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また君に恋い初むる  作者: シュリ


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12/33

〈川島勝市様


 川島様のお優しいお言葉の一つ一つが、身に痛いほど沁みました。心から感謝申し上げます。私はひどい思い違いをしておりました。もうすぐ三十路にだというのに、まだまだ精神的に未熟です。お恥ずかしい限りございます。

 私はこれから一つずつ、できることを増やして参りたいと存じます。何卒、お力をお貸しくださいませ。

 それにしても、川島様は私の心まで見透かしておられるようで不思議です。本当に初対面なのでしょうか〉




 勝市はぎくりとして、思わず帳面から顔を上げた。


 ガタンガタン、と揺れる車窓は暗く、電球に照らされた車内の人影が鏡のように反射している。くたびれた背広姿の勤め人たちを乗せた市電は静かで、時折聞こえる誰かのささやき声も車体の振動にかき消されていた。


 もう一度、おそるおそる日記に視線を戻す。




〈――と思うほどに、川島様のご指摘は的確でした。

 私はまだ、殿方を怖いと思ってしまいますが、理性では、川島様を怖い方だとは思っておりません。感覚と理性がつながれば、私は少なくともあなた様と接することは克服できるやもしれません。そしてそれは、そう遠くない未来に叶えられる気がするのです。そのためにも少しずつ、川島様に近づいてみようと思います。


 どうか、拙い練習になるやも知れませんが、お付き合いくださいませ。お願いいたします。

 それから、毎週の夕餉についてですが、もし川島様にご希望があればお聞きしたいと存じます。いかがでしょうか。川島様は和食と洋食、どちらがお好きですか。また、好物がおありでしたらお申しつけください。できる限りお応えさせていただきます〉




 ――好物。


 勝市は目を上げ、天上の裸電球へと視線を投げた。その橙色の光の中に、肩の上で髪を切りそろえた少女の顔が浮かぶ。


 ――さあ、どうぞ勝市様。昼餉の残りで恐縮ですが……


 そう言って、彼女は椀の中から箸で大根の切れ端をつまみあげる。その箸先が、勝市の口に近づく……


 市電がふいに速度を落とし、勝市ははっと我に返った。気づけば見慣れた景色が窓の外にある。

 勝手知ったる棲家の最寄り駅に着いたのだ。



 駅には邦義が控えていて、そのまま彼の車で屋敷に帰った。道中、邦義はやはりぶすっとしたまま何も言わなかった。


 それでも迎えにきてくれるのは、彼の忠誠心のおかげなのだろう。


 車を降りるとき、勝市は何気なく言った。


「俺はもう市電通いの使用人なのだから、車など使わなくてもいいぞ」


「いいえ」邦義はきっぱりと首を振った。


「私は『社長に』お仕えする身でございますので」


 それでは、と邦義は車を車庫へ入れにいってしまった。


(そうだよな。俺にじゃないんだよな)


