エピソード3 ファンタジーの世界
〈エピソード3 ファンタジーの世界〉
スーッと目を開けると俺は町の中の雑踏にいた。
寝ているわけではなく、ただボーッと力なく突っ立っていたのだ。
白一色の世界は視界から消え失せているし、俺は瞬間移動でもしてしまったのか?
「これが仮想世界か……。さすがに、テレビゲームの画像なんかとはインパクトが違うな」
俺の周囲にあるのは中世のヨーロッパを思い出させるような街並みだ。
道の真ん中には馬車や荷車が往来しているし、整然とした石畳の歩道にはぶつかりそうなほど人が歩いていた。
通行人たちの服装も、現代の日本では見られないような簡素なものだ。
ここが仮想世界だなんて、とてもではないが信じられないが、それでも、目で見たものが現実だよな。
「いつまでもボーッとしてるんじゃないわよ。そんな顔をして突っ立っていると馬鹿だと思われるわよ」
どこからともなく聞き覚えのある声が発せられた。
「お前は……」
俺は目の前に現れた小さな人形のような少女を見て、思わずぎょっとしてしまう。
少女はまるで外国の童話なんかに出て来る妖精みたいな奴だったのだ。
「こんな妖精のような姿をしているけど、アタシはさっきあなたと話していた女神イブリスよ。この顔は忘れてはいないでしょうね?」
手乗りサイズの少女、イブリスはまるで無重力の中にでもいるかのように宙に浮かびながら言った。
「それは分かってる。さっき見たばかりのお前の顔を度忘れするほど、俺は耄碌していない」
「なら、良いけど」
「でも、俺は今、ファンタジーの世界の空気を思いっきり吸い込んでいるところなんだ。だから、邪魔をしないでくれ」
俺は透かしたような顔で肩を竦める。
別に、この世界の空気に当てられて縮こまっていたわけではないぞ、と暗にアピールしたかったのだ。
とはいえ、内心では心細かったのも事実。
この小生意気な女神が現れてくれたのは正直、助かった。
「別に邪魔をするつもりはないけど、あなたはこの世界に来たばかりだし、ナビゲート役が必要だと思ったのよ」
イブリスは淡々と言葉を続ける。
「それをアタシが買って出たってわけ」
「意外と殊勝なところがあるんだな」
初めて見た時から性格の悪そうな女だと思っていたので、その心遣いは殊の外ありがたく感じられた。
「意外って、あんたにアタシの何が分かるって言うのよ」
「何も分からん」
「なら、あんまり生意気なことばかり言ってると、本当に右も左も分からない世界にあんたを放り出すわよ」
イブリスは俺のことをあんた呼ばわりすると、形の良い頬を膨らませる。
「良いだろう。それなら、お前がナビゲート役になるのを許してやる」
「何で、そんなに上から目線なのよ……」
イブリスはジト目で言った。
「これが俺の性格だ」
「そのようね。でも、そんな風だから、あんたは四十歳にもなるのに無職ニートをやっているんじゃないの?」
「それは言ってくれるな」
「事実でしょ? ま、あんたに突っかかっても、無駄に疲れるだけっていうのは分かったわ」
「だろうな。お前の言う通り、俺はこんな奴だから、友達もほとんどいないんだ。両親だって俺のことは完全に見放しているし」
でなければ、安アパートで独り暮らしなどしていない。
「もちろん、付き合っている女などいるはずもない。というか、生まれてこの方、女と付き合ったことは一度もない」
だが、悲観することはない。
聖書に出て来る使徒パウロも、結婚している人間より結婚していない人間の方が立派に行動していると言ったではないか。
その上、パウロは結婚できない人間が無理に結婚しようとすると患難がある、とも言っているし、その忠告は肝に命じておきたい。
「悲しい人生を送って来たのね」
「まあな」
「なら、この機会を生かして人生の一発逆転を狙いなさい。こんな破格のチャンスは二度と巡っては来ないだろうし」
「言われなくても、そうさせてもらうさ」
