⑤
納戸を開けると、薄暗い部屋の隅に、小さく足をたたんで座り込む海子の姿があった。
冬乃が一歩、中へ踏み込むと、彼女は膝に埋めていた顔を上げ、真っ赤に泣きはらした目を大きく見開いた。
「あ……お姉さま」
つぶやきながら、おどおどと目をそらす。
「あ、あの、私……」
「海子さん」
冬乃はそっと近づき、海子の目の前にしゃがみこんだ。彼女の小さく震える肩に罪悪感を抱きながら、ゆっくりと口を開く。
「さっきは、ひどいことを言ってごめんなさい」
「……えっ」
「本当にごめんなさい。あんなこと言うつもりじゃなかった……本当は、あなたの手を借りなくてもいいようになりたいって、そう言いたかったのよ。なのに頭がごちゃごちゃになって、考えなしに言葉が……」
言いながら、冬乃は首を振った。
「いいえ。そんなの言い訳ね。あんな大声出して、ただの八つ当たりだわ……」
「や、八つ当たり……?」海子の目がまん丸に見開かれていく。
「お姉さま、私に八つ当たりしてくださったのですか?」
「え? ええ……」思っていた反応と違ったので面食らいつつも、冬乃はうなずく。
「そう……八つ当たりしてしまった。あなたの優しさに甘えていたのね。わたし……本当にひどいことをしてしまったわ。ごめんなさい」
「い、いえ、いえ、そんなのいくらでもしてくださいましっ」
「えっ?」
「えっ?」
しばしのあいだ、奇妙な沈黙が流れた。ややあって、海子がおそるおそるその沈黙をやぶった。
「あの……私、お姉さまに嫌われてしまったと思って……」
「まさか、嫌うわけないじゃない。むしろ逆だわ、わたしこそあなたに嫌われてもおかしくないのよ」
「そんな、いやです! お姉さまを嫌うなんて死んでもいたしませんわ!」
「……そ、そう……なの?」
「そうです! やめてくださいそんなことおっしゃるの」
再び、奇妙な沈黙。冬乃はこほんと咳払いして、真剣な顔に戻った。
「八つ当たりはもうしないわ……したくないの。自分でもどうかしていたと思うわ。その……病のことで、自分に苛々して、その機嫌をあなたにぶつけてしまったの。こんなの良くないわ。もう絶対にしないから」
「そんな。菩薩のようなお姉さまの八つ当たりを見られるなんて私だけの特権ですのに、奪わないでくださいまし」
「えっ?」
「あああぁよかった……! お姉さまに嫌われたわけじゃなくてよかった……!」
海子は安堵に涙をながし、盛大に鼻をすすった。
「それに、お姉さまのお立場なら苛々して当然ですわ。病ってそれほどおつらいものでしょう。私は罹ったことがありませんのでわかりませんが……きっと私だったらもっと周りに当たり散らしてしまうに違いありませんもの」
「そんな海子さん、想像できないわ」
海子はいつでも明るく天真爛漫だ。感情をすぐ表に出してしまいがちだが、今みたいに相手の立場を慮ろうとする優しさもある。そんな彼女が八つ当たりなんてするだろうか。
「私……早くこの病を治したいわ。これまではずっと、奥様と海子さんに申し訳ない気持ちだけが強くあって、歯がゆい気持ちで苦しかったの。だけど、今はちがう。私、ただ普通に生活したいのよ」
初めはそれだけの思いだったはずだ。だがいろいろな人の優しさに触れるたびに気持ちが苦しくなっていった。自分で自分を追い詰めていたのだ。
「普通の……生活、ですか?」
「そうよ。普通に女中をしたいわ。奥様からたまにいただく休日には海子さんとお出かけもしてみたい。私、記憶を失ってから市へ買いだしだって行っていないのよ。そんなのさびしいでしょう」
「お姉さまとお出かけですって!?」
途端に海子の目がきらきらと輝いた。
「そんなの、私だってしてみたいですわ! お給金を貯めて、素敵なパーラーやカフェーに行って、オムライスやパンケッキを食べて……」
