第二章
【一】
入って来たのと同じルートを辿り縁側から庭に出てホッと溜息を吐いた。三人とも呼吸を忘れていたかのように荒い息をしながら進入路の板塀を目指す。庭の木々の合間から見え隠れする能舞台と弓道場が気になったが、とにかく今はここから脱出することが先決だ。
それでも横目で見る能舞台は現代の能楽堂のように建物の中に舞台が入ってしまったものと違う昔ながらの舞台で、風雨にさらされて傷んではいるがそれが逆に舞台の風格を醸し出していて目を逸らすことができなかった。
構造から見て鏡の間や楽屋も併設されていると断言出来る立派な舞台だ。弓道場に隣接しているので射位から的場までの空間が舞台前にも広がっている。誰に向けてのものか分からないが能公演があったのだと想像するに易い。
―ダメダメ、見取れてる場合じゃない。早くここから出なくちゃー
そう自分を叱咤するものの私の足は止まった。風に乗って何かが聞こえてきたような気がしたのだ。最初は建物の外の喧噪かと思ったがどうも違う。思わず耳をそばだてる。
―絶えず紅葉 青苔の地 雨うちそそぐ夜嵐のー
紅葉狩だ。
最初は空耳かと思った。紅葉狩は唯一舞台で見た思い出深い曲だから頭の中にその旋律が流れても不思議はなかったからだ。だが敢えて心の中の更に奥に封じ込めた苦い思い出の曲を空耳として片付けるにしては謡もお囃子もあまりに鮮明だ。
紅葉狩はどんどん謡い進められていき比例するように私の足は震え出す。反射的に舞台から目を反らした。舞台上には誰の姿もなかったが、だからこそそこを見るのが怖かったのだ。
すると突如、風が吹きすさび琴のような音が響き渡る。能に琴は使わないから訝しんだ。
―違う、琴じゃないー
弓道部の部室の弓立に掛けられていた弓の弦が切れているのだ。この状況はまるで昨年西桃の宗家と打ち合わせをしたあの時の風のようだ。もしそうなら今後起きる事態を予想するのは容易い。私は藤乃と華子に向かって声を上げた。
「二人とも伏せて!」
だが二人が身を伏せるより前に肌を切り裂くようなあの風が吹き付け吹き上げる。
「いやぁ!」
私は惨事を直視することから目を背けるように目を閉じ蹲った。
どれくらいそうしていたのか…… 気付けば辺りは静けさに包まれている。
「菊花、どうしたの、大丈夫?」
二人が私の顔を不思議そうに覗き込んでいる。あの風にまともに吹き付けられたら無事でいられるはずがないのに、二人は何事もなかったかのように不思議そうに私を見ている。謡もお囃子も、そしてあの風も全ては私の思い込みからくる幻想だったのか。それにしては生々しい。
何気なく舞台を見やる。すると突如、紅葉狩の最後の謡が聞こえてきた。無論、藤乃と華子は無反応だ。やはり彼女達には聞こえていないのだ。
―引き下ろし刺し通し たちまち鬼神を 従へ給ふー
そして今度こそ舞台上で般若の面に緋色の大切口を付けた鬼女と平惟茂の死闘が繰り広げられ始めた。能では鬼女の派手な所作が観客に人気な場面だが、私の目は鬼女が惟茂の刃に刺し貫かれた瞬間、血潮がパッと広がり床に滴り落ちるのが映った。
「きゃっ」
思わず悲鳴が漏れるがそれを聞いた藤乃と華子はキョトンとしている。冷静に考えてみれば、私達のいる場所から能舞台までの距離はかなりある上に木々に遮られている。舞台上に誰かいれば見えるが顔までは判別できないだろう。故に例え血飛沫が飛び散っても見える筈はないのだ。だから藤乃と華子の反応は至極真っ当なもので私が幻を見ているだけにすぎない。
「ねえ菊花、さっきから変よ。どうしたの?」
思い込みや幻の類いだと分かっているがあまりにリアルな場面に私は呻くように二人に訴えた。
「舞台の上に……」
「舞台がどうしたの?」
「人が…… 血を流して……」
途切れ途切れの訴えでも二人には通じたようだ。俯く私の代わりに二人が舞台の方をじっと見る気配が伝わってくる。だが返って来た答えは私を満足させるものではなかった。
「誰もいないわよ」
「そんな」
私はヨロヨロと立ち上がって舞台を見たが二人が言うようにそこには誰もいなかった。
「そんな、あんなにハッキリと見えたのに」
独白さえ虚しく消えていくが今はとにかくここから出なければと思った。私の見たものがただの幻であれ、そうではなく事象は起きているものの藤乃と華子には見えないだけのものであれ、ここから早急に離れた方が良いことは誰が考えても明らかだ。少なくとも吉祥とは真逆の災厄が起きていると考える方が得心がいく。私を焦燥感が襲った。せめて藤乃と華子だけでもこの場から離さなければならない。いや、そもそも私が謡や囃子に反応してしまったのが諸悪の根源だ。
「ごめん、早く出よう」
二人を急かして板塀へと走る。そんな私達、いや正確には私を引き留めるかのように背後でパリンとガラスが割れる音がした。二人を朽ちた板塀から外界へと押し出しながら音の方を振り返ると数寄屋造りの縁側のガラス戸が目に入る。しかしパリンとガラスが割れるような音がした筈なのにガラス戸にはヒビひとつ入っていない上に、先程入った時には少し曇っていたガラスが今は鏡のように辺りのものを鮮明に映していた。
それより何より私を驚愕させたのはそのガラスに私が映っていたことだった。いや、それ自体はおかしくはない。だがただ映っているだけではなくガラスに映った自分のその眼差しがあまりに恨みがましく今日のようなハレの日にこんな眼差しで人に相対していたのかと思うと暗澹たる気持ちになったのだ。
これは本当に私なのだろうか? もしかするとこれは私ではなく死んだ菊花が私を見ているのではないかとさえ思えてくる。だがもしガラスに映っているのが菊花だとしたらと考えた時、まるで私を憎悪するような眼差しに悪寒が走った。
おかしい。私はスピリチュアル云々が嫌いだが、そもそも霊感やオカルト現象には無縁の人生を歩んできた。神社の娘として少しくらい何かを感じることができたら良いのにと思ったことがなかった訳ではない。そして少なくとも母には多少なりともその何かを感じる力があった。そうだ、母と叔母が良い例だ。
叔母はオカルト番組を見てもヤラせだと笑い飛ばす性格だったが母はそういう番組を毛嫌いした。彷徨う霊を面白おかしく掻き立てたりテレビに映そうとする行為を嫌い神社の中をいつも清浄に保とうと苦心していた。だから母が跡継ぎになったのだ。
