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第六章

【一】

 本殿横にある隠し通路は頻繁には使わないが、うちは自宅から社務所、社務所から社殿、能舞台が全て隠し通路や廊下、渡殿で繋がっているから便利だ。こんな間取りを考えた理由としては宮司が女性だった場合にうちの特色でもある正装の細長を着用することが大きいな理由のひとつだろう。

 裾を長く引く細長姿で外を歩くのは難しい。装束の素材は絹だが現代の和服に使われるものより生地が薄く洗いに出せないこともあり汚さないようにするという分かりやすい理由の裏に、細長を着るような身分の女性が外に出て顔を曝すようなことがあってはならないという古来の考えが残っていた時期に創建されたからだろう。

 通路を使用するのは能楽奉納の行事が無事終わるようにとの祈念を本殿で行った後に能舞台に移動する時と、夏の薪能で今日のように種火からおこした火を運ぶ時くらいだ。緩やかに下る隠し通路は細長でもスムーズに歩くことができる。暗いトンネルのような通路は少し進むと左右に分かれ右へ行くと拝殿横の木立の中で廊下に出て池の上の渡殿に繋がり最終的に能舞台の鏡の間の前まで行けるように設えられている。逆に左へ行くと社務所から自宅へ繋がる。私は本殿を出て右側から回って能舞台へと向かった。 

 宗家宅を出たのはお昼前で春の陽射しが明るかったが今は日の光が若干弱々しい。まだ早春だから十五時を過ぎると夕刻の気配が漂いはじめるのだ。薪能は真夏に行われるから日が落ちるのが遅くて篝火を焚いても暫くは昼の気配が漂っているのに、春だと同じ時間から上演が始まってすぐに真っ暗になるだろう。

 薪は鉄製の籠を取り付けた灯台の横に山のように積まれていて、火種を移す際に使う新聞紙もイザと言う時のためか幾分多めに用意されている。これらは叔母の采配だろう。私が不在の間、神事をひとりで担ってきたから叔母が言うように本当になんてことないんだろうな。私にはまだそんな風に軽く考えることができないから叔母には胆力と実行力があると認めざるを得ない。

 舞台の上から目の前の光景を見た私は今まで漠然としていた怪異への対応を現実のものとして捉えることになり肩の荷がどっと重くなったような気がした。叔母の胆力を分けてもらいたい程だが、もしダメだったらとは考えないようにした。

 始まる前から不安になっていては上手くいくことも上手くいかない。やらないよりはやってから後悔しよう。そう決意すると私は一旦鏡の間に戻り舞台裏を通って切戸口へと向かう。普段この舞台で能楽師が公演を行う際は舞台上で清祓い儀を執り行い祝詞の奏上と短い神楽を舞うが、今回は穢れを祓う為の舞なので舞台上での儀式は省略だ。その為に火種を作る前に本殿で祝詞を奏上してきたのである。

 切戸口の前には宗家を始め宗家が急遽声を掛けて集めて下さった地謡方三名と、囃子方の小鼓方と大鼓方が揃っていた。笛は言うまでもなく龍樹ちゃんだ。そこで綿密な打ち合わせを行う。一夜漬けで覚えたド素人の私が中之舞を舞うということで宗家が私の聞いた事のない能楽専門用語で色々依頼しているのを聞いていると、なんだか今この瞬間が夢なのか現実なのか分からなくなる。お能の幽玄さって始まる前から始まっているんだな。

 打ち合わせが終わると宗家に参拝客を早々に帰し山門を閉じるよう言われた。単なる娯楽の能舞ではないのと、舞った後に穢れがどんな動きをするのか分からないから一般人を危険から遠ざける必要があると言われて石を飲み込んだような重苦しい気分になりながら、それを聞いた龍樹ちゃんが外駆け出して行くのを眺めていた。

「山門閉じたぞ。念のため境内に人が残っていないか確認したけどゼロだ」

 龍樹ちゃんの報告を聞き、いよいよなんだと身体に力が入る。

「では菊花さん、始めましょうか」

 本来なら本番前に申し合わせというリハーサルをやるのだが祓いの儀式なので一発勝負だ。とは言えさすがに生の笛と一発で合わせるのは無理なので、笛を担当する龍樹ちゃんに頼んで社務所で一度だけ生の笛に合わせて舞ってみたが、頭の中で笛の唱和をそらんじていないと、たちまちどこを舞っているのか分からなくなるから恐ろしい。

 宗家の始まりを告げる声を聞いた叔母が行灯の中の火を薪に移す。薪の合間に着火剤代わりの新聞紙が混ぜてあるので火はたちまち燃え広がった。それはまるで龍のように揺れている。ああそうか、薪能は照明と同時に穢れを祓う火でもあるんだ。

「ではまいりましょう」

 私は深呼吸をすると意を決して切戸口をくぐり舞台の左側に斜右を向いて着座し、袴に差していた扇を出して右側に置く。その後、地謡方が私の後ろの着座し、更にその後に囃子方が鏡板の前に着座する。仕舞や舞囃子って誰が何番目に出るのかもキチンと決まっていてシテを務める私が一番最初に出て着座するんだけど、何せその後は私の後ろで起きてることだからいつから始めれば分からない。だがそこは能楽師がちゃんと心得ていて私の後ろで宗家が『はい』と言って合図を出してくれた。私は右側に置いた扇を自分の前に滑るように持ってくると要の部分だけ持ち上げて一句謡った。

「さなきだに人心」

 そこから地謡方が謡い出し私は立つまでのあいだ袴に手を入れて待つ。立つ合図は謡がある部分にきた時だ。だから耳だけダンボ状態で待つ。そしていよいよ立つ時が近付き、私は袴から手を出して扇を手に取ると身体の向きを大小前に向け下二居の型をしてから立ち上がった。正面の大小前に進む前にすかさず後ろの宗家が裾を直してくれる。地謡に続いて囃子方の演奏も始まり能舞台は突如華やかな雰囲気になった。

 能楽に使う楽器は、笛、小鼓、大鼓、太鼓の四種だけで番組によっては太鼓がない曲もあるが、地謡を含めこれが雛人形の五人囃子の原型と言われている。洋楽器に比べると地味な印象を抱くが、それはとんでもない思い込みで正に歌舞音曲とはこれなのかと思わされた。

 ただこんなことを考えられたのはほんの一瞬で、とにかく謡と笛の唱和を頭の中で自分でもそらんじながら一心不乱に舞い始めた。そうしていよいよ笛だけが頼りな中之舞に差し掛かる。その途端、身体が異変を捉えた。重い。とにかく身体が重かった。装束の重みではない。まるで空気に抵抗されてるような、空間に反発されているような、そんな感覚が付きまとう。

 私は見えない圧力に抗うように舞うが、あちらも屈する様子がない。もしかして、この見えない圧こそが穢れなのだろうか。穢れが祓いの舞を遮ろうとしているのかもしれないと思い至ると尚更負ける訳にはいかない。私は空気を薙ぐような気持ちで必死で舞った。今のところは見えない何かからの抵抗だけだが、この後これが何に変化するか分からないのが恐ろしい。

 穢れの本体が現れたとしたら一夜漬けで覚えた私の舞で祓えるのだろうか。それとも本体が現れること自体、穢れが社殿から離れたと受け取れる慶事なのだろうか。考えても全く分からない。そう思ったとき不意に周囲に白い靄が立ち始めて思わずぎょっとした。大小前の方に身体を向けた時に宗家や龍樹ちゃんを見たが彼らの表情は変わらない。見えていないのだろうか。でもあの二人は見えていたとしても平静を装いそうだ。