そう言うと、俺は歩き出した。
だが、どこに向かって良いのかが分からない。
体の感覚は現実の世界にいた時と同じなので、食事や睡眠を取ったりすることも必要なのではないだろうか。
だとすると、必然的にお金が必要になって来る。が、そのお金をどうやって手に入れれば良いのかが分からない。
「何をして良いのか分からないって顔をしているわね?」
「ああ」
「それなら、冒険者ギルドに行ってみるのが良いんじゃない? そうすれば、お金を得る方法も見つかるわよ」
こいつは、俺が真っ先に金のことを考えていたのを見抜いていたわけか。
なかなか抜け目のない奴だ。
「冒険者ギルドか。そいつは役に立つ情報だが、最低限の軍資金もないって言うのは辛いな」
「最低限のお金ならあるわよ」
「どこに?」
俺が眉を持ち上げると、イブリスは何もないはずの空中を指さす。よく見ると、そこには不思議な形をしたマークがあった。
「視界の隅に映っているアイコンをタッチして、メニュー表のタブを出してみなさい」
「こんなところにアイコンがあったとはな。ファンタジーの景色に感動し過ぎて、気付かなかったよ」
俺がアイコンをタッチすると、立体映像のように空中にメニュー表のタブが出現する。
メニュー表には《ステータス》や《アイテム》や《装備品》、《魔法》や《スキル》や《所持金》などの項目が表示されていた。
確認したい項目はたくさんあるが、まずは所持金だ。
俺が所持金の項目を指でタッチすると、一万ルビスという金額が表示される。
「おお、何だか本当にゲームっぽいな!」
「でしょう。この世界で生きていくためにはメニュー表の確認は必須よ。何かあったらすぐにメニュー表を開く習慣を身に着けておきなさい」
「分かった。あと、ひょっとして俺の体は若返っているのか?」
俺は歩道の横手にあるガラス窓に映る自分の姿を見る。
そこには、俺の顔が鮮明に映っていた。が、その顔は十八歳くらいの青年に見える。
皺とかシミが全くないし、どう鑑みても四十代の男の顔じゃないな。
「その通りよ。外見が若返っただけでなく、身体能力もアップしてるはずだから、戦おうと思えば戦えるわよ」
「それを聞いて安心したよ。いきなり、一から体を鍛えろ、なんて言われたら困り果てていたところだからな」
「そうね。アタシもあんたの不安を取り除くことができて何よりだわ」
「でも、不安ならまだあるぞ。ここがファンタジーの世界なら、モノを言うのは剣と魔法の力だし」
俺は特別な力など実感できないまま言い募る。
「俺には剣を振るったり、魔法を使ったりする力があるのか?」
魔法は分からないが、こと剣の扱う技術に関しては、一朝一夕に身に付くものではないはずだ。
身体能力のアップは、そういう部分までカバーしてくれているのか?
「剣を扱う技術なら、それなりに備わっているはずよ。でも、魔法を使いたければ、魔法学校のお世話になる必要があるわね」
学校に行くのは遠慮したいな。
学生時代の俺は成績こそ普通だったが、勉強は大嫌いだったし。
そんな性分のせいで、せっかく、推薦で入った大学も授業の内容についていけなくて、中退してしまったくらいだ。
「何だか前途多難な感じがするな」
「かもね」
「ま、仮想世界に来たからって楽ができるとは期待していなかったし、それもまたファンタジーの世界の醍醐味というやつかもしれない」
でも、こんな調子で面白いデータなんて取れるのか?
現実の世界で目を覚ましたら、借金地獄になっていたなんて展開は御免だぞ?
俺は不安を押し隠しながら言葉を続ける。
「いずれにせよ、先立つ物は金とも言うし、とりあえず冒険者ギルドに行こう」
「それが定石ね」
「ああ。ギルドには他の冒険者たちもいるだろうし、きっと分かることもあるだろう」
そう気を取り直したように言うと、俺はこの世界のことを《ある程度》なら知っていると言うイブリスに案内されながら雑踏を進んだ。