跡継ぎに決まった後も自身を律することを心掛け、祭事の際は身を清め四つ足を口にしないようにと徹底していた。そんな生活習慣は私達双子を産んだ後も変わらなかった。きっと習慣になってしまったから止め時を見付けられなかったのだろうと私は思っているが神職としては見習うべき人なのも事実だろう。
同様に菊花が跡継ぎになったのも同じ理由からだ。自身を厳しく律することからは程遠い性格ながら彼女は何かと敏感だった。無論見えるフリ、聞こえるフリをしていた可能性も否定できない。だがそっち方面にまるで興味のない私よりフリをするくらいに多少は興味のある菊花の方が跡継ぎに相応しいと判断されたのは当然のことだろう。
でもどうして今なのだろう。あの事故から既に五年近く経ったいま、どうして凡人の私の周囲で妙なことが起きるのか皆目見当が付かない。それとも大学に進学した当日に友人ができ、この後の六年間に期待を抱いたことで私の中に私自身でも気付かない程の小さな負い目が芽生えらからその罪悪感で妙なものが見えてしまうのだろうか。無論そんな考えはガラスに映っているのが菊花だと断定できたらの話しであって、あまりに現実離れしている考えに自分に嘲笑を浴びせたくなった。
「菊花、顔が真っ青だよ、早く出よう」
動けなくなった私を不審に思った藤乃と華子が板塀から戻って来て私を抱えるようにして再び外に出ようとする。急かされてガラス戸から目を離した瞬間、ピキっと音を立ててガラスにヒビが入った。同時にガラスに映った菊花の姿もひび割れ霧散しその視線から逃れられる。やはり能と同じように私の思い過ごしなのだと安堵したのも束の間、突如『逃げて』と女性の囁くような声が聞こえた。
「何か言った?」
藤乃と華子に聞くが二人は首を横に振るだけだ。また幻聴かと思うといい加減に腹立たしい気分になってきた。だがその腹立たしい気持ちを代弁するかのように今度は私達を鳴動が襲った。
これもきっと私だけが感じた鳴動だろうと軽く考えたがどうやら違ったらしく、藤乃と華子も青褪めている。このタイミングで地震だなんて運が悪いなんてものじゃない。いや本当に地震なのだろうか? もしかするとこの建物が崩れ落ちようとしている前触れなのかもしれない。
私は正気を取り戻し自分の立場を突然自覚した。私は藤乃と華子より三歳上の年長者なのだと。私は二人の手を引いて転げるようにして外界へ飛び出した。板塀から転げるように飛び出してきた私達を見る人々の視線が痛い。
もし鳴動を感じたのが私達だけなら建物への侵入に対して注意を受けることは避けられるだろう。でも逆だった場合はそうはいかない。で、悪い想像は当たるようで外にいる人間は何が起きたのか分からないという表情で私達を凝視していた。
入学早々やらかしてしまったと思った瞬間、背後で轟音が鳴り響き身体に衝撃が走った。振り返ると灰色の土煙が噴火かと思うほど激しく立ち昇っている。その凄まじさに行き交う人々も動きを止め驚愕あるいは困惑の表情を浮かべていて、何が起きたのか誰もがすぐに理解できないようだった。そりゃそうだ。私だって何が起きたか分かっていないのだから他人に理解できるはずがない。
背後でモウモウと立ち登っている土煙が吹き付ける風に散らされると、そこにあったはずの建物は完全に崩れ去っていた。あの鳴動は建物が崩れる前兆だったのか。だがあの時聞いた「逃げて」という女の声の謎は残った。
【二】
建物が崩れる衝撃はかなりの広範囲にまで及んだようでワラワラと人が集まりだした。呆然としている私達は二重三重にも人々に囲まれその場から逃げるタイミングを失ってしまい三人で肩を寄せ合うしか術がない。だがザワザワやヒソヒソがさっと引いたと思ったその時、場にそぐわないヒステリックな女性の声が響き渡った。
「貴女達、一体何をしているの?」
カツカツとハイヒールの踵を甲高く鳴らして近付いてくる女を避けるように私達を取り巻く人波がモーゼの海割れのごとく二手に割れる。それが当然のことのような顔をして女王然とした態度で現れたのは、去年私を神社の石段から突き落とそうとしたあの女だった。
何故彼女がここにと思った直後にこの大学に西桃の宗家が顧問をしている能楽部があることを思い出す。その言葉に従ってこの大学に入学したのだから彼女がいても何らおかしな点はない。だがいくつもの学部がありキャンパスも何カ所かに別れている大規模な大学で初日に彼女と鉢合わせすることになるとは想像すらしていなかったから思わず心の中で『最悪』と愚痴た。
彼女、ええっと確か那須さんだっけ? は、仁王立ちして私達を見下ろしてくる。まるでヘビに睨まれたカエル状態だが、この自信に満ちた女王様気質はどこから来るのかと、ほぼ現実逃避的なことを考えながら私はその冷ややかな視線から敢えて目を反らせた。那須さん改め那須女史は私達の背後にある建物の残骸を見て何があったか察知したようで、そこから私達への集中砲火が始まった。
「貴女達、まさかこの中に入ったの?」
詰問を拒む選択肢がないような声。この人の中には悪意しかないのかと思う程に嫌な気分になる。そりゃこんな大事になる引き金を引いたのが私達かもしれないと思えば罪悪感は芽生えるが、何せ一年前のことがあるから私が抱く彼女のイメージは頗る悪いのだ。
「どうなの、誰か答えなさいよ!」
ヒステリーに拍車が掛かっていくのに臆したのか、何か言わないと益々増長すると思ったのかは定かではないが藤乃が口を開いた。体躯会系らしくキッパリと言い切る姿が格好いい。
「入りました」
「何故?」
無駄な問答が始まったなと思った。何故入ったのかと聞かれても答えは多くないことくらい分かるだろうと思う私は天の邪鬼なのかな。そんな私の横で今度は華子が口を開く。
「建物に興味があったので」
「立ち入り禁止の札が下がっているのを無視して?」
その言葉に私達は『え?』となる。そんな標識はひとつたりとなかった。三人の目で確かめたのだから間違いない。立ち入り禁止になっていたのなら怖い物なしの今時の子な私達でも流石に入りはしない。小中学生ではないのだ。その位の分別はある。だが困惑もした。
