表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

7/8

エピローグ_4







▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽









 濃い霞が低く立ち込める海原をほのぼのとあからぐ空が覆い始めている。

 暗陽の空を束の間に第三の太陽は西の水平線へと隠れ、東の空に登りだした第一の太陽が飴色にとろけて見えて、中天には第二の月の満月が青白く留まっている。空から眺めれば、西の彼方で死神の鎌のように反っている真っ赤な三日月の第三の月が見えるだろう。

 戦場の海の夜明けはいつもの空と変わらなかった。


 どんなに命が死んでいっても、星は変わらず回り続ける━━━━


 魔大公べクレヘムは大空を見上げて鼻白んだ。

 海も空も、地を這う者共の因果の変遷などと見ているのかいないのか、己の色を繰り返すのみで在り続けているのだと。

 それがいつもの事で、何ともちっぽけなことをしていると自分たちを思うのは、魔族の身の上にあってはやや感傷的にすぎはしないか。

 軍魔主旗艦艦隊の航行を先導させている翼機の空賊達などは血眼で眼下に霞む海原を見回しているのが、べクレヘムの魔眼からは見えている。因果の手柄と報酬のために殺して食う命を探す彼らのような気分こそ魔族らしいものだろう。




(いいじゃないか、俺のような魔族がいたって) 




 魔大公べクレヘムは自嘲して目を瞑る。

 なにしろ魔族というのは色々で、だいたい変態が多い。ベクレヘムの知る限り、魔王ともなるとほとんど会話が通じぬほような偏屈ばかりに思えるのだが、しかしアウズの魔王ヴァジリビチのように割と話せる一面をみせる魔族もいて様々なのだ。




(そうだろう。それに、今日から俺は━━━━)




 これから、魔王宣言しようというのだから。

 そんな自分がちょっと人間じみた性格だったとしても、誰にもはばかることはない。魔族は我が儘で、ありのままでいい。


 戦塵の火明かりに焼かれる暗陽の空を遠目に見たのは先刻のこと。軍魔艦隊第一陣の旗艦は巨船の衝突によりあえなく全滅してしまったが、同じ手を食わぬようにベクレヘムは全ての艦隊をさらに後退させ、全軍を外海に出してアウズ海域の東端の岩礁”死出島”を遠巻きに布陣していた。

 それは死神セッタ・ブンヤの巨船の進路を図るとその境岩を通ることが予想できたからで、巨船がアウズ海域を出てセッタ・ブンヤが死神の眷属神の加護を失効したところを攻め込むつもりでいたのである。


 折悪しくこの外海から見て西側のアウズ海域を濃霧が覆ったのは魔大公べクレヘムの手ぬかりだ。空と海の神々への根回しの供物や祭祀などをしなかったから天候が視界を遮って巨船を見失ってしまっている。

 だが、それはそれでいい。

 死神の眷士を討つのに方々の諸神へ申し入れなどしていたら思わぬ邪魔だてが入りかねない。気まぐれな神々の眷属神の眷属が恋煩いの憂さ晴らしや腕試しや物見遊山に参戦してきたらべクレヘムの魔王宣言計画はおじゃんになってしまう。

 何しろこの星の神々というのはどこの界界の争いにでも首を突っ込みたがり、どこかの界界が一人勝ちするような事態になるのを混ぜっ返したくてしょうがない奴らなのだからベクレヘムが憂慮するのも仕方がないというもの。神獣や魔女が勝手に助勢して来て恩きせがましく因果の取り分などと要求してくるのはベクレヘムの目に浮かぶように想像できている。

 逆に死神の冥界や系列の地母神など兄弟神達が義理立てして加勢にくればベクレヘムは負けてしまうだろう。

 そうでなくても自然や時空といった精霊界の眷属などはもう事態を具に観ていているのだから、ベクレヘムの死神討伐は聖神界へもそのまま伝わっているはずだ。それが裏宇宙の神々にどう判断されて、神理と中庸ちゅうようを騙る天使の軍勢が審判と称してこの事態に仲裁という横槍を入れてこないとも限らなかった。


