頼たちのつくる朝
瞼が重い。
分かってはいるが、頭がついてこない。
考えるより、起きあがる方が楽だ。
ふとんに冷たい風が入ってくる。
頭を支えるには腕が細すぎる気がする。
引きずるようにしてベッドを降りた。
足元からの冷気が現実をつれてくる。
と、ズルッと滑り落ちて、床にひじをしたたか打った。
まだ完全には覚めていないのに、無茶をするからだ。
痛みは来ない。
体の方はまだ目が覚めないようだ。
そのまま、しばらく宙を見つめる。
赤い唇が動く。
「まだ寝ているの。」
女だ。
優しい目をした、女。
だが、けして彼女を信じてはならないことを、彼は知っている。
体が反射で緊張する。
「しかたのない子。」近づく、ささやく、声はあまい。
だが、体には熱い、痛いものが。
はっと目が覚める。
一瞬うとうとしたようだ。
時間にして一分くらいか。
うっすらと汗ばんでいるようで、生ぬるい熱が引いて、体が冷える。
(あ、覚めてきた。)
ベッドの縁に手を掛けて、ふらふらと立ち上がる。
少し頭が冷えた。
体の中から熱がはじける。
伸びが自然に出た。
「…よし。」
彼の目が据わる。
カーテンを引きあけると、彼女はまだ寝ていた。
もう一人の仲間とため息をつく。
「冴、起きて。」
「さーえー、早く起きねえと間に合わねえぞ!」黒のサロペットが着崩れている。
かなり寝相が悪い。
「…んー?今何時よ。」
彼女の口調は、わりとしっかりしている。
「もう六時過ぎてる。」
がば、と冴は起きあがる。
なんと寝覚めのいいことか。
「やばいじゃん!」
「やばいよ、相当。」
「先行ってるぞ。」
慌てて着替え始めた冴をほっといて、コウは千早に続いて部屋を出る。
頼たちがまず習得するのは、家事雑用からである。
司を文字通り支えるためには、衣食住の快適な空間を作ることが第一だ。
司屋の開店は八時から。
それに合わせて司が起きるときには、もう全ての準備が終わっていなければならない。頼の仕事はハードだが、司の仕事のために尽くすのが、彼らなのである。
この司屋の店は、小庭を挟んで四つのエリアに分けられる。
三つは言わずもがな、それぞれの店舗だ。
四つ目は共同の生活エリアとなっている。
それぞれの司たちの部屋。
店舗ごとに分けられた、頼たちの部屋。
厨房、水回り。
そして、ダイニングやリビングとして利用する、大広間。
それぞれの生活エリアにつながった扉がある大広間。
今日はそこで共に食事をとり、ついでに顔合わせをすることになっていた。
初日の食事当番は初花である。
朝の厨房では、もう女の子たちがせかせかと働いていた。
出来上がるものは和食のようだ。「玄関前、掃いてきたよ。」
「店内も終わった。」
彼女たちとはまだぎこちない。
会話は最低限の業務連絡だけだ。
女の子の一人が歩み寄ってくる。
カプチーノみたいなふわふわの髪だ。
「彼女、まだ起きてこないの?」
彼女の口調からは相当な苛立ちが伺えた。
「今起きた。すぐ来るさ。」
千早が答える。
「そう。」
彼女は素っ気なく返事をするとドアを開けた。
手には大きな袋を重たそうに引きずっている。
「ゴミ出し行ってこようか。」
コウが声をかけた。
「いいわよ。」
やること探してそれをなさい、と彼女は出て行った。
千早が頭を小突く。
「人の仕事取っちゃだめだろ。」それも頼の心構えだった。
コウから苦い笑いがこぼれる。
「お前、よく試練に受かったよな。」
千早が軽口を叩く。
一瞬、コウの表情が消えた。
「ああ、本当に。」
彼の声はいつもの調子だ。
(気のせいか?)
