第五章
【一】
カゲロウの群れの動きからはぎこちなさを感じる。私達を襲おうと思えば外から回り込んで御格子から入って来ても良さげなのに。そう思い付いた時、私は咄嗟に御格子を閉じながら外を見たがカゲロウはいない。元来、光が苦手な昆虫だけどこの漆黒のカゲロウは強靱な日の光が苦手なのだと確信した。光は天照大神にも通じる。光の力で浄化されるのを怖れているのなら脱出する策はある。
「千年の灯明が役に立つかも」
幸いにも昨日の夕拝時に菜種油の入った油差しと灯芯を本殿内に補充したばかりだ。
「どういうことだ?」
私は油差しに灯芯を入れ千年の灯明の火を移し、その火を掲げて進めばカゲロウは遠ざかるのではないかと説明した。仮にも御神灯である。やってみる価値はあると力説した。
「カゲロウ本来の弱点に御神灯をプラスするのか」
「成功するかどうか分からないけど二人のうちどちらかがここから逃げられれば良いと思うの」
龍樹ちゃんは私のその言葉に苦々しげな顔をした。どちらかが犠牲になるのは嫌だが、もし犠牲になるとしたらそれは私だと思ったのだろう。だが彼はその不安を振り払うようにゴーサインを出した。
「悩んでも仕方ない、行くぞ」
「うん」
私は少しでも灯りが保つよう灯芯を結んで長くすると、それを油差しに入れ十分に油が染みこんだことを確認してから千年の灯明の火を芯に移した。灯りは一見弱々しく見えるが、それでもどこか強靱さと清浄さを兼ね備えていて見ていて心強くなる。これならいけると私は確信した。
龍樹ちゃんが灯りのともった油差しを持ち私が御簾を開ける。カゲロウ達はそんな私達に一斉に群がろうとしたが、その動きは途中で止まり一定間隔以上近付いて来られないようだ。まるで掲げた灯明を怖れているように見え、私達はグイグイとカゲロウを押し退けながら階段を降り拝殿に辿り着くと一目散に外へと逃れ出た。
カゲロウの群れは最初こそ私達を追い掛けて来ようとしたが太陽の光を浴びるとたちまち焼け焦げて地に落ちていく。その光景を見た後方のカゲロウは日の光に怖じ気付いたように動きが止まる。それを見た私達はしゃにむに走って社務所へ向かった。
社務所に到着すると息が切れて座り込みそうになったが、そんな自分を叱咤して細長を脱ぎ捨てる。着付けには人の手助けが必要だが脱ぐのは一瞬だ。そうしている間に龍樹ちゃんは再び携帯を耳に当てている。恐らく西桃の宗家に再度連絡をしているのだろう。私は母屋へ戻って洋服に着替えるのがもどかしく、白衣と袴の上に社務所に保管してある羽織を羽織って身支度を調えた。
「春馬がすぐに来いだって。ちなみに能楽部の連中は今日はいないそうだ」
龍樹ちゃんが端的に言う。どこまで宗家に話したのか分からないが尋常でないことが起きていることは説明したんだろうなと思いつつ何故か削った香木を保管している桐の箱が目に入った。片付け忘れたのかと思いながら何となく蓋を開けるとどう見ても量が増えている。大急ぎで叔母を呼んで確認したが香木には触れていないと言われ私は益々焦った。人ではないモノの力が穢れを祓うはずの香木にまで及んでいるのだ。ここまでくると怪異は私だけに起きているとは言っていられない。
叔母にも私の焦燥感が伝わったのか何かあったのか真剣に問われたが、今はまだ答えられなかった。もしいま起きていることを叔母に話したら、それこそ私の不在中に厄災が叔母に降り掛かるかもしれないと思い怖くなったのだ。無論、逆の場合もある。既にこの神社自体が穢れているなら私がいようがいまいが叔母にも怪異が降り掛かる懸念はある。だが、なんとなく今はそうならないような気がした。言葉にするのは難しいが、怪異が私の周囲で起きているのではなく私が怪異の中心にいる。そんな確信があったのだ。
「ごめんなさい。確信が持てたら話すから少し待ってほしい」
そう伝えると叔母は心配げな表情をしながらも頷いてくれた。
「分かったわ、菊花ちゃんを信じる。でも無茶はしないで」
「ありがとう。これから西桃の宗家の所に行って来ます」
そう伝えると気丈な笑顔が返ってくる。どうか私達が戻るまで無事でいて下さい。そう祈りながら石段を掛け降りると一之鳥居の前に龍樹ちゃんがハンドルを握る車が横付けにされていた。
「乗れ」
これは龍樹ちゃんの気遣いなのだと思う。いま私をひとりにするのは拙いと思ったのだろう。私も今は独りになるべきではないと思ったから彼の好意に甘えたが車中では沈黙を貫いた。早朝から酷い目に遭ったことを笑い合う気にもならないし、怪異のことを談義しようにも口にするのも憚りたい心境で結局話題が見付けられなかったのだ。
宗家宅に到着すると立派な切妻造りの四脚門の前で宗家が心配顔で待ち構えていてくれた。その顔を見て私は安堵のあまり力が抜け動く事ができなくなってしまい、龍樹ちゃんと宗家の力の二人がかりで車から降ろされる。
だが名古屋駅に近い四間道にそびえ立つまるでお屋敷の宗家宅を目の辺りにした私は再び力が抜けそうになった。瓦葺きの四脚門の向こうの広大な庭や屋敷はまるで大名屋敷のようで、やや古びた感じはあるがその威容さに圧倒される。
「とにかく中へ」
いつもの格式の高い装いとは違い軽装的な山吹色の着物に無地の濃紺の袴姿の宗家に誘われて屋敷内へと足を踏み入れると門から式台付き玄関まで敷石が敷き詰められていることに気付いた。車のタイヤを痛めないようにと配慮されているのか敷石は細かく敷き詰められているのに道幅はやたらと広い。通っても良いと分かっても若輩者が車で乗り付けたことが恐れ多く感じて恐縮した。
敷石の両脇には松や竹が植えられているが、これは奥を見えないようにする目隠しなんだろうな。母屋は書院造り。歴史で習っているし博物館になっている建物に入ったことはあるが、まさか住んでいる人が現代にいるとは想像すらしなかった。
玄関を入るとそこからは方向感覚がなくなるほどに折れ曲がる長い廊下を案内され、私と龍樹ちゃんは屋敷の最奥らしき庭が見渡せる広い和室へと通された。眼前の庭には季節の木々や花が植えられており自然の色彩が目に優しく沁みる上、部屋には香が焚きしめられており全てにおいて宗家の心遣いが感じられる。ただこれほど広大な屋敷なのに人の気配は感じられない。それを裏付けるように宗家自らが盆に茶と菓子を載せて現れた姿を見て私は慌てふためいた。