那須女史の堂々とした物言いに私達は何か見落としていたのだろうかと不安を感じて臆してしまったのだ。黙している私達に女史の視線が冷たく突き刺さるのが見えなくても有り有りと感じ心が冷え込んでいく。
「三人とも学生証を出しなさい」
すっごい命令調で何様かと思ったが大人しく従って交付されたばかりの真新しい学生証を差し出す。と、彼女はわざとらしく大仰な声を上げた。
「まあ、今日入学したばかりじゃないの。良い度胸ね、初日にルールを破るなんて」
その言い草に腹が立った。私達はルールなんて破っていない。もし普段は立ち入り禁止の札があったのに今日に限って紛失していたのだとしたらこれは学校側の落ち度だ。私は敢然と言い放った。
「先輩、立ち入り禁止の札なんてありませんでした。もしあったのなら大学生にもなってルールなんて破りません。なかったものをあると言われて責められても困ります。これは大学側の管理ミスなのでは?」
言外に私達だけに責任を押しつけるなと含ませたのだが、私はどうやら火に油を注いでしまったようだ。
「貴女、名前は?」
「山奈菊花です」
大仰な所作で腕組する女史に問われた私は立ち上がり彼女を強く見据えながら堂々と答えた。私の名など知っている筈なのに白々しく言い放つ態度にもだが、周囲の野次馬が誰も何も言わないことにも腹が立つ。恐らく那須女史が学内の女王様で誰も彼女に異を唱えられないのだろう。そうと分かれば自分の身は自分で守るしかない。
そもそも私は同じ新入生と言えども藤乃と華子と違い社会人なのだ。気付くのが遅すぎる感はあるが私がシッカリしなければ元も子もない。ついでにこの女王様がどこまで私達を追い詰めるつもりなのか付き合ってやろうじゃないのと腹を括った。女史の次のリアクションは分かっている。
「山奈って、まさか成瀬市の薫衣神社の?」
ほらきた。建物の中に入り込んだのもその建物が崩壊したのも偶然にすぎないが、それを好機と捉えた那須女史の頭の中には私を追い詰める為の脚本ができ上がっているのだろう。
でもどうして私を敵視するんだろう? 一年前もそうだけど私は彼女を知らなかったし今日までその存在を忘れていたほどに縁がない。確かに能楽奉納の地謡方としてうちに年三回来ていたがその時も言葉は交わしていない。大祭の時の私は神職として多忙を極めているから舞台はふとした瞬間にチラ見する程度だし。開演前の清祓の儀と終演後に鏡の間で宗家を迎える以外は出演する能楽師のもてなしも含め全て叔母に任せきりだからだ。
「薫衣大辨財天社です」
私が訂正すると彼女の形相が変わった。
「そんな些細なことはどうでも良いわ」
どうでも良くはない。辨財天と大辨財天では社格が違う。大都市とはいえ所詮地方、それも中心地から電車で三十分近くかかる田舎町にある小さな神社だが私は自分の家に対して誇りを持っている。
創建が蘭奢待の到来と同時期なのか、はたまた徳川宗春の時代かは定かではないが、地元民ならず日本中に崇敬してくれる信者がいる。その中には全国規模のお香屋さんや香道関係者も多いし辨財天を祀っていることから芸能関係者の参拝も多く、飲食店のようにサインこそ掲げてはいないが聞けば老いも若きも知る人物の来訪を受けたことも一度や二度ではないし、有り難いことに毎年決まった時期に祈祷に来て頂く事も多い。
那須女史は地方の小規模な神社は即ち地元民にしか需要がない貧乏神社だと思っているのかな。もしかするとそんな小規模な神社への能楽奉納に年三度も駆り出されるのが気に食わないのかもしれない。だが女王様な彼女が自分にそぐわない場での奉納へ駆り出されるのが嫌なら宗家に断りを入れれば良いだけじゃないのかな? そりゃストレートに『あんな田舎の神社での奉納に参加するのは嫌です』と言うのはさすがに拙いだろうから言葉は選ばなきゃならないだろうけど。
私はまだ知り合ったばかりで西桃の宗家のことを多く知るわけではないが、例え稽古が厳しくとも意に添わないことを強要するような人には見えない。だから参加できないと言えば分かりましたで終わりそうなもんだけど。それすら口にするのが嫌なのか断る行為をプライドが邪魔するのか。まあ理由はなんでもも良いけど、もし嫌々奉納に来ているのならこちらとしては失礼な話しだ。相手は私じゃなくて神様なのに。
神前奉納にせよ、若いうちに好きなことに打ち込める環境に身を置けることにせよ、私からすればとても羨ましく恵まれた環境に思えて仕方ない。それが分からない感性なら能を続けても必ず壁にぶち当たりそうだ。なんて言い過ぎだろうか。あくまでも心の中での独白だから女史には聞こえていないのが幸いだ。
私は些細なって言われたことに怒りより呆れを感じて黙していただけだが相手はどうも私をやり込めたと思っているようで、赤い口唇にニヤリとした笑みを浮かべるのを見て心底ウンザリした。大体、衆人環視の元で入学式を終えたばかりの新入生をいびり倒して何が楽しいのか。少なくとも大学生がすることじゃない。大学内だけでなく自宅でも両親に甘やかされているのかと穿ってしまいたくなる。注目を集めたいのなら他でやってくれである。
「で、どうなの?」
その言葉に私はキョトンとすることしかできなかった。
「何がでしょう?」
「だから入学早々こんな騒ぎを起こしたことよ。しかも貴女は小さいとは言え神社の宮司なんでしょ? 立派名社会人じゃない。責任とか何も感じないの?」
険のある言い方だなぁ。社会人と学生の兼業ってところは間違ってはいないが、その身分をごった混ぜにして責められても困る。それに騒ぎを起こしたって断じるけど私達は不法侵入したわけじゃない。と考えたところで目の前の悪意の固まりの女史に対して疑惑が沸いた。もしかしたら私達は嵌められた?
いやいや、さすがに考えすぎだろう。だが一旦思い付くと疑惑はどんどん膨れあがっていく。大学の入学式には教師陣と新入生、そして学生会の人間くらいしか参列しない。たまに親が付いてくるパターンもあるようだが極少数だ。つまり、よく考えれば那須女史がこのキャンパスにいること自体が絶妙なタイミングなのである。
そういや私は彼女の学部を知らない。もしこのキャンパスではない場所にある学部なら、この日のこの時間にこの場に現れたこと自体あまりにもでき過ぎではないだろうか?
