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第四章

【一】

 その日も大学から帰宅後すぐに境内と社殿内の点検をしていたら掃いていた足袋が突如水を含んで思わずキャっと飛び上がった。拝殿の片隅に水溜まりができていたのだ。内心で不安が増したが、よくよく注意して見ると壁の板と板の間に少し隙間ができているのを発見してただの雨漏りだと胸を撫で下ろした。やはり怪異と言われている現象は科学的に全て説明できるのだと一人胸を張って笑ってしまう。

奇妙なのはここ数日雨が降っていないことだ。掃除中も地面は乾いていたし石段脇の砂もサラサラと風に飛ばされるほどに乾いている。私はこのところ日中は暖かいが夜間から朝にかえて冷え込むその温度差による結露のようなものだと結論付けて雑巾で水を拭き取った。

 相変わらず社殿の下に住み着いて参拝客に可愛がられているとされる猫は現れない。そもそも叔母の勘違いだと考えながらも私の目は無意識に猫を探してしまうがニャーとさえ聞こえてこない。ここは辨財天だから住み着くなら龍かその眷属である蛇やトカゲの類いだろうと思いつつも爬虫類が床下に住み着くなら猫の方がマシだなどと思ったりもする自分の身勝手さには苦笑するしかない。

 私は自分を納得させるために遂にインターネットに頼った。何せ自分がスピリチュアルに興味がないからこうでもしないと神社と猫を結びつける何かを思い起こせないのだ。あくまでも猫が本当に住み着いていたならばの話しだが。調べた結果は大凡こんな感じだ。

『黒猫は幸運や邪気払いを意味する』『茶トラは平和や安定を意味する』『三毛猫は運気のバランスが取れていることを意味する』『白猫は浄化・愛・美のエネルギーを意味する』

 良いことしか書いてないじゃんと皮肉りながらも私の目は三毛猫と白猫の記載に吸い寄せられるが書いてあることを頭から信じる気にはならない。最初の怪異は三毛猫だったが三味線の演奏や踊る三毛猫に運気のバランスどうこうを当てはめるのも馬鹿馬鹿しいし、叔母が見た白猫の愛や美というワードも疑わしい。唯一、浄化という文字には一理あるような気もしたが私の前には出て来ないのだからやはり信じるには程遠い記載だ。

 私はパソコンを閉じると大きな溜息を吐きながら夕拝を執り行うためにひとまず入浴を済ませて白衣と袴に着替えた。朝拝と夕拝はお寺で言うところの朝と夜のお勤めで、御祭神に祝詞を奏上し供え物の酒や榊を取り替える重要な仕事だ。先に入浴を済ませるのも身を清める為である。

 掃除以外は正装の細長姿で立ち動くべきだが参拝客の参加がない夕拝時は正装を省略している。でないと装束の脱ぎ着で時間を取られて勉学どころか寝る時間もなくなるからだ。

 今夜は朝拝に参列者がいて時間が押したために割愛した千年の灯し火への灯明芯と菜種油の追加もある。うちのお社は本殿と拝殿の間の急な階段の上に奥拝殿と呼ばれる間を設けてある。結婚式や長寿祝いの際に祈祷を受けた者にだけ解放される場だが、朝拝に参列する参拝者は簡易的な祈祷を受け御神酒を飲んでいるので汚れがない身としてこの場への立ち入りを許可している。だがその奥拝殿と本殿の間は御簾で仕切られているだけなので、そこに人がいると私は御簾を巻き上げて本殿に入れないのだ。辨財天が拝殿を見下ろすような造りなのもあるが、本来は急な階段の上に参拝客が登ることを想定していなかったので本殿への入口は隠し通路以外はない。

 御簾を少しでも開ければ本殿に安置されているご神体が見えてしまう。五年に一度の一般公開とされているそれを垣間見られることは禁忌だ。御簾を開けずに本殿に入れるよう御簾を一間ほど本殿の内側に掛け替え空いた空間、つまりは奥拝殿の横に入口を作ることも考えたが、その工事のあいだご神体をどこに移動させるのかを考えると良いアイデアが浮かばず現在に至る。そんなこんなで灯明の手入れができなかったので夕拝でやるしかない。灯明の手入れは油差しと灯明芯の追加のみならず菜種油のせいで煤けてしまうガラスの器の清掃も必須で、これらの全てを行おうとすると参拝客がいる時間帯はどうしても避けざるを得ない。

 千年の灯明とは文字通り千年のあいだ人々の平和の祈りと共に灯され守り続けるためのもので、一度たりとも消えることのないよう山奈家が守らなければならない。そのため燭台は木製ではなくガラスを使っている。灯りを風雨から守る為に焔は灯明皿も兼ねたガラスの器の内側に灯されていているのだ。円錐形を逆にしたような形をしたガラスの内側には菜種油を多く入れられるため毎日油を追加する必要はないが、かといって放置しておけるものではないので油や灯明芯の減り具合を毎日注視している。

 この千年の灯明を同じガラスの燭台に移して参拝客の目に留まる場所にも置いてある。この行為は参拝客へのサービスと言うより灯りを守るためと言った方が良いだろう。万が一トラブルが発生して本殿内の灯明が消えてしまっても境内にあるもうひとつの灯明から灯りを移せば千年の灯明を守ることができるとは先人の知恵だ。恐らく織田信長に焼き落とされた延暦寺の灯明を参考にしたのだろう。

 灯明は参拝客の目に留まる場所にあるとは言え割れにくい耐熱ガラスのケースの中に大切に置かれケースには鍵も掛けられていて、悪戯心で揺らされてもビクともしない程度の重さも兼ね備えている。現時点ではどちらか一方の灯りが消えたというトラブルはないようだが地震大国な日本だ。気の緩みは許されない。

 先祖代々、私達はそうやって神域を守ってきた。だが神職になり実際に神社の様々な行事や日々の業務をこなしながら思うのは神域とは結局人間が作り出している場だということだ。毎日掃き清め、祝詞を奏上し、神を敬う。その行いをする場を神域と呼んでいるにすぎなくて、実際は俗世に塗れた世界と大差ない。いや俗世そのもののかもしれない。

 そう思うのは、俗世と神域を隔てる鳥居という結界があるにも関わらず鳥居をくぐる際に一礼しない参拝客が増えてきたからだ。鳥居に手を回してVサインで写真に収まる観光客の姿を見ると複雑な心境に陥る。更に最近は映えるというだけで信心深くない人々が訪れることも多く参拝そっちのけで御朱印だけ求める輩も多い。うちの鳥居は朱色、石造り、黒木の三種あるが、朱色と黒木の鳥居は頻繁にSNSに上げられており参拝者や観光客からすれば映えスポットなのだろう。だが私からすれば見慣れた神社の光景なのでどこが映えるのか皆目分からない。

