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また君に恋い初むる  作者: シュリ


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10/33

 午後一時。冬乃は和室を広く使い、伸子張りにしていた着物をほどいていた。


 これは上等な絹物で、ナミ江の外出着だ。扱う際はいつもより慎重になり、自然と口数も減る。


 その隣では、海子が古くなった浴衣をほどき、せっせと雑巾を縫っていた。


「あっ……つぅっ」


 突然悲痛な声が上がり、冬乃ははっと顔を上げた。


「どうしたの?」

「針が指に、親指に……」


 海子は塗っていた雑巾を放り出し、涙にうるんだ目で指を押さえている。


「突いてしまったのね? 見せて」


 冬乃は海子の手を取った。白く小ぶりな親指のはらに、ぷくりと赤い点が盛り上がり、今にも垂れこぼれそうになっていた。


「いけないわ。傷を洗ってらっしゃい。消毒薬を塗らなくちゃ」

「平気ですわ。お薬だって高価なんですもの、これくらい唾をつけておけば……」

「駄目よ。奥様も遠慮無く使いなさいとおっしゃっていたでしょう」


 冬乃は問答無用で海子を水場へ送り出し、和室の箪笥の上から薬箱を下ろした。

 やがて海子が戻ってくると、薬箱から貝殻の入れ物を取り出し、中の軟膏を彼女の親指のはらに塗りつける。


「はい。しばらくこの手で何もさわっちゃだめよ」

「でも、縫い掛けの雑巾が……」

「それくらい、あとで私がやっておくから」

「……いやです」

「えっ?」


 海子はうるんだ目が、真摯にこちらを見上げている。


「だってお姉さま、ここ最近お顔の色がすぐれませんもの。なるべく負担をかけたくありませんわ」


 冬乃は思わず両手で自分の頬に触れた。


「えっと、ただでさえわたし、日頃から血の気が薄いでしょう。今日は曇り空だから余計にそう見えるだけよ」

「近頃ずっとですわ! あの殿方がお邸に来るようになってからです。お姉さま、やっぱり無理をなさってるんでしょう? 荒療治に身も心も追いついていないのですわ」

「そんなことは……」

「今までだって生活になんの支障もなかったのに。余計なお世話でありがた迷惑というものですわ。あの人のせいでお姉さまの寿命が一刻でも削れたら私、許しませんわよ」


「――支障なら、あったじゃない」


 冬乃は自らの腕をぎゅっとつかみ、小さく声を落とした。


「このままじゃだめなの。できるだけ早く治してしまいたいの。でなくちゃわたし……」

「無理に治す必要はありませんわ。お姉さまのおできにならないことは、私がすればいいんですもの」


「それじゃだめだって言ってるの! あなたの手なんて借りたくない……!」


 わん、と声が茶室に響きわたった。続いて重苦しいほどの静寂が降る。はっと気がついたときには、海子はじわじわと目元を赤くしていた。


「あ、あの、ごめんなさい、わたし……」

「……っ」


 海子はくるりときびすを返し、茶室から飛び出してしまった。


「まって、海子さ――」


 台所か、納戸か、裏庭か。海子の姿はあっという間に消え、もうどこにも見えなかった。


(わたし、彼女に……なんて言った?)


 冬乃はその場にたたずんだまま、顔を青くした。


(とてもひどいことを……まるで八つ当たりみたいに……)


 急いで病を治したいのは、ナミ江と海子のためなのに。


 自分を受け入れてくれる二人を、日頃から病のせいで迷惑をかけ続けている二人を、これ以上困らせたくないだけなのに。心配をかけたくないだけなのに。手を患わせたくないだけなのに。


(いいえ、違う……そんなのただの利己主義(エゴ)だわ……)


 二人に迷惑をかけて、嫌われたくない。いずれ「邪魔」だと思われる前に治したい。居場所を失いたくない……そんな、ただの身勝手な私欲を海子にぶつけてしまった。


「ごめんくださーい」


 ふいに表門のほうから溌剌(はつらつ)とした声がした。


「郵便でーす」


 郵便、と聞いて冬乃は顔をひきつらせた。


 今、海子は近くにいない。しばらく待ってみたが、来る気配もない。

 ――自分が行くしか、受け取るすべがない。


 冬乃はそろそろと縁側に出て、ちらりと門のほうをうかがった。若い男の配達人が立っている。


(そうよ、甘えていられない……治したいなら、立ち向かわなくちゃ)


 冬乃はごくりと唾をのみ、縁側から庭へ出ようとした。だが、足がそれ以上、動かない。なんど叱咤しても、足は震えるばかりでちっとも前へ進まないのだ。


(どうして……どうして……!)


