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終章

 春の例大祭は穀雨の頃に行われる。この日、私は二年後に一般公開するはずだった御神体を急遽公開することを決めた。叔母も龍樹ちゃんも、そして出張から帰ってきて漸く再会した叔父からも反対はされず、ただとてつもなく忙しい大祭の幕開けとなったことは言うまでもない。

 一般公開に先駆け、ご神体に触れられないよう紙垂付きの注連縄を張り巡らしたり、お守りや御朱印を多めに用意したりとにかく慌ただしい。しかも出で立ちは細長で、境内のあちこちに赴くのにも外を歩いて近道とはいかず常に渡殿や隠し通路で移動していたから時間が掛かることこの上ない。

 懐には辨財天から授けられた香木で出来た扇を懐紙と共に携えている。あの後、色々悩んで授かり物の日本刀の銘を溟薫とした。この神宝が扇の姿の時は溟薫扇、刀の姿の時は溟薫刀と呼ぶことになるが、刀の姿に変化するときは即ち邪気が現れたと見なすことになるので、できれば扇の姿のままであって欲しいと願うばかりだ。私の行く先々で溟薫扇の放つ香りがふくよかに匂い立ち、参拝客がこれぞ御神体の香りだと浮き立っているのが傍目にも分かるが、今日を迎えるまでに起きた苦難を思うと複雑だ。

 あれから古文書を更に読み込んで分かったことがある。海を漂いこの地に辿り着いた香木は大小二体あったこと、そのうち大きな方を彫って辨財天像にし、もうひとつは琵琶の形に似ていたからそのまま辨財天像に持たせたようだが、謎もまだまだ多く容易く解けそうにない。

 それにしても怪異が起き始めてたった三週間程度しか経っていないとは思えないほどに平穏な中での大祭はいつにも増して晴れ渡り空の青さが海を思わせる。御簾を開ける前の本殿内での祝詞奏上時には辨財天が私に言祝ぎを送ってくれたほどで、彼女も完全体となった身での大祭を心待ちにしていたのだろう。

 言祝ぎの後に菊花の声で『今までごめんなさい』と聞き取れたのは気の所為ではないだろう。その声のおかげで私の中に溜まっていた澱が抜け落ちたように心が軽くなり、忙しくともやる気に満ち溢れた。そして私はその時に得られた僅かな時間で菊花に白猫のことを問うた。あの白猫は一体何者だったのか。悪鬼に心を乗っ取られた菊花が入り込んだ猫だったのか、はたまたあの白猫自体がこの神社を汚す邪気そのものだったのか。更には大学構内での倒壊事故もその穢れの意思だったのかも。

 菊花は謝罪を連呼しつつも話してくれた。白猫自体はただの野良猫だったが、辨財天の転生がまたしても不完全なものだと辨財天自身が気付い時、過去の悲劇からいずれ自らの意識が穢れに蝕まれると分かっていたからその前に意識と神力の一部を飛ばした先に偶然あの白猫がいたらしい。だが辨財天の意識をも凌駕する穢れは白猫へも憑いてしまった。つまり菊花の意識もあの白猫に取り憑いてしまっていたのだ。だから穢れに完全に意識を乗っ取られ私を殺そうとしたあの時、猫の姿で現れることになった。だが、それ以前の社務所での三毛猫の怪異の際は、まだ菊花としての意識が微弱ながらも残っていたので、穢れに抗って私を助けてくれたらしい。

 生前、ヒステリックに泣き叫んだり女王然と振る舞っていた時も辛かったと彼女は吐露した。あの時、彼女の身体の中では双子の姉として私を助けたいと思う心と辨財天を滅したい穢れとが互いに牽制しあっていたのかと思うと私の胸は痛んだ。そんなことを知りもしないで菊花を憎んだ私は穢れと同じくらいに罪深い。

「大学構内での倒壊事故は? あれも私を殺そうとしたの?」

 菊花を傷付けると分かっていてもあの時は私だけでなく華子と藤乃も巻き込まれそうになったことだから有耶無耶にはできない。だが菊花はアッサリとそれを否定した。菊花の中に巣喰う穢れの目的は辨財天と薫衣大辨財天社の宮司である私だけで、他人には全く興味がなかったというのがその理由だ。