 そう言えば先日も三河にあるお稲荷さんの狐の石蔵を撮影する為に一眼レフを持った観光客が後を絶たないとテレビで特集されていたな。静寂の森の中に紅白の旗がはためき、そこに静かに鎮座する色々な顔の霊狐の石像。うちの現象もあれと似たようなものか。伏見稲荷の千本鳥居や厳島神社に人々が魅了されるのも分かる。確かに神域内の紅や朱は美しい。

 そんな事を考えながら私は新しい酒を入れた瓶子すと素焼きのかわらけ盃、その他のお供えの品や燭台を掃除する布、油差しと灯明芯を大きめな盆に乗せると急な階段を上り始めたが黒光りする階段は中々に恐ろしい。毎日雑巾で磨き上げているから滑り易い上に適度な位置に手摺りがないのだ。あるとしたら横に二間はある階段の両脇にある手摺りと呼んでも良いのか分からないような縁だが、盆が重く両手は塞がっている上に手が空いていたとしても咄嗟に掴めるものではないので毎回恐怖でつい及び腰になる。

 朝拝に参列した参拝客を上の奥拝殿に案内する時はなんとか体裁を保っているが一人の時は毎回腰が引ける。そろりそろりと階段を登り切り今日も無事に登り終えたことに感謝すると片膝を付いて盆を置き御簾を巻き上げる。私がくぐり抜けられる高さを巻き上げ紐で止めると盆を手に本殿に入りすぐに御簾を下ろす。

 本殿の中は香木の香りで満たされていて、それだけで身も心も清浄になっていくようだ。香木でできた琵琶とそれを持つ辨財天像は一段高い畳の上に安置されていて畳の周囲を几帳が取り囲んでいる。御簾から几帳の内までは膝行で進み漸くご神体と対面という段取りだ。

 ご神体に向かって左側に灯明、左右と後ろの三箇所に木彫りの龍が鎮座する。一匹は蜷局を巻くような形、一匹は今にも飛翔しそうな形。もう一匹は領巾を纏っている。辨財天像の前には三方が置かれ酒の入った瓶子と素焼きのかわらけ盃に榊が、龍の前には四合瓶の清酒が三本供えられている。私はそれらを一旦遠ざけ新たな供え物を置いた。瓶子の中と四合瓶は大吟醸だ。

 下げられた瓶子の中や一升瓶の中味を御神酒と呼ぶのだが、これを朝拝で観光客向けに説明すると皆がどよめくから恐らく供えられる前の酒も御神酒だと思っていたんだろうな。ちなみに御神酒は正月と朝拝と夕拝に参列した参拝客に振る舞ったり結婚式などの儀式に用いるが。余ると料理酒に化けるのはトップシークレットだ。

 お供えの交換を済ませると本殿の中の壁や屋根を一通り目視して異常がないか確かめその後に燭台の掃除に取り掛かる。火を消さずに内側を拭かねばならないので気は使うし手も震えて緊張感は計り知れない。だが炎の熱さは気にならないから不思議だ。最後に油を足して一連の作業を無事に終わらせると次は祝詞の奏上だ。

 私は几帳を動かし空間を解放した上で辨財天像の前に居住まいを正して座った。几帳を避けるのは日に一度や二度くらい弁財天と龍を閉じ込めず開放感に浸ってほしいとの願いからである。

 懐に挟んでいた奉書紙を取り出し広げると祝詞の奏上を始める。異変を感じたのは祝詞の奏上が終わり奉書紙を畳んでいる時だった。何か焦げ臭いような気がして目を上げると信じた難いことに千年の灯明が今まさに几帳に飛び火している所だったのだ。アッと声を上げる私の眼前で几帳から勢いよく火柱が上がる。それはまるで昇り龍のようだった。


【二】

 飛び火した焔はたちまち几帳を飲み込んだ。火柱が本殿の天井近くまで立ち登る。私は暫し呆然と焔を見ていたもののすぐに正気に戻った。でもどうすれば良いのか分からず右往左往する。古い社殿だが消防法に則って火災報知器は設置してある。だが作動する気配はない。つまり誰も気付かない上に誰も駆け付けて来ないということだ。私が何とかするしかないと辺りを見渡すと榊を入れた手桶が目に入った。あの中に水がある。足りるかどうかは分からないがとにかく消火しなくてはと私は手桶を手に取って几帳に水を掛けようとした瞬間、あれほどまでの火勢が嘘のように引いてたちまち消えてしまった。

 消えたのは炎だけでなく火柱が上がった痕跡も消え失せている。本殿内には焼け焦げどころか煤ひとつなく、屋根を注視してもはやり火柱が上がったような跡は見当たらない。琵琶は勿論のこと財天像も龍神像も焼け焦げどころか傷ひとつない。何より私を驚かせたのは、炎に飲み込まれた几帳が無事なままそこにあることだった。平安の女房装束さながらの透けるような薄い几帳の絹地は何事もなかったかのように差し込む夕陽を受けてそこにある。

 能の羽衣に出てくる天女の羽衣とはこういう物かと見る度に見惚れていたものが無事だったのは何よりだが、私の心臓はドキドキを上回って今にも卒倒しそなくらいにに痛い。一体何が起きたのかすぐには理解できなかったが単純な家事や火の取り扱いのミスとは思えない。そこは自分でも神経質なくらいに気を付けていたし灯明を倒した訳でもなく火が几帳に飛び火する原因が分からない。

 とりあえず本殿の左脇にある御格子を開けた。小さなもので明かり取りとして使用するものだが、そもそも煙が充満していないので空気の入れ換え程度なら事足りる。もしこの御格子を開けていたなら、ここから入った風で灯明の火が几帳に飛び火することも考えられるが当時ここは閉まっていた。

 何より私は火が上がる寸前に見たものを今更思い出して震撼していた。火が上がる寸前、風が入る隙間もないのに頬を生暖かい風がひとなでしたと思ったら几帳がフワリと浮きそこから覗く目と合った。それが人の目だと思った瞬間に几帳に千年の灯明の火が燃え移り一瞬の間に龍の形の火柱が上がったのだ。