「先程も言いましたが私達は不法侵入した訳じゃありません。無論結果的に建物は倒壊しましたけど、そういう危険があると明記されていなかったのに責任を感じろと言われても困ります」
毅然と言い放ちながらも心の中では不安が渦巻いている。なんだか女史の掌の上で踊らされている感が大きくなっていくのだ。野次馬が皆一様に押し黙っているのも気になった。そりゃ今日は新入生の方が学内人口は多いが、ぱっと見た目には在学生らしき風貌の人間も見受けられる。彼らは何も知らないのか、知っていてもなお黙っているのか。
その時、背後で『ちょっと失礼』と男性の声がした。と同時に諏訪神社の御神渡りのような静けさを伴って人並みが割れた。
【三】
学生会長だと囁きが一面に広がっていく。それを聞いてそそくさとこの場を後にする人間や及び腰になる人間が散見し始めた。とは真逆に何人かの女子から黄色い声が上がる。その光景を目の当たりにした私は現学生会長がカリスマ的な存在になっているんだと直感した。
これは天の助けか? 私は嬉々とした気分を極力顔に出さないようにして後ろを振り返った。見えたのはまず靴と足。茶の革靴と紺色の細身のパンツから想像するにスーツ姿の男性だ。その服装から恐らく入学式に出席した人だろうと確信した。
相変わらず『ちょっと失礼』と端的に言いながらその人はどんどん私達に近付いてきてやがて上半身が見え隠れし始めた。紺色のスーツと同色に黄色を差し色にしたストライプのネクタイが見え隠れする。学生にしては落ち着いた色目のコーディネートだ。
どんな人が学生会長なのだろうとその人物が私達の前に現れるのをドキドキしながら待つ。救世主には違いないが絶対的に私達の味方になってくれるとは限らないから強いこ鼓動は緊張からくるものだ。
もし那須女史と同じように私達のことを不法侵入者と断じたら今後の学生生活に暗雲が垂れ込めることにもなる。私は祈るような気持ちでその男性が近付いてくるのを待ったが、期待と絶望感双方が渦巻く中では近付いてくる姿がまるでスローモーションのように見える。冷徹にも聞こえる静かな声は低くも高くもなく平均的な男性の声だったが、私はその声に聞き覚えがあるような感覚を覚え思わず背伸びして会長の顔を見て固まった。
「え、龍樹ちゃ!」
言いかけた私に彼が自分の口唇に指を当てる仕草をするのを見て反射的に口を閉じたが胸のドキドキが激しくなるのに閉口した。このドキドキは単に驚いたってことで他意はない。
龍樹ちゃん、もとい土師龍樹は叔母の子で私の従兄姉だ。まさか同じ大学だなんて叔母は一言も言っていなかったけどどういうこと? しかも学生会長だなんて。そんな事を考えていると彼の声が響いた。不思議だ、とても落ち着いた声なのに空間に大きく響いている。これは会長の威圧感なのか?
「那須、一体何を騒いでいる?」
え、女史を呼び捨て? どういう関係? 私は龍樹ちゃんを質問攻めにしたくなる衝動を必死で押し留めた。とにかく今は私達を断罪するこの空気を納めて貰う方が先だ。久しぶりに会った従兄姉だけど一連の言動から親族としての温情は掛けてくれそうにないと理解できるから彼が登場しても相変わらず心細い。
「何って、今日入学したばかりのその三人が立ち入り禁止エリアに不法侵入した上に歴史ある建物が倒壊したのよ」
先輩として注意して当然でしょと女史が宣うと龍樹ちゃんが私達の方を見て本当ですか? と訪ねてきた。
「確かに建物の中に入ったのは本当です」
返答は私がした。彼が身内のよしみで私達に甘い処分を下して終わらせようとする気が全くないと見て取れたから私も自然と真剣になる。
「でも立ち入り禁止の札なんてどこにもありませんでした」
「間違いはないですか?」
「はい、周囲を二周して確認したから確かです。確かに歴史的価値がある建築物だなと思いましたが本当に何の注意書きもなかったので中に入りました」
能楽堂が併設されていたから興味を持ったとまでは敢えて言わなかった。そんな事を言わずとも彼はそれを重々承知しているはずだから。すると龍樹ちゃんは周囲の野次馬に呼び掛けた。
「今日ここを通って何かしら見たり感じたりした人はいますか?」
野次馬達は顔を見合わせてはヒソヒソと話している。那須女史に付くか学生会長に付くか相談しているのだろうか。でもそんなのどっちでも良い。私達にやましいことはないし少なくとも会長がこの事態を俯瞰しているのが分かって安堵もしていた。彼は私達の味方ではないけど、かといって那須女史や野次馬の味方でもなく、全くの第三者としてこの場を仕切っていてそれが逆に頼もしく信頼できた。
「あの」
野次馬の一人が怖ず怖ずと手を上げた。
「私は今日研究室に用があって登校したのですが、登校時はこれまで通り立ち入り禁止の札と周囲に規制線が張り巡らされていたのが入学式が終わる頃には何もありませんでした。おかしいなとは思ったのですが取り壊す為に業者が来たのだろうと解釈して立ち去りました」
それを聞いて龍樹ちゃん、いや会長は腕組みをして考え込んだ。
「他の人はどうですか?」
との問いに何人かが手を挙げ一番目の人と同じ証言をした。なんてことだ、ちゃんと現場を見ていた人がいたんじゃない。女史に圧倒されたのか面倒に巻き込まれたくないと思ったのかは分からないが腹立たしさが湧き上がる。私は証言した数人に怒りの眼差しを送ったが彼らは一様に顔面蒼白だった。学生会長に目を付けられたとでも思っているのだろうか。
「わかりました。貴重な証言をありがとうございます」