 白い霧は私を包み込もうとするように動く。なんとなくこれに取り込まれたら無事ではいられないような気がして、私はハネ扇の型の時にそれらを打ち払うように扇を強く振った。その所作の後、一旦は離れていった霧は諦め悪くすぐに近付いてくる。不思議なことに能楽師の方には一切近付かないから狙いは私なのだろうと解釈すべきなんだろう。私の舞に効果があってのたうち苦しんでいるのか、宮司だろうが所詮ド素人の舞には屈しないというアピールなのか判然としないけど、どちらにしても私の邪魔をしていることには違いない。

 確かなのは身体に感じる重さが段違いに酷いということだ。最初は空気の抵抗くらいの感覚だったのが、白い霧が現れてからは一足進むのにも全力で挑まなければならないほどに身体が重い。息も苦しく下手したら窒息死させられそうだ。その時ふと思った。この白い霧の正体は水なのではと。お社で祀る辨財天が水の神であることに思い至る。これは辨財天の怒りなのだろうか。神は確かに祟る。だが何に対して怒りを露わにしているのかが分からないし、ただこの考えが合っているのかも分からない。

 ただ人間は一度疑念に思うとそれを振り払うことができない生き物だ。だから私の中で辨財天の怒りかもしれないという考えはどんどんと大きくなっていった。そして同時に思う。これまでの怪異が全て神の怒りによるものなら私の舞では祓えない。いや祓うだけにはいかない。それはこのお社から辨財天を排除することに繋がる。そしてもし辨財天の怒りだったとして、それが不敬な振る舞いをした参拝客の所為だったとしても責任は宮司である私にある。神を敬い、慰め、怒りを静めるのが宮司の役目なのだから。

 その時、笛の音が一層強く鳴り響き私はハッとした。横目で龍樹ちゃんを見ると、その目が今は舞に集中しろと言っているのがハッキリと読み取れる。そうだ、今はとにかく舞だ。白い霧の重みで身体が悲鳴を上げ心が萎えそうになるが負けてはいられない。

 舞囃子はいよいよ終盤に入り私が一人で謡った後から地謡が入る。

『またこれ涼風 暮れゆく空に』

 お囃子のテンポが速くなったのは高貴な女性が鬼の本性を見せ始めた場面だからだ。終盤へ向かう中、空気の抵抗と白い霧にまとわりつかれた私の身体がその速さに悲鳴を上げる。けれど月の鏡という型をした後に不意に身体が軽くなったような気がし、足拍子を踏む時に足が軽々と上がったことで確信した。空気の抵抗が少なくなり白い霧が薄れていくのが分かる。舞が終わると能舞台からは不穏な圧が完全に消え去っていた。穢れを祓うことに成功したのだ。


【ニ】

 舞が終わると出演者は舞台に出て来た順序とは逆に切戸口から退出する。私が最後に切戸口を潜ると控えの間で宗家と龍樹ちゃん、それに地謡方と囃子方が正座で出迎えてくれた。みな清々しい表情をしている。

「よく頑張りましたね」

 宗家にお褒めと労いの言葉をもらい、龍樹ちゃんには髪をグシャグシャに掻き乱されながらよくやったと言われ、やりきった充足感を味わいながらも感極まった私は正座をし扇を前に置いて深々と頭を下げた。穢れの祓いが成功したのはこのメンバーがいてくれてこそだ。感謝しかない。だけどその喜びはまるで海の泡のように儚いものだった。穢れを祓うことに成功したと思ったのは私のひとりよがりでしかなかったのだと思い知らされたのは、舞終えてほどない翌日だった。

 翌日も私の生活は通常モードで始まった。社殿の清掃、参拝客向けの朝拝、その後に本殿での正式な朝拝、そして慌ただしく大学へ向かう。昨日はあまつさえ動きにくい細長姿だった上にその装束で穢れが作り出した圧や水を思わせる霧に挑むように舞ったこととその後の片付けで若干筋肉痛だが心は晴れ晴れとしている。

 今週末は例大祭だ。穢れも祓えたことだし例大祭に向けて心機一転準備に取り掛からなくてはと思いながら電車に揺られていると、誰かが耳元で囁いた。

―ゆるさないからー

 最初は聞き間違えか電車の中での誰かの会話かと思って辺りを見渡したが、混雑する電車の中で乗客はスマホやタブレットを見ているか寝ているかで、普段よりも静かなくらいだった。気の所為かと思い名古屋駅で地下鉄に乗り換える。するとまた耳元で囁かれた。

―なんでアンタばかりー

 悪戯にしては棘のある言葉に思えたけど見知った顔は今日に限って列車内にはいないから私の悪口を言っているとは思えない。

「疲れているのかな」

 ぼやきながら地下鉄を降り大学へと歩いていると、またしても囁かれた。

―上手くいったと安心しているみたいだけど、そう簡単に祓われたりしないわー

 さっきまでとは違いやけに具体的な言葉に私は思わず足を止めた。これは気の所為でも空耳でもない。明らかに私への悪意ある言葉だ。これまで怪異のみを起こしていた穢れが意思を持って私に話し掛けている。しかしこの恨みがましさは何だろう。やはり穢れは私を狙っていたのだろうか。そして何故か社殿から離れて私に憑いている。或いは社殿から恨みの念を送っているのか。

 何にせよこれは良い状況とは言えない。昨日の祓いの舞は成功したかに見えたが失敗だったのだろうか。しかもこれまでは社殿内のみで起きていた怪異が外部に漏れ出したのはただ事ではなく街中で怪異が起きる危険性がある。そうなったらどんな被害が起きるか、どれ程の人が被害に遭うか分からないだけに早急に手を打たなければならない。だが一体どんな策があるというのか。

 昨日、私は自分の持てる力の全てを使って祓いの舞を舞った。それでも祓えたのはたった一晩経つ間だけだったとしたら、いや祓えたと思ったこと自体が間違いだったのだとしたら打つ手はない。絶望感が私を襲い身体から力が抜けてしまう。ただひとつ絶望に打ちひしがれる中で気付いたことがある。さっきから私の耳元で囁いている声が菊花のものだということだ。

「どうして菊花が」

 穢れが私の心を攪乱する為にわざと菊花の声を騙っている可能性もあるが、もしあの声が菊花本人のものなら彼女が怪異の元凶なのだろうか。でも菊花が私や神社を恨む理由が分からない。恨みたいのは寧ろ私の方なのに。

「なんだ、今にも倒れそうな顔をして」

 後ろから肩を軽く叩かれ私は飛び上がって驚いたが、それが龍樹ちゃんだと分かると涙腺が緩み涙が一筋頬を伝うのが分かった。

「ど、どうした?」

 私は穢れが祓えなかったことを伝えようとしたが、もし口にしたら禍が龍樹ちゃんにも及ぶかもしれないと思うと恐ろしくて口を噤むしかなかった。

「なんだか昨日の緊張が今になって解けたみたい」

 まるっきり嘘ではない。龍樹ちゃんの顔を見て気が緩んだのは事実なのだから。

「昨日はお疲れ。今週末は例大祭だろ? 無事に開催できそうで良かったな」

 私は顔を伏せたくなった。今のままでは例大祭が無事に行えるとは思えない。いや、行えたとしても穢れが何をしでかすが分からない。宗家に中止の申し出をすべきだろうか。だが能楽奉納は辨財天への捧げ物で中止はあり得ないし宗家に中止を申し出れば穢れが祓えなかったことがバレてしまう。それは避けたい。

 私に稽古を付ける為に時間を割き、薪能の準備から地謡まで担ってくれた人にいま起きていることを悟られたくなかった。それは龍樹ちゃんも同様だ。笛で私を導いてくれた彼にもこの事態を悟られたくなかった。本当は素直に吐露した方が良いことは重々承知している。だが私の頭の中で様々な思いがグルグルと目まぐるしく駆け巡る中、何が正しいのか判断が付かなくなっていった。