「じゃあ、あれは」

『私にもよく分からない。ただ紅葉狩が関係しているように感じた』

 また紅葉狩か。因縁が深すぎる感がするが、私と菊花は紅葉狩の縁に良くも悪くも囚われているのだということを否応なしに思い知らされる。あの建物の倒壊の主たる原因は老築化で間違いないのだろうけど、私の存在に反応した部分が少しはあるのかもしれない。何にせよあれが菊花の意思でないことが分かっただけでもスッキリした上に諸々の謎が解けて私の心は軽くなった。

「菊花、ありがとう。また話しに来て良い?」

 私の問い掛けに菊花は少し逡巡する。

「……うん、待ってる」

 菊花のその言葉に私は安堵した。あの逡巡はこれまでの経緯からの気まずさからきたものだったのかなと考えていると、背後に人の気配を感じた。振り向くまでもなく、御神体を見ようと一番乗りした参拝客が拝殿に入ってきたのだろう。そう思った瞬間、辨財天の厳かな声が頭の中に響いた。

『此度の大祭を妾も楽しみにしておった。じゃが完全体になったとは言え少々疲れた故、能楽奉納が終わった後は少し休ませてもらっても良いかえ?』

 完全体になるまでに千年近く掛かっているのだ。いかに神と言えども待ちくたびれ、そして穢れに乗っ取られないようにと神力を使い尽くしていたら疲れるのも道理だ。

「承りました」

 私はそう答えると一礼して本殿を後にすると御神体を公開する為に御簾を開け放つ。遂に春の例大祭が始まったのだ。大勢詰めかけるのを予測してか御神体を一目見ようと早々に訪れた参拝客は多く、私は奥拝殿で彼らの案内と御神体に直に触れられぬように監視の役目に翻弄され、忙しい一日になりそうだとコッソリ溜息を吐いた。

 そんな私に宗家が能楽奉納前の清祓いの儀では神楽ではなく中之舞を舞ってはどうかと提案してきた。流石に怯んだが、あの祓いの舞は成功したのだから例大祭に相応しいと龍樹ちゃんにも押され結局折れて中之舞を舞うことになった。能を楽しみにしている人達の前で拙い舞を披露することに恥じらいがないわけではないが、これも今年は特別な年だからと自分に言い聞かせて舞ってみれば拍手喝采を浴びてしまった。

 その余韻に浸りながら引き続き御神体を見るべく並ぶ参拝客を奥拝殿で案内していると、細長姿の叔母が現れ私に耳打ちをする。叔母の細長姿は初めて見るが、それが母のものではなく叔母の為に誂えられたものであると一目で分かった。叔母と母は双子ではなかったけど叔母もまたこの神社の犠牲者だったのだろう。

「荷葉ちゃん、そろそろ時間よ」

 そういえばあの夢のあと、もうひとつ不思議なことが起きていた。私の周囲に居る人の中から菊花の存在が消え私は労せず荷葉に戻れたのだ。学生証の名前も変わっており、念のために役所の戸籍も調べたが両親と菊花が亡くなり荷葉は生き残っていることになっていた。これが辨財天の贖罪なのだろう。

「行って来ます」

 私は叔母にそう言うと、隠し通路経由で能舞台へ続く渡殿へ出て龍樹ちゃんと合流する。舞台では宗家が嵐山の最後の部分を舞っているところだ。

―さてまた虚空に御手をあげてー

 謡に合わせて宗家が扇を上に差し向けると金色の淡い光が空に向かって一直線に伸びていくのが見える。私の見間違いかと思ったけど隣の龍樹ちゃんも足を止めたから幻ではないようだ。その淡い光の中に菊花の姿が浮かび上がる。彼女は憧れていた細長を纏い上へ上へと登っていく。光の指し示す天界へ向かっているのだと分かったのは、私の頭の中に菊花の声が響いてきたからだ。

『これまで本当にごめんね。私の中に少しだけ残っていたまともな心が荷葉ちゃんへの申し訳ない気持ちで一杯になっていたけど、私にはどうすることもできなかった。弱くてごめん。そして助けてくれてありがとう』