 勝市は自嘲気味に笑い、玄関をくぐる。


「あら旦那様、おかえりなさいませ」


 恰幅のいい女が前掛けで手を拭きながらいそいそとやってくる。川島邸の住み込み女中のアサである。中年で女中暦が長く、勝市が斡旋所に頼んで探させたベテランだ。


「本日もお勤めご苦労様でございます」


 言いながらアサは帽子と上着をてきぱきと受け取った。


「本日もお夜食を用意してございますが……いかがいたしましょう」

「ああ……」


 勝市は一階の書斎の方向へ目を向けたが、いや、と首を振った。


「すぐにもらいたい」

「かしこまりました」


 アサはにこやかに「ではすぐにご用意いたしますから」と言って台所へ向かった。


 勝市は襟元のボタンを緩めつつ、その後に続く。勝市まで台所へ入ってきたのでアサは驚いたような顔をした。


「旦那様、すぐお部屋へお持ちいたしますのに」

「時間が惜しいだけだ。長居はしない」


 そう言って、勝市は小さな腰掛けに座る。アサは仕方なさそうに椀を取り、目の前の作業台に置いた。


「どうぞ。今度こそ、旦那様のお好みのお味になっているといいのですけれど……」


 勝市は椀の中を覗き込む。温かなつゆの中に、柔らかく煮られた大根が沈んでいるだけの、実に簡素な夜食である。


 勝市は「いただきます」と小さくつぶやき、箸を取って大根をぱくりと口にした。


 大根は舌の上でほろりと崩れ、中からじゅわりと甘じょっぱい汁がしみだす。どんな美食家もうならずにはいられないであろう出来映えであったが、それでも勝市は、唇を真一文字に引き結んでもくもくと咀嚼している。


「やはり、まだ違いますか? その……旦那様のお好きなお味と」

「……ああ」

「困りましたわねえ。いったいどんな味付けがされていたのやら」


 アサは悩ましげにため息をついた。


「旦那様はどちらでこのお夜食を口になさったのですか?」

「さあ、どこだったか」勝市は誤魔化すようにつぶやく。

「だがあの大根は、ここまで柔らかくはなかったな……」

「そりゃあ、時間をかけて煮込みましたもの。普通の食卓ではここまでいたしませんよ」

「……そうか」


 勝市は目を閉じる。まぶたの裏に、広々とした旧式の台所と、そこに立つひとりの少女の姿が浮かんだ。


 ――勝市さま。


 鈴を転がすような優しい響き。少女の手が箸で大根をつかみ、そっとこちらへ運ぶ……


 あのときは気恥ずかしさのあまり一口でやめてしまったが、意地を張らずに食べきってしまえばよかった。


 もはやどんな味だったかなんて具体的には覚えていない。追いかけても追いかけても辿りつけやしないのだ……


 寝室へ戻り、石油洋燈に火を灯してデスクへ向かった。冬乃の日記を広げ、彼女の文字のひとつひとつを指でなぞる。


 彼女に作ってもらいたいものを問われて真っ先に思い浮かぶものは、やはり変わらない。

 だがそれを素直に書くのはなんだか気恥ずかしい。とても男らしくない気がする。


 結局この日は日記を閉じて、寝台へもぐり込んでしまった。布団の中で目を閉じると、大人になった冬乃の真剣な眼差しが思い浮かぶ。


 今日の彼女はいつになく前向きに近づこうとしてくれた。治療のためだとはわかっているが、それでも……その目でこちらを一心に見つめてくれた。まるで昔の彼女のように……


 大人になった冬乃が最初にこちらへ向けたのは、恐怖に震える目だった。唇がわななかせて浅く激しい息を吐き、今にも死にそうなほど顔をひきつらせていた。


 だから今日、彼女がおずおずと伸ばした白い指先と、茶碗を受け取った瞬間にほころばせた顔は、きっと一生忘れられないだろうと思う。


(どうかこのまま……俺のことが平気になって、そして縁談も飲んでくれたら)


 ――俺を、好いてくれたら。


 病が治っても、俺に同じ眼差しを向けてくれるだろうか。自ら近づこうとしてくれるだろうか。あんな風に真剣に指先を伸ばしてくれるだろうか……


 勝市は悶々とした胸の内を抱え込むように背を丸め、眠りについた。



***


 気がつくと、冬乃は真っ暗な空間に立っていた。


 耳まで静寂の闇に押し包まれていてなんの音もしない。だがなんとなく「これは夢だ」という自覚があった。


 やがて目が慣れてくると、闇の中から周囲の景色がぼんやりと浮かび上がってきた。冬乃が立っているのは長い廊下だった。古い日本家屋で、床は黒ずんでいるがぴかぴかに磨かれている。右手には閉じられたガラス戸があり、その向こうに小さくまるい月が見えた。