 そういった世知辛い、裏宇宙界隈における、いわば世間じみた理由でベクレヘムという魔界の眷族の魔大公は界界界隈への告知なしに決起に及んだのである。産声を上げようとしている新規魔王1柱の建前を阻まれては困るのだと。


 ━━━━死神の眷士セッタ・ブンヤはべクレヘムが討ち取らねばならない。

 それでこそ、ベクレヘムはこの星の地表に魔王領を打ち立てるに足る実績を掲げられるというもの。永年アウズで死神の妨害行為を受けて来た魔神ダギリへの奉仕としてこれ以上ない首級にもなる。どこかの大陸にアウズのような魔法都市街郭を建造するにしても、世話になった魔神へのお礼や、先方の諸神への根回しといった手順や段取りは、そうした功名を得てからでなければ上手く行かないだろう。


 さて、ここまでの首尾はよかったはずだ。

 差し当たっての問題が、その死神セッタ・ブンヤのいる巨船が広範な海霧の中にあってどうなったかわからないという事なのだが、しかし、巨船の進路は解っているのである。海境の死出島を目印に広々と海を囲んだ総数150隻の軍魔の船船と空と海の魔物達がそのまま包囲を続ければ、アウズ海域を出た巨船はどこかで必ず見つかるだろう。

 死神の男に戦いを挑まないよう全軍に指令を出してあり、死神の男は魔族から直接危害を得ない限り”死の光”を放ってくることは無い。

 アウズ海域を出た死神の乗る巨船を発見次第、軍魔船は巨船に並走して追いつつ位置情報を発信し、ベクレヘムの軍魔旗艦の到着を待つという手筈になっている。それからベクレヘムが死神を討つのだ。おそらく無力になるであろうセッタ・ブンヤを殺すのは味気ないが、このさい大事なのは結果である。


 ただ懸念されるのは、当の死神セッタ・ブンヤが果たしてアウズ海域から本当に外海へと越境するだろうか、そしてアウズ海域から出て本当に無力になるのか、という事なのだが━━━━




(おかしい)




 斥候(せっこう)の軍魔船から連絡が一向に来ない。包囲陣そのものが濃霧の中にあっては満足に索敵できないのは分かるが、何なりと工夫する方法はあるだろうに一報も無いのである。ベクレヘムの旗艦から全体の軍様を目視できないというのも問題で、こちらからの通信に答える船もないのだ。150隻以上の軍魔船と魔物達のどこからも状況報告が上がって来ず音信不通というのは異常だろう。


 ただし、通常ならあり得ない魔族や魔物の統制の取れなさは時として起こるものではあって、それは軍魔の統率者自身の魔力に陰りがある時━━あるいは、邪魔建てに魔力錯乱の干渉をする部外者がいる場合に起こる。ここまでさしたる危機感も無くて来ている魔大公ベクレヘムに油断があって、機を見た人類種の魔法使い等に付け入られたという事も無くはないだろう。

 そうすると、そうした魔法の使い手というのが遠くの海に一隻で浮いている帝国軍艦に居てやってのけた通信の遮断なのか、とも思えてくるが今となっては帝国軍艦の方を気にしている場合でもなくなっている。

 作戦が大詰めに来ていたベクレヘムは魔族の長として少し諦観しすぎたかもしれない。


 と思っても軍魔の長である魔大公は動くべきでなかったのだが、つい実地で現場を見たくなった。自ら旗艦を進める決断をしたべクレヘムの主旗艦艦隊が濃霧の中を行くと、凪いだ海に軍魔の船船が浮いて停まっているのが見える。

 どの魔族船の甲板も、魔族の死灰で真っ白に埋もれている。立って旗艦へ敬礼するような魔族の姿は一つも無い。




(この霧は、霧ではない━━)




 このとき身に起きた魔力の異変━━脳裏へ一挙に注ぎ込まれる新たな情報量に対する違和感に、ベクレヘムは総毛立ち、かつ覚った。 

 魔大公ベクレヘムが魔力を分与した1万体あまりの魔族の魂が既に消えている、という事が分かったのだ。これは魔族が上位の魔王や魔神から貸し付けられる強力な魔力が、その魔族が消滅したことにより大元の魔界を経由して貸主の魔王などに魔力が返されるという普通の魔族間因果契約なのだが、消えた魔族の魂の総量に対してベクレヘムに還元される魔力が極端に少なすぎた。その上、還元された魔族の魂の魔力に纏ろう記憶などの情報もその分わずかであり、消え去った魔族の分については何が起きたのか全く知る事ができないのである。そんな事はベクレヘムの3万年に及ぶ永い魔族生活にもあった試しのない事で━━━━