 授業中もランチタイムも耳元でずっと囁かれる状態が続いた。その声はまるで地の底から響いてくるようなどす黒い怨嗟の声で、囁く内容もどんどんとエスカレートしていく。

―アンタなんて生まれてこなければよかったのにー

 それは私も同じだよと心の中で呟く。その呟きへの反発なのか次々と物騒なことを囁かれるが、その日はただ五月蠅いなとスルーすることができた。帰路で何かしら変異に巻き込まれるかもしれないと身構えながら帰宅したが、結局何も起きず肩透かしを食った気がした。だが、それはほんの序章にすぎなかったのだ。 

 翌日もそのまた翌日も私の耳元で絶え間なく菊花が囁き続けていた。初日こそスルーしたが、それがいけなかったのか声は耳元だけでなく頭の中に直接響くようになっていく。

―どうしてアンタなんかがお社を継ぐのー

―どうしてあの時、助けてくれなかったのー

 菊花しか知らない事実。それを言われると心が痛い。だけど同時に私だってあの事故で荷葉としての人生を捨てる事になってしまったのだからお互い様だろう。他人の人生を生きている私は生きた屍そのものだ。そうやって反発することでまるで倍返しのような酷い言葉が帰ってくる。分かっていても私は反発することで自分の心を守ろうとした。ここでこの声に負けたらあんなに一生懸命お稽古をして祓いの舞を舞った意味がなくなってしまいそうで、それを認めたくなかった。それにこの声が菊花だと決め付けることはできない。

 穢れ、つまり『あやかし』は他人の弱味に付け込むのが常套手段だし、その弱味をつぶさに知っているから弱味に付け込まれてこちらが参ってしまえば相手の思うつぼなのだ。それに例大祭のこともある。何とかこの禍々しい声を納めて無事に大祭当日に漕ぎ着けなければと焦り、だが恐らくそれが悪かったのだろう。私は自分がどんどん追い詰められていることに中々気付けずにいた。

―ママは私のものなのに、最後の最後にアンタを逃がすなんてありえないー

 その言葉を聞き私の脳裏にあの事故が甦る。あの時、確かに母は私に逃げろと言った。今まであまり深く考えなかったけど、どうして菊花を助けてと言わず私に逃げろと言ったのだろう? 

 車から焔が上がるまでの間は暗くてよく見えなかったけど恐らく父は即時状態で、母は重症だったろうけど私のことは確かに荷葉と呼んだ。幼い頃、私と菊花がわざと服を取り替えて入れ替わりゴッコをした時も母だけは双子を取り間違えることはなかったから、あの時意識は朦朧としていても確実に私を荷葉だと認識していたのだと思う。だからこそ菊花を助けず私だけ逃げろと言ったことに疑問が湧いた。

 幼い頃、私達双子は仲良しだった。まるでお互いがお互いの一部であるかのように常に一緒にいた。当時の菊花は明るく素直な子供で、その数年後にヒステリックに喚き散らし女王然として振る舞うなど想像できなかったほどだった。一体いつから激変してしまったのか、そもそもその切欠はなんだったのだろうか。

 菊花が私を責め立てる声は自宅でも続いた。神聖な社殿の中でも声がする事実に目の前が真っ暗になる。私の舞では祓うどころか逆に穢れを増長させてしまったとのだと思うと罪悪感に苛まされ、心が弱っていくにつれそれに同調するかのように私を責め立てる呪詛の声が生活と授業に支障が出るほどに大きくなっていく。

―あんたは私が死ねば良いと思ったのよ。ううん、私だけでなくパパとママの死も願ったんだわ。だからあの事故が起きた。あの事故はアンタの邪念が引き起こしたのよー

「そんなことある筈がないじゃない!」

 菊花がどんな態度であれ、そして両親が菊花だけを寵愛するのを見せ付けられていたとしても家族の死を望むなんてありえない。ましてやそんな風に望んだことが叶うだなんて。それはつまり私が三人に呪いを掛けてそれが成就したと言わんばかりだ。

「私にそんな力なんてない」

―そう? 人を呪えば穴二つと言うじゃない。今のアンタは正にその状況なんじゃないの?―

 菊花の言葉が心の中に澱のように溜まっていくのを強く否定しようとした。家族の死を願い、それが叶っただなんてあり得ない。必死にそう言い聞かせようとしたが私はハタと思った。私は本当に三人を恨んでいなかったのだろうか。三人の死なんて当然望んではいなかったし、神仏に三人の死を願う祈りなんて捧げたことはない。でも自分でも気付かないほどの心の奥底ではどうだったろう。もしかすると私は自分でも気付かないところで三人のこの世からの抹消を願ったのかもしれない。そんな思いに囚われそうになるのを必死で押し留めようと私はもう一度叫んだ。

「そんなことする筈がないじゃない!」

―そう言い切れるのかしら?ー

 私の心の中などお見通しとでも言いたげに勝ち誇ったような嘲笑が頭の中で響き渡る。その時、視界に龍樹ちゃんの姿が映った。私は彼に縋ろうとしたが、心が過負荷に耐えかねたのか視界が休息に暗転した。


【三】

 不意に意識が浮き上がる。夜明け前にウトウトとしているのが気持ち良い。目覚ましが鳴るまでしばらくこの感覚に身を任せよう。そう思った途端、何かがおかしいと気付き目を閉じたまま考えるうちに思い出した。私は学内で倒れたのだ。

 じゃあここは学内の医務室だろうかと恐る恐る目を開けたが、そこは全く見慣れない部屋で誰のものだか分からないベッドの上に横たわっていた。思わずガバっと起き上がるが頭と身体の節々が痛んで私は再びベッドに倒れ込む。

「目が覚めたか」

 現れたのは湯気が上がるマグカップを持った龍樹ちゃんだった。

「いきなり目の前で倒れたからビックリしたぞ」

 身体の痛みは倒れた時に廊下で打ち付けたからだと得心したが心は重苦しくなっていく一方だ。その時、俯いて無言の私の前にニュッとマグカップが差し出された。アールグレイの香りだ。

「ミルクティーだ」

 龍樹ちゃんがアレコレと聞いてこないのがかえって有難い。

「ありがとう」

 私はマグカップを受けとるとミルクティーを啜った。美味しい。アールグレイはストレートで飲むものだと言う人が多いが私はこの薫り高いミルクティーが大好きだ。こんな些細な嗜好を覚えてくれている龍樹ちゃんにいま起きていることを打ち明けえるのも悪くないと思えてくる。そもそも彼は既に当事者なのだから。だけど先に口を披いたのは龍樹ちゃんの方だった。

「お前、荷葉だろ?」

 時が止まったような気がした。私の本来の名前を呼ばれたことに思考が追い付かない。そのかわりに涙が溢れ出し私はそのまま声を上げて泣いた。泣いて泣いて泣きまくる間、龍樹ちゃんは私の背中を優しくさすってくれてそれがまた涙を誘う。時間にして十分ほど泣いた私は、しゃくり上げながら声を絞り出した。

「いつ気付いたの?」

 龍樹ちゃんは少しだけバツの悪そうな顔をする。

「最初に気付いたのは親父なんだ」

「叔父さんが?」

 そう言えば長期出張中とかで実家に帰ってから一度も会わないままだ。

「あの事故の後、退院する時に親父達と迎えに行っただろ?」

 そうだった。叔父だけでなく土師家総出で病院に迎えに来てくれたっけ。あの時に既に気付かれていたんだと思うと複雑だ。だってその時に私が荷葉だと証言してくれればこんなに苦しまなかったのに。

「済まないことをしたと思っている。ただ親父の勘だけでは確信が持てなくて」

 ちなみに龍樹ちゃんが気付いたのはキャンパスで再会した時だそうだ。叔母も一緒に暮らし始めて違和感を抱いたらしく既に気付いているのではないかとも言われた。なんだ、みんな知っていたのか。私だけが怯えながら菊花のフリをして暮らしていただけなんて間抜けな話しだ。