 あれは何だったのか? 明らかに人の目だったが本殿に人が潜むような場所はない。几帳の裏に隠れるにも几帳の生地は本当に薄くて人が隠れてもすぐに分かる。それは幼い頃にやった隠れん坊で実証済みだ。あの時は母にこっぴどく叱られたから鮮明に覚えている。そこまで考えて私はゾッとした。私の目と人と思しき目が合ったが身体は見えなかったし几帳が浮き上がったのはほんの数センチで万にひとつの可能性として人が潜んでいたとしても床に腹ばいになる以上の低い体制で潜んでいなければあの場に目が現れるのは不自然だ。そう考えるとあの目が誰のものなのかより何だったのかの方が気になる。

 異形の者、あるいは邪な者の類いだとしたら? だがここは毎朝夕に祈りを捧げている清浄な空間だ。でも自分でも思ったではないか。神域とは所詮人間が作り出しているものなのだと。私はどちらかというと苦しい時の神頼みな類いの人間だが、神職の資格を取ってご奉仕するようになってから少なくともこの薫衣大辨財天社の中だけでは神職として神を敬い存在を信じてご奉仕しようと心掛けているつもりだ。だがその姿勢がそもそも間違っていて信じてもいない神に奉仕することは罰当たりな行為なのだろうか。

 とにかく我を取り戻す為に御簾を上げてフラフラと奥拝殿へと出る。拝殿を見下ろすとその向こうに能舞台も見える。どちらも夕陽の最後の残照を受けた屋根が緋色に輝いていて美しく神秘的な光景だ 

私は頭を冷やす為に階に座った。心地良い風が頬を撫でていく。暫くそうしていると胸のドキドキは収まってきたが落ち着き始めると別の考えが思い浮かぶ。あの昇り龍のような炎はなんだったのだろう。炎が龍に見えることは大して珍しいことでなないが風もない中であの火柱は物理的におかしいし、あの火柱の大きさから科学的に考えると本殿が全く焼けていないのもおかしい。

 私は再び御簾を上げて本殿の中に戻り注意深く検分した。炎が上がった時に慌てたので若干中は乱れているが瓶子や榊を入れた桶が転がっている割に床は全く濡れていないし傷ひとつない。油差しにも異常はなく、そもそも本殿の中は何事もなかったかのように静寂に包まれている。私は片付けながら散らばった物を置くべき場所に置いて本殿内を整えると御格子を下ろしてから几帳でご神体を囲もうとしたところで几帳が僅かに湿っていることに気付いた。

 炎に驚いて水を掛けようとしたが実際には掛ける前に火は収まったので濡れるはずはない。もし油で濡れたのだとしたら今頃焼け落ちていることだろう。一体何故濡れているのか? そこまで考えて私はひとつの答えを導き出さざるを得なかった。あの火は本殿を焼き尽くす炎ではなく浄化の焔だったのかもしれない。そういえば辨財天像の横と後ろに安置されている龍神三体は五方龍王から着想を得たのではなかったか? 

 そもそも最初は五体の龍が奉納されるはずで辨財天を取り囲むように置かれる予定だった。だが五体掘る前に職人が亡くなった。最近の話しではなく遙か昔の、それこそ歴史の教科書に出てくるような時代のことだったと曖昧な記憶を掘り起こす。

 どこかに書き付けがあったような気がする。私は本殿内を片付け盆の上に下げた瓶子や酒などを載せると過去最大級のスピードで階段を降り社務所へ向かうと引き出しや扉を開けて冊子に閉じられた和紙の束を片っ端から読んでいった。文字が掠れて読み取れなかったり虫食いがあったりで作業は難航を極めたが何とかそれらしい書き付けを見付け出すことができた。やはり記憶は正しかったが少しだけ違う部分もある。

 龍の彫刻が五体納められる予定だったことは本当だったし途中で職人が亡くなったのも事実だが、その職人は余命がないことを悟り五体を三体で表現しようと技術を惜しみなく注ぎ込み新しい技法や材料などを考案したらしい。

 五方龍王とは竜を五方と五色に結び付けた東方青龍、南方赤龍、西方白龍、北方黒龍、中央黄龍を表す。道教上では龍ではなく青龍、朱雀、白虎、玄武、麒麟の瑞獣だ。どちらも火、土、金、水、木を表しこれを五行とする。そしてその職人は木彫りの三体の龍を原型のない水と火と風の龍の形とし、水龍の目には水を思わせる水晶を、火龍の目には五行の火生土から着想を得て土を入れ、風龍は風を感じるよう一本の木から龍と領巾を彫り上げた。当時としては恐ろしく手間を掛けたものだと推察できる。

 ただ書き付けには続きがあった。一読すると五体を三体にした理由にはもうひとつ説が存在し、職人が五体の龍を彫ろうとしたところ神社側が難色を示したとある。理由は均衡が取れないというものだ。そこで職人は五竜ではなく四神、つまり青龍、朱雀白虎、玄武ではどうかと提案したがこれも神社側が辨財天には龍だろうと難色を示したとある

 そんなやりとりがあり落ち着いたのが五竜を三体で表現する案だったわけか。それにしても古の職人は五行や四神に造形が深かったのかと感嘆するばかりだ。それとも寺社に関わる仕事を請け負う者として当然の知識だったのか。どちらにせよ私は歴史上の貴重な文献をこの目で読み解いたことでうちのお社の歴史に俄然興味を持ったし、当時の職人が神職顔負けの学識を持っていたことにも興味をそそられた。

 職人が命を掛けて作り挙げた龍はそれだけで相当の力を持っていると思って良い。そこに年月がプラスされほぼ付喪神になっているとしたら、あの龍にはご神体を守るのみならずこの神社を守り神域に潜む邪気を祓うくらい造作もない力が宿っていることになる。

 書き付けの全てを信じるわけではないが私の頭の中の何分の一かは記された内容を少しは信じる気になった。どれほどの祓いの力を秘めているか分からないが小物なら祓ってしまえるのだ。今日の火事が小物の仕業かどうかは分からないし、そもそも大物と小物がどれほど違うのかも定かではないが。

 もしかすると最初の怪異である猫の集団があれ以来出て来ないのも龍の恩恵かもしれないとも思った。床下に住み着いたらしい白猫が出て来ないのも、それが善か悪かはともかくとして龍に怖じけついているとしたら納得もいく。

 ただ龍が守ったのは私ではないような気もしていた。彼らが守ったのはご神体である琵琶と辨財天なのだと確信めいたものを抱く。その場にいた私はただ運が良かっただけだ。ただ炎の中で龍神を目の当たりにしたことは私にとっての吉兆と言っても差し支えないだろう。つまり私は龍に、いや龍と辨財天に守られたのだ。