「待って、菊花!」

 弱いなんてことはない。だってその僅かに残った正気で私を助けようとしてくれたんでしょ。助けて助けられ、私達の行いはお互い様でどっちが悪いなんてことはない。ただこの時になって私はさっきの菊花の逡巡に思い至った。菊花はこうなることが分かっていたから私の再訪を受け入れられず、かといって断ることもできず返事を躊躇ったのだ。

 私は周りを憚らず叫んだけど、その声は幸運にもお囃子の音で掻き消され誰も私の方を振り返らなかった。私と龍樹ちゃんが見守る中、淡い金色の光の中を菊花は振り返りもせずに装束をヒラヒラと翻しながら登っていく。そして彼女の姿が霞に隠れて見えなくなるのと同時に光も消えた。

 私は呆然とした。こんなことってあるだろうか。辨財天の魂と共に御神体に宿った菊花は霊体でしかなくなったけど、今後は朝夕の奉仕の時には姉妹らしい会話ができると信じて疑わなかった。失った時間を取り戻し姉妹で相談しながらこの神社を盛り立てていけると思っていたのにこんな形で菊花を失ってしまうなんて。

「荷葉、動揺は分かるけど今は奉仕中だ」

 龍樹ちゃんにそう言われて私は半泣きになりながらも渡殿を駆け抜けて鏡の間へと入り五色の揚幕の前で正座をすると装束の裾を直した。この場で舞い終わったシテ方を出迎えるのだ。本来この役目は後見がやるのだが薫衣大辨財天社の例大祭の能楽奉納では宮司がその役目を担う。やがて五色の揚幕がサッと上がり蔵王権現姿の宗家が戻ってくるのを見た私は深々と一礼して出迎えた。

 宗家の息が荒い。蔵王権現はかなり荒々しく舞うからプロのシテ方でも息が上がって当然だろう。宗家はその場で弟子の手を借りて面を外すと私の前に正座して静かな声で語り掛けてきた。

「今日の舞台はひとしお心に染み入りました」

 それだけ言うと宗家もまた深々と一礼して鏡の間を後にする。残された私は宗家のその言葉の意味を噛み締めた。恐らく宗家は菊花の魂が天に昇っていったことを知っている。いや、彼が意図的に菊花を成仏させたと言った方が良いのかもしれない。やはり宗家はただ者ではない。そして彼もまた私が荷葉だと気付いていたのだと確信した。

 私は頬を伝う涙を拳で拭うと立ち上がった。心の整理が追い付かないけどこれで本当に全て終わったのだと思うと嬉しさより寂しさの方が勝るから複雑だ。どんな形であれ私は菊花を姉とたのんでいたのだなと今になって気付く愚かさに活を入れたくなる。

 今頃、菊花は両親と再会しているのだろうか。母はあの事故の時に菊花を見殺しにした訳ではなく双子のどちらかに穢れに犯されている兆候が現れると知っていたから、菊花にそれが現れたことで混乱に陥る山奈の家と遠くない未来に犠牲になる私を、更には薫衣大辨財天社を守る為に菊花を道連れにしようと考えたのだろう。私を邪険に扱ったわけではなく私を守る為に菊花から遠ざけようとしていたのだと今なら分かる。

 私は鏡の間から出て渡殿へと戻る。観客は帰宅するために山門に向かう人、儀神体を拝もうと本殿に向かう人、お守りや御朱印を手に入れるために社務所へ向かう人と三々五々に散らばっていく。

「皆、ズルイな」

 大祭を楽しんだ人々に向けた言葉ではなく勝手に決めて勝手に消えていった両親と菊花への恨み節だ。私が掃けていく人々をボンヤリと眺めていると今日の舞台に地謡として出演していた那須女史が現れた。こんな時に一番見たくない顔だけどそれを表情に出すのは宮司として大人気ないと思って私はお疲れ様でしたと一礼して立ち去ろうとした。

「良かったわよ、貴女の中之舞」

 えっ? と思い足を止める。那須女子の口から嫌味以外の言葉が出たことが意外すぎて振り返ると、相変わらずの気の強さの中に今までとは違った柔和な表情が見え隠れしている。やはりこの人もまた穢れの犠牲者だったのだ。確かに能楽納舞の打ち合わせの度に宗家に付いて来ていたから徐々に穢れに犯されていたとしても不思議ではない。宗家は恐らく邪気を払い退けることのできる人なのだろうが普通の人間なら耐えられまい。