「俺達家族に失望したか?」

 私はどう答えるべきか迷った。失望と言うよりはガッカリしたと言う方が正しい。それは龍樹ちゃんをはじめとした土師家に対してではなく自分に対してだ。

 考えてみれば他人に成り済ますなんて無理な話なんだよね。例えば人を殺して殺した相手と同じ顔に整形して成りすまして暮らすなんて小説や映画の世界だけのことで、実際には身体に染みついた癖を簡単に変えられる筈がない。私も菊花のように振る舞おうと努力はしていたけど、思い返してみればあんな風に振る舞えるはずもない。菊花ちゃんは変わったわねと言われるのも道理で、それは言い換えれば菊花ではないと言われていたようなものだったのだ。

「済まない、意地悪な質問だったな」

「ううん、他人に成りすますなんて無理だっただけのことだよ」

 暫く沈黙が続いたけど、これはひとつの区切りであることには違いない。荷葉だとバレていたと分かっても明日からは荷葉として生きるなんて物理的にできないけど、私は少しだけ肩の荷が降りたような気がした。そして少し安堵すると今度は私を罵倒し続ける菊花の声のことが気になり始める。私は龍樹ちゃんに祓いの舞の翌日から私の身に起き始めたことを話した。

「菊花の恨みか…… 心当たりはあるのか?」

 私は菊花とは幼い頃はいつも一緒にいたことから、ある日突然彼女がヒステリックな女王様となって山奈家に君臨したこと、そして事故の時に谷で見た青い菊を含めた異様な光景のこと、母が菊花ではなく私に逃げろと言ったことを話した。

「私と菊花は後部座席にいたんだけど、私だけが外に放り出されていたの」

 でも菊花も車内で生存していた。だからこそ母の言葉は意外だった。菊花が豹変した後から上にも置かない扱いをした上に神社の跡継ぎにと決めた菊花の方こそを助けようとする筈なのにと違和感を持ったのは最近だ。

「俺も菊花が変わった後に会った時、いきなりどうしたのかと思ったけど」

 菊花が変わったのは小学生の高学年頃だったろうか。

「そもそも、どうしてあんな風に突然豹変しちゃったのかなって思うんだよね」

 そして現在の恨みがましい声。幽霊とか怨念だなんて眉唾物だと思っていたけど、現在進行形で体験してしまっているから信じるしかない。ただ、このままにはしておけない。原因を探って私が祓えないなら恥を忍んでそっち方面に明るい神職や霊媒師にでも依頼しなければ神社の存亡にかかる。

「俺の考えを話して良いか?」

「勿論」

 龍樹ちゃんはどう言おうか少しだけ逡巡してから話し始めた。

「俺が思うに荷葉の祓いの舞は成功したと思うんだ」

「その根拠は?」

「社殿に取り憑いていた穢れは荷葉の舞で取り憑いていた場所から剥がされて荷葉の周りを漂っているからこその今の状況じゃないのかな」

 龍樹ちゃんの言葉は一理あるが、あの祓いの舞が半分しか効力を出せなかったと思うと私は自分の不甲斐なさに打ちひしがれた。

「そう落ち込むなよ。効果が出たのは確かなんだし」

「私に憑いているなら堂々巡りだよ」

 社殿に取り憑いていた穢れが菊花の怨念だとしたら彼女の目的は私だ。菊花は私を取り殺そうとしているのだろうか。でも何故?

「俺は一人っ子だからよく分からないけど、死に別れる直前に喧嘩したとかはないのか?」

 姉妹ならどこの家庭でも喧嘩くらいはするだろう。うちは少々特殊だから普通の家庭には当てはまらないけどこれだけは言える。恨みたいのは寧ろ私の方だってことだ。

 けれど穢れと化した菊花に私の言い分は通用しない。彼女はただ自分の執着心に従って動いているだけだから説き伏せることも難しい。もはや何を言っても聞いてくれる相手ではなく強制的に排除するしかないのだが、策が尽きた今となっては空虚な気持ちを持て余すだけだ。

「薫衣大辨財天社にまつわる謂われとか、代々語り継がれたきた伝説がないかお袋に聞いてみたけど、特に思い当たることはないそうだ」

 そりゃそうだろう。私だってうちにまつわる伝説なんて聞いたことがないし、そういう話って案外当事者が知らなくて外からの噂で知る事が多いけど、そんなものはチラっとさえ聞いたことがない。まったくもって人畜無害の神社なのだ。

「ただ、お袋が言うには山奈家は女系だそうだ」

「そうなの?」

 それは初めて聞いたかもしれない。確かに母が宮司を務めていたから父が養子だってことは分かっていたけど、祖母や曾祖母の時代のことは聞いたことがない。思えばそういった先祖代々の話しは暗黙の了解で避けられていたような気がする。無論、私だけが聞かされていない可能性もあるけど。

「で、悪いとは思ったけど蔵の中から古文書を借りてきた」

 龍樹ちゃんは変色しかけている和綴じの古文書を数冊私に差し出した。蔵の管理はほぼ放置われていたものの最近は私が蔵に出入りし管理を始めたからうちの神紋が入っている表紙には見覚えがある。

「私しか管理していないから構わないよ」

 そう言いつつ管理しつつも整理は追い付ず文献の中身までは見る余裕がなかったなと思いながら古文書を受けとってパラパラと捲るとそれは家系図だった。古文書を読み解くのは得意な方だけど、そこには流麗な女性の手跡で仮名文字が躍っており何代かに分けて書き加えられてきたものだと推察できた。

 斜め読みで新しい方から古い方へと読み進めていくと代々の当主の名が書かれているのが分かったが、当主の名しか記載がないから恐らくこれは略式の家系図なんだろう。辛うじて曾祖母からは夫の名前の記載があるが、この家系図に山奈家の秘密が隠されているとは思えない。別の古文書も中を改める。頁ごとに手跡が違うからこちらも代々の当主が引き継いできたものなのだろう。だが頁を捲るうちに気になる記述を見付け手を止めた。墨の色から比較的新しい書き込みだと思われる。

『辨財天生まれうつろふ際は双子の片割れにて生を受く。さらばあかき魂の片割れは災厄を受くるならむ。ただ生まれうつろひのころは定かならず』

 どういう意味だろう。この文章を単純に現代語訳すると、辨財天が生まれ変わる際は双子の片割れとして生を受けるが無垢な魂の片割れは災厄を受ける。ただ生まれ変わりの時期は定かでない。という意味だけど、ダブルミーニングやアナグラムのようなものなら古文だけに解読は難しい。

「どう思う?」

 龍樹ちゃんにそれを見せるも彼は困惑した表情を浮かべるだけだ。もし文章通りに受けとるなら辨財天が双子の片割れとして生まれ変わると受けとれるが、神が生まれ変わるなんてことがあるのだろうか。それに双子の片割れとして生まれ変わるなら辨財天の魂を持って生まれた嬰児はどうなるんだろう。人間として成長し唐突に神として覚醒するのか、それとも赤子の魂を転生の糧として喰らい、母体から出た後は嬰児は端から母胎に存在しなかったことになるのか、もしくは死産として扱われ葬られるのか。

 私はそこまで考えるともう一度家系図を見直す。行きつ戻りつするうちに残酷な仮説に行き着いたが、自分の推測ながらあまりにおぞましくて何度も何度も自問自答を繰り返した。だがこの仮説が正しければパズルのようにバラバラだった謎がひとつの答えをもたらしてくれる。