 今日の怪異をそう思うことで納得させようとする自分に別の自分が突っ込みを入れる。そんな簡単にスピリチュアルを受け入れて良いのか?と。私だって正直そう思わないこともない。だけど仕方ないじゃない。本当に今日は間一髪で私も社殿も助けられたのだし妙なものを見たのも確かなのだ。

 私は全ての灯籠と石段脇の常夜灯に火を入れるために和蝋燭を差した手燭を手に外に出た。今夜はひとつひとつに感謝を込めて火を灯そう。全ての灯籠と常夜灯に火を灯し終えると拝殿に戻って守ってくれたことへの礼を述べて夕拝を切り上げる。外に出ると空は益々暮れていき西の空に微かな紫色の帯が現れると辺りは一足飛びに闇に包まれ灯籠の灯りだけに照らし出された。境内が最も神秘的な光景になる刻だ。

 今日も慌ただしかったなと感慨に耽るのを叔母の声に引き戻された時、自分の考えに矛盾があることに気が付いた。あの龍と辨財天がこの社を守っているのなら叔母の見た白猫の説明が付かない。結局その日の夕食の席で私はあの炎のことを口にしなかった。


【三】

 翌日、私は昨日の一歩間違えば大火災だったことを龍樹ちゃんに打ち明けた。従兄姉とはいえ忙しい学生会長の彼に甘えるのは止めようと誓ったばかりなのに既にこんな体たらくだ。既に知られていることながら、私は化け猫に遭遇した件から昨日の焔のことまでを順序立てて説明しようとしたが、叔母の白猫を見たという言葉を思い出すにつれ言葉が尻すぼみになっていった。私が龍樹ちゃんに訴えようとしていることは裏返せば叔母を非難することになりはしないかと思ったのだ。

「つまり菊花はお袋が鈍感だと言いたいわけだ」

「違うよ、そんな風に思ってやしないってば!」

 龍樹ちゃんの言葉に私は思わず感情的に反論した。

「分かってる、冗談だ」

 龍樹ちゃんは笑い飛ばしてくれたが、余計に気詰まりになる。

「菊花の話しを簡単に纏めると、お袋は怪異には遭遇していない。なのに白猫は見えているってことか?」

「うん、そう」

「その白猫も、怪異の一端を担うモノなのか野良猫か分からない。お袋が目撃しているということは即ち野良猫の可能性が高い。それのどこが変なんだ?」

 私はコクコクと頷きながら、どこが変なのかをどう説明すべきか悩んだ。

「私は昨日、ご神体とその眷属の龍神が薫衣大辨財天社自体を守ってくれてるんだと考えたの。だから叔母さんは怪異に遭遇しないと。でも、そうなると私はどうなのかなって」

 化け猫に逢い、足袋が濡れ、御簾の下から覗く目を目撃し、本殿の火災に巻き込まれそうになった。確かに私が境内の掃除や点検、朝拝と夕拝を受け持っているから凶事への遭遇率は断然私の方が高い上に怪異は母屋ではなく社殿の方で多く起こるから叔母が遭遇しないことは別に不思議なことではない。

「でも白猫のことがどうしても気になって」

 怪異は私の前で起こる。だから白猫が怪異だとしたら叔母ではなく私の前に現れなければならない。だが白猫だけは私の前に現れず叔母の前に現れた。野良猫と考えた方が良いのは分かるが、そう納得するにはパズルのピースが足りないように思えて仕方なかった。

「まあ、お袋はあの通りノンビリ屋だし昔からスピリチュアルには縁も興味もない人間だったらしいから白猫を見たのも白昼夢だったのかもしれないし、そもそも現れた時期が違っているのかも」

 スピリチュアルに縁も興味もないってまるで私と同じだが、これまで一度も怪異とまではいかなくい小さな異変にも遭遇したことがないのだろうか。それを確かめたかったがこればかりは本人に聞かなければ分からないだろう。

「時期については家を出る前に聞いてきたの」

 叔母が白猫を見たのは先月、三月の末だったそうだ。日付もしっかり覚えていた。猫を目撃するくらい大したことではないのに、叔母がそれをしっかり記憶していることがキモなような気にもなった。

「私が神職になった日の前日。つまり神職養成校の卒業式の前日に見たんだって」

 私が実家に戻って来た日ではなく正式に神職の資格を持った日に見て以降、白猫を見ていないと叔母は名言したがそれが意味深だと思った。

「叔母さんは確かにノンビリ屋さんだけど、夢か現か分からないことを見たと名言するような人ではないと思うの」

「要するに白猫は実際にいると?」

 私は頷きながら次の言葉を探した。探したというよりそれを認めるのが嫌で恐れ戦いているのだと思う。

「神社で見る猫って神秘的だよね。ネットで調べたら自称スピリチュアル系占い師なんかが、神社で出会う猫の色によって意味が違うとか色々書いてあって笑っちゃったんだけど、私が想像する白猫ってなんだか神様のお使いのようにも思えるの」

 なら宮司である私の前に現れて当たり前なのだが現れないのは……

「怪異に見舞われる私自信が凶事で、だから猫は私の前にだけ現れないのかなって」

「じゃあ、少なくとも大事故になりそうな火災が何事もなく済んだのは何故だ? 辨財天と龍神が守ったのは紛れもなくお前だろ」

「私を守ったのではなく、神社を守ったのだとしたら?」

 社殿が燃えるかもしれない昨日の焔が忽然と消えたのは辨財天の御座所であるお社を守るためで私を守ったわけじゃない。白猫が私の前に現れないのも辨財天の威光に臆したのではなく私に近寄りたくないから。これなら全ての事象に納得がいく。

「待てよ、もしお前が歩く凶事だとしたら神社の外でも凶事に見舞われることになると思うんだが?」

 龍樹ちゃんの言うことは尤もだが入学式当日に大きな凶事が起きている。建物の倒壊だ。だが龍樹ちゃんは呆れたような顔で私の言うことを笑い飛ばした。

「あの時はお前以外にあと二人一緒にいたけど全員無事だった。その後、俺と二人で能舞台に忍び込んだ時も妙なことはあったが怪異というほどのことはなかった」

 そもそもお前が歩く凶事なら今頃電車や地下鉄で悲惨な事故が連日置き、キャンパス内でも事故が多発しているはずだと龍樹ちゃんが宣うが私も譲れない。

「その辺はほら、さすがに多数の人を巻き込まないように手を抜いてるとか」

「アホ抜かせ、お前ごと本殿を燃やそうとする輩がそんな手抜きをするはずがなかろうが」

 私と龍樹ちゃんの会話は平行線を辿りつつあったが、彼の言うことが胸に引っ掛かってゾッとする。彼の言うように私が歩く凶事で行く先々で事故が起きるなら、これまではお目こぼししていただけで今日にでも教室の天井が落ちてくるかもしれない。昨日、炎に巻き込まれそうになったことを考えると怪異は日増しに大きくなっていっているとも考えられた。

