今し方見たものを思い起こした。
『ある女中が間食に大根の汁物をくれた。質素なものだと思うだろうが、時々無性に食べたくなる……』
偶然だろうか。勝市そっくりの少年。女中と思しき少女。大根の汁物……
なんだか、よくわからない。もしかして〈月刊摩訶不思議〉にでも載っているような奇妙な体験をしてしまっているのではないだろうか。あれは本当に勝市で、自分は、その場にいる誰かに憑依していて……
――ふ ゆ の
少年の小さく動いた唇が脳裏をよぎり、瞬間、頭の隅に激痛が走った。
「っ、う、う……」
歯を食いしばっても声が抑えられないほどの痛みにゆさぶられ、生理的な涙が浮かぶ。
これ以上考えてはいけない。そう誰かに言い聞かせられているみたいに、冬乃の頭は痛みに揺さぶられ真っ白になっていた。