千早はいぶかしんだ。
それは、横目に見ていても分かるほどの変化だった。
冷めたというより、強張ったような。
あんな顔もするのか。
ふと、大人しい女の子たちが、こちらをちらちら見ているのに、二人は気づいた。
「立ち話はだめだな。」
「仕事しよう。」
コウは外へ、千早は、作りかけのお吸い物が入った、両手鍋へ向かう。
あの二人とはまだ口も利いていないから、互いにまだ名前も知らない。
昨日のことがあるから、話しかけづらいのだろう。
こちらとしても、怯える相手に話しかける気はおきない。
黙々と作業を続ける音だけが響く。
「遅れましたー!」
大声に空気がやぶられた。
微妙なイントネーションは冴のものだ。
彼女はドアの柱にもたれ掛かっている。
反省している態度ではない。
女の子たちはというと、かわいそうに、厨房の隅で二人して縮こまっている。
彼女は挨拶もそこそこに、女の子たちのいた、今は空の厨房に立つ。
何かの煮付けのようだ。
要領は分かっているらしく、手際よく味付けを始める。
と、そこにカプチーノの子が帰ってきた。
彼女は冴を見てぎょっとした。だがそれも一瞬のことで、すぐに冷静な顔に戻る。
彼女がつかつかと近づくと、冴は気づいて振り返った。
「おはよう、かしらね?あなたのペースで言うなら。」
猛烈にイヤミな挨拶だ。
意志の強い女性らしい。
そういえば、彼女は冴を睨んでいたことがあった。
冴が口を開く。
「あ、昨日の子やん。あたし冴。名前は?」
てっきり突っかかってくると思っていたのだろう。
冴の間のぬけた質問に、きりっとつっていた眉がへたれる。
「わ、よ、佳乃…。」
「佳乃かあ。よろしくなあ。」
彼女は、驚くほど人の感情に鈍感だ。
佳乃が怒りを露わに近づいてきても、感じとることなく、話しかけられたという行動にのみ、反応した。
冴は無表情ではあるものの、言葉にはやや愛想があった。
毒気を抜かれた佳乃は、何か言いたそうだった。
だが、結局何も言わないまま、持ち場に戻っていった。
女の子たちが佳乃に寄ってくる。
「さっきね、…。」
「…たのに。」
彼女たちは小声で口々に何やら話しかけている。
佳乃は冴を軽く見やって、疲れた顔をした。
「…諦めたら?…早く終わらせましょう。」
佳乃の発言は、気力をすっかりなくしてしまっている
彼女の言葉に女の子たちは不満げなようだった。
だが仕方ないと踏ん切りをつけたらしい。
二人連れ添って、布と食器かごを手に部屋を出た。料理の最終過程だけを、横取りして終わらせた冴は、千早に近づいて囁いた。
「何やろなあ?あんなコソコソ。」
大体感づくだろうに、彼女はちっとも察しない。
「お前のせいだろ。」
たまらず小言をもらす。
「ええ?何も悪口言うとらんよ。」
おかしいなあ、と首を傾げる。
おかしいのは冴である。
廊下を似たような印象の二人が歩く。
一人は大量の布を、もう一人はカチャカチャ鳴るバスケットを持っている。
二人は双子と言われても信じてしまうくらいの、実にパッとしないテイストだった。
「ゆり亜、私あの人、いやだわ。」この子は普通、な感じだ。
睫が長く、重たいのか、まばたきが多い。
ふんわりした前髪と重たく下がった後ろ髪が非対称だ。
「せっかく途中まで出来てたのに…。あ、ここだ。」
わりと色味のある方が答える。
チークが濃く、派手なカチューシャが黒髪に映えている。
「失礼しまーす…。」
中には誰もいない。
まだ誰も来ていないようだ。
「さっさとやっちゃおう。」
ゆり亜と呼ばれた女は、近くのテーブルに布を置き、その中の一枚を手に取る。
「うん。」
もう一人は、バスケットを布巾に持ち替えた。
黙々と慣れた手つきでテーブルを拭いていく。
そこへゆり亜が布を広げ、整える。大量の布はテーブルクロスのようだ。
大きな四角のテーブルが三つ、小ぶりの丸いテーブルが一つ。
それぞれに違う色のクロスをかける。
丸テーブルには白いものを。
「麻緩、そっち引っ張って。」
「こう?」
大きなものは二人でできた。
丸テーブルのものは時間をかける。
「司の色だもの。きれいにしなくちゃね。」
そして一席一席丁寧にマットと箸を並べる。
マットは和風の花柄。
落ち着いた染糸の刺繍が美しい。
二人はたった数分でこの作業を終えた。
あとは料理を運んで、待つだけだ。
「間に合うよ、よかった。」
ゆり亜が胸を撫で下ろす。