「考えすぎだ」

 龍樹ちゃんはそう慰めてくれるが言い様のない不安が私を包む。

「今日、神社の方に行く」

 不安気な私を気遣ってか龍樹ちゃんがそう言ってくれ私は安堵半分、申し訳なさ半分の微妙な表情の顔を上げたが、その時には彼の姿は消えていた。

「じゃ、帰りにな」

 振り向くと龍樹ちゃんがそう叫びながら教科書片手に手を振っている。慌てて時計を見ると一限目が始まる時間までに五分を切っており、私もとりあえず不安を無理矢理押しのけるとどうか授業中に天井が落ちてきませせんようにと祈りながら教室へと走る。そしてその日の授業は無事に終わった。天井が落ちることも学食で火災が起きることもなかった。

 私は桜山駅の地下鉄の改札前で龍樹ちゃんと待ち合わせると成瀬市へ向かったがいつになく不安な気持ちは拭えない。

 話しを大きくして、と言うより実際に大事になりつつあるのだが、怪異は私の周囲ではなく私の眼前でしか起きていないことだから従兄姉とはいえ他人を巻き込みたくない気持ちと、そもそも全てが夢現の世界の出来事で私の目が幻を紡ぎ出しているにすぎなかったとしたらどうしようとか、そんな様々な不安要素が次々と思い起こされて落ち着かない。そんな私を気遣ってか龍樹ちゃんも黙って電車に揺られ、成瀬駅に着くと彼の奢りでタクシーで神社へ向かう。今夜は暗黙の了解で裏道から神社の敷地に入り自宅前に乗り付けてもらった。

「ただいま」

 と言ったのは龍樹ちゃんだ。私は萎縮しながら無言で靴を脱ぐ。だって私が龍樹ちゃんの母親を横取りしているようなものだから心苦しい上に気不味いまずくて仕方ないのだ家の中には夕食の匂いが漂っていて一気に空腹を感じたが、ダメダメ私は先に入浴して境内と社殿の点検と夕拝をしなければと玄関に荷物を置くとすぐに回れ右をして社務所に向かおうとした所でまるで猫のように首根っこを掴まれて引き戻された。

「ここに来る前にお袋に連絡しておいた。今日の奉仕はお袋が済ませてくれてる」

 だから今夜くらい家族でゆっくりしようぜ。そう言って龍樹ちゃんはウインクを綺麗に決めた。なんだか家族という言葉と龍樹ちゃんの気遣いに身体中の力が抜け落ちてしまったようで私はズルズルと玄関先に座り込んだ。

「迷惑をかけてごめんなさい」

「なに遠慮してるのよ。疲れているなら甘えれば良いのよ。大学進学を勧めた時に言ったでしょ? 私も神職の資格を持っているから手伝うって」

 確かに叔母はそう言ってくれたけど、かといって大学生活を盾に叔母の好意に甘えるのも気が引けて疲労困憊なのに全て自分で抱えてしまっていたことは否めない。ここのところ続く怪異に神経質になり疲労に拍車が掛かっていたのも事実だ。

「今日だけ甘えさせてもらいます」

 すると龍樹ちゃんが私の髪を撫でるように掻き乱した。何すんだよと思ったけど、その手は遠慮なく甘えろよと言っているようで私は心底安堵したのだった。それもあってか夕食は美味しかった。叔母が腕によりを掛けて作った料理はテーブルを埋め尽くす程で、龍樹ちゃんと私の好きなものを全て作ったのかと思うほどだったが、何より母親と兄代わりの二人と本当の家族のように過ごせるのが嬉しくて目の奥がじんわりと緩みそうになるのを堪えるのに苦労した。

 それぞれ交代で入浴を済ますと龍樹ちゃんは当たり前のように二階の私の部屋へやってきた。部屋の中を見渡し、ついでにとなりの荷葉の部屋にも入ってしげしげと眺めている。荷葉の部屋は本来は私の部屋で中にある物は私の私物だから現在使っている菊花の部屋よりそちらを見られる方が恥ずかしかったが、龍樹ちゃんはほどなく複雑な溜息を吐きながら私の前に座った。

「双子だから趣味や嗜好も似ていると思っていたけど、お前と荷葉って顔は同じでも中味は全然違ったんだな」

 なるほど、二部屋を凝視していたのは見える範囲にある小物や蔵書の類いだったのか。そう思うと少しだけ恥ずかしさが失せる。

 そろそろ寝ようとなった段で龍樹ちゃんが菊花の部屋で寝ると言い出し一悶着あったが久しぶりに自分の部屋で寝るのも悪くないなと思えるから龍樹ちゃんの誘導は凄いと感心してしまう。その夜は夕食時の和やかな会話や隣の部屋に龍樹ちゃんがいるという安心感からか私は久しぶりに朝まで熟睡したのだった。

 でも私は失念していたのだ。神は祟るということを。


【四】


 翌朝、私はいつも通り朝五時に起床して白衣と袴に着替えて部屋を出たが、私の起き出す気配を察したのか龍樹ちゃんも身なりとを整えて起き出してきた。

「一緒に行って良いか?」

「勿論」

 四月の半ばとは言え早朝はまだ薄暗く肌寒い。私は龍樹ちゃんに羽織を渡しつつ何をするのかを説明して二人で箒を手に石段へと向かった。下界に見える町の灯りがキラキラしているのも東の空の闇が緩んで紺色になってきているのも美しい。

 私達は三之鳥居から下へ下へと掃き清めながら両脇に並んでいる常夜灯の灯をろうそく消しで消していった。最下段まで掃き清め落ちた葉や砂埃を塵取りに入れると痛む腰をさすりながら伸びをする。横を見ると龍樹ちゃんも全く同じことをしていて思わず笑ってしまった。

「これを毎日とは凄いな」

「えへへ」

 その後二人でまた石段を上がりお手水で手と口を浄めると社務所へ向かった。授与所に置いてある朝拝希望者の記名簿を確認すると名が書かれている。今朝は正装決定だ。私は叔母の手を借り社務所で細長を着た。