と言うや否や彼がパンパンと柏手のように手を叩く。と、それを合図として野次馬達がゾロゾロと立ち去りはじめた。何が起きたのかと分からず、それが解散の意味だったのかと思い至るのに数秒かかった。暫く会わなかった従兄姉がスカした野郎に見えてモヤモヤする。
「那須も帰って良いぞ、あとは学生会が引き受ける」
「ちょっと待ってよ、入学式当日にこんな騒ぎを起こしたのよ。しかも建物の倒壊に他人が巻き込まれたかもしれない危険な状況を巻き起こしておいて不問に処す気?」
「学生会が引き取ると言った筈だ。不問に処すなんて一言も言っていない」
彼は取り付く島がないほどに冷淡に言い退ける。女史にキッパリと言い切る姿は喝采ものだけど彼ってこんなに冷ややかな人間だったっけ? それに今の状況は詰問の相手が学生会になっただけで私達が無罪奉免になったわけではない。女史みたく私達が断固悪いと決め付けないだけマシだけど。
「確かに建物の倒壊は警察などに届けなくてはならないほどに重大な事故だ。この建物は取り壊しが決まっていた。が、それを通達するものが今日に限って消え失せていたのはもっと大問題だ」
その言い様は暗に誰かが悪戯で立ち入り禁止の札や規制線を取り払ったと言っているようにも聞こえたが女史の顔色は変わらない。私はてっきり彼女が私を貶める為に敢えてこの建物におびき寄せる為の策略に手を下したのだと思ったけどその顔を見てさすがに違うだろうと考え直した。
仮に女史の罠だったとしてもあまりに詰めが甘い。今日この場を通るのは私達だけではないし、私達が通る時間を知るには式の進行を予め知る必要がある。更に本来はあったはずの注意書きや規制線を取り外すのは一人では無理だし今日は人目がある。取り巻きにやらせるにしても私達の行動を完璧に把握しなければ無理な所業だし実行するなら式の終了と同時に私達の後を付ける必要がある。と考えた時、私の背中に悪寒が走った。
じゃあ一体誰がこんな危険な悪戯を考えたのか。建物の倒壊に巻き込まれるのは私達だけじゃないかもしれないし怪我人や死者が出ても不思議ではない。もし那須女史が思い付いた嫌がらせでもそこまで想像できなくはないだろう。性格はどうあれ大学生にもなってこの悪戯から派生する危険を予測できない筈がない。
「君達にはもう少し付き合ってもらう」
まるっきり女史の存在を無視した龍樹ちゃんに促されて私達は学生会室へと向かうが気持ち的には取調室へ連行されるような気分だ。
龍樹ちゃんの後ろに付いて歩き出すと頭上からヒラヒラと小さな黄緑色の花が落ちてきた。と同時に辺りに漂う爽やかながらスパイシーな香りが漂いだす。すぐに倒壊した建物の周囲を取り囲むように植えられていた楠の花だと気付いた。その香りはまるで倒壊した建物を鎮魂するかのように強い香りを放ちながら雪のように降り注ぎ、私はその香りに少し癒やされた。
思えばあの楠は建物が建てられた際に植えられたものだから建物と共に約七十年を共に過ごしたことになる。いわば同志だ。同志を静かに見送り鎮魂の花を手向けているんだと思った途端、突如頬に熱いものが流れ落ちた。
私は倒壊に巻き込まれたあの能舞台のことを考えていたのだと思う。そして舞台上の鬼女紅葉の血に塗れた姿に知らず知らずのうちに鎮魂の想いを抱いていたのだろう。思えばうちの社はご神体である琵琶の形をした香木に目が注がれがちだが境内にある樹齢千五百年を超える楠をご神木としている。それは本殿の辨財天像から見える位置にそそり立っていて香木の香りと楠の花の香りが混ざり合うこの季節は境内がより清浄さを増すのだ。
私はあの楠が建物と運命を共にするのではないかと勝手に想像した。そっち系の才能なんて微塵もないのに確信めいたものを抱いたのだ。かくてその予想は当たり背後から再び轟音が響き渡った。振り返るまでもなく楠が一斉に倒れたのだ。七十年程度で楠が朽ちることはない。あの楠は共に生きてきた建物と運命を共にしたのだ。
藤乃と華子は背後を振り返り驚愕の表情を浮かべて立ち止まったが龍樹ちゃんは振り向きもしない。彼は従兄姉でありながら神社には無縁の人生を歩んできたが、やはり血の繋がった親族だけのことはある。そう思うと嬉しかったし逆に大人びた彼に対して一抹の寂しさも込み上げた。何だか私だけが置いてけぼりを喰ったような気分だ。
男の子は同年代の女子から見ると幼いし成長も遅く思える。彼は同じ歳の従兄姉でありずっと私と菊花の弟分だった。彼に最後に会ったのは両親と菊花の葬儀の席だったが、その時もやはり私より幼い感じがしたのが僅か三年で随分と印象が変わったものだ。
三年前より背丈も伸び身体的にも心理的にも逞しさが加わった。男子はこんな風に急激に変わるんだなと思うのと同時に、従兄姉と同じ大学だと分かった今この瞬間から大学内でだけ荷葉として振る舞うことすら許されず自我を殺して生きることを余儀なくされたことに空しさを感じた。
【四】
龍樹ちゃんの後ろを歩く間、私と龍樹ちゃんは黙々としていたが藤乃と華子の二人は楠の倒壊のショックから早くも立ち直り小声でキャアキャア言っている。
「学内掲示板に書いてあった通りだね」
「うん、ファンになりそう」
へえ、今は学内掲示板なんてあるのか。そうだよな、今やネット社会。自分の進学先の情報をネットで簡単に集められるし志望校を決める際に参考にするのも効率的だ。私もパソコンは使えるし神職養成校で経営について学ぶ際にテキストのアプリケーションも含めて活用したが進学先の情報の取得なんて考え付きもしなかった。こういう所はアナログ人間だなと思うが進学先が一択だったのも大きい。
