はじまりの話
柔らかな陽射しの差す台所の土間に、少女がひとり椅子に腰掛け、椀の汁をすすっている。
その姿を台所の引き戸の隙間からこっそり見つめるひとりの少年の姿があった。この屋敷の次男坊らしからぬコソコソぶりだが、彼は実に真剣な面持ちだった。
少女が椀に口をつけ、啜るたびに肩の上で切りそろえられた髪がゆれる。ほんのり紅潮した白い肌は窓の光に輪郭を溶かし、肩上げされた木綿の着物や前掛けまでもが神々しく見え、少年はただ、ごくりと唾をのんだ。
――まるで、抒情画の中から抜け出たみたいだ。
じり、とつま先が床にこすれる。そのかすかな音を少女は聞き逃さなかった。
「勝市様?」
少年――勝市は思わず扉から身体を離した。だが、隙間の向こうにいる少女と目と目がはっきりかち合ってしまい、動けなくなる。
「勝市様、何かご用事でしょうか」
少女が作業台に椀を置き、つかつかとこちらへやってくる。とうとう引き戸が開かれ、少女の顔が間近に迫った。
「あ……ふ、冬乃」
声が上ずってしまい、慌てて咳払いする。
「その……俺は今まで勉強をしていた」
「はい」
「あれほどの勉強量では、朝餉も昼餉も足りん」
冬乃がきょとんと目をまたたく。やがて彼女はあどけない頬に笑みを浮かべた。
「お腹が空かれたのですね」
「いや、ちがう。ただ脳みそに栄養を供給したいだけだ。人は学ぶときに一番脳みその栄養を消費するからだ」
勝市は精いっぱいに胸を張った。勝市は今年で八歳。冬乃は四つも年上で十二歳だ。この差を少しでも縮めていたかった。
「まだお昼を過ぎたばかりですのに――」
「別に飯をまるまる寄越せと言っているわけじゃない。何か少し腹に入れたいだけだ」
勝市の主張は、目の前の少女にどう伝わっただろう。
冬乃はわずかに眉をよせ、小首をかしげた。年端もゆかぬ少女にしてはずいぶん大人びたしぐさのように勝市は思えた。
「左様でございますか。では……」
突然、冬乃が戸口に手を突き、ぐっと身を乗り出した。着物の胸元が眼前に近づき、勝市はぎょっとうろたえ、唇をふるわせる。
冬乃は廊下を右と左にさっと見回すと、ふたたび居直り奥を指した。
「どうぞ。昼餉の残りがほんの少しございますから」
勝市は土間に降り、冬乃の後に続く。
冬乃は小さな鍋の中身をすくい、空いた椀の中へそそいでいく。その姿を眺めながら、勝市は「おい」と口を開いた。
「おまえ、他の女中たちからいびられているだろう」
勺が鍋にあたって、ことん、と微かな音を立てる。
「いいえまさか。皆様には本当によくしていただいています」
「嘘をつけ。何かにつけて文句や叱声を浴びせられているのを俺は知っている」
「……それだけ、わたしがまだ至らないということですから。皆様にご迷惑をおかけしないよう、努めます」
「そうじゃない」
勝市は苛立ちまぎれに足をじりっと動かした。
「普通の女だったらとっくに泣いてるぞ。なぜ泣かない」
「泣くだなんて……」
「女は泣いても許されるんだぞ」
「泣きません。わたしが至らぬばかりなのに、泣くことなどありはしません」
うそだ、と言葉が口を衝きかける。
勝市は以前、何度か見たことがあった。深夜すぎ、厠近くの納屋の外でひとりうずくまり、肩を震わせていた冬乃の姿を。
女中たちは陰で冬乃を「みなしご」と呼んでいた。それを口にする彼女らの冷ややかな目つきを思い出すと、胸がむかむかしてたまらない。
「お、俺の前でなら――」
だが、皆まで言い切る前に冬乃が振り返った。
「さあ、どうぞ勝市様。昼餉の残りで恐縮ですが」
椀には冷えた汁と、ひたひたに煮られた大根の切れ端が入っている。
冬乃はあろうことか、それを箸でつまむと勝市に向かって差し出してきた。
「お、おい、な、何をするっ」
「さあ召し上がってください」
「やめろっ、俺は幼児じゃないぞ! 尋常の三年で……っ」