「そう、そうよ。そんなこともしてみたいの。でも、今のままじゃそれは叶わないわ。荒療治でもなんでも、とにかく男性を克服しなくては」
海子は冬乃の言わんとしていることを察したのか、少しバツが悪そうな顔で「わ、私はただ、お姉さまがご無理なさらないか心配で」などとごにょごにょつぶやいた。
「海子さん……あなたはとっても優しいわ。いつもわたしのことを気遣ってくれる。でもね、それじゃ、いつまでも夢は叶わないわ。どうか……わたしのためだと思って、心を鬼にしてちょうだい。病の克服のために来てくださる川島様のこと、わたしはこれからもっと頼りにさせていただくつもりだから」
「……」
「お願いね」
海子は複雑そうに表情をゆがめつつ、こくんとうなずいた。
「ありがとう」
冬乃はほっと微笑を浮かべ、前掛けを整えつつ立ち上がった。
「さあ、夕餉の支度までにお裁縫の続きを――」
だが直後、海子の「ああっ⁉」という叫び声に耳を貫かれた。
「お姉さま! 手、手が!」
冬乃もつられて自分の手を見る。包帯が簡易的に巻かれた手を指さし、海子は真っ青になっていた。
「どどどどうなさいましたの⁉」
「お庭でちょっと……転んでしまって」
郵便配達人の来訪については黙っていることにした。納戸の奥にいた海子に彼の呼び声は聞こえていなかっただろう。自分を責めてほしくなかった。
そんな冬乃の気持ちをよそに、海子はますます青ざめ、あわあわと唇をふるわせる。
「大変ですわー! 大事件ですわー!」
「大袈裟よ、傷だって小さいし大したことないの、ただ家事に支障が出るからこうして巻いているだけで……」
「お姉さまがあああぁ私の見ていないところで大怪我をおおおぉ!」
何を言っても聞いちゃいなかった。
*
次の週末、いつものように勝市がやってきて、作業着に着がえるや否や、ナミ江から指示を受けていた。
「川島様。ちょうどよかったわ、まずはじめに洋間の電球を換えてくださらないかしら。切れてしまって、でも場所が高いものですから」
「承知しました」
そのやりとりの声を、冬乃は階段踊り場の窓を拭きつつ耳にしていた。勝市は廊下に立ち尽くしたあと、少し迷うようにして台所をたずねた。
「失礼。電球の替えの場所が知りたいのだが」
「電球ですって?」
海子のつっけんどんな声は、別段大きくもないのに踊り場まで響く。
「納戸です。そこの廊下の突き当たりにありますからどうぞお探しくださいませ!」
そう言い放ち、早々に戸を閉めてしまった。
海子は冬乃に対し過保護にするのはやめたようだが、勝市のことは個人的に好かないのか、態度を改める気はないようだ。
海子の指示通り、勝市がすたすたと廊下をやってきたので、冬乃は反射的に腰壁へ身を隠してしまった。
勝市の足音は納戸の手前で止まる。しばしのあいだ、彼の動く気配がなかった。
そのうち冬乃は気がついた。我が家には納戸が二つある。それぞれの入り口が向かい合っており、そのどちらに目的のものがあるのか、勝市にはわからないだろう。
冬乃は息を吸って、思い切り吐いた。
(大丈夫、大丈夫……)
彼は、不意に襲ってきたりしない。常に適切な距離を取るなど、冬乃の病をずいぶんと気遣ってくれる。今までの経験から、それは痛いほどわかりきっていた。
それに何より、あんなに優しい文を書いてくれた人なのだから……
冬乃は腰壁から顔を覗かせ、おそるおそる口を開いた。
「か……川島様」
気を張っていたせいか、無理やり喉をこじ開けたためか、鶏を絞めるようなひどい声が飛び出て、冬乃は両手でぱっと口を押さえた。
勝市が階段の上を見上げる。彼の鋭い視線とおもいきりぶつかってしまい、心臓が跳ね上がった。
「あ、あの、電球の……替え、ですよね」