 まして、そういった事が濃霧に入った途端に遅れて一挙に分かる感覚というのは、この霧が時空や情報の遮断、あるいはその遅停や屈折などを引き起こす異次元の霧、━━霧状に見えて漂う細かな何かが異常なモノだという事だろう。今その霧粒をとって調べる暇は無いベクレヘムだが、おそらくは帝国軍艦にいる魔法使いが施行した大規模な魔法により顕現された現象に違いないと思って歯噛みした。


 事態を紐解く手がかりはベクレヘムへ還元された魔力から知れる、亡き魔族達の辛うじて残った断片的な記憶だけである。

 それによれば、待機命令のはずの魔族達が押し並べて死んだのはベクレヘムの命令を破って死神に挑んだのではなかったのだ。どうも魔族達は人類種の乗る船を霧の中に見つけて囲み、それが死神の乗る巨船でなかった事から強襲するうちに周囲の軍魔船も集まって来てしまい総力戦となったらしい様相が分かるのだが、しかし莫大な魔力を誇るアウズ魔族が白兵戦で人類種共を相手取って全滅などとあり得るだろうか。事実、垣間見えるその記憶では、甲板に満ちる軍魔が人草共を圧倒する様子が見て取れるというのに。

 だが、そのことよりも━━━━そんな船は海境沿いに一隻も無かった筈だろう。

 ならば死神は今はどこにいるのか。旗艦を海境の死出島へと動かしたベクレヘムとは入れ違いに、死神の乗る巨船は既に海域を脱して外海へ抜けたのか。


 魔族の長として情けない事だがベクレヘムは軍魔主旗艦艦隊11隻を率いて異様な霞の中で進退に窮してしまっている。

 部下達が先んじて死んでいったのは魔族の長として出番の迫る様式に適う良い流れではあるし、部下1万体が死んで還元されなかった魔力が無くてもベクレヘムは無力の死神を殺す程度の魔力に不足はない計算だし、何にせよ報告が入って来ないのでは死出島まで船を進めてみるしか巨船の船足を掴めないと思うのだが━━


 と、そのときベクレヘムの立つ操舵室の目の前の制御盤の、小さな通信機に一方的な通信が入り込んで雑音が鳴り、魔大公の耳に知った声が囁いて消えた。




《「忌子様━━━━」》




 直参の部下ギャッツ・ギャン魔公爵からの死際の通信であった。その身が魂そのものである魔族が死んで霊魂などという事もあるまいに奇妙な現象ではあったが、その大きな魔力の消えている事からギャッツの死は間違いがない。ただ例によってギャッツ魔公爵に貸与していた魔力がベクレヘムに還元されておらず、その記憶情報も魔界から共有されないのは不可解で、この状況の渦中へ船を進めている自身をベクレヘムは危ういのではないかと危惧したものの━━━━




「忌子だと……?」




 断末魔にしては変であり、忌子といえば天魔の鬼導師という、その場に意外すぎる人格を思うとベクレヘムは引っ掛かりを覚えつつ海境の岩礁へと船を進めさせた。

 アウズの申し子である天魔の鬼導師の忌子はアウズ魔族の囲うアウズ魔王城の奥宮、アウズ頂上にある天魔の天領地で鎮まっているはずであり、日がな一日を魔貴族から供犠された死霊を食しては海外へ使役する因果改竄の快感に浸っている。ベクレヘムも忌子による因果改竄の鬼導を大いに利用して今回の死神討伐の予定書企画を数千年かけて人草社会に頒布して来ている。それが先代までの忌子のことで、近年に代替わりした新たな忌子の少女クマリは先日行方を晦ましたもののヒュローキ魔公爵領で囲われている事が発覚して魔族間で秘密裏な問題となっていた。その不祥事ごと消滅処分させるために先刻の死神セッタ・ブンヤによる港湾都市街郭破壊と都市魔法による街郭造成を利用して忌子を巻き込み殺すという魔王ヴァジリヴィチ発行の企画でヒュローキをけしかけていた筈で、眷属の使いの忌子とはいえ少女一人が莫大な街の破壊と変貌の渦から生きて逃れられるとは考え難かった。