【四】

 その日、私は龍樹ちゃんのマンションに泊まった。倒れた時に医学部にいた医師に診てもらった結果、軽い脳震盪と全身の軽い打撲と診断され帰宅を許されたものの、成瀬市までの移動を心配した龍樹ちゃんに今晩は安静にしてくれと懇願されたからだ。私を心配してくれているのが分かったから大人しく従ったけど結局は二人で遅くまで山奈家に関する様々な推測や仮定を話し込み、翌日は寝不足なまま大学へ行った。

 寝不足の頭で昨夜話した内容を考えながらキャンパスを歩いていたらそんな私を見付けた藤乃と華子に抱きつかれて私は思わず悲鳴を上げる羽目に陥る。

「び、びっくりしたー」

「もう大丈夫なの? 目の前で倒れるから生きた心地がしなかったよ」 

 と、半泣きなのは華子。

「家業と学業で無理しすぎなんだよ」

 とは、藤乃。

 彼女達からしたら私はまだ菊花だけど私はこの二人の思いやりが本当に嬉しくて強く抱き返した。三人で抱き締め合う姿は行き交う学生達の目にかなり異様に映っただろうけど人の目なんてどうでも良い。

「心配かけてごめん。もう無理はしないから」

 昨日、龍樹ちゃんに荷葉だとバレたからか、まだ怪異は解決していないけど私の心は昨日よりも軽くなっていた。この二人の女友達は菊花か荷葉かではなく私を私として見てくれている。それがただただ嬉しかった。

 相変わらず菊花の声は私に纏わり付いていけど、なんだかその声が昨日までとニュアンスが変わったように思える。上手く言えないけど私がこれまで心の中で発していた『助けて』『気付いて』という声に連動したかのようなものに聞こえた。

 これは今この瞬間に自分が孤独ではないと自覚した故の変化なのか、それとも私に纏わり付く穢れに何か変化が起きたのかどちらなのだろう。そんなことを考えながらもその日は無事に授業を終え、心配する龍樹ちゃんを宥めて私は成瀬市の自宅へ帰宅した。

 帰宅後は慌ただしく夜の奉仕を終わらせると食事もそこそこに蔵へ入る。幸か不幸か蔵には高窓がひとつあるだけなので電気を通してある。それを良いことに蔵の中に籠もった。龍樹ちゃんに見せられた古文書以外に何かあると思ったのだけど、個人所有の古文書なのでタイトルが付いている訳でもなく、また自分自身が何を見付けようとしているのか分かっていないから片端から中をチラ見しては横に置く。

 和綴じの古文書以外に巻物まであり、これを読み解ければうちが創建された時代も特定できそうだけど今はそれどころではない。私は適当に選んだ巻物を手に取ったが上下から付箋が飛び出しているのを見付け、これこそ探し求めていたものだと確信して慎重に開いていくと、それは龍樹ちゃんが持ち出したのと同じ家系図だった。

 こちらの家系図は和綴じの家系図より記述が細かい上に長い。和紙を何枚も繋げてあり変色具合からかなり古い文献だと推察されるが貼り付けられている付箋は近代のものだ。ここ十数年の間に蔵の中の巻物を調べた人物がいるのは明白だったけど意図は分からない。

 巻物を全て開くと自然と付箋に目がいき驚愕した。そこに記されている字は紛れもなく母の手跡だったのだ。筆で書かれた女名の横に母の付箋。何を調べていたのかと気になったが、その付箋には数字が二段に分けて書かれているものの特に注目すべき点はないような気がする。母はただ単にこの社が創建された時期を調べていただけかもしれないと思ったが、よく見ると約二百年から三百年ごとに双子の女児が生まれていることに気付いた。そしてそこに母の付箋が貼られている。これは何を意味するのか。

 私はその巻物を隅から隅まで眺め、そしてあっと声を上げてしまった。和綴じの方には書かれていなかったけど、こちらの方には夫や息子の名前以外にどこから婿を取ったのか、そしてどこへ養子に出したのかまで細かく記載してあり、どこのどんな血筋が山奈の家に流れているのか一目瞭然だった。

 どうやら山奈家は血族婚を繰り返してきたようだ。だが目を引いたのは若くして死んだ人物と思われる名が縦線で消されていることだった。しかもそれが全て双子の片割れなのだ。名前があるから早世しただけだと思われるが、当主となるべき双子の片割れだから死産でも名を付けたのかもしれない。どちらにせよ亡くなった人を全て線でしてしまったら人間いずれは必ず死ぬのだから家系図は縦線だらけになってしまうし、現に男性陣は家から出たと思われる人物も誰一人として消されていない。

 昔は七歳までは神の子と言われていたと聞いたことがある。医学も今のように発展しておらず風邪でも死ぬことがあったような時代なら生まれた赤子が容易に亡くなることは多々あっただろう。だけど双子の片割れだけが亡くなっているのは不自然だ。更に異様だったのは双子で無くなっているのは出産をしている事で、生まれた子を生き残った方が養子として育て次代当主にしている点だった。つまり双子の片割れは早世ではないのだ。

 家系図は一巻では全てを書き切れなかったようで途中で途切れている。私は積み重ねた別の巻物を広げたがそれに繋がるものを探す出すのに手間取り、結局他の巻物にも貼られているであろう付箋を頼りに目当てのものを探し、結果的に家系図を記した巻物は五巻あった。五巻ある巻物を全て床に広げた光景は壮観でパッと見ただけで貴重なものだと分かる。ただ歴代当主の名はそれほど重要なものには思えず私は母が貼った付箋に全神経を集中させた。

 付箋に書かれた数字には必ず意味があるはずだ。最初に解けたのは延暦とか永久と書かれている一番上の段。これは年号だろう。ただこの記載には『?』マークもある。それがうちの香木と蘭奢待に関係するものだと思ったのは蘭奢待が唐から運ばれた年代に諸説ありその年号と一致するからだ。ただ、その年号と数字が当主の生まれた年なのか亡くなった年なのかは分からない。

 二段目には○〜○歳?とあり、これが亡くなった年齢だとすると一段目の数字は生まれた年ということになる。逝去時の年齢に関しては疑問視する点はなくその時代の大凡の平均寿命だった。特質すべきこととしては何代かに一度は双子が生まれていること。双子で生まれるのは必ず女児であること。姉と妹の隔てなく宮司を継がせていることだろうか。

 何をもって跡継ぎと決めたのだろう。私と菊花の場合は菊花が豹変した後に望んだからだが神社を継ぎたいと言ったところで両親が請け合ってくれない場合を想定してスピリチュアル云々と喚き出した可能性もある。けど家系図の双子達がどうだったのかを考えると、ただ喚き散らしただけで跡継ぎにしてくれるのだろうかという疑問が浮かぶ。

 過去はともかく現在は小さな家族経営の神社だがそれでも経営のセンスは必要である。あの菊花にそんなセンスがあるとは思えないし、私を補佐に付けたとて彼女の傍若無人さが消えることなどないことは両親も分かっていた筈だ。なのに何故菊花を跡継ぎにしたのだろう?

 龍樹ちゃんのマンションで読んだ文章とその時思い付いた残酷な仮説が脳裏に浮かぶ。不死である筈の神が人間の女性の腹を借りて生まれ変わるのが本当だとしたら双子のどちらかが後継になることを望むのではなく、辨財天が後継を選んでその魂に宿るとは考えられないだろうか?