「も、も、も、申し訳ありません」
突然の訪問、これまでの受け入れ拒否の姿勢を解いて宗家宅に受け入れてくれたこと、車から降りられなくなるほどの脱力など諸々含めて私は平身低頭するも宗家は涼やかに微笑むだけだ。
「そうかしこまらないで。龍樹から大まかに話しは聞いたけど御神域で怪異が頻発しているんだって?」
柔和な口調だが表情は真剣だ。
「信じて下さるんですか?」
「僕が信じずに突っ慳貪に追い返したらどうするつもりだったの?」
いつもは私と言う宗家が砕けた口調で僕というのに面食らったのと当時に宗家は意地悪だと思った。もし相手にされなかったらいよいよ私は心の持ちようがなくなるのが分かっているくせに。
「ごめん、ごめん。龍樹がいるからつい意地悪したくなって」
男性でも微笑が美しい人がいるんだなと惚けそうになるが今はそんなことより怪異の方が重要だ。私は化け猫や猫の鳴き声のこと、水の滴り、本殿での小火、そして今朝の百鬼夜行と漆黒のカゲロウに襲われたことを話した。そこまで話して入学式での倒壊騒動のことも思い出す。老築した建物には立ち入り禁止の札が取り付けてあったらしいが私も藤乃も華子も見ていない。質の悪い悪戯だと思っていたが、あれも一連の怪異と関係あるのだろうか。宗家は腕組みをして考え込んでいる。
「それでお祓いをするために仕舞を習いたいと考えた?」
そこまで話しが通っているのか。私は自分の恥を曝すのを覚悟で宗家に自身のことを話した。
「神楽は習いましたけど、私の神楽を宗家が御覧になったら噴飯物だと思います」
うちには神楽殿がないのと拝殿にスペースがないのとで能舞台で御祈祷をする。それでも真正面に本殿があり辨財天が御高覧している位置関係だし能楽奉納をする場だから十分に神聖だ。
御祈祷は本来の正装で勤めるから濃色の長袴の上に単と袿と細長、そして裳の腰紐に相当する当帯を身に付ける。その姿だからハッキリ言って身体が思うように動かないし長袴と細長の裾が脚に纏わり付いてよろけることもしばしばだ。
神職養成校での神楽の授業時間なんてたかがしれている。大きな神社に就職すれば神職や巫女への舞のお稽古の時間を取ってくれるようだが、私には習いに行く時間的余裕がないし、そもそも私が通えるようなお稽古場の存在があるとも思えない。だからいつも正装を解く前に社務所の鏡の前で自己練をしているものの、映し出される舞の型は目を背けたくなるほどだ。そんな私の神楽ではお祓いは元より辨財天が喜んでくれているのか疑わしくなる。
「ひとつ聞くけど」
宗家の真剣な表情といつになく堅い声に居住まいを正す。
「菊花さんは神楽で祓えなかったから能でと思ったのでしょうか?」
その時の私の表情はさぞ間抜け面だったことだろう。宗家の言葉の意味が咄嗟に汲み取れなかったのだ。
「えっと……」
私は宗家に対して能を習う意味を説明できずそして罪悪感が湧き出す。私は他人に頼ろうとして自分では何も考えていなかった。祝詞でも神楽でも祓えないなら何か自分のできることを考えなくてはならなかったのに。
「ああ、菊花さんを責めているわけではありません。龍樹が狼狽える貴女を見て僕に助けを求めてきたとき、連れてくるように頼んだのはほかならぬ僕ですしね」
だからこそと宗家は言う。
「神楽が神を喜ばせる芸能だとしたら能は祈りの芸能です」
ただ型式的には二つは同じものなのだと宗家は言った。
【二】
宗家は子供に言い聞かせるが如く静かに話しを続ける。
「禹歩はご存知ですよね?」
神楽を舞う時の足取りの元となったものだ。神楽や田楽、能では翁の三番叟を反閇と呼ばれる足取りで舞うが元を辿れば禹歩に行き着く。と思った時に私は重大なことに気付いた。
「気付かれたようですね。能の摺り足と神楽の禹歩は同じものです」
つまり私は能楽を習うまでもなく既に摺り足が身に付いているということでその事実に愕然とした。今日、宗家宅に受け入れられたのはこの現実を私に突き付ける為だったかと思うとまるで全ての人に見放されたような気分になり胸が締め付けられるように痛む。
「そんな絶望的な顔をしないで、話しは最後まで聞いて下さい」
宗家はそう言うがこれ以上なにを話すと言うのだろう。だって既に結果は出ている。能を習ったとて神楽の代わりにはならないし刻々と大きくなる穢れを祓う手段がないことに変わりはない。
「先程も言いましたが能は祈りの芸能で、そこが神楽との違いです」
宗家は朗々と語る。声の良さもだが六五〇年を超える世界最古の舞台芸術に込められた想いに私は聞き入った。
「例えば菊花さんにとっては辛い思い出の紅葉狩ですが」
都に住む平惟茂がわざわざ現在の栃木まで狩りに行くと思いますかと問われ私はアッと声を出した。確かに身分の高い都人が行く場所としては違和感がある。
「能のストーリーに込められているのは、かつて大和朝廷が根絶やしにした土着の人々の魂の鎮魂です」
だから薫衣大辨財天社に広がりつつある穢れを祓うのではなく、怪異を起こしている何かの魂を鎮魂するという意味で能を利用するのはあながち間違いではないと宗家は付け足す。
私は話しを聞きながら自問自答した。神楽がダメだから能をという安易な気持ちは禹歩と聞いた瞬間スッカリ消え失せていたが能で鎮魂するというのはありだと思う。だが果たして私の力量で穢れの大元を慰め昇華させることができるのかと考えるとサッパリ分からない。
「どうしたら良いんでしょう」
私は情けない声で宗家と龍樹ちゃんの顔を交互に眺めた。自分の非力さが情けなく本当にどうしたら良いのか分からない。宗家はそんな私を見て微苦笑をたたえて助け船を出してくれた。
「春の例大祭まで幾ばくもありません。その前に穢れを祓って怪異を沈めなければならないから逆算すると今日明日で身体に覚え込ませるしかないでしょう」
それはつまり能を教えてくれると思って良いのだろうか?