 などと考えを巡らせているベクレヘムの頭上前方、霞みの空では空族達が旋回を始めて赤い煙幕で輪を描いている。間もなく赤く輝く信号弾を海へ落として戦場の中心点を示した。

 それはすぐ近くなのだが、あちこちに浮いている軍魔の船船からは立ち上る炎や煙といった戦塵が少なく、ここで膨大な魔族の命が失われるほどの大立ち回りがあったとは見て取れぬほど静かだ。


 海も、凪いでいる。

 風も無くて、ベクレヘムの旗艦がその造船資材上とてつもない腐敗臭のする人類種の血肉と骨で全て出来ていることから一帯に魔界の悪臭が立ち込めた。


 波のない海に佇む軍魔の船船を解体魔法で沈めつつ航路を開き、べクレヘム主旗艦艦隊がそろそろと行くと、白い薄靄に高く突き立つ影があって、よく見れば真っ黒な岩礁である。




「閣下。”死出島”です」


「うむ」




 アウズ海域の東端を示す境界岩だろう。ベクレヘムにかしずく近衛の魔族一体が目標点への到着を述べた時には旗艦は速度を落として停船しつつある。


 停船しなければならないのだ、ここで。

 それは無論、迂闊に今これより先へ、アウズの領海へ進むようなことがあれば━━━━と、その岩礁から周囲へと目を移すベクレヘムは意外な光景が近くにあるのに驚いた。

 正面、岩礁を挟んで濃い霧の中、軍魔船に囲まれた中央に帝国軍艦ライズ・クラウディアが浮いている。




「━━なっ!?どうやってここへ……」




 ベクレヘムが思わず声に出すほど驚いたのは、帝国軍艦が軍魔艦隊を恐れて遥かな水平線よりずっと遠くの海へ逃げていたこと先刻自ら確認していたからで、それがこのような敵陣真っ只中に在るのは予想外すぎた。さっき魔族の死んだ記憶情報から知った総力戦の敵方がこの帝国軍艦だとは思い至れなかったほどなのだ。

 矮小な戦力に過ぎない一隻を軍魔の船船が大いに取り巻き舟腹を突き合わせているものの━━何かがおかしい、と不測の事態を予感させる無音の船溜まりの景色は、知恵ある者の精神をいたずらに張り詰めさせた。


 この事態は既に、ベクレヘム自身が策謀した”予定書”にない因果の渦中にある。

 しかし、ここはもう予定した戦場、今がその決戦の時なのである。予定した状況とは異なる光景の中で。


 ()()に居なければならないはずだっただろう死神は。


 死神セッタ・ブンヤの乗ってきた巨船はどこにあるのか。

 目立つはずの巨影が、どこにも無い━━━━




「閣下」

「ベクレヘム閣下、……?」


「━━━━━━━━」




 すわ開戦かという位置へ来て押し黙ったベクレヘムを左右の将士が見ると、その窪んだ眼窩の奥にある目がせわしなく泳いでいる。

 そのまま魔大公から何の命令もなくて軍魔旗艦は海境の外側で停止した。これはベクレヘムが事前に旗下の魔族に命令してある通り、岩礁”死出島”よりアウズ側の海域へは船が入らぬようにする処置である。

 ━━と、ベクレヘムは一瞬、台本が白紙になった己の意識の空白から覚めると辺りを見回して、不審な面持ちで自分を見つめる部下達に気がついたが表情を変えずに座席から立ち上がり、


”都民1000人全てを甲板に開放し、生きたまま魔神ダギリへの燔祭に捧げよ━━━━”


 という下知を下した。今この瞬間にも死神との決戦が始まるかと緊張していた魔族達は意外な下命に困惑してどよめいたが、ベクレヘム側近の魔侯爵が檄を飛ばすと続々と外へ引出される都民達の目を剥いて絶望する顔を見るや下卑た声を上げて色めきたった。