「でも、昨年の冬にもわたしがこのように」
「それは熱がひどくて動けなかったからであって、今は必要ないだろうっ!」
うふ、うふふふ、と軽やかな笑い声が上がる。目の前で肩を揺らす冬乃を勝市は呆気にとられて見つめていたが、やがてみるみる頬に血の気をのぼらせた。
「何がおかしい、よこせ!」
冬乃の手から箸と椀を奪う。再度「笑うな!」と怒り、大根の切れ端をぱくりと口に入れた。
その瞬間、勝市は言葉を失った。
じわり。噛みしめた大根からあまじょっぱい汁が湧き出て、口の中にしみ広がっていく。
「なんだこれは……」
「女中用にいただいた昼餉の残りです」
「そんなわけあるか。昼餉の煮物よりうまいぞ。さては女中たちでこっそりとうまいところだけをかすめ取っただろう」
「よくご覧ください、大根もにんじんも切れ端ですよ。お屋敷の方々にはお出しできないところだけをいただいているのです」
「ではどうしてこんな……すごい味になるんだ」
すると冬乃はことさらに悪戯っぽい笑みを浮かべ、唇に人差し指を当てた。
「昼餉のときより時間が経っていますでしょう。それだけお汁がお大根に染みて、よりお味が濃くなっているのですよ」
――だからわたし、わざと用事を多く済ませて遅いお食事をいただいているのです。
そのとき冬乃が浮かべた艶然とした微笑みを生涯忘れられなくなるとは、勝市はまだ知るよしもなかった。
ただ喉に染みわたる出汁の味と、窓から差す静謐な白い光、台所じゅうに満ちた男子禁制の空気……それらすべてが、目の前の歳近い少女をより特別に意識させてくるようで、勝市の心臓はどうにかなりそうになった。
「も、もういい」
気づけば椀を冬乃の手に押しつけていた。
「もうよろしいのですか?」
「いい」
そう言うやいなや背を向け、脱兎のごとく走り出す。
心臓がおかしい。顔がいやに火照り、手が汗ばんでいる。この現象をなんと呼ぶのか、勝市はわからなかった。
それから何年経ってもこの現象はおさまらず、ついに勝市は中学生になった。
「冬乃」
ある日、彼は学校から戻ると制帽も外さぬまま、庭で洗濯物を取り込んでいた冬乃の後ろから声をかけた。
冬乃は少し驚いたように振り返り、「おかえりなさいませ、勝市様」と返す。
「冬乃。おまえ、俺と結婚しろ」
冬乃は薄紅色の唇をぽかんと開いた。はじめて見る表情だったので、勝市は少し得した気分になった。
「冬乃は女のくせに意固地だからな。俺の前で存分に泣かせてやる」
――あれ、事前に用意していた言葉と少し違う。
そう思いながらも、勝市はええいと首を振り、まっすぐ前を向いた。もう後には引けない。
「何を驚いている。返事は」
「……ええと」
「いやなのか。そうでないのか」
「いやなどと、ただ……」
「じゃあいいんだな。俺は中学を卒業したら高等学校へ入る。その後、独立するからそのときに嫁に来い」
できるだけ胸を張って言ったのだが、その必要はないとすぐに気がついた。
いつからだろう。彼女の顔を、もう見上げずともよくなったのは。
冬乃は唇をきゅっと引き結び、それから微かに笑みを作った。
「坊ちゃまが、そのままのお気持ちをお持ちでしたら、冬乃は従います」
冬乃は「失礼いたします」と一礼して、洗濯ものの入った桶をかついで行ってしまった。
――坊ちゃま。
そう呼ばれるのはいつ以来か。冬乃がこの屋敷に来たばかりのころそう呼んでいたが、「坊ちゃまはやめろ」と勝市が命じたのだ。以降、耳にする
ことはなかったのに。
「嫁にくるならその呼び方は禁止だぞ!」
彼女の背中に向かってそう告げる。
その声は、果たして届いていたのだろうか。
その翌年。冬乃はいなくなった。
遠く、どこぞの男の元へ嫁に行ってしまったのだ。
そしてそれきり音沙汰がないまま、実に十二年の時が流れてしまった。……