「厳しいですよ」
「やらせて下さい」
迷いは消え去った。
「ただ僕はあまり役に立たないと思うのですがね」
意味を図りかねているのが顔に出ていたのだろう。宗家は笑いながら話してくれた。
「僕は菊花さんの神楽を拝見したことがあるのですよ」
いつのことだろう? 宗家と打ち合わせる際はいつも神社に来て頂いているけど日にちは決めても会う時間まで決めたことがなく私が参拝客対応をしていれば宗家をお待たせすることになる。恐らくその時に見られたのかな。
「とても素晴らしい神楽で、さぞや本殿の辨財天と御神体を喜ばせ彼女に付き従う龍神に力を与えているのだろうなと思いましたよ」
「宗家、お世辞は……」
宗家は私の不満の声を手を上げて制した。
「お世辞ではありません。貴女の声はとても澄み切っていて神楽も清浄でした。ただ足りないものがあるとしたら」
宗家は意味ありげな眼差しで龍樹ちゃんの方を見るが私は戸惑うだけだ。足りないものを思い浮かべるどころか未熟者すぎて逆に足りているものでさえ分からない。
「龍樹はどう思う?」
「そうだな、自信かな」
自信か。ああ、確かにそれはない。凄いな、龍樹ちゃんはお見通しだったんだ。
「お袋に用があって山奈の家に行くとお前がご奉仕する姿を見掛けるけど、堂々とこなしているし神楽を舞う時も細長の裾捌きが堂に入っていて凄いなっていつも思ってた。けど、観察しているといつも表情が冴えなくてさ」
それで菊花は自分に自信がないんだなと悟ったと言われてはグウの音も出ない。
「僕の意見も同意見です。神職養成校に二年通い、その後一年の受験勉強で浪人せずに大学へ進学し、今は立派に神職と学業を両立していることにもっと自信を持って良いと思いますよ」
なんだか宗家と龍樹ちゃんって似てる。双方共に言葉に不思議な成分が混ざっている。それは相手にすんなりと得心させ自信を持たせる術という成分だ。片や能の宗家、片や大学の学生会長。立場は違うけど人を取り纏め人心掌握に長けていると言うべきか。だがそんな言葉では言い表せないほどの何かがある。
私には二人が凄く苦労しているような気がしてならないが、この二人はそれを微塵も悟らせないのだ。これで私と同じ年とは思えない。同じ年数を生きてきたこの二人は私なんかよりもっと壮絶な体験をしてきたのだろうか。無論、二人には遙かに及ばない私の観察眼が当たっているとは限らないから、ただの憶測だけど。
宗家は他にも二十二歳で神職を立派に勤め上げていることなどを挙げ連ね始めるのを私は必死で遮ろうとするも、ここまでくると揶揄われているのか元気付けられているのか分からなくなる。だがそこで宗家は怖いほどに真剣な顔になった。
「怪異が起こり始めた時期を考えると、菊花さんの神楽が穢れに影響を与えていると考えられると思うんです」
どういう意味だろう。私の神楽が穢れに影響を与えているだなんて良い方に考えるべきか悪い方に考えるべき全くか分からない。
「先程も言いましたが、貴女の神楽は清浄で見ている者の心を和ませる上に強靱なパワーを与えてもいます」
祈祷を受けている者だけでなくたまたまその場に行き合った人、足を止めて見入った人にさえ影響を与えるという宗家の独白のような言葉は良くも悪くも私の心に突き刺さったが、どういう意味合いなのかが理解が追い付かない。
「これは僕の推測ですが昨年の春の例大祭の打ち合わせの時に鎌鼬のような風が吹いたでしょう? あの時から既に菊花さんの神楽による影響が出ていたのではないかと思うんです」
「私の神楽が怪異を引き起こす元凶になったという意味ですか?」
私の声は震えていた。まさか宮司の存在が凶事を引き起こしていただなんて。しかも一年も前から。私はその言葉を受け止めかねた。あ、まずい。また泣きそう。
「そうではなくて」
宗家の口から溜息が漏れる。完全に呆れられたのかなと思うと心の持ちようがなく、すぐさまここから立ち去りたい気分になったが、それはあまりに宗家に失礼で何とか思い留まった。それでも心がどんどん閉ざされていくような感覚を覚えた。
「心を閉ざす前に最後まで話しを聞きなさい」
宗家には私の心情などお見通しなのだろうか。厳しく一括され私は何故か背筋を伸ばして顔を上げていた。宗家の声はまるで言霊だ。
「これはあくまでも僕の推測ですが、あながち間違ってはいないと思います」
そう断りを入れてから宗家は話しを進めた。
「菊花さんの神楽によって御神域内で眠っていた穢れが目を覚まし、それぞれ取り憑いていたモノから引き剥がされたのではないかと思うのです」
そんな推測が成り立つのだろうか? でも宗家の真剣な表情を見ると否とはとても言えないし、その話しの先も聞きたくなった。
「穢れ達は取り憑いていたモノから引き剥がされると同時に覚醒した。そして怪異を引き起こし始めたと僕は思うのです」
でなければ説明が付かないとも。
「穢れがいつから御神域内にいたのかは僕にも分かりません。でも、もしかするとご両親と荷葉さんが亡くなり神職不在になったあの事故直後と考えるのが妥当だと思います」
その時に穢れが忍び込び、様々な場所に取り憑いた。
「本来ならそこから怪異が起きてもおかしくないのですが、穢れが行動を起こす前にまず龍樹のお母さんがあの家に住み始めた。彼女も立派な神職ですからね。そして菊花さんが退院してご実家に戻られた」
叔母の存在が怪異を起きるのを押し留めていたのは分かるが、私の帰還が怪異に影響を及ぼすとは考えられない。あの時の私はまだ神職ではなかったし、家族を失った傷心のあまり日々何をするわけでもなくただただボンヤリと過ごしていたから。少なくとも高校生活に戻るまでは生きた屍も同然だった。
「菊花さんの存在自体が穢れ達にとってストッパーになっていたのではないでしょうか」
だけどそれだと今度は怪異が起き始めた理由が分からない。私の神楽によって穢れ達が目覚めたと宗家は言うが、それはつまり私自信が凶事であると証明されたようなものではないのだろうか。
「あの時の私にそんな力があるとは思えないですし、そもそも私はあの家の中で何かを感じることはありませんでした」