 やがて冬乃の足が動き出す。足音をひそめるようにゆっくり、こわごわと。


 ガラス戸の向こうは夜の闇に沈んでいる。おそらく立派な庭が広がっているのだろうが、植木の影がひっそりと佇んでいるばかりでよく見えなかった。


 だが、なぜか、冬乃はその景色を知っている気がした。庭先だけじゃない。この廊下そのものがなんだか懐かしいような感じがする。


 それでも自分がどこを目指しているのかはわからず仕舞いだった。意思もないのに足が勝手に動く。目線も固定されていて、思うように周囲の景色が見れない。まるで誰かの視点で撮られた活動写真でも見ているようだった。


 頭のどこかに鈍い痛みを感じる……


 やがて廊下を抜け、眼前に現れた古めかしい引き戸を開けた。裸足に簀子(すのこ)のきしむ感触。足の指先に下駄の鼻緒を引っかける。やがて目が慣れてくると、闇の中に広々とした土間の台所が見えた。だが、やけに広い……水場も竈も大きく、天井も高い……


(もしかしてわたし、背が縮んでる?)


 内心で愕然としているあいだも、小さな冬乃は勝手口の戸を開けてしまう。


 その向こうは屋敷の裏手につながっているようだった。目の前には屋敷を囲う立派な石塀があり、そのすぐ向こうに別の屋敷の屋根がせり出している。裏手はお勝手と塀に挟まれてせまく細く、桶や庭仕事の道具などが立てかけられており雑多だった。


 戸口を出てすぐ左手に、粗末な床几(しょうぎ)が置かれている。そこに小さな男の子が腰かけていた。寝間着に伊達締め姿で、短く刈り込まれた黒髪はカラスの雛のように逆立っていた。


 その少年がはじかれるようにこちらを見上げた。冬乃はその顔を真正面からまじまじと見てしまった。


 きゅっと寄せられた一文字眉、きりりと鋭い切れ長の目。少しへの字気味に引き結ばれた唇……なんだか、見覚えのある顔だ。知らない子どものはずなのに、この既視感はいったいなんだろう。


 少年は小さく口を開け、何事か語りかけてきた。だが声は聞こえない。相変わらず冬乃の両耳は塞がれたままだった。唇の動きで懸命に読み取ろうとしたが、よくわからない。


 そのとき、はじめて冬乃の唇が動いた。喉が震え、何か返事をしたらしいとわかる。はたして何を言ったのか、少年はなんだかむっとした様子でそっぽを向いてしまった。


 口の端が少しひきつる。小さな冬乃は笑っている……


 それから冬乃は台所へ引き返し、水屋箪笥から二人分の湯飲みを取り出して、水瓶の水を注いだ。そしてふたたび外へ出た。


 少年は床几に座ったままぼんやりと夜空を見上げている。その眼前に湯飲みを差し出すと、少年の視線が湯飲みをとらえ、冬乃を見た。そして、つんと尖らせていた口を嬉しそうにほころばせた。


 すぐ湯飲みを手にし、ごくごくと喉を動かしながら水を飲む。とてもおいしそうに、口端から水滴をこぼしながら。


 その様子をぼんやりと見つめているうちに、冬乃は「あっ」と声をあげそうになった。


 彼の、およそ子どもらしくない厳めしい仏頂面。冬乃の言葉に顔を背けたときの表情、目線……


(川島様に、似ている)


 まるで小さく縮んだ勝市を見ているようで、冬乃は混乱した。この夢は、いったいなんだろう。何かの雑誌で、夢は願望あるいは記憶から作られるものだという記事を見たことがあるが、もしそれが事実なら、この夢は……いったいどちらから作られたものなのだろう。