「ここへ来るようになってからの記憶が曖昧で。でも階段から貴女を突き落としたと宗家から聞かされて大変なことをしてしまったなって。土師君が貴女のことを自慢気に話すのを聞いていたら自制が聞かなくなってしまって。謝って済むことじゃないけど本当に申し訳ありませんでした」

 殊勝に頭を下げる那須女史の姿を見せ付けられたんじゃ恨むに恨めない。

「いえ、こちらこそ本日はありがとうございました」

 そう答えると那須女子は大学の倒壊した能舞台で紅葉狩が掛からなかった理由を話してくれた。曰く、篤志家の子息が紅葉狩を出すことになっていたが事故で亡くなり舞台は中止になった。それ以降、紅葉狩を掛けようとすると変異が起きるので誰も紅葉狩を掛けようとしなくなった。つまり亡くなった子息の遺恨があの舞台に残っていたのではないかと専らの噂だったらしい。その噂は能楽部員だけに言い伝えられてきたと付け加えた那須女史は苦笑を讃えている。七十年もの間ずっと遺恨を残す人間を嗤っているようにも見えたけど、変異があの血濡れの紅葉なら祟りだと避けるのも無理はないと思う。しかもそんな場所に亡くなった人物と同じく紅葉狩と強い縁で繋がっている私が入り込んでしまったのだから反発があっても何らおかしくなかった訳だ。得心のいく答えが得られてホッとする一方でもし私があの建物の中に入らなければあと数年は倒壊を免れたかもしれないと罪悪感が込み上げる。だがこの思いはさすがに墓場まで持っていくしかない。

「ところで貴女、能楽部に入らない?」

「へ?」

「貴女、なかなか素質があるわ」

 わお、もの凄い上から目線だ。

「でも那須先輩は四年生だからもう引退ですよね」

 暗に一緒にやりたくないと言ったつもりだったけど彼女からは予想外の言葉が返ってきた。

「私も薬学運で、あと二年あるのよ」

 高笑いしそうな声音でそう言うと廊下の向こうから龍樹ちゃんがやってくるのを気に彼女は後ろ手を振りながら立ち去って行く。

「那須と和解したのか、良かったな」

 全然良くない。だって良かったのは私ではなく那須女子からの重い恋慕から逃れられた龍樹ちゃんの方だって分かるから。

「それよりさ、どうしてもっと早く助けてくれなかったの?」

 陰陽師なら本殿で怪異に遭遇した時に祓ってくれれば良かったのに。

「無茶言うなよ。俺は陰陽師の血は引いているけど修行はしていないんだ」

「そうなんだ? でも将来的には修行するんでしょ?」

「さあ、どうしようかな。素質の問題もあるしな」

 へえ、蛙の子は蛙ではないのか。でもあの九字は辨財天が賞賛するほどに強かったみたいだから、素質はあるんじゃないのかな。法曹界を目指しているなら修行する時間はないだろうけど。

 おっと忘れる所だった。龍樹ちゃんにキチンと伝えておかなきゃいけないことがあったんだった。

「あのさ、私は宗家に恋なんてしてないよ。だって宗家には好きな人が……」

 と言ったところで私の言葉は龍樹ちゃんの声に阻まれた。

「何のことだ?」

「何って龍樹ちゃんが言ったんじゃない、あいつは止めとけって」

 龍樹ちゃんは呆れたような表情で大きな溜息を吐いた。それは何を思っての溜息なのかな?

「お前、あいつの家で何も感じなかったのか?」

「感じるって何を?」

 だって感じるとか感じないとかって私が一番苦手としている分野で、そのことは龍樹ちゃんも分かっているはずなんだけどな。

「何も感じなかったなら良い。まあいずれ荷葉も気付くことになると思うしな」

 それって私が穢れや邪気の存在を感じることができる日が遠からずやってくるという意味だろうか。それは勘弁して欲しい。スピリチュアル云々が嫌いってのは言い換えればオカルトが苦手ってことなんだけど今更言えないよな。

 事件が片付いたのと那須女史からの重い恋慕から解放されたのとで気分が軽くなった龍樹ちゃんが清々しく笑う姿を見て私は複雑な気分になった。もしや私は龍樹ちゃんのことを? 違う、これは単なる吊り橋効果だ。と思いたい。


                          了

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