 選ばれた嬰児は辨財天の魂を受け入れた瞬間からその命を蝕まれるとしたら、そして神の魂を宿した嬰児が生まれ体内の辨財天に尚も糧を供給し続けていたとしたら? 神に乗っ取られた身体は神の強い気に耐えられず早々に衰弱するか或いは発狂するのではないのか。もしそうだとしたら菊花が突然おかしくなったあの姿こそ正に神に乗っ取られた姿なのかもしれない。まるで托卵だ。

 神は時に残酷だ。だから私の推測はあながち間違ってはいないと思う。そしてそういう兆候があると代々言い伝えられていたとしたら両親は菊花こそが辨財天の魂を宿した娘として跡継ぎに決めたと言えるだろう。ただ、そうなると事故の際に私を助けようとした母の行為が分からない。

 私は再び巻物に目を落とすと更に奇妙な点に気付いた。初代当主と思しき女性は双子ではなく名は能子と記載されているが、その箇所で終わるはずがそれ以前にも系譜があるように思わせる線が巻物の左端へと続いているのだ。その線は巻かれて糊付けされた先へと消えているが、よく見ると本来は糊付けされている筈の場所にマスキングテープが貼られていることに気付いた。

 誰かが巻物を見ているうちに糊が剥がれたから慌てて修復したのだろう。何にせよマスキングテープも現代のものだ。しかも剥がれやすいマスキングテープを使っていることも気になる。私は爪先で注意深くテープの先を擦るとテープの先が剥がれて浮き上がる。和紙が破れないよう注意深くテープを剥がすと巻物には続きがあり更なる過去へと続く系図が現れ私はゴクリと唾を飲み込んだ。これ以上は関わらない方が良いような気がする。でも避けて通れば絶対に後悔し何故あの時この系譜を調べなかったのかと後悔するだろう。私は意を決して件の部分に目を落とした。

 初代と思しき能子から更に時代が下った先の一番最初に書かれているのは溟子という名だ。更にその下に線が伸びておりそこには【山奈の女】と記載があるがこれは溟子と山奈家は別モノという意味なのだろうか。隠されていたのは溟子と山奈の女の部分だが、母はそれに気付いたのだ。更に母の付箋はこの【山奈の女】の部分に集中して貼られていた。

 糊が剥がれてしまうほど何度も巻物を見たのは母だ。そして後に見付けられるよう敢えてテープで仮留めしたのだろう。母の付箋には数字以外の疑問点が書かれているが気になったのは『神か悪鬼か』とあることだ。無垢な魂には悪鬼が取り憑くと聞く。ましてや神の命を宿した嬰児ならさぞ美味だろう。そこまで考えた時、不意に灯りが落ち暗闇に包まれた。


【五】

 停電だろうかと思い私は蔵から社務所へ戻った。社務所にも電気は通っているけど、敢えて行灯の灯りだけ灯してあるからボンヤリと室内が見渡せる。私は社務所にある懐中電灯を持つとブレーカーを確かめにいった。ブレーカーが落ちるほど電力は使用していないが、蔵に長時間籠もるのは初めてだったので念の為だ。だがブレーカーに異常はない。

 町の灯りはどうなっているだろうと思い外に出て三の鳥居まで行くも、階下に広がる町の灯りは都会ほどではないもののキラキラと輝いている。

「うちだけ電気が消えた?」

 おかしなことがあるなと思いながら癖でつい星を見ようと空を見上げた瞬間、私は固まった。空は真っ赤でまるであの事故の時の焔の色のようだ。私は過去の文献で読んだ幻日のことを思い出した。幻日とは赤気とも呼ばれるオーロラで日本のような中緯度で見られるものは赤く扇形の構造を示すとあったっけ。それがいま眼前に広がっている。赤日と呼ばれるだけあって空は赤のグラデーションで染められているが血を連想させる色は不気味で不吉なものにしか見えない。

 半ば呆然とその光景を見つめていた私が背後に何かの気配を感じ振り帰ると土が水泡のようにボコボコと泡立っていた。地震の前触れかと思ったが土の水泡はどんどんと大きくなっていき、やがて人の形を取り始め土人形となった。それらが私を追い詰めるようにゾロゾロと近付いてくる。彼らに目鼻口はなかったが地底から響くような唸り声を上げていて怯まずにはいられない。その瞬間、土人形達がサッと左右に分かれて道を作りそこに白猫が現れた。

 話しには聞きつつも私の前には一向に姿を露わさなかった白猫の姿を見て身体に悪寒が走る。この猫はただの野良猫ではないと本能が伝えている。猫の姿がボンヤリと揺らぎ人の形を取り始めた時、私の頭の中に激しく警鐘が打ち鳴らされた。本能が逃げろと言っている。だけど私の足は地面に縫い止められたかのように動けなかった。

 そんな私の目の前で白猫から人の形へと変化したものは菊花の姿になった。白猫に菊花の霊体が入り込んでいたのだろうか。ふと龍樹ちゃんの言葉が甦る。祓いは成功した。だが剥がされた穢れが私の周りにいる。それはこういうことだったのかと思うのと同時に菊花が穢れの元凶あったことに動揺が隠せない。

 菊花の顔の半分は悪鬼の如く陰惨なものだが半分は慈愛に溢れている。それが私を混乱に陥れた。何故、菊花が穢れになってしまったのか、何故、今になって私の前に現れたのか。目まぐるしく考える間にも菊花が無言で私に近付いてくる。逃げようと振り返るもそこは石段の一番上だ。躊躇う私の一瞬を付いて菊花は私を激しく突き飛ばした。私の身体は大きくよろけ階段から落ちまいと何かを掴もうとする手は空を切る。

 もうダメだ! 私は階段から落ちる衝撃を思い目を閉じた。だが衝撃は別の形でやってきた。水だ。私は階段ではなく水の中に落下した。落ちとすぐにそれが海水だと気付く。しかも確かに水の感覚を感じるのに息は苦しくない。まるで大きな水泡に包まれているようだ。

 だが、そんなことを考えていられたのは一瞬で、すぐに菊花が私の目の前に現れ私の首に手を掛けると強く締め上げてくる。尋常ではない力で締め上げられて意識が遠のく中、私は必死に菊花に問い掛けた。

「何故、私を恨むの? 恨みたいのは私の方なのに」

『黙れ、私のモノになるはずだったものを全て奪っておいて』

「私が何を奪ったと言うの?」

 その時、菊花の顔が慈愛に満ちた表情になる。途端に菊花の口が金切り声を上げる。

『邪魔をするな!』

 なんだろう、菊花の中に菊花以外の別の誰かがいるような気がする。菊花は私を絞め殺そうとしながらも自分の中にいるもう一人の誰かと戦っているかのようだ。そうこうするうちに再び菊花の表情が鬼の形相になり首を締め上げる力が増す。もう限界だった。水泡に守られていてもこんな人外の力で首を締められては絶えられるはずがない。菊花の手から逃れようと彼女の手首を掴んで引き離そうとするもビクともせず私を絶望の底に落とし込んだ。

『私だって細長を着たかった。香木にも触れたかった。本殿にも入りたかった。能舞台で儀式をしたかった。大学にだって行きたかった。それを全部お前が奪ったんだ!』

 私は愕然とした。菊花は今の私の境遇を本来は自分のものだと思っているのだ。いま私がしていることは能楽奉納以外は母がやっていたことで菊花は母のそんな姿を見て憧れを抱き神社の後継者になりたいと思ったのだろう。けれど彼女の言っていることは綺麗に着かざって目立ちつつ優雅に香木に触れる楽な面ばかりだ。経営や大祭の準備は? 能楽師との打ち合わせは今となってはスムーズだけど、西桃の宗家を説き伏せ初対面からの打ち合わせはとても神経を使った。大学受験だって甘くない。そんな苦労を知りもしないで綺麗で楽な部分だけを見て自分勝手にそれを奪ったと私を恨むなんて筋違いだ。そんなのただの僻みでしかない。