 これはベクレヘムの左右を近侍する魔族の官職達にも想像できなかった土壇場の儀式だが、実はこうした戦の前の血祭りは別段の異例でもない。それは時に敵陣である人類種への挑発や、自軍の魔族達への勝鬨かちどきに間々ある魔大公の振る舞いなのである。変に丁寧なところのある魔大公ベクレヘムならば瀬戸際でも魔神への奉斎は有り得る命令だろう━━━━として誰も変事と思わず、これが変節したベクレヘムの餞別だとは気がつく者がなかった。

 魔族達はそういうものなのだ。

 抵抗する何の力も持たず魔都の夢に溺れて萎えた人草達の五体をなぶり穴という穴をしいたげる事により人類が発する絶望の因果が、魂そのものの顕現した存在である魔族達のこの上ない賜餐しさん━━━━”心の食事”なのだから。




魔盛まさからす人草の因果は元より魔界に帰すべく在らんとして在らるるものなりき。その因果を魔屠まほふたま魔噛まかみ賜い、原初の魔神ゼ、永久の魔神ダギリよ共に召し魔華まかし賜え。我らの食す因果に災禍わざわいを。魔界の呪詛じゅそ怨嗟えんさします。”ノンオーメン”━━━━」




 食前詩の丁寧な祈祷とともにくびり取った都民の首をひとつ、ベクレヘムが宙に浮かべると、首は極彩色に輝きを放ち軍魔旗艦と濃霧の海を華々しく照らし始めたのである。斑らな虹色の明かりが、魔族達の饗宴を━━━━━━




「ここは貴様の墓場だ。魔大公デヴォデ・ベクレヘム」




 唐突に名を呼ぶ声がしたのはこの軍魔旗艦の舳先で、甲板に引き出された都民達が注視するそこには抜刀した一人の若者の姿がある。

 霞でよく見えないが死神の男ではなさそうであった。




「っ!?…………その方は━━━━」




 その声や風貌がベクレヘムの記憶に触れて思い出す男の顔があって、しかしその名を思い出せなかった。ずいぶん古い記憶で、たしか自ら捕縛した後にヒュローキ魔公爵にくれてやった有名な冒険者の若者と良く似た顔立ちなのだ。廃人奴隷の一人に堕ちていたと思うが━━などという、常なら顧みもしない過去の記憶を想起したのもこの時空を乱す濃霧のせいだろうか。

 その一瞬の意識の空白がベクレヘムを後手に回らせた。

 ベクレヘムは旗艦船橋楼の4階甲板から見下ろしていたはずだが、距離があった若者がもう眼前で湾刀を振りかぶっている。


 勇者━━━━その向こう見ずな勇敢を人草達が讃えることを、相対して想起しない魔族はいない。単身でもって魔族の長に斬り込む者を勇者と言わずしてなんと言おう。

 ベクレヘムはこのとき打ち震えるべきであった。勇者と戦って散るのが魔族の誉であり、受け切って返り討てば魔王宣言に弾みもつくだろう。


 それが違和感のない因果の縁であれば。




「そんなはずはない」


「━━なっ……!?貴様っ!魔大公が勇者の剣を受けて逃げるか!?その程度で……!!!」




 罵りを背に受けてベクレヘムは空へと飛び立っている。




「そんなはずはない!これでは━━━━」




 とっさに受けた太刀筋に左腕が肘から絶たれてどす黒い血煙を吹き出したまま、ベクレヘムは霞の空を遥かに上昇してゆく。魔族の魔性━━━━魔界の魂の姿をありのままに顕現させた異形を露わに変貌し、その巨大な翼で朝焼けを羽ばたいた八度目には雲の上に達していた。


 恥も外聞も無い。

 この違和感の中に自分があるのは、おかしいのだ。

 死神を殺す企画を作ったのは自分のはずである。


 空へ昇り”結界”の外へ出たのは諸神の干渉から逃れるためだ。海面を覆う濃霧は自然のものではないどころか魔法をも超える現象なのだ。

 忽然と現れた帝国軍艦を見た時に、この異常さの正体にようやく察しがついた。ベクレヘムは空と海の諸神に根回しをしなかったが、軍魔艦隊の前にただの一隻で現れた帝国軍艦は時空の神へ十全の供物と祭祀を供した上でやって来ていたのだろう。