「ええ。」二人はゆっくりと厨房に戻っていく。
「あれ、木乃芽ちゃんだわ。」
ドアを開けた麻緩が、先に気づいた。
見ると木乃芽がひとりでこちらへ歩いて来ている。
「本当。」
ゆり亜も続いて廊下に出る。
「おはようございます、木乃芽ちゃん。」
「早いですね。」
声をかけられた少女は、二人の前で立ち止まる。
彼女は二人よりだいぶ年下に見える。
「おはよう。準備は進んでいますか?」
微笑むこともなく淡々と答える。
「あとは料理を運ぶだけです。」
「ならいいわ。他の司屋の方達にご迷惑のないように。」
彼女はそれだけ言うと、返事も聞かず立ち去った。
「相変わらずクールだね。」
「そうね。」颯爽と歩いていく木乃芽を、彼女らは見送る。
背後で足音がした。
コウが歩いてきて、振り向いた二人の前で立ち止まる。
あ、と目があった。
固まる両者。
彼女らにとって彼は、あの女の人と一緒にいる人、という認識しかない。
だが、目があった以上、知らないふりはできない。
「さっき、」
コウから言葉が飛び出る。
とっさに、彼は何か気まずそうな顔をした。
「…何でもない。」
もごもごと口の中で呟くとように言うと、彼は早足に歩いていった。
「何かしら。」
「木乃芽のことかな?」
ゆり亜はカチューシャの飾りを指で遊ぶ。
「あっち、木乃芽ちゃんが来た方だわ。」麻緩がつぶやいた。
一本道だから、すれ違わないはずはない。
「通り道で会って、何で一緒に来ないのかしら。」
麻緩の口にした疑問は、二人だけでは到底解決できないものであった。
皿は並べられ、出来上がった料理はよそわれるのを待つばかり。
「テーブルはセットできた?」
戻ってきたゆり亜たちに声をかけたのは佳乃だ。
忙しく働く三人の中にはコウもいる。
二人も急いで加わった。
「もう七時になるよ。」
コウが時計をみる。
「急いで、煮物は冷めてもいいから先に!」
佳乃は指示を出して料理を注ぎ始めた。
冴が出されたカートに料理を盛って並べる。
「佳乃、何往復で運べる?」コウは冴を手伝いながら言った。
「カートはいくつあるの。」
佳乃が聞く。
「一個使えない。車輪がイカレてる!」
千早が舌打ちした。
「四つあったわ!」
麻緩がカートを運んでくる。
「じゃあ四回強でいけるはず。」
佳乃は軽く皆を見渡した。
一瞬で分担を考える。
「麻緩とあなた、食事を運んで。冴はそのままそれをやって。」
麻緩と千早を指差した。
冴は言われた通り、料理を飾っていく。
あとは、と彼女は思考を巡らせた。
「ゆり亜、花は?」
ゆり亜ははっとした。
「いけない、忘れてた!」
パタパタと動こうとする彼女を、佳乃は止める。
「いいわ、私が行く。ゆり亜は白酒をお願い。」
「銘柄は?」
「一本しかないわよ。」
麻緩が口を挟む。
「杯もお願い。」
佳乃はコウに目を留めた。
「あなた、花を用意するのを手伝って。」
「わかった。」
コウは頷いて、彼女に続く。
麻緩が戸惑っている。
「先持ってけ、汁椀のが重い。」
千早が彼女にカートを押す。
「はい。」
慌てて返事する彼女。
誰が何なんて気にしていられない程の忙しさだ。
「千早、手が足らんー!」
冴が音を上げる。
「お前米並べてろ。それは俺がやっから。」
千早は冴からフライを受け取り、魚を皿にうつす。
冴はご飯をよそってカートに並べていく。
麻緩が帰ってきて、再び持って行って。焼き魚を手早くさばいた千早が、麻緩と料理を運びにかかる。
三人だとなかなか進まなかったが、途中からゆり亜が冴を手伝い、やっと厨房の仕事を終わらせた。
麻緩と千早が最後のカートを押していく。
「終わった。えらいわあ。」
冴はぐるんぐるん肩を回す。
「まだ、あっちの準備手伝わなきゃ。」
焦った調子で、ゆり亜が冴をひっぱる。
「まずは厨房かたさやん。」
冴がのんびりと言葉を返すのに、彼女は強く反抗する。
「片付ける時間なんてないわよ。」
「はあ、しんどいわあ。」
ため息をつく冴に、ゆり亜がキレた。
「あんたが遅刻しなきゃ、もっと早くに終わったの!」冴は固まる。
いきなりの怒鳴り声にびっくりしたようだった。。
ゆり亜本人はというと、彼女よりもっと驚いて、うろたえていた。
いきおいとはいえ、こんな人怖い人に暴言を吐いてしまった。
彼女の頭の中に後悔がかけめぐる。
しかも一人。
佳乃も麻緩もいない。
無事ではすまないに違いない。