スピリチュアルという言葉にもスピリチュアルと言いまくる人にも嫌悪感しか抱けなかったから。ただ冷静に考えるとそれは亡き菊花への妬みや僻みに他ならない。私は別に神社の跡取りになりたかったわけじゃない。ただ両親に無条件に愛される菊花が羨ましくて何か言えば感じるだの何かいるだの喚く菊花が疎ましかったのだ。スピリチュアルという言葉を嫌うのも全てそこから派生するし、そもそもカタカナで言うことに軽々しさを感じて抵抗もあった。
「貴女はご自分のことを何も分かってないようですね」
そう宗家に言われて意味を図りかねた。
「ダメだ。バトンタッチしてくれ、龍樹」
宗家は笑い出しそうになるのを堪えたような表情をするが言動が意味不明だ。
「すみません。今まで話してきたのは僕の推測ではなく僕と龍樹が話し合って行き付いた答えで、推測ではなくほぼ断定的な結論なんです」
それを自分の推測として私に伝えるには無理があると根を上げたらしい。そう説明されても私の方はどう反応したら良いのか分からず、心理的に右往左往するうちに龍樹ちゃんが宗家から話しを引き継いだ。
「お前の祝詞や神楽は相当な力を持っている」
「まさか」
【三】
私の声や舞で穢れ達が動き出した。それは神職となった私の存在に居心地の悪さを感じ、各々が取り憑いた場所で眠っていた穢れ達が目を覚ましその場所から離れたことで怪異が起き始めた。そこまでは辛うじて受け入れられたとしても分からないことは多い。穢れ達はそんな居心地の悪い場所になぜ居続けるのだろうか? 私の存在が気に入らないならさっさと逃げ出せば良いだけなのに。
「正にそこなんだよな。そこは俺達も解せないでいるんだ」
「もしかすると薫衣大辨財天社には相当強い結界が張られているのではないかと思うのですが」
あまりに強いから出て行きたくても弾かれてしまう。
「もしくは離れたくても離れられない」
二人で交互に言われても益々意味不明だ。離れたくても離れられないなんて穢れが鎖や磁石に引き留められてるとでも?
「そう考えても良いと思います。とにかく神社の内側に何か秘密があるのではというのが僕と龍樹の意見です」
その秘密には私が荷葉であることも含まれているのだろうか。もし双子が入れ変わっていることが穢れと関係あるとしたら私はどうすれば良い? それに今の話しを聞く限りまるで宗家と龍樹ちゃんが私の正体に気付いているようではないか。
「薫衣大辨財天社の歴史は深く謎めいていることも多い。ですが通ううちに分かったこともあります」
宗家が再び静かに話し始めたが、その言葉から私が宗家に拒否され自宅に招かれなかったのではなく宗家がうちに来たかったからのだと分かり安堵した。
「蔵に所蔵されている文献などの保存状態が良いのが気になるんです」
能の面や装束の保存状態が良いのにも実は疑念を感じていたという。
「僕はてっきり先祖代々あの蔵を引き継ぎ守ってきたのだと思っていました」
でも私が神職養成校にいる間、叔母と例大祭の打ち合わせをする際に叔母が蔵の中に入ったことがないと知ったと言う。その後、家に戻った私と話した時も母が管理していたと思うという漠然とした回答しか返ってこなかった。
「あれだけ保存状態が良いとなると毎年虫干しする必要があります。しかも量が多いから家族は勿論、多額の寄付をしている方々をお招きするという形で大行事にならざるを得ない」
でも私の記憶にその大掛かりな虫干しはなかった。
「では誰が、いえ何があの蔵の中身を守ってきたのかと龍樹と話すうちに気付いたのです」
「誰が守ってきたとお考えなんですか?」
「あの神社そのものだと結論付けました」
待って、そんな突拍子もない話しを信じろだなんて無理だよ。つまり宗家と龍樹ちゃんは薫衣大辨財天社自体が意思を持つ生命体のようなものだと言っているんだよね。
「でも、それだと神社が穢れを受け入れているってことですよね?」
「受け入れざるを得ない何かがあるのではないでしょうか」
神社の意思として何か守るべきものがありそのために穢れを追い払うことを躊躇うようなもの。私はゴクリと唾を飲み込んだ。こんな話しをされては私と菊花の入れ替わりを関連付けせざるを得ない。無論そう決まったわけじゃないけど自分の中に入れ替わりに対する罪悪感があるから気持ちが重くなる。
それにしても宗家の言葉には説得力がある。スピリチュアル云々ではなくもっと重々しい世界を知っているかのようで、ただの能楽師とは思えない。
「宗家は怪異や凶事を感じることができるんですか?」
「そんなご大層なものではありません。一介の能楽師に過ぎませんよ」
ただ、と宗家は言葉を続けた。
「舞う時に心の中で祈ってはいますね。私達の知らない先人達の心の安寧、訳も分からず朝廷や戦によって踏みにじられた命への鎮魂、そして世界平和を」
それが能楽師としての自負であり、そこが他人とは違う感性や感覚だと思われるのなら寧ろ本望だと宗家は清々しく笑う。だけど私はその笑みにどこか寂しさを感じ取った。
「春馬はそれで良いと思う。いや、そうじゃなきゃいけないんだ。能楽を知らない人間は能に携わる人間を高尚だと言う反面、そんな高尚な能楽も今や娯楽であり贅沢な趣味だと受け取られる」
かつて武家の式楽だった能は明治維新後に保護者を失い能役者の多くは廃業、転業を余儀なくされ、ワキ方や囃子方、狂言方には断絶した流儀もあったほどだと話す龍樹ちゃんの声には、能に対してと言うより日本の伝統文化が先細りしていくことへの危惧が含まれているように思えた。
「それでも踏ん張って守ってきた先人がいる。その人達の心に酬いるため、そして世の鎮魂を祈るためにも春馬には頑張ってもらいたいと心底思うんだ」
「龍樹にしては殊勝な事を言うじゃないか」
「俺も山奈の家の一員だから、これでも一応祈ることは大切だと痛感しているんだ」
意外な言葉だった。私、龍樹ちゃんは信心深くない方だと思っていたんだよね。これは大学で再会してからの印象だけど、彼は神頼みではなく実力で道を切り開いていきそうだから。
「そりゃ確かに苦しい時の神頼みなのは認めるけど、祈りってのはそれだけじゃないだろ?」
宗家はその言葉に静かに同意した。明日、晴れれば良いなという小さなことも祈りだと言われれば確かにと思うしかない。