「ああ」勝市は冬乃の焦りようなど気にする風でもなく、無表情でうなずいた。
「どちらの納戸にあるのか知りたいんだが」
「でしたら、右手のほうです……左手は、外の出入り口と繋がっていまして、庭仕事の道具や食材などが置いてありますから……」
「なるほど」
勝市はふいと顔を背け、ためらいもなく納戸を開けた。階段ごしから姿が見えなくなり、冬乃はほっと息をつく。
だがすぐに冬乃は顔をこわばらせた。
納戸の中は日常の消耗品ばかりではなく、ナミ江が仕事で使うものや古い家具、置き場所に困る収納品などが雑多に押し込まれている。冬乃や海子ならどこに何があるのかを把握しているが、果たして勝市にわかるだろうか……
思わず台所をちらりと見てしまうが、慌てて首をぶんぶん振った。
きっとこれも練習だ。勝市に慣れるためには自分から積極的に臨まなければ。病をはやく治そうと誓ったではないか。
冬乃は階段を降り、それからおそるおそる足を踏み出した。
納戸は開けっ放しになっていた。奥の壁に空けられた明かり取りの窓から陽光が入り、中の様子をうっすらと照らしている。
入り口からは見えない場所にいるのか、奥のほうからごそごそと音がするだけで、勝市の姿は見えない。
(これは練習、これは練習……)
冬乃は息がつまりそうになりながらも懸命に近づき、壁に肩をつけて深呼吸した。
「あ、あの、か……川島様」
ごそごそと辺りを手探る音がぴたりと止まる。冬乃の額や首にどっと汗が噴き出し、顔が熱くなるのを感じた。
「で、電球の、場所を……」
「教えてくれるのか」
「はい……あの、中が整理されていないので、わかりにくいかと思いまして……」
言いながらも、勝市が今にも部屋の奥から姿を現す気がして、冬乃の声は震えていた。
だが勝市が動く気配はない。冬乃の言葉を静かに待っている。
「入り口正面の、明かり取りの窓の下に、箪笥があります……小さな抽斗がいくつもついているほうです……そちらの、右から二番目、下から三番目の抽斗に……」
「ちょっと、待ってくれ」
勝市はやにわに動き出して、壁の向こうにぬっと姿を現した。冬乃は反射的に大きく身を引く。
「窓の下の、箪笥……ああこれか」
勝市は部屋の奥で腰をかがめ、箪笥の小さな抽斗を開ける。中にごそごそと手をつっこみ、電球を取りだした。
「これだな」
そう言って、勝市は振り返る。
「わざわざこのために来てくれたのか」
「……」
冬乃はすっかり汗ばんだ手をもみながら顔を伏せた。
「あの……せっかく、練習にご協力いただいているので……」
「ああ。なるほど。練習のためか」
「そ、それもありますが……」
着物の胸元をぎゅっとつかみ、顔を上げた。
「日記のお礼を――」
ふと、勝市の視線がまっすぐこちらにふりそそがれているのに気づき、冬乃の頭から残りの言葉が飛んでしまった。
「日記?」
「あ……いえ、その……」
勝市の口調や声色はいつもぶっきらぼうなので、本気できょとんとしているのか、とぼけているのかわからない。
だが、あの真摯で温かい言葉の数々を、ただ何の気なしに書いたとは思えない。あれは紛れもなく彼の優しさだ。
そう、この優しさをいつまでも疑っていては彼に失礼だ。彼は怖い人じゃない……
「とても、嬉しい内容でしたから」
「……」
勝市は人差し指でぽりぽりと頬を掻きながらそっぽを向いた。
「私はただ、思うままに書いたまでだが」
「……ええ」
「だがそれで、あなたが治療に前向きになれたのなら、書いた甲斐があるというものだ」
勝市はとうとう最後まで目線を合わせてくれなかった。冬乃は一礼して廊下を戻り、階段を上がりながら、ふと気がつく。
(あの方、あんまり目が合わないけれど……もしかして、あちらも緊張なさってる……?)