ゆり亜は泣きそうになった。
「そう。」
表情を取り戻し、冴は口を開く。
びくっとするゆり亜。
何をされるか言われるか。
歯を食いしばり、目を閉じる。
「そうか、やからか。やからあんなゆってたん…。」
彼女は納得したように繰り返している。
ごく小さな独り言のようだった。
訛りで意味は取りづらいが、怒っているわけではなさそうだ。
内心でほっとする。
「私、行くから。」
早々に立ち去りたくて早足で退出した。
これ以上心臓に悪い思いはごめんである。
残された冴は、考え込みながら、千早たちが帰るまで、鍋やらを流しに運んでいた。
広間に料理が次々と運ばれてくる。
今日の花は桜だ。
季節感があり、尚且つ食卓を汚さない花。
最後の花瓶を飾り終えたコウは、料理を運んでくる千早たちを手伝う。
今日の朝食は、食器から部屋のレイアウトまで、すべて頼の感覚に任された。
指揮をとったのは佳乃だ。
彼女は仕切り屋で、輪の中心にいるような人物だ。
教官が同じだった千早が言うには、彼女はよく目立つタイプだったらしい。
彼女が意見をまとめ、考えを練って、人を動かし、ようやく完成までこぎつけた。
考える猶予はあまり無かったが、何とか時間内に様になった。
「うん、いいじゃない。」
本人も満足げだ。
「あと一息かな。」
コウが、あらかた並べ終わったテーブルを見渡す。
麻緩と千早が、また料理を持ってきた。
「これで最後だ。」
「本当?よかった。」
千早はカートに寄りかかる。
乗っているのは、お盆といくつかの急須だけ。
テキパキと終わらせ、コウは椅子に腰を下ろした。
千早たちはカートを返しに厨房へ戻っていく。佳乃も壁にもたれ、ため息をついた。
「おつかれ。ありがとう、指示とか、色々考えてくれて。」
コウが、気持ちを素直に口にする。
振り向いた佳乃の疲れた顔が、みるみる治っていった。
彼女の口角が持ち上がる。
「どういたしまして。」
返事はよそよそしい調子だったが、まんざらではないようだ。
と、厨房に通じる方とは逆の扉が開いた。
二人は振り向く。
「終わったのかしら?」
聡明な瞳。
細い手足。
揺れる髪。
長いロッド。
「おはようございます、木乃芽。」
佳乃が腰を曲げる。
「おはようございます。」コウも立ち上がり、挨拶をする。
木乃芽はコウを、佳乃を、ちらりと見て、部屋の中央へ歩いていく。佳乃が近寄って椅子を引き、白いテーブル席へ座った。
厨房方面の扉から順に、ゆり亜、少し間をおいて、千早、麻緩、冴が入ってきた。
一様に木乃芽の姿を確認しては、緊張し、挨拶をしてから青テーブルの側へ並ぶ。
指示されたわけではないが、彼女の持つ司としての威圧感がそうさせていた。
す、と彼女は立ち上がり、皆の方へ向く。
一同に緊張が走る。
「ご苦労様でした。初日にしては、とてもいいわ。」
笑顔こそなかったが、一言目は賞賛だった。
皆の顔がほころぶ。
木乃芽は部屋を見回し、近くのテーブルの花瓶に目を留めた。
「花を選んだのは誰?」
「はい、私です。」
佳乃が強張る。
「桜は好きよ。初花ですもの。あなた、名前は?」
木乃芽が初めて、個人にたずねた。
「佳乃です。」
うれしさを堪えきれない、というふうに彼女は答える。
「そう、佳乃。覚えておくわ。」
木乃芽は言うと、ふいとすぐ目をそらす。
佳乃の顔に笑みがこぼれる。
当然だ。
名前を覚えられることは、すなわち司に認められるということ。
どんな司であっても、頼は誉められればうれしい。
「さて。」
木乃芽は一旦、言葉を切った。
頼たちを見据えて、話し始める。
「もうすぐ、私たちの仲間となる人たちとの初の対面です。彼らは、これから一生を共にしていく人たちになる。」
いよいよだ。
皆、不安より期待のほうが大きかった。
「司屋の世界は厳しいわ。その中で成長していくために、助け合い、競い合う。彼らはそういう存在です。」
毎年いくつもの司屋が潰れては消えていく。
そのためには努力と、仲間が必要なのだ。
「心を許せる相手であっても、私は見栄を張りたいの。初花の名を汚さぬよう、ちゃんとしていてくださいね。」
ふ、と彼女は微笑んだ。
初めて見せる、笑みだった。
その美しい笑顔に、皆が目を奪われる。
響きが場に鳴り渡った。
高らかな鐘の音。
大広間の柱時計は七時を指している。
少女はドアへ向き直った。頼たちもそれに倣う。
両脇の広間の扉が開かれた。