それより二人の会話の内容だ。どう考えてもキャアキャアの行き先は龍樹ちゃんだ。掲示板で得た情報らしいけど彼は人気者なの? 学生会長だから有名人なのは分かるけど人気者とは親族として頭が追い付かない。さっき現れた時のカリスマ性や存在感、威圧感を思い出すとモテるのも分かるような気がしたが、私の知らない所で知らないバイトをしている可能性も捨てきれないから馬鹿だなと分かっていながら余計な質問が口から出てしまった。
「ねえ、会長って芸能活動でもしてるの?」
私の的外れな質問に藤乃と華子は吹き出しつつ爆笑する状況ではないと判断したのか笑いを堪える代わりにお腹を抱えながら苦しそうに喘いでいる。何だよ、その反応は。
「菊花、知らないの?」
「土師龍樹さん。学生会長として生徒のみならず教師陣からも絶大な信頼を置かれている上にあのルックスで、この大学のみならず近隣の交流のある大学の生徒からも超人気者なんだよ」
「あの冷やややか〜なところがまた良いのよね」
「地元の大学生人気ランキングの一位キープも頷けるわ」
二人は小さな声で再びキャーと叫んだが私はそれを見てドン引きした。何せ従兄姉だから子供の頃から知っているし見慣れた顔をイケメンと思ったことはなかった。だがなるほど、秀でた眉といい、通った鼻筋といい、刃物でもくわえたようにきつく結んだ口元といい、精悍な顔付きが女子受けしそうだ。それに加えて学生会長として統率力や落ち着きもある。
西桃の宗家のような華やかさはないが穏やさが全身を包んでいて頼りがいもあるとくれば女子のハートを一瞬にして鷲掴みにするのも納得だ。龍樹ちゃんの方はと言えば聞こえているであろう女子の黄色い悲鳴には敢えて反応しないでいる。恥ずかしいのか鬱陶しいのか判断は付かないが敢えて黙殺しているようにも見えた。
さて、てっきり学生会が使用している部屋に連れて行かれると思っていた私達が案内されたのは学内にあるカフェである。キャンパスが広いので学食以外に何カ所か気軽なカフェがあるのは私も検証済みだ。医学部や薬学部のような理系の授業は終了時刻の読めない実験や研究があるのでそれに対応して遅くまで営業している店舗もある。私立のキャンパスに比べれば規模や件数は小さいのだろうが値段も安くてアルバイトができない私には有難い。
龍樹ちゃんは私達に席に座るよう促すと各々に何をオーダーするのかを聞いてきた。こういう時ってコーヒー一択だと思ったけど他人の好みを聞いてくるところや確実に奢る気でいるところは正にジェントルマンだ。藤乃と華子を横目で見ると案の定目がハートになっている。女子の扱いに長けているのか、ただ単に学生会長をやるうちに身についた他人への心遣いかは分からないけど大学生なのに気が回りすぎないか? でも人気ランキング一位の訳は理解できた。
各々が頼んだ飲み物に適当な焼き菓子を見繕って龍樹ちゃんが戻ってくるまで私は建物倒壊に至る内容を彼がどのように判断して処分するのかをボンヤリと考えていた。そんな私の鼻孔をアールグレイの香りが擽る。私は紅茶としか言わなかったのに好きなアールグレイを勝手きてくれた龍樹ちゃんの心遣いが嬉しくて紅茶の好みだけは菊花と同じで良かったと感謝した。龍樹ちゃんも座ってさてこれからあの倒壊事故の詳細な説明と聞き取りが行われるのだと背筋を伸ばした途端、藤乃が口を開く。
「あの、那須先輩とはどのようなご関係なんですか?」
あのさ、合コンの席じゃあるまいし今それを聞く? でも実は私も気になっていたから知らず知らずのうちに身体が前のめりになる。
「単なる同期だけど」
大学って教養課程の単位取得後は専門課程に入るから同級生って言い方はしないんだよね。つまり同期と答えたってことは入学が一緒ってことで学部は違うのかな。でも龍樹ちゃんと同期ってことはひょっとして私と同い年? なんだかショックだ。
複雑な心境の私とは裏腹に女二人は更に龍樹ちゃんを質問攻めにしようとしている。学部やらゼミやら少しでも関わりたいと思う女心なんだろう。更に那須女史との関係も気になるらしい。同期以外の関係というと実は彼女だったりするのかとか、まあそんなところか。私も那須って呼び捨てにした時からそこは気にしていたんだけど。
「学部は違うけど教養課程でよく顔を合わせていたから」
名字呼び捨て問題はアッサリと片が付いた。それにしても優雅にコーヒーカップを傾けながら質問攻めに遭うに任せるだけで一向に建物倒壊に至る経緯について尋ねてこないのは何故だろう? そうこうしているうちに私達の前のあるカップやグラスは空になってしまった。それを見て取るや龍樹ちゃんは唐突に言い放った。
「落ち着いたようだね。今日はもう帰ってくれて構わないよ」
え、事情聴取はしないの? と言い掛けたけど、龍樹ちゃんの様子からしてこの件に関しては本気で学生会のみで動く気なのか、それとも那須女史を煙に巻くために私達を連れ出したようで、意義を唱える隙さえ見せない龍樹ちゃんを前に私達は肩透かしを食らったかのような顔で席を立つしかない。三人で渋々と失礼しますと頭を下げてカフェから立ち去ろうとすると龍樹ちゃんが声を掛けてきた。
「菊花、お前は残れ」
ちょっと、どうして今ここで誤解を生みかねないようなことを言うのよ? 藤乃と華子を見るとあんぐりと口を開け私と龍樹ちゃんを交互に見やっている。二人は既に龍樹ちゃんのファンだから私を呼び捨てで呼んだことで変な勘ぐりをしそうで怖かった。何より入学初日に奇跡的に友人が出来たのにと喜んだのも束の間、明日からは関係が拗れるかと思うと泣きたくなる。所詮私は孤独な運命を歩む運命なのかと自分を呪いたくなった。そもそも何故私だけ残すんだろう?