それにしても宗家と龍樹ちゃんの会話は単に気が合うだけでなく魂のレベルでの結び付きが強いように思える。どうしてそんな絆が生まれたのかは分からないけど、二人の厳しくも優しい大きな人間性の裏には私の置かれた立場を超越する何かがあるようにしか思えなかった。二人共とても苦労人だと感じるのはあながち間違っていないかもしれない。
少ししんみりした空気が流れたがそれを払拭するように宗家が私の稽古の話しを始める。宗家からの提案はとても簡素で逆に度肝を抜かれた。
「時間がないのでうちに泊まり込みませんか?」
まるで合宿でもしようとでも言うような軽い口調だが宗家の表情は真剣で、私は自分が考えている以上に現状が逼迫していることを嫌でも突き付けられた気分になった。先程までの和気藹々とした空気が見事なまでに消えている。
「甘えさせて頂いて宜しいのでしょうか?」
宗家宅に泊まることは恐縮を通り超して怖い。それに那須女史が現れるかもしれない。無論、今の私は心理的に那須女史のことなど構っている場合ではないし顔を合わせたとしてもスルーする事は容易いと思う。ただだからこそこんな時に神経を逆撫でられたら私の方が加害者になりそうでそれも怖かった。
「勿論。能舞台があるから感覚は掴みやすいと思いますし部屋数だけは多いので好きに使ってくれて構いませんよ」
ただ、と宗家が少し考える仕草をする。私は固唾を吞んで次の言葉を待った。
「正装の細長で舞うんですよね? ならばそれを着て稽古した方が良いと思うんですが」
「それなら持って来てる。ついでにお泊まりセットも」
龍樹ちゃんの言葉に私は車の後部座席に置いてあった大きな風呂敷包みのことを思い出した。あの中に装束や宿泊に必要なものが入っていたのかと思うと龍樹ちゃんの手回しの良さに感嘆するばかりだ。さすが学生会長。あまりに手際が良すぎるから恐らく叔母も一枚噛んでいるに違いない。無論、叔母は詳細を知らないままだろうが宗家宅へ行くと伝えた時の私達の様子から想定したのだろう。
一旦車へ荷物を取りに行った龍樹ちゃんが戻り風呂敷を広げると中には濃色の長袴と菱の文様を織り出した薄紅色の単、表地は綾、裏地は平絹を用いた七宝柄の紫色の袿に浮線綾柄の白い細長、細長と同じ織柄の白い当帯が綺麗に畳まれていた。
「これは素晴らしい装束ですね。格式がとても高い」
宗家の目がキラキラと輝く。装束を見て喜ぶのは女性だけだと思っていたけどそれは私の思い込みだったようだ。少なくとも目の前の能楽師がはしゃぐ姿を目の当たりにして私は心の中でクスッと笑った。そして心の中とはいえ笑えた自分にビックリし同時に不思議と心が軽くなった。
「これは薫衣大辨財天社に代々伝わるものですか?」
「そう聞いています」
「お母様もこれをお召しに?」
脳裏に記憶の中の母の細長姿が思い浮かぶ。
「細長って若い女子の装束だと書いてある本を読んだことがありますが、既婚者でも着られるんだなと思った覚えがあるので母も着ていたんだと思います」
記憶の中には色違いの細長もあるから恐らく装束の格式を考え場面場面で使い分けていたのだろう。
「細長が年若い女子の装束とはハッキリ分かっていないようですよ」
「そうなんですか」
宗家と話すと色々勉強になるし何より言葉に真実味がある。どんな疑問も宗家の言葉で聞かされると素直に受け入れられるから不思議だ。
風呂敷包みの中にはその他、着替え用の白衣と袴、下着に洗顔セットと化粧品。これを用意したのが龍樹ちゃんだったら憤死してしまうところだが中に一筆箋が入っていてそれは叔母の字だった。
―龍樹に中は見せていないから安心してー
思わずクスッと忍び笑いが零れる。私の慌てる様や顔色を見て何かが起きていると察し自身も不安でたまらないと思うのに、それをおくびにも出さずにユーモラスな文章で力付けてくれるなんてやはり龍樹ちゃんを育てただけの人である。
「さすが龍樹のお袋さんだな」
「俺が菊花の着替えを用意する訳にはいかないだろ?」
お泊まりでの稽古が決まったことで二人の会話が更に砕けたものになり、私も漸く落ち着いてお茶を啜る。それでも鼓膜は二人の会話を捉えていた。
「土日で大学も休みだし龍樹も泊まるか?」
宗家が今日明日の二日間で私に舞を叩き込むつもりと分かり神楽と能が親戚のようなものだと分かっても緊張感が高まる。
「甘えさせてもらおうかな、人払いしてあるとは言え菊花を一人にするのは不安だし」
「来ないよう厳命してあるけどな」
なんだろう、二人のこの会話。私を口実に誰かを示唆しているように聞こえるのは気の所為ではない。
「二人は誰のことを話してるの?」
宗家は吹き出し、龍樹ちゃんは渋面になり、私は後悔した。
【四】
その後暫く宗家の押し殺した笑い声と、それに突っ込みを入れる龍樹ちゃんという珍しい構図を目の当たりにしたが、自分の言ったことにこれ程の反応を見せられると逆に困惑する。時間にして十分ほど宗家は笑い続け、その後は息も絶え絶えになりながらもなんとか声を振り絞ってくれた。
「一年前、私の監督不行き届きで龍樹にも迷惑を掛けたようで」
宗家の言葉は私の質問の趣旨から遠く離れているようにも思えたが、『龍樹にも』が意味深な言葉に聞こえる。もってことは他にも迷惑を被った人間がいるってことで、しかもこの三人に共通する人物となると心当たりは一人しかいない。私が自意識過剰ではなければの話しだけど。
「まさか那須女史が関係しています?」
明確な回答はなかったが二人して顔を見合わせて歪んだ苦笑を浮かべたところを見ると私の指摘は当たっていると思って良いようだ。
「那須さんが龍樹ちゃんのことが好きとか?」
龍樹ちゃんがこれ見よがしに嫌そうな顔をしたのは、ちゃん付けで呼んだことではなく那須女史という言葉だろう。厳密には那須女史が龍樹ちゃんを好きという言葉に過敏に反応しているように見える。
「龍樹は貴女が神社の階段で那須君に突き落とされそうになったと聞いた時、普段の彼からは想像できないほど怒りを露わにしたのですよ」
あの事件のことが龍樹ちゃんの耳に入っていたのは意外だ。だってその一年後の今、再会した龍樹ちゃんがその話題に触れたことはなかったから。百歩譲って龍樹ちゃんが事件のことを知っていたとしても、それは宗家からではなく叔母から聞いたと言われる方が自然だ。なぜ宗家から?