 海霧の霞は”幽界”を顕現させた結界に違いない。


 そこで時間は曖昧になり、空間もまた不確かになってゆく。多少のむらはあるが━━━━そこまで考えが及ぶと、この海域を覆う濃霧のような幽界の結界は、帝国軍艦を近海から転移させるための”転移魔法”に使われた幽界の大気である事が、ベクレヘムには気づく事ができたのだ。




「シーハーッ!シーハーッ!シーハーッ!シーーハーーッ!シーーハーーッ!!!」




 人類種に完全に出し抜かれた事は卑怯を旨とする魔族として恥以外の何物でもない。

 だがベクレヘムは獲物の大きさを思えばかつてないほどに興奮した。今自分は鬼導師の術中にあるのだと。

 作為ある因果の縁に獲物を取り込もうとする鬼導師の娘が、天魔の忌子がベクレヘムを狙っている。

 その理由は忌子がアウズの外へ出奔したいからに他ならない。それには忌子は、あくまでも死神の男がアウズを出てゆくものと見せかけて、ベクレヘムの作った予定書通りに沿う因果の縁組に隠れる形で出て行くつもりでいるのだろう。その縁組の最後である今この時に、




 ━━━━鬼導師の忌子が海に出ている━━━━




 ということを魔王ヴァジリヴィチは知っているだろうか?

 知らないはずである。




「シーハーッ!シーハーッ!シーハーッ!シーーハーーッ!シーーハーーッ!!!」




 それは現世の理屈では理解できないことで、天魔界の権限は魔界よりも高く、高みにある魂の在り方を低きにあるところの魔族からは魔王とて知ることができないのだ。魔王ヴァジリヴィチがさっきベクレヘムの前に現れた本当の目的は激励でなく鬼導師の忌子を連れ出していないか自ら検閲に訪れたものだろう。

 その忌子の行方を今ベクレヘムは掴んでいる。

 魔大公ベクレヘムは覚えている。忌子の代替わり選抜の折、天魔の天領で接見した面識ある鬼導師の一人、イサナト・クマリの痩せ細った姿を思うと━━━━




「シーハーッ!シーハーッ!シーハーッ!シーーハーーッ!シーーハーーッ!!!」




 死神セッタ・ブンヤを殺すのは造作もないだろうが、そうして魔王宣言するのはベクレヘム自身のケジメに過ぎない。

 しかし鬼導師を手中に入れる事は天下に覇を成し因果を統べる一角の魔王たる実力を備えるも同然なのである。

 ”魔王選挙”どころの話ではないのだ。

 その鬼導師の中の真性の忌子ともなれば、鬼導の術は世界人類の因果を人知れず工作するのに甚大な影響を及ぼすことができるだろう。取って付けるようだが魔王になれる確かな道筋の一つがそれなのだ。自前で鬼導師を囲い秘密裏に死霊を使わせれば、人類種達の社会にどのような価値観の変遷も起こせるだろう。


 例えば、背の低い者を駆除する価値観の施行━━━━

 現世紀からほぼ廃れてしまった巨人至上主義の復権である。まず高身長を優生因果とする名目とともに、人草達の間で「低身長は醜く、高身長は神である」という思想を持つ新興宗教団体の設立。信者を増やして価値観を定着させる。そして低身長を弾圧・殺処分することで人口抑制にも貢献。人草の人数が減れば人草の因果の”価値”の単価は一層高まり、眷属達の競争は激化し裏宇宙の構図に混沌を期せるはずである。


 例えば、太った者を駆除する価値観の施行━━━━

 因果を過剰に食っては穴から捻り出すだけの醜い人草を減らせば因果値の不平等を解消できるだろう。人草達に星の寿命を憂う資源保守過激派権利団体を創設させ、肥満は悪であるという価値観を蔓延させる。そしてガリガリに痩せこけた人草達ばかりになれば寿命の短い命の連鎖で因果の回転率が速くなる。ガリガリ偏愛主義に迫害されるデブ博愛主義との間に対立構図を作り出せるから両方殺し合ってむしろ平均的な健康人草社会が最後に残るはずである。そうなれば無駄な因果消費を削減できるばかりか、人草の因果を平坦でつまらないものに出来て眷族達をガッカリさせることができ、引いては裏宇宙大変遷の機運も高まろうというもの。