藤乃と華子が何か言いたげな顔をしているのを見るのが辛い。が、そんな私を余所に二人は私が想像したのとは全く違う言葉を投げ掛けてきた。
「菊花、頑張って」
二人が囁くようにそう言って笑う。確実に何か勘違いしている。早々に誤解を解かなければと思ってパニックになる私を龍樹ちゃんがぶっきらぼうにフォローしてくれた。
「俺達、従兄姉同士なんです」
「そうなの?」
目は口よりものを言うとはよく言ったもので早く言ってよとでも言いたげな藤乃と華子の視線が若干痛いが場は和んでくれた。その後女子二人はまた明日ねと手を振りながら消えていく。良かった、少なくとも明日は平和な大学生活を送れそうだ。
「さて邪魔者はいなくなったな」
二人きりになった途端、龍樹ちゃんの口調がいきなり砕けた。なんという変わり身の早さだろう。これも学生会長として必要な能力なのかな。
「びっくりしたな、まさか菊花がこの大学に入学してくるなんて」
「私もだよ。まさか龍樹ちゃんと同じ大学だなんてさ」
叔母は私の志望校を聞いた時に何故教えてくれなかったんだろう。行けば顔を合わせるから敢えて言う必要はないとでも思ったのか。でも龍樹ちゃんがいると知らなかったから今日の再会の喜びが段違いに跳ね上がったことを考えると案外叔母によるサプライズなのかもしれない。
「龍樹ちゃんは何学部なの?」
「ちゃんは止めろよ」
拗ねたような顔をした龍樹ちゃんの顔は昔のままで、安心した私の身体からはどっと力が抜ける。
「大体、俺はお前の兄だぞ」
「いつそうなったのよ?」
「俺の親がお前の親代わりになった時から俺達は兄妹になったと思っていたんだけどな」
驚いて二の句が継げなかった。天涯孤独になったと思っていたのに叔母一家は本気で私を本当の家族として扱ってくれていたのかと思うと胸が熱くなる。例え双子の見分けが付かなくても文句を言う気は失せた。
「ほら呼び直し」
「は?」
「お兄様と呼べ」
はぁ? 私は深刻になっていたのが馬鹿馬鹿しくなって大声を上げてしまった。
「同じ歳で兄も妹もないでしょうが!」
だが龍樹ちゃんも負けていない。冷徹に見えた学生会長の本性を彼のファンが知ったら幻滅するんだろうななどと不埒なことを考える。
「お前何月生まれだ?」
「六月だけど」
そう、私は六月生まれの双子座だ。だけど私はこの星座が大嫌いだった。菊花と私の関係が不平等なのもあったけど、大人達が私達の見分けが付かない上に両親の死後は荷葉の存在は完全に忘れ去られからだ。誰か一人でも私を私と認識してくれていたらと心の中で叫んだ回数は数知れない。
「俺は五月生まれ。ほら俺の方が兄貴だろ?」
屈託なく言う彼が憎たらしく恨めしい。私はどう返答すべきか悩みまくってそれでも答えが出なくてただ黙することしかできなかった。
「ほらお兄ちゃんと呼べよ」
何故こんなにも兄と呼ばせようと躍起になるんだろう。今の彼はまるでやんちゃな子供のようだと思った時、彼が一人っ子だったことに気付いた。なんだ、彼は純粋に兄妹が欲しくて、それで私に兄と呼べと強要してるのかと思うとなんだか急に可笑しくなった。本当に学生会長の威厳形無しだ。私は観念して小さな声で彼に応えた。
「兄貴」
龍樹ちゃんはちょっと不満そうな顔をしたけどすぐに破顔した。その眩しすぎる笑顔を見た私は育った境遇も含めて彼の真っ直ぐな性格を羨ましく思った。
【五】
菊花、兄貴と呼び合った私達はひとしきり笑い合ってから真顔で向き合った。龍樹ちゃんは単に兄妹ごっこをする為に私一人をこの場に残した訳ではないと分かっていたから。
「建物の倒壊に巻き込まれたのは那須に嵌められたからだと疑っているのか?」
「最初はね。でも今は疑ってないよ」
「確かにあいつは高飛車で自分が一番でないと気が済まない奴だが、こんなに手の込んだ罠を仕掛けるほど気は長くない」
酷い言い草だけど那須女史の性格がよく分かる指摘だ。
「済まない」
と、突如頭を下げられて私は面食らった。
「那須は俺のことが好きらしいんだ」
なるほど、そういうことだったのか。階段から突き落とされかけた昨春の事件から今日までの謎に対して一気に得心がいった。彼女は私のことを知っていたのだ。そして西桃の宗家と親しくしていることではなく龍樹ちゃんと親しくしていることに嫉妬していてあんな嫌がらせをしでかしたのだろう。嫌がらせで済ませられないほどに危険な行為だから今だに階段が怖いトラウマを植え付けられて許し難いが、そのなんとも短絡的な考え方がいかにも女の子らしく少し哀れにも思える。
好きな人に振り向いてもらうためか、はたまた私と龍樹ちゃんが想い合っていると勘違いしているのかは知りたくもないが、従兄姉同士で結婚ができるとしても私と龍樹ちゃんの間にそんな感情はない。そもそも五年ぶりの意図せぬ再会でお互いビックリしているのにそんな感情など持ち合わせられるはずもない。だがどうして彼女がそんなお門違いな嫉妬をしたのかが分からない。
「俺が悪いんだ。従姉妹が神職になったって言っちまって」
龍樹ちゃん的には私が継いだお社に参拝客が増えてくれればと軽い気持ちで宣伝したにすぎないのだが、彼女はそうは受け取らなかったらしい。
「私はてっきり彼女は西桃の宗家のことが好きなんだと思ってたわ」
西桃の名を出した途端、龍樹ちゃんは眉を顰めた。
「あの男はやめとけよ」
「は?」
「あいつはやめとけ」
仕事の付き合いだけなのに何を言ってるのやらと思ったけど、龍樹ちゃんの顔は怖いくらいに真剣だ。
「西桃の宗家に何かあるの?」
「いや、知らないなら別に良い」
気になるけどそれ以上踏み込めないくらいに龍樹ちゃんのガードは堅くなった。西桃の宗家に何かあるのか気になるが、一年前の鎌鼬の時の何事もなかったかのような涼しげな対応からどこか謎めいた不思議な人だとは思っていた。龍樹ちゃんもそのことを言っているのかと勝手に自分を納得させる。
「話が逸れちまったな。本題に戻そう」
そう言って龍樹ちゃんは私達が建物への侵入に至るまでの細かい動きの聞き取りを始め、私はあの場で答えたことと全く同じ内容を証言した。
「あそこに能舞台があることは知っていたんだろ?」
案の定、痛いところを付かれる。
「うん、一緒に入った子が教えてくれたから」
ただ藤乃と華子は私が能に縁があるとはまだ知らない。確かに能舞台があると聞いて俄然興味を持ったが、もし能舞台がなかったとしても二人に付き合って侵入はしていたと思うと正直に答えた。
「あのさ」
私は言おうか言うまいか散々逡巡しながら思い切って話しを切り出す。
