世界を変える魔法は誰でも持っているらしい
皆様、初めまして。 こうしてページを開いてくださり、ありがとうございます。
今、私は「歴史」についての話をしようとしています。そう聞いた瞬間に、少し身構えた方がいらっしゃるかもしれませんね。「ああ、年号の暗記か」「誰が誰を倒したとか、そういう野蛮な話か」と。あるいは学生時代の、埃っぽい教室と退屈な教科書の記憶が蘇った方もいるでしょう。もしそうだとしたら、少しだけ私の話を聞いてください。私がこれから語ろうとしているのは、テストのために死んだ人間の名前を覚えるような「作業」の話ではありません。
私が語りたいのは、「魔法」の話です。あるいは、「視力」の話と言ってもいいかもしれません。
私たちが生きているこの「現在」という世界は、一見すると当たり前の光景に見えます。朝起きて、電車に乗り、スマホを眺め、コンビニでおにぎりを買う。そこには何の不思議もないように思えます。けれど、歴史という「レンズ」を目に装着した瞬間、その退屈な風景は一変します。何気ない道路のカーブが、かつてそこを流れていた川の輪郭に見えてくる。何気なく口にしている言葉が、千年前の貴族の恋文と繋がっていることに気づく。 歴史を学ぶとは、知識を詰め込むことではありません。世界の「解像度」を上げることなのです。
これから皆様にお話しするのは、私が歴史を学ぶ中で手に入れた、世界を面白がるためのいくつかの視点です。これは小説という形を借りた、皆様への「招待状」のようなものだと思ってください。
では、具体的に「解像度が上がる」とはどういうことか。少しだけ例を出してみましょう。
あなたが街を歩いていて、ふと奇妙な光景に出会ったとします。例えば、最新のビルが立ち並ぶオフィス街のど真ん中に、ぽつんと一つだけ、古ぼけた小さな神社が残っている。「開発の邪魔だなあ」とか「地主が頑固だったのかな」と思って通り過ぎるのは簡単です。それが、レンズを持っていない状態です。
しかし、歴史のレンズを持っていると、思考はこう動きます。「なぜ、ここ『だけ』が開発されなかったのか?」歴史において、不自然なものには必ず「切実な理由」があります。調べてみると、その場所はかつて海に突き出した岬の先端で、水難事故を防ぐために漁師たちが守り神を祀った場所だったことがわかるかもしれません。あるいは、過去に何度も疫病が流行った際、死者を弔った塚だったのかもしれません。現代のディベロッパーたちが、どれだけ巨額の予算を積んでも、そこを更地にすることを躊躇った「見えない力(畏れや敬意)」が、そこには働いているのです。
そうわかった瞬間、その小さな神社はただの古い建物ではなくなります。コンクリートのジャングルの中で、数百年前の人々の「祈り」や「恐怖」が、真空パックされてそこだけに残っている。いわばタイムカプセルのように見えてくるはずです。
これが、私の言う「世界の見え方が変わる」ということです。幽霊を見る必要はありません。歴史を知れば、街中のいたるところに、過去の人々の息遣いを感じることができるのです。
簡単な「推理ゲーム」をしましょう。歴史的な知識は一切不要です。「人間とはこういう生き物だ」という感覚だけを使って推理してみてください。
【問い】 ある古い時代の集落遺跡が見つかりました。その集落は、川のすぐそばではなく、川から少し離れた、ほんの数メートルだけ高い場所(微高地)に作られていました。 なぜ、昔の人は「川のすぐそば」に家を建てなかったのでしょうか?
……シンキングタイムです。
答えは出ましたか? おそらく、多くの方がこう回答したはずです。
「水は必要だが、洪水は怖いから」。
人間は水がないと生きていけません。飲み水、洗濯、農業。だから川の近くにいたい。けれど、川の真横に住むと、大雨が降った時に家ごと流されて死んでしまいます。だから、「水汲みに行ける距離だけれど、洪水になっても水が来ないギリギリの高台」を選ぶのです。これが、人間の生存本能に基づいた「最適解」です。
「なーんだ、当たり前じゃないか」と思いましたか? そうです。歴史とは、この「当たり前」の積み重ねなのです。
この理屈さえわかっていれば、初めて訪れた知らない街でも、地形を見ただけで「ああ、昔の集落はこの辺りにあったはずだ」と推測できます。そして実際にそこに行ってみると、古いお寺や立派な家が並んでいることに気づくでしょう。この時、あなたは知識としてそれを知っていたわけではありません。「なぜそうなったのか」を推測し、的中させたのです。
「全てを知っている」必要はない
私が皆様にお伝えしたい、最も重要なことがこれです。歴史を楽しむために、全ての年号や人名を暗記する必要など、これっぽっちもありません。
大切なのは、「推測する力」です。
人間というのは、1000年前だろうが現代だろうが、本質的には変わりません。楽をしたい、美味しいものが食べたい、危険から身を守りたい、誰かに愛されたい。そして、地形や気候といった条件も、そう簡単には変わりません。
「当時の人間も、私たちと同じように考え、行動したはずだ」 この前提に立って、目の前の風景を眺めてみてください。
「なぜ、この城はここにあるのか?」
→きっと、ここが一番守りやすく、敵を見渡せる場所だからだ。
「なぜ、この地域ではこんな料理が食べられているのか?」
→きっと、この食材が一番手に入りやすく、保存がきく方法だったからだ。
そうやって、初めて見る時代、初めて訪れる地域、初めて見る文化財であっても、「なぜ、そうなったのか」の理由を推測できる状態。私はこれこそが、歴史をマスターした状態だと思っています。
