司と頼
司屋という店が一つ出来上がるためには、いくつかの条件が揃う必要がある。
まず、司屋の軸となる司の存在。
専門機関で研修を受け、適性試験に合格した素質ある者だけが、司になるための教育を受ける権利を得る。
そうした者達は、司としての教育を受けた後、店を持つ資格があると認められて初めて、司を名乗れるようになる。
これだけでもだいぶ候補者は絞られるのだが、その者が無事店を開くことができても、長く続けることは難しい。
司としてやっていくには、街の人の信頼を得ることが絶対だ。
だがこれが実に難しい。
司というものは、能力はもちろん、人柄から立ち振る舞い、服のセンスまで様々な面で完璧を求められる。
地道な努力も必要であると同時に、時には人や情報をうまく操り、舞台を整える狡猾さも持ち合わせていなければやっていけない。
こうして、司として有名になることは想像以上に難しいものであるのだが、それゆえに高名な司のやっている司屋ははずれがない。
常に完璧を誇ってこそ、真の司と呼ばれるのである。
依頼が善であれ悪であれ、その仕事には手抜きなどしてはいけないのだ。
司屋には司の他に重要な役割の者がいる。
それが頼である。
頼は文字通り、司に頼られる者達である。
常に完璧を求められる司において、その手足とも道具とも動かなければならない頼は、それ自体も司屋の質を左右する。
頼が悪ければ司屋は続かない。
つまり、店を立ち上げた当時の頼の質がそのまま、司屋の行く末を決定づけると言っても過言ではない。
また、司の教育も頼を左右する。
よい司は頼の扱いを心得ている。
頼とは何であるかをしっかりと認識、理解している者は、頼を成長させるのだ。
頼はそれを知っているから、自分を成長させてくれる司に仕えたいと考える。
老舗に就職を希望する頼が多いのはそのためだ。
頼は、司よりは初めの門が広い。
ゆえに志願者も並みの数でない。
ある程度頼としての教育を叩き込まれ、卒業試験を受けてから、高名な司の下に試験を受けて就くか、書類で流れてくる新米の司と共に新たな店を立ち上げるか、選ぶ。
どちらもリスクは高い。
多くの優秀な頼は、前述の理由により、高名な司の店に行きたいと試験を受ける。
だがその倍率は異常に高く、毎回多くの不合格者が出る。
そんな者達が流れ着くのが、新しくつくられる店である。
新米の司はそこから、えって頼をとるか、または、人気の無い店の場合はまるっと雇わなければならない時もある。
司がいても頼がいないのなら、司屋は成り立たないからだ。
実際に頼を得られずに店を持てなかった司も多くいる。
どんなに品がなくとも素行が悪くとも、自分の頼だから面倒は見なければならない。
だから、普通司は、面倒なやつを落とすため、面接なりを用意しておく。
だが、新参者を主司とするのは博打であるから避ける頼も多い。
不合格は大抵次の機会を待つのだ。
頼の心得には頼は司を選ばないと謳ってはいるものの、やはり頼としても悪い司には仕えたくないのだ。
こうして、司と頼それぞれの立場の利害が一致し、互いが気に入った場合にのみ、やっと店を立ち上げることが出来る。
長い道のりである。
店とはどういうものかは一口には形容しがたいので、簡単な決まり事などに、さらっと触れておくだけに留める。
司屋には専門、というものはこれと言って存在しない。
名が上がるに従って、これこれはどこそこが上手だなどとの理解があって、依頼に偏りは出てくるが、司屋は原則として仕事を選ばないものだ。
得手不得手はあるだろうが、それが司屋というものの基本だからだ。
店には司本人のアイデンティティとなる紋章を、司の結紐と共にリボンに織って掲げている。
これが看板の代わりである。
司はロッドに掛けてそれを持つ。
頼は店章を服に刻み、主司を示すよう言われるとひだを広げて見せなければならない。
基本の正装であり、また司や頼の誇りそのものである。
それぞれが自分の誇りを携え、司は頼を頼り、頼は司に従う。この信頼関係の上に、司屋は成り立っている。
司の心得、第一項。
司は、頼の奉仕に信頼で返し、その存在を信じ抜く。
頼の心得、第一項。
頼は司の信頼を得ることを美徳とし、また喜びとする。