今までは冬乃から怯えて目をそらしていたせいで気がつかなかったが、勝市はよく顔をそむける。あのぶきっちょな口調もそのせいかもしれない。
思えば、勝市は四つも年下だ。いくら社長の身分であっても、単身この屋敷に来るのはいくらか緊張するものなのだろう。
そこまでして協力してくれているのだから、やはりもっと自分から行動するべきだと思う。今しがたのように積極的に近づいてみなくては。
夕方。食事の時間になり、冬乃は箱膳を茶室へ運び込んだ。海子はいつもの定位置に置いて席についているが、冬乃はそれよりもう少し前へ箱膳を置いた。
「お姉さま? ちゃぶ台に近いですわよ」
慌てて冬乃の袖を引く海子に向かって、ゆっくり首を振る。
「いいの。今日は……」
「あら? 冬乃さんったら大丈夫なの?」
ナミ江が微笑みながら首をかしげる。
「そんなに近づいて……怖いんじゃなくて?」
「いいんです。今日はもう少し……近づいてみたくて」
瞬間、ちゃぶ台に座していた勝市が肩をゆらし、膝の上で拳を強くにぎりしめた。だが顔をうつむけていた冬乃は気づかない。
「あらあら……」
ナミ江は袖の下でくすっと笑っている。
冬乃の隣に箱膳を置いた海子は、その様子をうかない顔で見つめていた。
なんとなくぎこちない空気の中、夕餉の時間が始まった。
「まあ、今日のオムレット、カレー粉が入ってるの? おいしいわ」
「オムレットはお姉さまの担当でしたの」
海子が食い気味に披露するので、冬乃も負けじと
「煮豆腐と汁物は海子さんが担当ですから」
と返した。
「なるほど……」
勝市が神妙な顔でつぶやきながら、椀の中からびろんと繋がった小蕪菁の塊を箸でつまみあげる。
「ああああーーっ」
海子の絶叫が部屋中に反響し、ナミ江はハァとため息をついて額を押さえた。
「海子さんったら相変わらずなんだから……」
「あああのこれはそのっ」
「最近になってようやく胡瓜と人参がつながらなくなっていたのに……」
「おおお奥様あぁっ」
冬乃は堪えきれずに噴き出した。ナミ江はもう一度ため息をついてから勝市に向き直る。
「お客様へのお料理に不手際があり、申し訳ありません」
「いえ。食べられないわけではありませんので」
それから無言で食事が再開される。海子は真っ赤な顔で目をうるませていた。小蕪菁がつながっていたのがよほど恥ずかしかったらしい。
いつもは海子に頼まれて、彼女の担当した料理を確認するのだが、そういえば今日は何も言われていなかった。冬乃も昼間の勝市との一件からぼうっとしてしまい、それに気がつかなかったのだ。
(海子さんに後で謝っておかなくちゃ……)
「米のおかわりを」
ふいにちゃぶ台から声がして、冬乃はびくりと顔を上げた。
見れば、勝市が空になった茶碗を差し出している。――まっすぐ、冬乃に向けて。
――練習。
彼の日記の文字と、昼間のやり取りが高速で頭を駆け巡る。
「はいはいすぐお入れしますわよ」
横でぶつくさと声がしたが、冬乃は「待って」と制した。震える両手を持ち上げ、ゆっくりと茶碗へ伸ばす。
「お、お姉さま」
「……」
ごくりと唾を呑みこむ。勝市の視線がまっすぐに冬乃へそそがれている。
やがて、冬乃の細い指先が、彼の茶碗をしっかりとつかんだ。
「あ、でき……」
その途端、勝市はあっという間に手を引っ込めてしまった。
「先ほどと同じ量を」
そう早口で言い置いて、湯飲みの茶をぐびりぐびりと呷る。
冬乃は緊張で高鳴る胸をおさえつつ、そばにあったお櫃から米をよそった。
(できた……できた……お茶碗を……殿方の手から……!)
この手の震えがもはや緊張のせいなのか、達成感と興奮のせいなのかわからない。
冬乃は米を盛った茶碗を手に、ゆっくりと振り返る。
勝市は何やら一心不乱に庭のほうを見つめていて、どんな顔をしているのかわからなかった。
「あの……ど、どうぞ」
そう言って、彼の手元にそっと茶碗を置く。
それからそそくさと自分の箱膳へ戻っていった。
なぜだろう。部屋は静かなのに、空気が妙にざわついている感じがするのは。
顔を上げると、満面の笑みのナミ江と目が合った。
海子も微笑んでいた。一瞬、顔が蒼白になっているように見えた気がしたが、きっと気のせいだったのだろう。