知識の量は、スマホで検索すれば補えます。しかし、「なぜ?」と問いかけ、点と点を繋いで線にする楽しさは、検索では手に入りません。それはあなた自身の頭の中で起こる、最高に知的なエンターテインメントだからです。
――さて。 ここまで色々と語ってきましたが、最後に少しだけ正直な話をしましょう。
そもそも、歴史を完璧に理解するなんてことは、未来永劫不可能です。歴史書なんてものは、勝者の都合や、敗者の恨み節、誰かの勘違いが煮込まれた、実に「適当」なシチューのようなものです。
例えば、先ほど私は遺跡の話で「洪水が怖いから高台に住んだ」と、あたかも事実のように説明しました。けれど、本当のところはどうでしょうか? もしかしたら、当時の人は「あそこには水神の呪いがある」と本気で信じていただけかもしれない。あるいは単に、村長が「高いところからの景色が好きだったから」という理由だったかもしれないのです。教科書的な正解は「治水」でも、人間的な真実は「呪い」や「気まぐれ」だったかもしれない。歴史とは、事実と嘘を分けられないくらい適当で、だからこそ面白いのです。
だから、私の話もテスト勉強のように覚える必要はありません。私が伝えたかったのは、知識という名の「世界を見るための勝手なフィルター」の話だけです。
ふと、隣を見てみてください。電車で隣に座ったサラリーマン、カフェですれ違った女性。彼らの目に映っている世界は、どんな色をしているでしょうか。
ファッションに詳しい人なら、あなたの靴を見て「お、5年前のモデルだ。物持ちがいい人だな」と勝手に性格を決めつけているかもしれない。整体師なら、座り方ひとつで「昨日の夜、変な寝方をしたな?」と同情しているかもしれない。みんな、自分の持っている知識という「偏見」で、勝手に他人の人生を想像し、現実はいくらでもねじ曲がっているのです。
だったら、あなたも好きにすればいい。「歴史」というフィルターを使って、世界をあなただけの色で塗りたくってしまえばいいのです。
建築の歴史を知れば、街のビルはただのコンクリートではなく、建てた人間の「ドロドロした欲望」に見えて笑えてくるかもしれない。食の歴史を知れば、皿の上のジャガイモはただの野菜ではなく、人類を飢えから救った「奇跡の生存者」に見えて拝みたくなるかもしれない。国の成り立ちを知れば、厳めしい国境線なんて、実は喧嘩の果てに地面に引いた「ただの落書き」に見えて気が楽になるかもしれない。
あなたはもう、退屈な現実をぶち壊すための武器を手に入れてしまいました。
この一歩外にあるのは、教科書のように整理された綺麗な場所ではありません。デマも真実も、ゴミも宝石もごちゃ混ぜに投げ込まれた、巨大な闇鍋のような世界です。何が正解かなんて、誰にもわかりません。
でも、一つだけ確かなことがあります。隣の人があなたを勝手に誤解しているように、あなたも歴史という適当で、曖昧で、人間臭い物語を味方につけて、あなただけに見える色彩豊かな世界を、堂々と歩いていっていいということです。
……おっと、最後にひとつだけ。
今、こうして画面の向こうにいるあなたは、私のことをどう想像していますか?歴史に詳しい知的な賢者?それとも、小難しい能書きを垂れるただの暇人?
――ふふ、それもまた、あなたの知識と経験が作り出した、勝手な「偏見」ですよ。
招待状は以上です。 ドアはもう開いています。どうぞ、極彩色の外の世界へ。
いってらっしゃい。
本文で「勝手に推理しろ」「偏見で遊べ」と偉そうに語った手前、最後に私自身が普段、歴史上の偉人たちや出来事、建物をどんな風に「適当に」解釈しているか、恥を忍んでいくつか晒しておきます。怒らないでくださいね。歴史なんて、想像したもん勝ちですから。
フランス、パリのノートルダム大聖堂。あの周囲を囲む「異様な蜘蛛の足」のようなつっかえ棒、実は当初の設計図にはなかったらしいですよ。 正面からの優美な印象と、横から見たゴツゴツした印象、明らかに別物ですよね。あれ、建設途中に「もっと光を! ステンドグラスをデカく!」という流行に踊らされた結果なんです。壁が自重に耐えられず、崩壊寸前までいったんですよ、きっと。 予定にない薄い壁とステンドグラスに職人たちは「やべぇ、倒れる! 外から棒で支えろ!」と慌ててつっかえ棒をし、あろうことかその「緊急用の松葉杖」を豪華にデコることで、「いや、最初からこういう最先端のデザインでしたけど?」と開き直った。そうとしか思えません。 教科書では「高さを出すための計算し尽くされた構造」なんてすました顔をしていますが、実態は超一流の職人たちが冷や汗をかきながら作り上げた、「泥縄の傑作」ですよ。 きっと、あの美しいステンドグラスの光は、神の威光というより、職人たちの「開き直りの輝き」なのかもしれませんね。
「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」 この一言で国民をブチギレさせ、処刑台に送られたマリー・アントワネット。でも実は、彼女はこのセリフを一度も言っていません。 あれはルソーという思想家が本の中で書いたジョークか、あるいは敵対勢力が流したデマが、彼女の発言として拡散されただけなんです。 要するに、「あいつムカつくから、言ってもいない悪口を拡散して社会的に抹殺しようぜ」という、現代のネットリンチと全く同じ手口で殺されたわけです。 事実確認もせずに、デマを信じて「許せない!」と正義面で石を投げる。人間って、スマホを持つ200年前から、中身はこれっぽっちも進化してないんですね(笑)。
所詮、歴史なんて後付けで都合よく美化され、正当化された「作り話」みたいなもんです。 教科書に載ってる立派な能書きなんて、ただの『うまくいった言い訳』かもしれませんよ? 真に受けずに、これくらい適当に楽しんじゃえばいいんです。