 長い裾を引く細長は内側に単や袿を着るため平安絵巻そのものの華やかさで参拝客からは人気だが、十二単に近い構造なので一人では着られない上に重くて動きにくい。本来は長袴を身に付けなければならないのを省略して普通の馬乗袴にしているのは、掃除や奥拝殿までの急勾配な階段事情以外に装束を着付けるのに叔母の助けが必須で手を患わせる時間を少しでも遅らせるためだ。

 朝拝は拝殿で参加者のお祓いをし本殿に向けて祝詞を奏上し御神酒と昆布を振る舞って希望者を奥拝殿に案内する。あくまでも参拝者へのサービスなので奥拝殿まで登った参拝客が立ち去ったあと本殿の御簾の内に入ってもう一度祝詞を奏上するのが常だ。

 この日は龍樹ちゃんにも本殿に入ってもらうことにした。境内の清掃に従事しお祓いも受けているので良いと判断したのだ。二人で本殿前の階段を上り奥拝殿の向こうにある御簾の前に辿り付くと意思とは裏腹に足が竦み同時に脳裏に昨日の光景が甦り鼓動が痛いほど打ち付けて息苦しくなる。

「深呼吸」

 龍樹ちゃんに言われて私は大きく息を吸ってから御簾を開け龍樹ちゃんを誘って本殿に入った。昨日の火災が嘘のように中は整然とした静けさに包まれおり、千年の灯明も無事にゆらゆらと揺れていて異変はない。だが何か違和感を感じる。

 まずあまりに静かすぎた。外では小鳥の鳴き声が聞こえていたのに本殿に外界の音が入ってこない。それに灯明が揺れているのに凝縮した闇の深淵が広くはない本殿中に広がっているかのようだ。まるでここだけ空間が切り取られているようだと思った。ご神体やお供え物の場所は変わっていないが、気温とは違う冷ややかさに背筋に悪寒が走る。龍樹ちゃんも本殿の中を見渡しているが、その目は厳しくまるで刑事が現場検証をしているようだ。彼もこの場から何か感じ取っているのだろうか?

 祝詞奏上するには千年の灯明だけでは心元ないので、ご神体を囲む几帳を避ける前に脇に置いてある行灯に火を入れようとした所で龍樹ちゃんに声を掛けられた。

「おい、几帳を見てみろ」

 言われてそちらを見やると几帳に影が映っている。私達でないのは明白で思わず昨日見た人の目を思い出して身体に力が入る。尚も几帳を凝視しているとボンヤリとした灯りが揺れ始めた。それもかなり小さい。春浅い早朝の暗さでなければ気付けないほどだ。その灯りが少しずつ動き出し灯りの輪郭が黒い影となって几帳にハッキリと映る。それはホオズキの形をしていた。更にそれを手にした小人の影が次々と現れ几帳の向こうでホオズキの灯籠を持ったそれらが無数に前進している。ホオヅキは鬼灯とも書く。まさに鬼火のような提灯行列は人形のように小さな影が動いているが不思議と几帳からは出て来ない。

 几帳の向こう側には辨財天像とご神体、そして龍神像が安置されている。その前をまるで百鬼夜行のような行列が歩いていることに私は動転した。拝殿や社務所ならまだしも最も神聖な場所を妖が蹂躙するなんて。それともどれほど神を敬って境内や社殿を清浄に保ち朝夕に祝詞を奏上しても所詮は人間がやることには意味などないのか。私の中に沸々と怒りが湧き上がり激情に任せて几帳を荒々しく避ける。その途端、百鬼夜行の行列が乱れホオヅキを持った小人達は蜘蛛が散るかのように本殿の隅へと消えていった。

「落ち着けよ」

 龍樹ちゃんに諫められ正気に戻るも落ち着いてみれば散らばった小人達の行方が気になって仕方ない。あれらが更なる厄災を引き寄せないか不安になったのだ。しかもあの光景が龍樹ちゃんの目にも映ったことも問題だ。

 怪異は私の目の前でしか起きないと思っていたが彼には視えた。これは一体どういうことなのか。もしかすると妖の力が日々強くなっているのだろうか。となれば何か対策を講じなくては神社の中に穢れが広がっていってしまうかもしれない。だが原因が分からない。何故こんな怪異が起きるのか。誰が神聖な境内を穢したのか。何が穢れを持ち込んだのか。それともやはり私自信が凶事なのだろか。色々な思いが押し寄せ知らず知らずのうちに私は涙を零していた。

 怖いのではなく悔しかった。菊花に振り回され、その彼女を両親共々亡くし、神職養成校で二年間必死に勉強し、心機一転宮司に就任し、大学受験にも挑み、毎日学業と神職としての勤めを両立し、経営面で頭を悩ませながらも香木を削り、匂袋用の袋を縫う。やっと訪れた忙しくも平穏な日々が泡沫のように消えてしまったように思えて仕方ない。

 能楽奉納はもとより朝拝に参拝客が参加できるようにしたのも私の案だ。少しでも神社に興味を持ってもらいたかったから。実際に寺社仏閣好き以外にも建築家や空間デザイナーにも好評で知名度は上がった。その代わり本殿内のお供えや灯明の管理などを夕拝で全て行わなければならず負担が増えたが、新しいことをする希望の方が上回っていたから気にならなかった。だがそれは気が張り詰めていたからで今になって崩れたのだ。私は鳴き声を龍樹ちゃんに聞かれるのが嫌で必死で歯を食いしばったが、嗚咽と涙を止める術もなくただ静かに泣き続けた。

 龍樹ちゃんは私に声を掛けることなく隣で静かに佇んでいてくれている。顔は見えないが温もりが感じられる。私が孤独ではないと教えてくれているかのようで、なんだか安心して気が済むまで泣き続けた。ただこの涙が荷葉のものとして見られることはないのだと思うと心がささくれ胸が苦しい。

―助けて、誰か気付いてー

 心の中で無意識に叫びながら泣いた。どのくらいそうしていたのか。御格子から朝日が差し込み鳥の鳴き声も聞こえてくる。本殿から邪悪な気が消えつつあると悟ると私は顔を上げた。

「みっともない姿を見せてごめん」

「俺には心を許してくれてるようで嬉しかったけどな」

 頬が熱くなった。従兄姉とはいえ他人に涙を見られるとは恥ずかしすぎる。

「さて、この神社で何かが起きていることは分かった」

 龍樹ちゃんの冷静な声には沈静成分が含まれているようで、私のささくでだった心が収まっていく。

「これからどうしよう」

「お祓いするのはどうだ?」

 龍樹ちゃんのその言葉に私は啞然とした。だって神社では毎日どこかしらでお祓いをしている。なのに今更お祓いをしようって意味が分からない。

「薪能のような大きな祓いだ」

 薪能って言葉に引っかかりを覚えたが納得もしたし目から鱗の気持ちになった。だが問題もある。

「鈴祓いは巫女舞だから私は舞えないんだよね。神楽は舞えるけど能楽奉納と同じで神様に楽しんでもらうためのものでお祓いにならないかもしれないし、私の舞でこれほどの穢れが祓えるのか心許ないな」