しかも聞いて怒りを露わにする龍樹ちゃんの姿が想像できない。どういう意図で怒りを露わにしたのか。自分が当事者なこともあって考え出すとあれやこれやと推測が止まらないけど、ただひとつ確信したことがある。
「那須さん、本気で龍樹ちゃんのことが好きなんだね」
那須女史が私を階段から突き落とそうとしたのは宗家と私が親しいことに腹を立てたからだと思っていたけど、龍樹ちゃんを挟んでの嫉妬だったのだ。にしても私と龍樹ちゃんの交流は一年前までは途絶えていたから嫉妬される謂われはない。
「俺が悪いんだ。従兄姉が神職の資格を取ったと自慢しちまって」
意外だな、私が自慢の種になるなんて。でもそれだけで殺人未遂にまで行き着くものだろうか。
「菊花が神職になったから少しでも神社の参拝客が増えるようにと吹聴したのが気に入らなかったらしい」
従兄姉のことを自慢する龍樹ちゃんの本心が私への恋心だと那須女史が勘違いしたらしいと龍樹ちゃんは言うけど、私は那須女史も神社の穢れに触れ影響を受けてしまったのではないかと考えた。いくら感情的な人間でも初対面の人間を階段から突き落とそうとするなんて考えにくい。それに私の顔を知らなかった那須女史があの日あの場ですぐに私だと認識できたものおかしく思える。恋心や嫉妬は時にとんでもない負のエネルギーを生むものだが、私はSNSなど身バレするものはやっていなかったし彼女が私の顔を知る機会はない。あるとしたら穢れが媒介したからだ。
「ありがとう」
龍樹ちゃんに気に掛けてもらった礼だけ述べ私は能舞台を見せてもらいたいとお願いしてこの話題を打ち切った。もし那須女史にも穢れが及んでいるなら少しでも早く祓わなくてはならないし、彼女のことは嫌いだが穢れのせいかもしれないと思うと気が気でない。他人への危害という点で穢れが伝播しているなら既に私へ危害を加えているから一刻を争う。
和室から能舞台までは庭に面した長い廊下を更に進まなければならなかった。廊下は時代劇で見るような広縁で、広大な庭の奥には木々に隠れて数寄屋造りの茶室まであるのが見て取れた。大豪邸だ。
相変わらず人気はなくそれでも家屋敷も庭も手入れが行き届いている。今日は私と龍樹ちゃんが来るからと人払いして普段は内弟子さんが掃除などをしているのかもしれないと私は自分を納得させる答えを探しながら宗家の後に付いて歩いた。何度か角を曲がってようやく辿り付いた能舞台は三間四方に鏡板まである本舞台で個人宅内とは思えないほどに立派なものだった。
この舞台なら門弟を集めて発表会もできそうだ。そう思いながら切戸口から舞台を覗きつつ辺りを見渡すと舞台裏に楽屋らしき部屋と衣装部屋が、更には鏡の間と橋掛かりも備え付けられていた。国立能楽堂にも劣らない本舞台だ。
「どうぞ舞台に上がってみて下さい」
袴姿で足袋を履いていたので早々に舞台へ上がる許可が下りる。ワクワクしながら黒々と光る舞台へと上がると目の前には広縁と同じように庭が広がっているが、眼前に植えられているのは松だけで正に目の前に広がる松が鏡板に映っているような演出に溜息が漏れた。
なんて清々しい空間なんだろう。宗家宅からは天川や竹生島のように清浄でありながら強大なパワーを感じる。うちの舞台も清浄さでは負けていないと思うが穢れがどのくらい広がっているか分からない今となっては能舞台に漂う空気が淀んでいないことを祈るばかりだ。
一日とは言え泊まりでのお稽古はきっと厳しいんだろうなと緊張するのとは裏腹に私の心はこの舞台上で舞えることに心が浮き立っている。こんな非常時にと恥じ入りたくなるが誰だってここに立てば心浮き立つに違いないと思う。
その時、切戸口から龍樹ちゃんが顔を覗かせた。
「春馬、紅葉狩って稀曲なのか?」
そうだ、そのことをすっかり忘れていた。
「紅葉狩か? それならどこの流派でも稀曲ではないな」
宗家の口からアッサリ言われると少々ガッカリした気分になる。じゃあ学内の能楽堂で一度も上演されていない理由はなんだろう? 道成寺のような大掛かりな道具があるわけではないし披キと呼ばれる難曲でもないとなると、七〇年間一度も上演されていないのは単にあの舞台に立つ人達が紅葉狩を番組に入れなかったのが続いただけなのか、何か因縁があるのかどちらなのだろう?