 例えば、禿頭の者を馬鹿にして良い価値観の施行━━━━

 もし人草のハゲを笑う者があれば笑われしハゲに幸運の因果値が付与されるようになればどうか。禿頭を馬鹿にすることが祝福なのだという潮流を人草社会に作れば、ハゲに良く、また嘲笑する者にも良く、誰も損を被るものは居なくなるだろう。そうなれば嘲笑を断罪する罰神の眷属が振り上げた鉄の拳を振るわずに済むというもの。人草の多くがその因果の鉄槌を下されずに済むことで笑いと悲しみの因果値はその運用の収支から浮いて他の何かの企画に使うことができる。それを眷属達が取り立てて気にかけることもあるまいし、その因果の意味が無くなればおそらくは、世の人草の禿頭という因果を撤廃する裏宇宙企画もやがては通りやすくなるかも知れないじゃないか。しかしそうすると人草達は皆が禿頭に成りたがるかも知れず、それでは表宇宙現世の存在理由である必要な”変化”などの多様性に差し障りがあるかも知れない。

 だが、そうした一見些細な、繊細すぎる因果の機微に頓着のない裏宇宙においてそれを問題視する神経質な神界で無駄な企画会議が度々開かれれば、魔界にとって幾分かは立ち回りやすくなるに違いない。


 身も心も頭も弱く哀れな者を強者に仕立てることだってできる。

 強靭な肉体であることは悪なのだ、大らかで不屈な心は悪なのだ、智恵あることは悪なのだ、という価値観を人草達に持たせればいい。強い事は弱い事への”差別”━━━━差別は万物の創造主である神の愛を反故にする反逆、大いなる”罪悪”なのだと。そうすれば強者は弱者の顔色を見てへつらい、弱者は社会的に強者に君臨できて人草の世界は滅びの一途を駆けおちてゆくだろう。


 魔族と人類種を融合させることも可能。

 魔神を祀らせ他の神を廃するように価値観を変えさせて、魔族への偏見と抵抗感を払拭すれば、人類種と魔族の交配を進める半魔量産企画が進捗する。これは何度も湧いては廃れて定着せずに繰り返している魔族企画”幸せ魔族計画”の大きな楔となるだろう。魔族と人草の融合が実現すれば現世の全ての因果値を魔界が掌握する結果になるのは火を見るよりも明らかである。


 人類種を現世から全て消し去ることも難しくない。

 最も単純かつ直接的な手法だ。生ある事はクソなのだと、人草達に思い込ませればいい。現世は地獄で、社会はゴミで、人類種が星から一人も居なくなることが世界の平和であり、真の愛を表現する事なのだという価値観を広める。消滅することが自ら愛そのものに成ることなのだと。そうすれば、この星には()()誰も居なくなる。それで何度目かの天地創造を再起動ともなれば、魔界も諸神と同じスタートラインから公平平等に星作りに着手できて今とは違った立ち位置に収まるだろう。

 逆に人類種を生産資源として大いに活用する案もある。それはすでに過去の魔王達も試みて来たことではあるのだが、完全資源と言える人類種達の地と肉と骨を魔族の衣食住に用いるばかりか当の人類種自身にその文化を根付かせて新世界文明を築こうというものだ。そのためには今よりも多いに人草共を繁殖しなければならないから諸神もある意味では納得せざるを得ない側面もあることだろう。かつての文明のように太陽系すべての惑星に人類種を繁栄させて大因果経済圏の復活を盤石に構築することも現実的に夢ではない。


 なんでもござれだ。

 普通、これらの企画を魔族が企図すると実現には甚だ”時間”と”因果”を要して準備段階から現世人類社会の通年で言うところの半世紀か一世紀以上を経ねばならないに違いない。

 だが鬼導師の術により死霊の魂を自在に用いれば、生者の因果を容易に上書き工作してしまう。その上、その因果は裏宇宙を経由する必要がないから、自分の企画で生産した新たな因果を自分の魔界に収容して自由に使うこともできるだろう。


 そんなことしていいのかって?