「ふざけないで、甘えるのも大概にしてよ!」

 私は声にならない声でそう叫ぶと首に絡まる手の力が緩んだ。菊花の表情が再び和らいでいる。そこを逃さず菊花から逃れようとするも、すぐに元に戻った菊花に足を掴まれた。

「いや、離して!」

 足掻いても菊花の手はビクともせず今度は私の身体を抱き止め後ろから首を強く締め上げてくる。痛いのと苦しいのとで悲鳴を上げようにも苦しくて声にならない。ギリギリと締め上げられそれがまた緩まる。そんなことを何度も繰り返すうちに自分の体力が尽きかけているのが分かった。抗うのが面倒になるほどに意識も遠のいていく。

 そんな中で私は必死に考えた。悪鬼となった菊花の中のいると思しきモノは何者なのだろうかと。交互に現れる凄惨な表情と柔和で慈愛に満ちた表情は何を意味するのだろう。家系図の隠された部分に書かれた溟子とは何者なのか。溟子は怪異に関係あるのだろうか。そもそも溟子はなぜ存在を隠されていたのか。

 苦しさで考えが纏まらないもののこれだけは確信できる。菊花の顔をして私を屠ろうとしている人型のモノの中には二つの人格が存在するのだと。そして霊体だからか内側にいる何者かの力なのかは分からないが霊力は半端なく強い。もしかして菊花の中にいるのは辨財天? でも悪鬼となった菊花と拮抗しているモノが辨財天だとしたら神の力をもってしても御せないほどに悪鬼は手強く私が助かる術はない。

 私は楽になりたくて首を締め上げる手を引き離そうとしていた腕から力を抜いた。そうすることで首を締め上げる力が更に強まったけど、これまでの怪異のこともあってほとほと疲れ果てており自分の命さえ投げ出したくなっていた。

 このまま死んでしまった方が楽になる。こうして最悪の結果になってしまったのも私の力不足の所為。そう思うと私が宮司でいることの意味が分からなくなる。もう良い。今更ああすれば良かったとか自分の無力さを嘆いたところでどうにもならない。でもせめて悪鬼は道連れにしなくてはと思い直して私は力を無くした腕を気力で引き上げた。

 こんな弱い力で悪鬼を水底まで引きずり込めるか分からないけど、こいつが私の命を欲しがるなら私を贄にして封じるしかない。そんな事が今の私にできるのか疑問だけど私が水底に沈めば追ってくるに違いない。私は弱いなりにも渾身の力で菊花の霊体を抱き締めた。そういえば菊花と最後に抱擁を交わしたのはいつだったっけ。そんなことがボンヤリと脳裏に浮かぶ。

 私は菊花を中心に回る家庭の中で孤独を抱えて育った。けれど菊花もまた成仏できないまま社殿に取り憑き、今を生きる私を見て私と同じ孤独に苛まされたのかもしれない。しかも最後の最後に母に見捨てられたと思い込んでいたとしたら、そりゃ私を恨みたくもなるだろう。どういう意図で母が菊花を見捨てたのか、そもそもその理由が何なのかは分からないけど多感な年頃だっただけに菊花のショックは計り知れないと推察できる。

「良いよ、一緒にいてあげる」

 私は菊花の耳元にそう囁くと自らの意思で水底へと身体の向きを変えた。私を包んでいる水泡は私の意思に応じてくれたのか下へ下へと導いてくれる。叔母に薫衣大辨財天社のことをお願いしますって言いそびれちゃったなと思ったその時、龍樹ちゃんの絶叫が水を震わせた。

「荷葉、早まるな! 頼む、一緒に詠唱してくれ!」

 詠唱って何を? と思った瞬間、龍樹ちゃんと知らない女性の声が重なり合った呪文のようなものが水を振動させる。

「朱雀・玄武・白虎・勾陣・帝久・文王・三台・玉女・青龍、和光利物・悪鬼退散・ 急急如律令!」

 これは九字だと悟ったその時、白銀の稲妻が菊花の霊体を貫き吹き飛ばした。断末魔が上がるのと同時に消えゆく菊花の手から解放された私は水泡ごと海上に登っていき、やがて水中から顔を出すと真っ青な顔をした龍樹ちゃんの手によって水から引き上げられた。

「遅くなって済まない」

 私は何が起きたのか分からなくて困惑するばかりだ。

「どうしてここに?」

「こいつが知らせてくれた」

 龍樹ちゃんの肩に白い小さな蛇が乗っかっている。説明されるまでもなく白蛇は辨財天の遣いだ。辨財天が私の危機を龍樹ちゃんに知らせてくれたのか。でも白蛇の姿が見えたばかりか稲妻で菊花の霊体を刺し貫くなんて龍樹ちゃんは一体何者なの?

「実は親父、陰陽師なんだ」

 陰陽師って安倍晴明のあれ? 叔父が陰陽師だなんて気付かなかったけど龍樹ちゃんが陰陽師の血を引いているのかと思えば九字の効力にも合点がいく。ただ、もっと早く力を発揮してくれたら良かったのに。

 視線を動かすと三の鳥居の周囲の土人形は姿を消しあの白猫だけがキョトンとした顔で座っている。その猫に龍樹ちゃんの肩に乗っていた白蛇が入り込んでいく様を見てこの猫は今この瞬間から辨財天の遣いになったのだと悟った。


【六】

 異変に気付いた叔母が駆け付けたが私は立っているのがやっとで説明は龍樹ちゃんがしてくれた。やがて騒ぎが治まると抗えないほどの眠気に襲われ私は龍樹ちゃんの手を借りて寝室に引き上げる。そして不思議な夢を見た。

 横たわる私の頭上に誰かいる。見上げると柔和な表情をした菊花が私を見下ろしていてこれは夢だと確信できた。

『此度は妾が迷惑を掛け済まなかったのう』

 声は高くも低くもなく、ても厳かで心が洗われていくようだ。私は眠りながら精神世界の中で菊花であり辨財天でもある彼女に詳細な説明を求めた。双子のこと、今回の怪異、ついさっき起きたこと、菊花のこと、更に言えばこの社に祀られている辨財天のこと、溟子と山奈の女とは何者なのかなど、あまりに分からないことが多すぎる。

『何から話そうかのう』

 神様でも逡巡するのかと可笑しく思ったが神でも悩むほどに薫衣大辨財天社で起きた怪異は複雑怪奇なことだったのかと考え直すと恐怖が込み上げてくる。そんな私の心の中を読んだのか辨財天は家系図のことから話し始めた。

『溟子とは妾のことじゃ』

 ちなみに初代当主の能子はヒロコと読むそうだ。

『この社が蘭奢待伝来と同時期に創建されたのは事実じゃ』

 船で渡来した蘭奢待とは違い琵琶の形をした香木は遙か遠くの大陸から海を漂いこの地に辿り着いた。それは辨財天の意思であり、その意思を汲み取ることのできる巫女や神職、陰陽師達の手によってこの地に運ばれた。

「どうしてこの地に?」

 蘭奢待が伝来したのと同時期なら諸説はあるものの日本は奈良時代か平安時代である。尾張国は土地が肥沃な大上国だったとされるし、この地方には皇族縁の伊勢神宮や熱田神宮があるが都から見れば僻地だろう。

『ここに山奈の者がおった故』

 つまり海を渡ってきた辨財天は山奈家を終の棲家と決めていたと受けとって良いのだろう。でも何故うちに?