「七〇年ほど前に紅葉狩の上演中に何か事故が起きたことは?」
龍樹ちゃんが更に質問を重ねた。西桃流宗家がこの地に住んでいることから東海地方の能楽愛好者は西桃流を好む人が多いと思った故の質問だが、宗家はその言葉に目を伏せた。
「僕が宗家になる前は長らく宗家不在の時期が続いていて、その間の記録が一切ないので分からないんだ。すまないな、役に立てなくて」
何か込み入った事情があると察したのだろう。龍樹ちゃんは十分参考になったと返し紅葉狩にまつわる謎解きは棚上げになった。
「さあ、お昼まで基本のハコビと型をお稽古しましょうか」
宗家が気を取り直して声を上げる。それを合図として、それはそれは情け容赦のない稽古が始まった。
摺り足で歩くのは神楽と同じだからと無意識に高をくくっていた私はその考えを数秒で改めざるを得なかった。とにかく使う筋肉の場所が神楽とは全く違うのだ。美しい摺り足をするためには腰を落とさねばならず腰を落とせば膝も曲がる。その状態で上半身は背筋を伸ばさねばならず、お腹の筋肉、いわゆる丹田の強さが必須でゆったりとした動きからは想像できないほどに能楽はアスリート状態だ。
そこに扇を持っての型が付け加わるとギクシャクとしか動けない。宗家の後ろに雛のようにくっついて摺り足で進みながら型を真似るがシンプルな動きは逆に誤魔化しが効かない。扇を返せば違うと言われ、手を上げれば角度が違うと言われ、立ち止まるれば止まる足が逆だと言われ。舞い始めは左足から出るが扇を上げているときは右足から出ると説明されても混乱するばかり。そうして宗家がそろそろ昼食にしましょうと言った時には私は全身筋肉痛になっていて舞台の上に座り込んだ。
「見るのと違ってキツイでしょう?」
宗家の涼しい笑顔が憎らしい。と同時に、あれほど優雅に舞う人の身体が鍛えられていると感じた理由にも合点がいった。舞台だけでなく日々稽古をしていれば嫌でも筋肉が鍛えられる。
「先程の部屋に昼食を用意しましたから」
と言われたが、そこまでの移動を想像すると鬼と呼びたくなる。私は足を引きずりながらも宗家の後に付いて部屋に戻ると、どこぞの高級料亭かと思うような見事な和食が用意されていて度肝を抜かれた。
「午後からはもっと厳しくなりますから、しっかり食べて下さいね」
やはりお稽古となると鬼だ。そう思いながら私は料理を完食した。
午後からは午前中に叩き込まれた型を繋ぎ合わせて舞える曲をということで仕舞の鶴亀を宗家の後に付いて舞う。後ろに付くと宗家の動きがとてもよく分かるし、どちらの足から出てどちらの足で止まるかは宗家が理論的に説明をしてくれ原理が分かって慣れてきたところに祓いの舞を提案された。
「菊花さんにはお辛いと思いますが、紅葉狩の舞囃子はどうでしょう?」
「は?」
私はさぞ間抜け面をしていたと思う。因縁のある紅葉狩だけど、それ以前に穢れを祓う曲に相応しいとは思えなかったから困惑する。だけど宗家の言いたいこともなんとなく分かった。
全てはあの日から始まった。家族で薪能を見に行き、帰りに事故に遭い家族三人を失い、私は双子の菊花として生きなければならなくなった。宗家は荷葉と菊花が入れ替わっていることこそ知らないが、あの時に見た紅葉狩こそが穢れを祓うに相応しいと判断したのだろう。
「紅葉狩の舞囃子というと?」
「中之舞です。紅葉狩に抵抗があるなら他の曲の中之舞でも宜しいですよ」
中之舞が複数の能の曲の中にあるとそこで初めて知った。ちなみに今年の例大祭で宗家が舞う嵐山の中にも中之舞があるという。中之舞が始まる前後の舞や謡は曲の内容に準じたものになるが、中之舞部分だけはお囃子も振り付けも同じだと聞いて驚いた。
「私に舞えるのでしょうか」
「舞えるのかじゃなくて舞うんだろ?」
龍樹ちゃんの厳しい声が切戸口から届いた。
【五】
その日は夕食後から就寝まで中之舞の稽古に集中した。身体の節々、特に足の臑が酷い筋肉痛になったが弱音を吐く気にはなれず、その後は意識を失うかのように布団の上に倒れ込んだ。
宗家が舞台近くの部屋に床を延べてくれたのが有難かったが、意識朦朧としていたから宗家と龍樹ちゃんに抱えられて布団に横たえられたことに恥ずかしいとか申し訳ないとか思うゆとりもなく睡魔に取り込まれる。たた鼓膜だけは少し生きていたようで宗家と龍樹ちゃんの会話を微かに捉えていた。
「こんなに無理して大丈夫なのかな」
これは宗家の声。
「今のこいつは何でもかんでも黙って一人で背負って無理して弱音を吐かないからな」
「昔は違っていたのか?」
「まあな」
龍樹ちゃんの言葉に心拍が上がるが眠気が酷くて反応できなかったのはかえって良かった。
「これで成果が出なかったらと思うと怖い」
「その時はお前がなんとかするしかない。土師くん」
宗家の含みのある言葉が気になる。でも私の鼓膜も限界でそのまま熟睡して翌朝青褪めた。
生活習慣というのは凄いものでクタクタになって失神同然に眠りに落ちたのに翌朝は普段通りに五時に目が覚め、何の気なしに自分を含めて周囲を観察して漸くそこが宗家の家で寝る間も惜しんで中之舞の稽古を付けて貰ったことを思い出す。
出で立ちは寝巻き代わりの浴衣でフカフカの布団の上にチンマリと座っているうちにとんでもないことになったと泡を喰った。宗家が床を延べてくれ龍樹ちゃんと二人がかりで運ばれたことを思い出すと恥ずかしさで憤死しそうだ。
それ以上に誰が私を着替えさせたのかも気になった。宗家はそんなことはしないだろうと勝手に決め付けるがそうなると龍樹ちゃんしかいない。見られた? 布団の上で一人青くなったり赤くなったりしていると居ても立っても居られなくて障子を開ける。ヒンヤリとした早春の風が入ってきて少し落ち着きが戻ると広縁越しに能舞台が見えることに気付いた。
私は急いで着替えて能舞台に向かう。まだ薄暗い中で見る能舞台は神聖な色を帯びている。雀の鳴き声に背を押されるようにして私は切戸口から舞台へ上がった。
昨日、散々舞って能アレルギーを起こすかと思ったけど、檜の床を踏むとたった一日稽古しただけなのに身体が覚えたのか自然と振り付けが甦る。なんだか嬉しくなって私は中之舞の笛の音を自分で謡いながら舞ってみた。
「オヒヤ ヒユ イ フヒヤー リウヒー」
昨夜は上手く動かなかった手足が自分でも驚くほど軽く伸びやかに動く。昨夜のお稽古では散々だったのに一晩置いて熟成されたかのようだ。何よりスムーズに舞えるのが気持ち良くて私は一心不乱に舞った。やがて中之舞が終わり仕舞の終盤に差し掛かる。
「絶えず紅葉 青苔の地」
その時、私の謡に別の声と笛が重なった。驚いて振り返ろうとする。
「止まらないで続けて」
宗家の声に私はやや萎縮したけど、そのまま舞い続け最後に下二居という型で締めくくった瞬間ヘナヘナと力尽きて舞台に座り込んだ。