 やがて少年は湯飲みの中に視線を落としたまま、ぽつぽつと言葉を発した。やはり内容はわからない。だが小さな冬乃は微笑み、何か返事をしてからいそいそと彼の隣に座った。


 それからお互い、言葉を交わすことなく、ただ家屋の壁に背を預けながら夜空を見上げていた。

 母屋の屋根と向かいの庇にはさまれて、空は細長く切り取られている。その中に散らばる満天の星光を、ただ黙って眺めるだけ。


 しばらくこの穏やかで平和な優しい時間を堪能していた冬乃だったが、そのうち胸の内がなんだかざわざわとして落ち着かないのに気づいた。


 まさか、恐怖症による緊張だろうか。そういえばこの幼い少年も異性なのだった……冬乃は思わず身じろぎしかけたが、小さな冬乃の体はびくともしない。


(あれ、でも、なんだか……違う……これは、恐怖じゃない……)


 この胸のざわめきは、緊張や恐怖といった負のものではない気がする。どこかくすぐったいような、体の奥がぽっと熱くなるような、恥ずかしさに似た感情だった。


 どうして……彼のそばに座っているだけでこんなに心が落ち着かないのだろう。


 冬乃は冷静にこの状況を見ているが、同時にどきどきと胸が高鳴っていた。まるで二つの感情が同時に存在しているみたいに。


 ――そうか。

 ――これは、「このわたし」の感情だ。


 一瞬で腑に落ちた。そう……この胸のざわつきは、高鳴る鼓動は、冬乃が憑依している小さな少女のものだった。


 この少女は、いったい誰だろう。


 肩と肩が触れあいそうなほど近くに、彼がいる。別に触れているわけでもないのに、肩の先にじわりと彼の熱を感じるようで、考えまいとするほどそれを意識してしまう。それもこの少女の心の動きだ。冬乃自身のものじゃない。


 それなのに、まるで自分の心臓までコトコトとせわしなく動いているような感覚に陥ってしまう。違うのに……違うはずなのに、だんだん違いがわからなくなってくる。


 ふいに冬乃の視線が空から外れ、隣を見た。いつの間にか、少年もこちらを見つめていた。まっすぐ……透き通るようなよどみない眼差しを向けてくる。


 やがて、彼の口が小さく動いた。


 ふ ゆ の


 その瞬間、頭の中で鐘が打ち鳴らされたように鈍い痛みが広がった。何度も何度も力いっぱい打ち鳴らされ、わんわんと気が遠くなるほどの痛みにおそわれる。


 いつしか少年は消え、星空や古い屋敷の壁も消え、冬乃の意識は痛みの渦に吸い込まれるようにして消えた。




「お姉さま、お姉さま」


 肩を揺すぶられて目が覚める。


 海子の顔が目と鼻の先にあった。もう顔を洗い終えたのか、眠たげな様子のないさっぱりとした顔つきだった。


「あ、朝……?」

「はい。ぎりぎりまで起きないなんて、珍しいですわお姉さま」


 それを聞いた瞬間、冬乃はがばりと飛び起きた。さっと窓の外を見る。

 まだ開けたばかりの薄青い空。だが、いつも起きる時間より遅いことが空気感でわかる。


「うそ……わたしったら」

「ご心配無用ですわ! 朝の務めの準備はもういたしましたから」海子は誇らしげに胸へ手を当てる。「お姉さまはごゆっくりと身支度なさってくださいまし!」

「ありがとう……」


 言いながら、冬乃は無意識に寝間着の胸元をつかんでいた。


 まだ、胸の奥に感じたぬくもりが残っている。むずむずするような、そわそわするような落ち着かない気持ち。


 ――ふゆの。


 勝市そっくりの少年が、最後につぶやいた言葉。


(見間違い……かしら。でも……)


 彼のまっすぐな眼差しを思い出すと、胸がきゅうっと痛む。だが嫌な痛みじゃない。つい何度も思い出してしまいたくなるような切ない痛み……


 これは、夢の中で憑依していた少女が感じていたものだ。自分はきっと関係ない。なのにその余韻がいつまでも離れない。


(これは願望? それとも記憶……?)


 と、と、と、と……心臓の音までもが浮き足立っているようで、この音が目の前の海子に聞かれやしないかと心配になってしまった。 

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