 龍樹ちゃんが低く唸った。神職のくせにと呆れられたかもしれないが神職の資格を取り正式に御奉仕を始めてたった一年である。一般企業に入社した新入社員同様にまだヒヨッこにすぎないのだ。

「お前、入学してから春馬に会ったか?」

「春馬って誰?」

 全く心当たりのない名前を聞いて私はポカンとする。

「誰って、西桃のことだけど」

 え、西桃の宗家のこと? いきなり宗家の話しが出て益々ポカンとする。そりゃ大学の能楽部の顧問が流派の宗家ともなれば龍樹ちゃんが存在を知っていても不思議ではない。それにうちでの能楽奉納の御奉仕が西桃流なことは叔母から知らされているだろうし。だけどファーストネームの春馬と呼ぶほどの関係って何だろう。気さくでフランクな関係、つまり友達同士くらいしか思い付かない。そんな私の表情を見た龍樹ちゃんは私の疑問に気付いたようで私以上にポカンとした顔をした。

「まさか知らないのか?」

「何を?」

 龍樹ちゃんは苦虫を潰したような表情になった。何だよその顔はと思ったけど自分が十分に浮世離れしている自覚があるから文句は言えない。

「お前が那古野大学に進学したのは春馬に来いって言われたからだろ?」

「それもあるけど、それだけじゃないよ」

 龍樹ちゃんは私が宗家に言われるがままに進学先を決めたと思っているようだけど、いくら何でも他人の言葉を鵜呑みにして行動なんてしやしない。薬学を勉強したかったから進学先の候補を決める際に三校まで志望を絞ったら那古野大学がその中に入っていたのだ。ただ六年間の学費を考えると国公立の方が良いし、その時に宗家の言葉が思い出されて志望校を決めた結果が今だが、入学式直後からのトラブルで宗家のことも能楽部のこともスッカリ忘れていたのは事実だ。

 春の例大祭の細々とした打ち合わせは済んでいるから今はメールでやり取りする程度で顔も合わせいない。そう答えると龍樹ちゃんは鋭く突っ込んできた。

「まさかと思うが、能楽部の顧問が西桃流の宗家ってことは知っていてもその宗家が同じ学生だとは知らなかったのか?」

「え?」

 私の頭の中は完全にフリーズした。いま何て言った?


【五】


 つまり宗家も私と同じ大学生なのかと疑問に思うまでもない。龍樹ちゃんの言葉は婉曲的ではなく率直だ。

「ったく、あいつときたら無精にもほどがあるだろうが」

 私の狼狽える姿を見た龍樹ちゃんはボソっと宗家への苦言を呈したが私にしても青天の霹靂だ。若いとは思っていたけどまさか同じ大学に通う学生だったなんて。そこは教えておいて欲しかったな。

 同時に反省もした。藤乃と華子との会話からも感じたことだが私はあまりに大学の事情に疎すぎるのだ。進学する気がなかったからジックリ考えもせずに志望校を絞り、叔母達の負担になりたくないから浪人しないことだけに神経を注いで勉学に勤しんだ結果、志望校はもとより大学生活や講師陣の情報を集めることに全く気が回らなかった。後悔しても遅いが、ひとつ言えることは今のところ大学には何一つ不満がないことだろうか。

「宗家とは親しいの?」

「同じ法学部なのもあるが、妙に気が合うんだ」

 私にも親友ができたけど、龍樹ちゃんと宗家の関係はそれとはまた違ったもののように思える。大学で共に過ごした年数は既に四年目だけど年数の長短だけでは説明できない絆があるようで羨ましくなった。

 それにしても二人が法学部だったとは意外だ。宗家は本業が能楽師だけに流派を預かる身として法律の知識が欠かせないのだろうと推測できるが、龍樹ちゃんは法曹界を目指しているのかな。それだと今後ロースクールに行かなくてはならない。叔母夫妻の金銭的負担が気になった。

「金のことは気にするな。お前に大学進学するように勧めたのはお袋だしな」

 龍樹ちゃんは人の心を読むことにも長けているのかと今更ながらに思うが、彼にそう言われると素直に受け入れられるから逆に困る。これでは甘え癖が付いてしまいそうだ。

「話しを戻そう。神楽と能楽は別モノだが気分転換に春馬に会いに行かないか?」

 龍樹ちゃんはともかく私まで軽い気分で行って良いのだろうか。それに宗家と会って話して怪異が解決するとも思えない。ただ周囲からは不思議君と呼ばれていると叔母が話していたっけ。龍樹ちゃんはそう呼ばれる由来を知っていて私に会いに行くことを勧めているののかもしれない。

「そうだ、いっそプロに舞を教えてもらうのはどうだ?」

 頭の中に?マークが乱立してオタオタしていた私は、その言葉に過敏に反応した。

「それって能楽部へ行けってこと?」

 それは嫌だ。あそこにいけば那須女史に十中八九妨害されるに決まっている。百歩譲って那須女史の眼前で宗家に教えを請えば今度こそ殺される。

「春馬の自宅に行けば良いだろ」

「それこそ盛大なトラブルに発展しかねないじゃない」

 そう反論しながら私は宗家のお宅に一度もお邪魔したことがないことに思い至った。年に三度の能楽奉納の打ち合わせはいつも宗家にご足労頂くことになっているから私が出向く必要がないのだが、どうしてそういう経緯になったのか記憶が甦る。

 最初は神社と宗家宅を交互に打ち合わせ場所にしようとしたのだが、お互い時間が読めない生活をしている上に宗家はお弟子さんの稽古がいつ終わるか分からないから私を呼び付けて待たせることを避けたがった。私にも急な祈祷が入れば宗家を待たせることになるからお相子だと進言したのだが、宗家は頑として聞き入れてくれず結局なし崩しにうちで打ち合わせをすることになったのだ。

 自然と会う日取りだけを決めて時間はその日の都合で流動的になるにつけ宗家が訪ねて来る時間帯はまちまちになったが、それでも打ち合わせに支障が出たことはない。ただあの柔和な人が私が宗家宅に行くことを頑なに拒んだ理由が今になって気になり始めた。