「よく一晩でここまで作り上げましたね」
宗家にこんな風に褒められるとは思っていなかった。ただ舞うのが気持ち良くて昨日教わったことを多少は気にしながらも伸び伸び舞ってしまっていたからてっきり止められると思ったのに止められるどころか謡と笛を合わせてくれるなんて。
あれ、そういえば謡は宗家だとして笛は誰だろう。こんな早朝に囃子方を呼んで下さったのだろうかと思いながら漸く後ろを振り返ると笛を手にしていたのは龍樹ちゃんだった。
「能管を吹けるの?」
「まあな」
全く知らなかった。まさか彼も能楽部に所属しているのかと思ったがそれはアッサリ棄却される。本人は趣味だと言うけど、趣味の割には玄人はだしの域に達しているような気がする。
「では今度は細長を着て舞いましょうか」
そういえば振り付けを覚えることに必死で肝心の装束のことをスッカリ忘れていた。袴姿で上手く舞えたとしても細長を着て舞うとなるとそう簡単にはいかないだろう。私は袴を長袴に着替えた後、龍樹ちゃんの手を借りて細長を身に付け舞台に立ったが切戸口を潜る時に装束の裾が絡んでしまった。これで舞えるのかと怖くなったが狭い切戸口から広い舞台へ出てみれば特に支障なく動くことができた。問題は下二居の型から立ち上がる時だけど、背後に座る地謡担当の宗家が裾を綺麗に広げてくれたおかげで難なく立ち上がることができ、その後はスムーズに中之舞を舞い終えることができた。
コツを掴んだせいか舞の最後の下二居から立ち上がる時も、舞い始める前に着座した場所に戻って正座するのも上手くいき、無論その際はやはり背後の宗家が裾を綺麗に広げてくれたからなのだが私はこれならと手応えを覚えて安堵した。
その後、宗家から扇や手の角度、爪先の向き、そして装束の裾の捌き方などの細かい点の指摘やアドバイスを受けて朝食となったが、その場で宗家が今夜薪能をやりましょうと突然言い出して私はご飯で咽せた。
「無理無理、絶対無理です」
「やるならは早い方が良いでしょう?」
「まだ無理です」
「舞のことでしたら十分仕上がっていますから心配はいりません。むしろ今の感覚を覚えているうちに決行した方が良いと思います」
「でも薪能なんて準備が……」
すると龍樹ちゃんが余計な口出しをした。
「薪能に必要なものは揃っているんだろ?」
私は思わず龍樹ちゃんを睨み付けてしまった。確かにうちは夏に薪能を出すから道具類は全て揃っている。でも薪能の準備って手が掛かるんだよ。特に篝火に火入れする際に使う種火。あれは神職が人力で起こさなくちゃならないし、薪だって重くて持ち運びが大変だから前日から男手を借りて入念に準備する。それを今日の今日にとは無茶すぎる。
「準備は僕と龍樹が手伝います。人手が足りないなら弟子にも招集をかけます」
言葉は丁寧だけど圧が凄い。それだけ事態が逼迫しているのだろうしそれは当事者である自分が一番分かっている。でもこんなに余裕がない状態で祓いの薪能をやって果たして効果があるのだろうか。舞い手が宗家なら効果は出るだろうが舞うのは他ならぬ私なのだ。
「それに囃子方が……」
地謡は宗家が受け持ってくれとしても本来は地謡いは四人で謡うんだよね。それに笛は龍樹ちゃんが担当してくれるとしても小鼓と大鼓がいない。いや、毎年三度も能を出す神社の宮司としてツテはある。けれど今日の今日にお願いしますとはさすがに無理がありすぎだろうと思ったけど宗家は涼しげに笑って私の心配を払拭してしまった。
「その件ならご心配なく。昨夜のうちに地謡方も囃子方も手配しておきましたから」
どう抗っても宗家には暖簾に腕押し状態だ。こうなると私が心を決めるしかない。でないと無理なお願いを聞き入れてくれた地謡方と囃子方に迷惑を掛けることになる。完全に外堀を埋められた状態の中で私は思った。宗家って終始穏やかに見えるけど意外と強引な面があるんだなと。
「分かりました。今夜やりましょう」
「お袋には連絡したから」
二人共、仕事が早い。こんなんで大丈夫なのかな。本来なら私が先陣を切って動かなきゃいけないことなのに。一抹の不安を覚えながら朝食を終えると慌ただしく片付けと身支度を調えて龍樹ちゃんがハンドルを握る車に乗り込み三人で成瀬市へ向かった。
薫衣大辨財天社に到着すると薪やそれを入れて燃やす鉄製の籠やらが既に倉庫から能舞台の前に運び出されていた。叔母がうちへの信仰が篤い近所の男性陣に声を掛けてくれたようだ。
「叔母さん、迷惑を掛けてごめんね」
「毎年やっていることだから何てことはないわよ」
私はもう隠してはおけないと思い、ここで叔母に身近で怪異が起きていることを告げた。突然の薪能もそれらを祓う為であること、怪異は私にだけ起きていて今のところは叔母や参拝客に被害は及んでいないようだが、穢れが神社全体に広がっている可能性があり放置しておけないことも吐露する。
「菊花ちゃんの様子が尋常じゃなかったから、大方そんなことじゃないかと思っていたわ」
私は平静を装っていたつもりだったけど叔母には通じていなかったようだ。万事ゆったりなペースは見せかけで眼力は鋭い上に意外とオカルト方面にも強いことを思い知らされた。人間は見た目通りではないと分かっていたつもりだったけど何も分かっていなかったんだな。
「これでも一応神職なのよ」
叔母はそう言って笑う。その笑顔を前にした途端、私の中にある澱のようなものが消え去った。そして悟る。私は叔母をいまひとつ信じ切れていなかったのだと。そしてそんな自分を恥じ今後は何でも相談しようと決意した。
その後は全員でバタバタと準備に走り回った。力仕事は近所の男性陣と宗家と龍樹ちゃんが、私は一旦入浴して身を清めた後に細長を身に付け、本殿へ赴き薪能の成功を祈る祝詞を奏上してから火種を作る作業に没頭した。
火種は火起こし器を使い摩擦熱で火を起こす昔ながらの方法で作る。木葛を焦がし、紙を添え、木片を添えて、少しずつ大きくしていくのだ。千年の灯明もこうして灯されたと伝え聞いている。
マッチやライターを使う方が楽なのは承知しているが楽な方に流されず守るべきしきたりが存在するのだと思う。ことに今回は穢れを祓う為の薪能だ。殊更に慎重な神事と言っても過言ではないから私は強く祈りながら火種を作り、そうやって大きくなった火を行灯の中の灯明芯に移す。行灯を使うのは本殿から能舞台まで移動する間に火が消えてしまわないようにするためで、夏の薪能でもこの方法を用いている。
帰宅してから少なく見積もっても体感で三時間は経過している。私は少し慌てて灯を持って本殿の御簾を開けるとそこには龍樹ちゃんがいて手を差し出してきた。
「その格好で能舞台まで行くのは大変だろ?」
確かにそうだと思い行灯を龍樹ちゃんに託すと私は本殿横にある隠し通路の扉を開いた。