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また君に恋い初むる  作者: シュリ


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13/33

 それから数日後の夜。


 冬乃は残り湯をもらい、髪を乾かしがてら文机に向かっていた。目の前には家計帳簿が開かれているが、筆が進んでいる様子はない。冬乃はもう一方の手で、勝市から贈られた万年筆に触れながらぼんやりとしていた。


 滴るようにつややかな濃紺のペン軸。そこに散りばめられたきらきらと輝く白い光。それは先日の夢で見た星空を思い起こさせた。少年と一緒に見上げていた、あの美しい夜空を……


「お姉さま、お風呂の後始末、終わりましてよ」


 海子が戸を開けて入ってくる。体からほかほかと湯気をたちのぼらせ、「ふう……」と上機嫌に鏡台の前へ座る。


「ご苦労様――」冬乃はなるべくさりげない動きでペンを抽斗(ひきだし)にしまい、帳簿へ向きなおった。だがその手の動きを海子は見逃さなかった。


「……お姉さま」

「なあに?」

「もし、心の病が治ったら、あの人と結婚なさるのですか?」


 筆を持つ手がぎくりとこわばる。ややあって、冬乃は振り返らずに答えた。


「どう……かしら。まだ何も……考えられていないわ」

「本当ですか?」

「ええ。本当に……今は男の人と接する練習で精いっぱいよ。でも……それじゃいけないわよね」


 冬乃は筆架(ひっか)へ筆を置き、膝へ手をついた。


「あの方は、わたしのために時間と労力を割いてくださっているんだもの。それなのに、病が治りました、ハイさようなら、なんて言っちゃいけないわ」

「そんな」


 海子は慌てたように膝立ちのままこちらへ寄ってきた。


「そんなことありませんわ、初日にお聞きした話じゃ、お返事はお姉さまが決めてもいいって……」

「確かに、そうお聞きしたわね。川島様はお優しい方だし、きっと本心でそうおっしゃってくださっているのかもしれないけれど。でも、治療でお世話になった以上、お礼だけしてさようならなんてとても……できないわ」

「じゃあ、お姉さまは……縁談をお受けなさるおつもりで……」

「まだわからないわよ。でも、最終的にはそうする他ないんじゃないかと……思っているわ」


 冬乃は海子の顔をちらと見て、ぎょっとした。大きなまるい目の端に、大粒の涙が光っていたからだ。


「海子さん? どうして泣いているの」

「お姉さま、はやまらないでくださいまし。お姉さまの意思で決めてもいいって奥様がおっしゃいましたのよ、正直な気持ちでお決めになったっていいじゃありませんか」

「ええ……ええ、そう、ね。でも……」

「お姉さま自身はどうなんです? 今のところあの殿方をどう思ってらっしゃるの?」

「え……ど、どう、と言われても……」


 そのとき一瞬、冬乃の脳裏を、目つきの鋭い黒髪の少年の姿がよぎり、じわりと頬が熱くなるのを感じた。


 いけない。あれはただの夢。おかしな夢。ドキドキしていたのは夢の中の知らない少女だ……


「今はまだ、わからないわ。でもあの方は決して悪い方じゃないのよ、とてもお優しいし真面目だし、偉ぶったところが一つもなくて……ほら、海子さんだって見ているでしょう、社長の身分を捨てて溝掃除なさってるのよ」

「見てますけど、そんなのいくらでも取り繕えますわよ。どうせ結婚してから豹変するに決まってます。そんな話、いくらでも世間に転がっているじゃありませんか」

「そうかもしれないけれど、今のところどうかはわからないわ。それに……」


 冬乃は無意識に目を伏せた。


 ぽかりと記憶を失った部分よりさらに後ろ、幼少期のころのことを思い出す。


 母を肺の病で、父を仕事の事故で失ったあと、冬乃は父方の親戚に引き取られた。だがその家で暮らした記憶はあまりない。そのうち学校を辞めさせられ、どこか遠い大きな屋敷に……奉公へ出された……はずだ。


「今、わたしの身を実質的に預かってくださっているのは奥様よ。奥様がこの縁談を持ってきてくださった以上、わたしは奥様のご意志に従うわ」


 本来、女の結婚とはそういうものだ。冬乃は親戚たちから家を追い出されたも同然なのだから、女主人であるナミ江の意思に従うほか無い。


 だが何を言っても海子の目から涙の粒は消えなかった。冬乃は「もう」と小さく笑って、膝立ちのまま海子の後ろへ回った。


「髪、梳いてあげるわ。櫛を貸してくれる?」

「……」


 海子は手にしていた櫛をおずおずと差し出す。強く握りしめていたのか、素朴な木の表面にじっとりと手のぬくもりが残っていた。


「相変わらずふわふわで柔らかい髪ね。羨ましいわ」


「……そんなことおっしゃるの、お姉さまだけですわ」海子は下を向いたままぽつんと声を落とした。

「癖毛で量が多くて広がりやすくて、呪い人形だの妖怪おとろしだのとひどい言われようでしたのよ」

「そんなこと誰に言われたの?」

「……昔いたところですわ」


 冬乃は彼女の髪に櫛を通しながら、ああ、と察した。


 海子は北村邸の女中になる前、置き屋で芸妓や娼妓たちと共に暮らしていたらしいことを、以前ナミ江から聞かされていた。だが詳しい事情は知らない。冬乃も深掘りしようとは思っていなかった。芸娼は大抵、少女時代に親から身売りされている……