 龍樹ちゃんは気晴らしに宗家宅に行こうと言い出したが果たして宗家がこの提案を受け入れてくれるのだろうか。そう思うと龍樹ちゃんの案に乗ってみたくなる。龍樹ちゃんの口ぶりから彼は何度かお邪魔しているようで、従兄姉同士なのに私はダメで龍樹ちゃんが許される理由も知りたくなった。

 思えば打ち合わせ時のあの鎌鼬のような怪異に遭遇しても宗家は平然としていた。もしかして宗家は慣れているのだろうか。考え込む私は自然と黙したが龍樹ちゃんは私が怪異のことで悩んでいると思ったらしく大声で言い放った。

「お前、今に取り殺されるぞ」

 その言葉にカチンときた。勉学と神職の両立。好きでやっているとは言えクタクタで死にそうなのに更に舞まで習いに行けとは龍樹ちゃんこそ善人面した殺人鬼だ。取り殺されるとは上等じゃん! と威勢の良いことを思ったその時、本殿に入った瞬間に覚えた違和感の正体に気付いた。いつも本殿に充満しているご神体の香木から香りが消えていたのだ。一体いつから?

 ご神木から香りが消えていたことに気付いて私は相当のショックを受けた。いつから消えていたのか記憶がない。毎日の朝夕拝の時はどうだったかと必死で思い出そうとしても本当に分からないのだ。それが逆に怖かった。私が本殿内で祝詞奏上を始めたのは宮司になってすぐの一年前だが、あの時はどうだったのかさえ覚えがない。初めて本殿に入れると興奮していたことは鮮明に覚えているというのに。恐らく社務所で香木を削ったり匂袋を作ったりしていたからその香りが自分の着衣に移り、絶えず自分の身体から香りが立ち上っていたから気付けなかったのだろうと思う。

 私は舞を習う習わないは別として宗家宅へ行くことを承諾した。山奈家とは無関係ながら強い結びつきがある西桃流宗家に今この瞬間に起きていることを聞いてもらい、第三者目線での意見を聞きたくなったのだ。善は急げと龍樹ちゃんが宗家宅に連絡を入れてくれるが、ふと今日は土曜で能楽師は舞台があるんじゃないのだろうかとの私の懸念は早々に吹き飛ばされた。

「この時期は薫衣大弁財天社の春の例大祭の稽古を生徒に付けているから自宅か大学にいるそうだ」

 つまり那須女史からは逃げられないということか。思えば彼女の存在も私にとって凶事の類いになるけど考えすぎかな。少なくとも彼女が普通の人間なら取り殺されはしないだろうと思えば幾分かは気が楽になった。

 宗家宅へ向かわねばとはやる心を抑え本殿内で祝詞の奏上を執り行う。本殿内で怪異に遭遇した緊急事態とは言え、いや緊急事態だからこそ御奉仕を疎かにはできない。こんな時に朝拝を放り出したらもっと大きな怪異に襲われそうで、それが怖くて私は震える手で奉書を広げ震える声で祝詞を必死に読み上げる。

 鬼灯の百鬼夜行の後は何事も起きないまま祝詞奏上を終わらせることができた。外から入る陽の光はどんどん力強くなっていき、陽の光と共に入る風に含まれる緑の香りや小鳥の鳴き声が清々しい。本殿に生気が戻ってきたのだとすっかり安心してそこから出ようと御簾を開けて奥拝殿に出た瞬間だった。目の前に人がいた。いや人なのかどうか定かではない。真っ黒な影が私達の行く手を妨げるように仁王立ちで立ちはだかったいるのだ。目線は私と合っているが大きさが尋常でなかった。視線を下に向ければ急な階段下の拝殿に足が付いている。拝殿から奥拝殿までの高さを正確に計ったことはないが優に四メートルは超えているだろう。

 私も龍樹ちゃんも身動きできなかった。威圧感が凄まじい。暫く睨み合っているうちに私の耳に微細な羽音が流れ込んだ。そう気付くと同時に人型の影がフワっと崩れる。そうなったことでそれが無数のカゲロウの集団だと分かった。だが普通のカゲロウではない。まるで邪悪に染まったかのような闇よりも深い漆黒のカゲロウだ。それが一筋の太い急流のようになり行き先を阻もうとするかのようなカゲロウの大群が立ち尽くす私達をアっと言う間に囲み捉える。

 小さな虫とはいえ手で払っても払っても払いきれない程のカゲロウに取り囲まれ目も開けられない。カゲロウの大群はまるで私と龍樹ちゃんを窒息死させようとでもするかのように包囲網を縮めてくる。私は命の危険を感じて戦慄した。その時、私は本殿の中に突き飛ばされた。同時に龍樹ちゃんも勢いよく本殿に転がり込んで来る。龍樹ちゃんに助けられたのだと悟るのに少し時間は掛かったが、お互い大きな怪我もないことを確認するとひとまず安堵の溜息を吐いた。

「こんなに早く怪異が大きくなるとはな」

 龍樹ちゃんの言葉が耳に痛い。怪異を目の当たりにしているのは私だけだからと安心していた。無論、自分だけが耐えれば良いと思っていたわけではない。だが、叔母と参拝客には無害な怪異だったからどこか行動が緩慢になっていたことは否めないし、こんな大事になってしまったからには勉学と神職の両立で忙しかったからなんて言い訳は通用しない。

「とにかくここから出る方法を考えないと」

「うん」

 龍樹ちゃんがいてくれて良かったと心底思う。でなければ私はパニックを起こしてこの場から動けないままだったに違いない。

 何か策はないものか。何と言っても尋常でない数のカゲロウだ。それにあのカゲロウ達の持つ気があまりに真っ黒で飲み込まれれば精神が持たないような気がした。本来の邪気とはああいうものを言うのか。これまでの怪異なんてお遊びの小手調べに過ぎなかったんだと思うと無力な自分に嫌気が差しそうになる。

 そんな現実逃避に近いことを考えながら、あのカゲロウを蹴散らす方法はないものかと本殿の中を見渡す。武器になりそうなものはないし御神酒を掛けたらどうだろうかとも考えたがカゲロウの数に対して量が少なすぎる。本来のカゲロウの寿命は短いが季節的にもあれは全くの別モノだろう。悪意や邪心の固まりとでも言えば分かりやすいか。一体何が原因で御神域内にあんなものを生み出すことになったのだろう。

「なあ、普通のカゲロウって確か活動時間は夕方からじゃなかったか?」

「確かに」

 龍樹ちゃんに言われて不意に思い付いた。あの漆黒のカゲロウの大群が未だに奥拝殿に留まっている理由を。



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