「能舞台で紅葉狩が上演されていたの」
私にだけ見えたものだから言い切って良いものか分からない。幻を見たと言われればそれまでだ。でも龍樹ちゃんは真剣に聞いてくれた。
「紅葉狩って鬼女紅葉伝説の?」
「そう、それ」
「紅葉狩って確かあの事故の時の……」
ああ、やっぱり龍樹ちゃんは覚えてくれていた。紅葉狩が私、いや山奈家にとって特別な能であることを。そして特別だから幻視したとは言わず腕組みをして考え込んでいる。
「視ただけでなく、何か聞いたりもしたのか?」
「お囃子と地謡も聞こえた」
クライマックスで平維茂に切り伏せられた鬼女から血飛沫が飛んだことなど視たまま聞いたままを伝えた。誰に話しても気の所為と言われる面妖な光景なのは私自身が一番よく分かっているが、そう断罪されても良いから今はただ私の視たことを誰かに聞いて欲しかった。そして龍樹ちゃんは黙って耳を傾けてくれ、私はそれだけでもう十分に荒んだ心が穏やかになっていくようだった。
「他には?」
「こんな話しを信じてくれるの?」
「そりゃ、山奈の人間の言うことだからな」
山奈の人間。それは地元の成瀬市でもよく使われる言葉だ。山奈家は神聖で、薫衣大辨財天社は竹生島や天河に勝るとも劣らない歴史ある聖域だと言い伝えられているのだが、どうも歴史を紐解くと昔は巫女、と言っても神社の社務所にいる緋色の袴を着けた女性ではなく神霊や死霊の口寄せなどを営む呪術的祈祷師、いわゆるシャーマン的な存在が代々継いできた家らしいのである。
それが山奈の人間にとっての誇りであり、また別方では足枷となっているから皮肉だ。山奈家も薫衣大辨財天社も陰陽師や祈祷などが信じられていた時代から時が止まっているように感じているのは当事者の私だけではないだろう。そしてこの家の歴史をこの先も背負い次代へと繋いでいかなければならないのだ。つまり私が、である。
「逃げてって聞こえたの」
「ん?」
「建物が倒壊する前に逃げてって女の人の囁くような声が聞こえて、その声に導かれるようにして敷地外に逃げたの」
いま落ち着いて考えてみると私達三人はあのとき庭にいた。小さいとは言え建物が倒壊しても巻き込まれない程度の空間が開けていたから倒壊した後でも脱出は可能だったと思う。だがもし大地の鳴動に絶えきれず建物と同時に楠も倒れていたら私達は助からなかっただろう。
「舞台の上にいたシテの声だったのか?」
「違う。あの時、紅葉は血にまみれて倒れていたから」
なんだか頭がフワフワする。自分でも確信が持てない夢のような話しをしているからだろうか。作り話をしている訳ではないのに、抜け出した魂に視たことを話すように操られているような第三者感が拭えない。
「倒壊現場にもう一度行ってみるか?」
「でもすぐにでも取り壊しの工事を始めるんでしょ? さすがに警備が厳重になるんじゃない?」
「取り壊しと言っても既に壊れてるし、学生会による調査ってことで近くに行くのは可能だ」
どうしよう。能舞台と舞台上に倒れ伏した鬼女の姿が眼に浮かんで、もう一度この目で確認したい衝動が湧き上がってくる。現実に能舞台に死体があったらそれはそれで大事件だが、一体自分の身に何が起きたのか知りたいと強烈な欲求が競り上がってくるのを止められそうにない。
「行く、連れてって」
「OK」
カフェを出ると夕焼け空が広がっていた。かなり長時間話し込んでいたらしい。カフェの店員に文句を言われなかったのは龍樹ちゃんが一緒にいたからかななんて思いながら二人で倒壊現場へ向かった。
さすがに入学式後のこの時間だけあってキャンパス内は人の流れが途絶え静かだ。倒壊現場の周囲には既に規制線が張られていたが人っ子一人いない。倒れた経緯から気味悪がる人間が多いのだろう。建物と共に倒れた楠の上を通る風があの爽やか且つスパイシーな香りを運んでくるが夕暮れ間近なこともありなんだか物悲しく感じる。
倒壊現場周辺は暗かった。時間もあるがそれなりに大規模な建物だったから瓦礫が作る影が大きいのだ。影が大きいからか無惨な姿が一層無惨に見えた。そんなことを考えている間に龍樹ちゃんは周囲に人がいないことを確かめ倒壊した瓦礫の周囲を一周して僅かな隙間を見付け出していた。そして私は二度目の不法侵入を果たしてしまったのだった。
バレたら今度は退学ものかも、いやいや信頼篤い学生会長と一緒なのだから大丈夫だってばと、脳内で善と悪の私の会話が五月蠅く響く。自問自答とは違うこれを何と説明すれば良いのか分からないが私のちょっとした特技だ。幼少の頃から一人遊びをすることが多かった私は、二重人格ではないが一人脳内会話ができるのである。まるで頭の中に私が二人いるかのような状態だがかといって自慢できるものではない。だって所詮一人遊びの延長だから。
ただこの特技のおかげで両親と菊花亡きあと自分が菊花なのだと言い聞かせたり、それこそ神職の資格を取って実家に凱旋を果たしたあとの叔母との生活を無難にこなす上で、この脳内会話は頭の中の整理にかなり役に立つから人間何が幸いするか分からない。
建物の構造が全て頭に入っているのか迷わず能舞台の方へ歩く龍樹ちゃんの後ろを追い掛けていると子供の頃に鬼ごっこや隠れんぼうをした記憶が甦って懐かしさが込み上げるが、昔を思い出すといつも我が儘な菊花のおかげでいつも何かしら嫌な想いをしたことまでをもお菓子のオマケのように思い出してしまうから胸が痛んで困る。この記憶も傷みも時が経てば薄れてくれるのだろうか。
ボンヤリと考えごとをしながら歩いていたからだろう。私は龍樹ちゃんが立ち止まったことに気付かず思いっきり彼の背中にぶつかってよろけたところで正気に戻った。
「いたた、ごめん」
「着いたぞ」
母屋も弓道場も能舞台も全てあの鳴動の巻き添えを喰ったと思っていたのだが能舞台だけ何事もなかったかのように悠然とその場に佇んでいる。風が倒壊から逃れた草木を揺らす音がするだけで闇が迫るなか静寂の世界が広がっている。
「倒れなかったんだ」
「みたいだな、隣の弓道場は崩れているのにな」
暗に不思議なことが起きていると言いたげな龍樹ちゃんの言葉を私も肯定した。
「お前さ、小さい頃は聞こえるとか視えるとか言ってたけど今も何か感じるか?」
ギクリとした。確かに菊花は人の声が聞こえるとか欄間の間から誰か視てるとか言い出すことがあり少しばかり感覚の鋭い母は菊花のそれを肯定したが、荷葉である私にはない能力だから言葉に詰まる。私は黙したまま能舞台に近付いた。ここにも楠の花が降り注ぎ舞台の上は黄緑色に染まりつつあるが、私の目はその下にある紅いものを捉えた。