「それはね、きっと嫉妬よ」


 冬乃はつとめて明るく言った。


「だってみんな、鉄のコテを火で真っ赤にして、わざわざ火傷の危険をおかしながら一所懸命に髪を波打たせているのよ。金満家のご婦人なんか、大金を払って帝都のパーマネントに通ったりして。でもあなたはそんなことしなくても、いつだって西洋人形みたいにふわふわでかわいらしいわ。みんなあなたの髪が羨ましかったのよ」


 ……優しく、ゆっくりと櫛を髪に通しながら、付け加えた。


「でも、嫉妬で意地悪言うなんて、いやよね」


 海子は自分の肩から髪を一房とり、じっと眺めていた。やがて手のひらから髪をはらい、小さくため息を落とす。


「私は、お姉さまのようになりたいんです」

「え?」

「お姉さまの御髪(おぐし)がいいです。まっすぐでさらさらですもの」


 でも、と小さくつけくわえる。


「お姉さまが褒めてくださるから、私は一生このままでいいです」

「そう思ってくれるなら、嬉しいわ」


「ええ、ですから……」つぶやきながら、海子は顔をこちらへ振り向けた。


「ですから、どうかお姉さま、ずっとここにいてくださいましね」


 その目にはもう、涙の光はなかった。ただ追いすがるようにじっと、大きな瞳を向けている。

 

「もちろんよ」――と、いつもの冬乃なら迷いなく返していたかもしれない。だが口を開くまでの刹那の間に、勝市の日記の力強い言葉が脳裏をよぎる。


〈あなたを助けたいという気持ちに偽りはない〉

〈あなたはこの邸で皆に愛されている。それをどうか自覚してほしい〉……


 最初は、彼が男だから怖かった。何者かわからず、無愛想な顔と声音も相まってひたすら怯えるしかなかった。


 だが今は、彼の内側が少しだけ垣間見えている。病を気遣い、決して無遠慮に近づかない優しさ。治療のためだけに多忙をおして毎週おとずれ、黙々と働く生真面目さ。咄嗟に使用人のふりをして窮地を救ってくれたり、時には冬乃の心の闇に遠慮なく触れて的確な言葉をくれる、思慮深さ。


 まだ彼とはそれほど交流できていないのに、そんなふうに思えるのは〈交換日記〉のおかげだろうか。


「もちろんよ」という言葉は一瞬であいまいに溶けてしまい、冬乃は所在なげに口を開く。

 

「さあ、もうしばらく髪を乾かして……わたしは帳簿をつけてから寝るから」


 そう諭すように微笑みを向け、冬乃は櫛を手渡した。


「……ええ。お姉さま」


 海子の声は、心なしか沈んでいるようだった。



 ガコ、ガコ、と鋤簾(じょれん)の音が庭の外から響く。勝市が溝掃除をしている音だ。それを、冬乃は座敷の上を掃きながら耳にしていた。


 この日は朝からすっきりとした秋晴れで、家の中を涼しい風が吹き抜けていた。その風を頬に受けながら、朝餉の際にナミ江が言ったのだ。


「今日は川島様以外にお客様は来ないし、そろそろ虫干しをお願いしてもいいかしら? 私はちょっとアトリエに籠もらなきゃいけないんだけど……大変だったら川島様に手伝っていただいてもいいし」


 そういうわけで、冬乃と海子は今、茶室と座敷のあいだの襖を取り払い、座敷箒で部屋じゅうを掃くなど慌ただしく動き回っていた。


「ふう……よし、場所は確保できたわね」


 言いながら、冬乃の耳は、鋤簾の動く音を無意識に追ってしまっていた。


『大変だったら手伝ってもらっても』とナミ江は言ったが、勝市も重労働中だ。家仕事を頼むなんてとんでもない。


「では次は、奥様のお着物を吊るすのですわね!」


 元気のいい海子を連れ立って二階へ向かい、ナミ江の衣装箪笥にしまい込んでいた着物を回収し、一階へ運び込んでいく。全部運び終えたら、着物に紐を通して部屋の対角線上に干すのである。


 そうして邸の上から下までばたばたと動き回っていると、縁側の外から唐突に声がした。


「何やら忙しそうだが、手伝うことはあるか」


 反射的に「きゃっ」と短く悲鳴を上げてしまった。振り返れば土のついた鋤簾を手に勝市が立っている。


「ああ、すまない。急に声をかけて。怖がらせたな」


「本当ですわ! お姉さまは男性恐怖症なんですのよ!」海子がずいと間へ割り込み、冬乃をかばうように立つ。「後ろから急に声をかけるなんて二度となさらないでくださいまし!」