 ただの配達人だ。恐ろしい存在ではない。頭ではわかっているのに……心臓が早鐘を打ち、全身に冷たい火が回っていく。


 それでもどうにか、足を無理やり引きずるようにして一歩、前へ突き動かした。もう一歩……それでようやく踏み石の上の下駄に届く。


(はやく出なくちゃ、はやく出なくちゃ、はやく――)


 ぐらり、と大きく視界がゆらいだ。


 あ、と思ったときには、足が踏み石から大きくはずれていた。落差に感覚がおいつかず、気づけば目の前に砂利の地面が迫っていた。


 悲鳴を上げる暇もなかった。砂けむりが立ちこめ、手のひらと肘が焼けるように痛む。

 痛みと吐き気と恐怖がぐちゃぐちゃになって視界を覆う。


(せめて声を……返事を……受け取らなくちゃ、女中なのだから……)


 役に立ちたい。邪魔になりたくない。要らないものになりたくない。


「うわ、大丈夫ですか?」


 門の向こうから配達人がこちらに気づいて声をかけてくる。


 冬乃は反射的に口を開いたが、喉がふさがったように声が出ない。必死に唇をぱくぱくさせてみたが無駄だった。


(どうして……どうして……どうして、どうして、どうして)


 怖くない、怖くない、怖くない……言い聞かせれば言い聞かせるほど心音が大きく激しくなる。


 お願いだから動いて。役に立って。仕事をして。仕事をして!


 すべての音が遠ざかる。その遠いどこかから、ざ、ざ、と砂利を踏む足音が響いた。


「よければ私が受け取りますが」


 聞き覚えのある低い声がする。声の主は塀の向こうにいるのか、姿が見えない。配達人が声のほうを振り向き、「あ、どうも。えーと……このお邸の方ですか?」と訊ねる。


「はい。使用人です」

「し、使用人……ですか……?」


 配達人は戸惑うように声の主を眺め回していたが、すぐ我にかえって「ではこちらを」となにやら封筒を託した。


「あと、あそこでお女中さんが転んでしまったみたいなので、様子をみてさしあげてください」

「はい」


 配達人は帽子を取って一礼すると、そそくさと立ち去っていった。


 門の右手、塀の裏から、すっと人影が現れる。背の高い、上等なスーツ姿の男。川島勝市がそこに立っている。


 なぜ、彼がここにいるのだろう。今日はまだ平日で、本来彼が来るべき日ではないのに。


「……大丈夫か?」


 門の外から、ぶっきらぼうな声が降ってくる。焦点が定まり、周囲の音が耳へ正常に入ってくる。ようやく状況をはっきりと理解すると、冬乃は自分のしてしまったことに愕然とした。


 本来なら自分が受け取るべきものを、客人である彼に受けとらせてしまった。手を煩わせてしまった。

 取り返しのつかないことをした気がして、頭の先から冷水を浴びたように冷たくなる。


 そんな冬乃の顔を勝市は訝しむように見下ろしていたが、やがて「ああ」と思い出したように一歩下がった。


「大丈夫だ。不意をついて近づいたりはしない。この門から一歩も踏み入らないと約束する。それなら幾分、平気だろう」


 幸いなことに、彼が気分を害した様子はない。冬乃は詰めていた息を吐き出し、ゆっくりと立ち上がった。だが膝がわなないて、まるで出来の悪い絡繰り人形のようにぎくぎくと軋む。


「申し訳、ありません……本来、私がすべきことを……」


「いや、たまたま相対したから受け取っただけだ。それより、まさかひとりで配達人の応対をしようとしたのか? もう一人の女中は――待て」


 勝市の声が突如するどくなり、冬乃はびくりと肩をこわばらせた。


「手に血がついている。転んだときに擦ったのか」

「え……あ……」

「すぐ手当を――いや、俺は近づけないから……」


 ぶつぶつとつぶやく勝市に向かって、冬乃はやっとの思いで声をしぼりだした。


「あ……あの、て、手当ならひとりで……できますから」

「そうか?」


 勝市はどこか訝しげな顔をしたまま、「まあそれなら」と無理やり納得したように革の鞄へ手を差し入れた。


「今日はこれを渡すために来たんだ」


 と、取り出したのはあの雑記帳――改め、交換日記だった。


 なぜ今、これを?