『理由などない。ただ妾がいた外つ国へまで清浄な気が届いておったからのう。その清浄な気を求め気付けば海を渡っておったまでじゃ』

 神様の行動原理はとてもシンプルなのだ。

「何故、辨財天ではなく溟子と?」

『山奈の者が家系図に妾の存在を記したいと申したが神が先祖と知れては朝廷から攻撃を受けるやもと思うてな。それ故に溟子と記させた』

 香木の中で安寧の日々を送り始めたが、あろうことか香木の香りが薄れてしまったと辨財天は語る。それは神力が弱まりつつある兆候で辨財天は策を講じ自らの神力を誰かに預け転生してそれを受け取ることにした。とは言え神の力を一時的にでも受け止められる人間などそうはいない。そこで現れたのが山奈の女だ。

『その女は山奈家の神職でのう。妾の力を受け止められるかは掛けであったが、その娘は命を賭しても妾を守りたいと申してのう』

 それで一か八かで女に神力と己の魂を預け十月十日後に女は女児を無事出産し能子と名付けられた。

『だが妾は気付かなんだ。妾が女の子宮の中でまどろんでいるその一瞬の気の緩みを穢れに悟られ取り憑かれたことに』

「じゃあ能子さんはどうなったんですか?」

『能子は無事じゃ。だが妾の転生が不完全なものになってしまった』

 辨財天は一旦は神力を取り戻しその魂は山奈家に出入りする職人が彫り出した二臂の辨財天像へと移ったが、二百年後に再び香木の香りが薄れてしまった。そこで転生が不完全なものだと悟ったと辨財天は淡々と語る。

『香木の香りが薄れる度に妾は転生せねばならなくなったが、その時なぜか双子が生まれるようになった。恐らく山奈家の女の無意識の自衛なのだろう』

 穢れを引き受ける者と健康で生まれてくる者を分離したという意味だが、そんなことが無意識にできるものなのか。だが実際に不定期ながらも双子が生まれているのだから真実なのだろう。双子が生まれどちらかが懐妊する度に穢れもそのまま引き継がれてきたのだ。ここで疑問が浮かぶ。

「でも菊花は妊娠していなかった」

『それじゃ。今回はこれまでと違い双子の片割れが懐妊する前に異変が起きてしまった。不完全なままの転生を繰り返してきたが遂に限界が訪れたと思うた』

 その異変とはつまり跡継ぎを決める際の兆候と思ったものが実は穢れに犯された証だったと言う意味だ。

 双子の終焉はどの時代も同じだったらしく懐妊直後に人が変わり周囲で怪異が起きる。そして出産後に自分の分身たる姉妹の片割れを屠ろうするのだ。懐妊したことで穢れが活発化するのは人間が神の魂を育むことで母体の生気が弱まるからだろう。そしてその穢れは辨財天の消滅を願っていたとも言える。だが今回の変事では菊花は懐妊しておらず辨財天もどんな悲劇が起こるのか予測できなかったと言う。

『妾は度重なる悲劇を止めようとしたのじゃが力が及ばなかった。此度も同じ悲劇を繰り返すかと絶望したが龍樹と言うたか? そなたの従兄姉が妾の力を補ってくれたのじゃ』

「もしや石段が海になったのと九字は」

『妾じゃ』

 あの海は石段から転げ落ちないよう辨財天が神力で私を受け止めてくれたのか。更に今回は龍樹ちゃんの助けがあった。と言うことは?

『不完全な転生はこれで終いじゃ。今後、山奈家に双子が生まれることはないであろう。生まれたとしても穢れや悪鬼とは無関係故、安心するが良い』

 まるで私が結婚したら双子が生まれるかもしれないような言い草だな。でも今はまだそんな未来は想像できない。

「でも分かりません。神である貴女がいくら穢れに触れたからって数百年ものあいだ祓うことができなかっただなんて。しかも双子が生まれる度に最後には片方が死ななければならないだなんて」

 話しを聞く限り不完全な転生と言うより死んでもなお血脈を伝わって穢れが伝播していたように思える。一体どんな穢れが辨財天を、そして双子達を蝕んだのだろう。不完全な転生で神力が弱まったと言いながら石段から落ちそうになる私を受け止める海を咄嗟に造り出すくらいだから本来の神力は凄まじいはずだ。

 ならば人間の子宮を使って転生するより効率的なやり方があったんじゃないのか。何故、人の腹を借りて生まれ変わる必要があったのか。香木の香りが弱まったならカンナで削れば香りは戻るのに。と思ったら考えを読まれてしまった。

『カンナで削る案は実際に試してみたが香りは戻らなんだ』

 辨財天は可笑しそうに笑う。だよね、私も馬鹿なことを考えたなと後悔した。神が宿るほどの香木だ。カンナで削るなんて軽々しく考えることじゃないし、そもそも神が宿る香木の香りが薄れたのなら相当に重大な事件だったに違いく、代々の当主の近くにいたご先祖様はさぞ慌てたことだろう。なんとか辨財天の存在を守らなければならないと、それこそ私がしたように過去の文献を漁ったのかもしれない。そして見付けたのだ。山奈の女が生んだ能子の存在を。

 だから人の身体を借り腹とする転生方法にしがみついたのだ。人間は思い込んだら視野が狭くなる。ましてや系譜の初期の双子の時代なら化学的思考などない。もし安倍晴明が相談に乗ってくれたとしても結果は変わらなかっただろう。

「質問があるのですが」

『何じゃ?』

 私は自分が思い浮かべた忌々しい推測を吐露した。即ち辨財天が宿ったのは女性の子宮ではなく嬰児の中であり、その嬰児の生気を自らの糧として神力を溜め込んだ所為で嬰児は衰弱していき生まれた後も辨財天の神力が完全に戻るまで糧として生きる運命だったのかと。まるで托卵ではないかとも。

 もし嬰児の中に宿ったのだとしたら少なくとも懐妊した双子の片割れには夫がいて子供が生まれてくるのを夫婦で楽しみにしていたことだろう。だが生まれてきた子が双子だったと知った夫婦は絶望感に苛まされたに違いない。そう思うとこれまで犠牲になった夫婦や双子が痛ましい。それとも山奈家の当主として覚悟していたのだろうか。

 そう思いながら辨財天を見やると悲しげな顔をしていて罪悪感が湧く。

『山奈の女は凛として責任感の強い者ばかりじゃった。妾としても申し訳なく思うておる。故に妾はそなたに贖罪をせねばならぬ』

 そう言われるや否や目の前に日本刀が現れた。鞘など木で作られている部分は香木で出来ているのか香りが立ち上っている。

『これを我と思うて持ち歩くが良い』

 辨財天から直にお守りを授けられるのは光栄だが日本刀を持ち歩くのは無理がある。だが辨財天は手に取ってみよと譲らず私は仕方なしに刀を手に取ったが、その瞬間それは形を変えて仕舞扇へと変化した。

「何これ!」

 驚く私に辨財天は感心したような声を上げる。

『なるほど、そなたが持つとそうなるのか』

 含みのある言葉だけど扇なら社殿内は勿論のこと大学へ持っていくことも可能だ。

「勿体ないことで感謝のしようもありませんが、ありがたく頂戴いたします」

『喜んでもらえれば妾も嬉しい。この機会にそれに銘を付けてはくれぬか?』

 私が少し考えさせて欲しい旨を伝えると辨財天の姿が微笑みながらも薄れ始めた。夜明けが近いからだろう。銘は起きたら考えることにして少し私も眠ろう。

 翌朝、目を覚ました私は手に扇を握っていたことで昨夜の夢が夢でないことを悟り寝巻きのまま本殿へ入った。そして辨財天像の顔が菊花のそれになっていること、腕が八臂になっていること、二臂は琵琶とバチを持っているが残りの六臂は武器を握っていること、そのうち一臂だけが何も持っていないのを見て正に扇に変化した刀を授けられたのだと理解する。

 更に驚いたことに琵琶だけでなく辨財天像も香木になっており本来は琵琶だけでなく辨財天像も御神体だったのだと悟った。香りが薄れるとは琵琶だけでなく辨財天像も含めてのことだったのだ。琵琶と辨財天像は違う香木のようで本殿内は清らかで甘やかな香りで満たされている。私は像の前に正座すると生涯を掛けてお仕え致しますと誓った。

 ただ釈然としないことはまだある。あの白猫はただの野良猫だったのだろうか? 

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