「すまなかった」


「あ、あの……」冬乃はまだ心臓をおさえつつ、ゆっくりと息を吐いた。


「こちらこそ、申し訳ありません。まだ慣れなくて」

「お姉さまったら無理はいけませんわ」

「いいの、ありがとう海子さん。でも、本当に大丈夫」


 冬乃は両手をぎゅっとにぎりしめながら、意を決して口を開いた。


「あの……川島様は、今日のお務めは……」

「ああ。今日も溝掃除を頼まれたが、それほど汚れもなかったのですぐに終わった。なので手伝うことがあればなんでもやるが」

「結構ですわ、何もないならお帰りいただいたって――」

「川島様。その……もし、よろしければ……お手すきでしたなら……今、わたしたちで虫干しをしておりまして……」


 途端に海子がぎょっと冬乃を凝視するが、構わず勝市を見上げ続ける。


「わかった、手伝おう。何を運べばいい」


「ええと……」ことさらに汗ばむ手のひらを隠すようにして、冬乃は続ける。「わたしたちは今、お着物を干しておりますので……他には書斎の本を縁側に並べるつもりなのですが」


「では、本は私がやろう」


 言うが早いか、勝市は玄関へ向かって歩き出した。縁側へ直接あがらないのは、冬乃を気遣ってのことだろうか。


 去りぎわ、勝市が頭の後ろで手ぬぐいをぎゅっと結ぶ手を、冬乃は無意識に目で追っていた。


「お姉さま、本当に平気ですの?」


 心配そうな海子の声に、冬乃は「え、ええ」と慌てて視線をそらした。


「これも練習だもの。海子さんも心を鬼にしてね」


 言いながら、冬乃はそそくさと踵を返し、二階から運び込んだ着物の山のそばへしゃがみこむ。

 

 だが、その袖に紐を通すあいだも、先ほど見た勝市の顔がぼんやりと頭に浮かぶ。そしてそれは、夢に見た目つきのするどい少年の顔と重なり合う……


(やっぱり、似ているわ)


 コト、と心臓が小さな音を立てた。まだ夢の余韻が胸に響いている。ドキドキと甘いような、苦しいような、胸の奥にぽっと小さな火がついて、じりじりと焦がされるような、そんな余韻が。


 あれから日が経っているのに、未だに思い出しては余韻がぶり返す。決して自分の感情じゃないのに、夢の中の誰かの感情なのに、まるで自分のものみたいにずっと残っているのは奇妙だった。


 着物を干したら、行李(こうり)や籠、ゴザや座布団なんかも広げられるだけ広げてしまう。家中の箪笥を(から)にして、空にできなくても抽斗を開けっぴろげて空気にさらす。納戸も夏の湿気をたっぷりと吸っているので解放し、窓を開けて風を通した。


 廊下を忙しく動いていると、時折り勝市とすれ違う。両手に書籍を抱え、縁側に並べる姿を間近に見る。その一瞬は思わず体がこわばってしまうが、勇気を出してその場に留まってみれば、不思議とそれも薄らいでくる。


 彼はあんなに優しい文を書く人で、冬乃の病を気遣ってくれている、思慮深い人だと、彼について知っていることを並べてみると、より心が落ち着いてくる。


 やがて勝市が本を干し終えたので、納戸へやってきて「手伝おうか」とたずねてきた。

 

 ちょうど戸口付近の箪笥を開けていた、冬乃に向かって。


「……は、い」


 それでも、やはり体がぎゅっと硬くなってしまうのは、もう癖のようなものだ。それがとても恨めしかった。


「ふ、二人きりにはさせませんわよ」


 納戸の奥で海子が憤然と立ち上がる。髪にひっかかっていた大きな埃がほろりと足もとへ落ちたのにも気づいていない。


 だが、勝市は静かに冬乃を見すえた。


「俺と二人になるのは、さすがに怖いか?」


 二人、という言葉に心臓が大きく高鳴った。

 これは、緊張のせいだ。だが恐怖ゆえなのか、単なる緊張なのか、夢の余韻せいなのか、わからない。


「怖いに決まってますわよ恐怖症なんですから! お姉さま、奥へどうぞ! そちらは私が……」


「わ、わかりません」気づけばそう口走っていた。


「でも……練習は、すべきですよね」

「お姉さま⁉ 段階を飛ばしすぎですわよ、というより未婚の男女が、納戸なんかで二人きりなんていけませんわ、破廉恥ですわ、不純ですわー!」


 そのとき、戸口の外に立つ勝市の背後でぬっと人影が立った。


「騒々しいわね、アトリエまで声が丸聞こえよ」


 見ればナミ江が絵の具まみれのエプロン姿で仁王立ちしている。勝市も冬乃も海子もぎょっとし、三人同時に

「申し訳ございません!」

 と平身低頭してしまった。


 それからは三人で黙々と納戸の作業に没頭し、季節の行事は滞りなく過ぎていった。


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