 疑問が顔に表れていたのか、勝市はバツが悪そうな顔でそっぽを向いた。


「その……たまたま用事で近くに来ていた、そのついでだ。鞄の中に、たまたま、入っていたから」

「そう……なのですか」

「手渡しは――さすがに怖いか。ここに置いておこう」


 勝市は交換日記と、さきほど配達人から受け取った封筒を重ね、細い門柱の上に載せた。


「以上だ。……ではもう、行く」

「……」


 冬乃は唇をはくはくと動かした。踵を返しかけた勝市の目がふたたび冬乃をとらえる。


「あ、あの……」冬乃は懸命に顔を上げ、勝市の目をまっすぐに見つめた。

「本当に……ありがとうございました」

「……」


 ほんの一瞬、勝市の目が大きく見開かれた。だが、すぐに顔を背け、帽子を目深にかぶりなおしてしまう。


「また、週末に」


 そう言って、彼は足早に去っていってしまった。


 さわさわと、頭上で木の葉が風に擦れあう。彼の背中が見えなくなってから、冬乃は門柱へ手を差しのばした。


 郵便物は大判封筒で、出版社からナミ江に宛てられたものだった。


 そしてもう一つ――交換日記を胸に抱き、冬乃はひとまず、封筒をナミ江のアトリエへ持っていこうと縁側を上がった。


 アトリエの外から呼びかけても、ナミ江の返事はなかった。作業に没頭しているときはいつもそうだ。だから、封筒を扉の横にたてかけておいた。


 水場で手の擦り傷を洗い、茶室に置かれた薬箱から包帯を取り出して巻きつける。幸い傷は小さく浅いので、この程度の処置でじゅうぶんそうだった。


 薬箱の中の軟膏を見れば、海子の顔が思い浮かぶ。


 当然のように男の客人の相手をして、外へ買い出しに行ってくれる海子。あんなに優しい子に大声でひどいことを言って傷つけてしまった……


 時計を見上げる。夕飯の準備までに目の前の仕事を終わらせなくてはいけない。でもそれより先に海子に謝りたい。彼女はどこへ行ったのだろう。もしかして外へ飛び出してしまったんじゃないだろうか。


 途方に暮れた冬乃の手から、交換日記が滑り落ちる。ばさりと(ページ)が開かれ、勝市の筆跡が見開きいっぱいに現れると、先ほど聞いた彼の声が耳によみがえった。


 ――大丈夫だ。不意をついて近づいたりはしない。この門から一歩も踏み入らないと約束する。

 ――すぐ手当を――いや、俺は近づけないから……


 唐突に、胸の奥がずきんと痛んだ。


 あの人にまで気を遣わせてしまった。もっと丁重にお礼を言うべきだったのに、それすらできなかった……


(もう、限界かもしれない)


 自分はいないほうがいいのかもしれない。

 いるだけで誰かに迷惑をかける人間なんて、この世に必要ないのだから……


(ダメ。この場所を失いたくない)


 矛盾している。役立たずは出ていくべきだとわかっているのに、ここを追い出されるのがたまらなく怖い。


 こんな浅ましい気持ちはどこから湧いてくるものなのだろう。


 胸に苦しいものがせり上がり、冬乃はその場に膝をついた。肩を浅く激しく上下させていると、視界に勝市の書いた文字が揺れる。




〈田代冬乃様


 まず第一に、あなたが糊付けした頁を開いてしまったことを詫びておく。すまなかった。だが、私は見たことを後悔していない。


 あなたは酷い認識違いをしているので、一つ一つ訂正しておきたい。不服があるなら反証を書くといい。私がまた正す。


 一つ。あなたは「女中として役に立てていない」と書いたがそれは間違っている。あなたが雇われたことで、北村邸の食卓事情は格段に良くなったとナミ江女史から聞いている。粥が白米になったと大層喜んでおいでだった。


 二つ。海子という女中はあなたを先輩だからというだけで敬っているわけではない。それは傍から見ている私の目から見ても明らかだ。あなたは人を信ずることが苦手のようだが、彼女の思慕を疑うのは逆に彼女を悲しませるだけなので、今後は信じてやってほしい。


 三つ。そういうわけで、あなたが今すぐ女中を辞した場合、ナミ江女史や海子をいたずらに悲しませるだけで何の得もない。


 四つ。以上の事は率直な私の観点を述べているに過ぎない。決して嘘やまやかし、安易な慰めなどではないことに留意してもらいたい。


 これを読んでも、あなたは思うだろう。たかだか粥が米になった程度で役に立てているわけはないと。自分の病はそれ以上に酷いものであると。

 だが、ナミ江女史はあなたに、「ずっと我が家で働いてもらいたい」と言っていた。あなたのいない場所で私に嘘をつく必要はないので、これは真実とみていいだろう。


 粥を米にしたあなたは、他でもそれと同等の働きをしている。ナミ江女史はあなたを正当に評価して雇っているのであり、そんな主人を信じず否定するのはかえって失礼ではないか。


 あなたのすべきことは、まず主人に感謝し、同僚の好意を信じて受け入れ、病を治すため前向きに練習する。それだけなのではないか。


 今回、ナミ江女史が治療を勧めたのは、病のせいであなたが自分を責めて傷つくのをこれ以上見たくなかったからだ。それほどまでにあなたは、この邸で皆に愛されている。それをどうか自覚してほしい。


 たとえ治らなくとも誰もあなたを責めはしない。精神病とはそういうものだ。あなたの主人はそれを承知であなたを雇ったのだから。


 重ねて言うが、私は嘘をついていない。


 あなたを助けたいという気持ちにも偽りはない。存分に私を練習台としてほしい。そのために毎週通っているのだから〉




 ぽたり。涙がひとしずく、帳面に落ちてじわりと染みこんでいく。

 最後の一文を読んだあと、冬乃の目は、再び冒頭へと戻っていた。最後まで読み終えると、また最初の言葉へ戻っていく。それを幾度となく繰り返した。


 次に目を上げたとき、頁の上にはいくつもの透明な染みが輪を広げていた。慌てて要らない端切れでぬぐうが、皺になってしまって取れなかった。


 時計をちらりと見上げ、交換日記を脇へ置いた。

 急いで海子を探さなくては。

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