 ベクレヘムは魔族だ。魔界の悪魔の使者なのだ。

 この現世で人類種達にどのような”必要悪”を為すことも『全てと全てと全てを司る根源の神』により免除されているのだと、それを”最初の悪魔”である根源の魔神により魔族達は保証されているのだ、という、それは魔族達に伝わる伝説であり信仰なのだ。

 その苦難や逆境から立ち上がる人類種が現れるために必要な悪事であれば━━━━未知なる何かを産むためであれば、何をやったっていいと。


 だがこれは裏宇宙から表宇宙現世へ下される人草達への因果企画を妨害して混ぜ返す、神々への反逆なのである。


 その”天津罪”を━━━━ベクレヘムは、鬼導師の忌子を擁して海外に持ち出し新たな魔領を築くという、魔族史上に類例の少ない天機が己に訪れているのだと知って勇者一匹や死神の男など捨て置いて何ら惜しい事はなかった。まして、それを逃しつつあると気づいて気が確かでいられるはずもないのだ。




「シーハーッ!シーハーッ!シーハーッ!シーーハーーッ!シーーハーーッ!!!」




 魔族が、魔界が欲するモノは、正常な命━━━━”正常な因果”である。引いては”未知なる値”を生む為の唯一の資源である。

 汚れなき魂を汚す時にだけその価値は生ずるのだ。

 因果を魔性に侵す時に魔界は富むのだ。

 魔族の情緒はそうして豊かな彩りを実らせ”多様化”への”統一”が進む。

 あの変化の乏しい裏宇宙においては”新たな変化”こそが尊く、魔界ばかりか、諸界諸神の待望するところで━━━━




「シーハーッ!シーハーッ!シーハーッ!シーーハーーッ!シーーハーーッ!!!」




 だから人類種達を魔族は貪る。一方的に、理不尽に苦しめて、しかしそれが世界の喜びなんだと、人草達にとっても本当は幸福な事なんだと魂で理解している。

 そのために自分たち魔族は根元の神から悪事為す為の必要悪の免除契約を魔神と結んでいるのだと魂で理解している。

 そんな魔界の神々のために下働きし続けて得た因果の値を搾取され続ける日常にベクレヘムはもううんざりだ。




 なんで魔神たちの企画のために自分の夢見る企画を諦めなきゃならないんだい?


 魔王になるのだ

 大魔王になるのだ


 世界の全てを私に委ねてください

 自分の稼ぎは自分のものだろう

 ならアウズを出ればいいじゃないかって?なぜ今まで出ようとしなかったって?


 アウズで都民をたぶらかして得た因果で都市街郭を作り続ける労働は(ぬる)くて安全でダラダラできて怠惰でそれはそれで魔族感あって悪くはなかったからさ

 アウズ魔族の夏休みは800年間もあるんだ


 でも俺はもう決めたんだ

 走り出してしまったんだ

 今日から俺は、魔族の王になるって


 もう後戻りはできないのだよ

 裏宇宙の魔界に己の領界を持って魔神達のように世界創造産成権を得るのだ

 デヴォデ・ベクレヘムの趣向通りの世界に作り替える権利を得るのだ

 魔王にも誰にも明かしたことのない一塊の魔族の野望━━━━人間だった頃の儚い夢を━━━━その実現を


 アウズに憧れて初めて魔都へ足を踏み入れた時のことを覚えているかい

 あのとき君は若かった

 魔族になりたてのルーキー

 映えある17歳

 欲望だけで作られる都市街郭の奇景に胸ときめかせて

 僕もあれを設計したいんだって


 そのとき僕を天啓が、白紙の未来を垣間見せただろう

 せっかくなら人肉で作りたい

 人草共の地と肉と骨で、雲まで届く途方もない都市街郭を━━━━そのとき空と海は永年夕陽の色に、諸神に頼んでしてもらおう


 そういうのって素敵じゃないか

 だから僕は、何事も小さなことからコツコツと、と思って自分の船から作り始めたんだ

 それがいつの間にか、広い自領や艦隊を持つまでになった

 同じ趣向の仲間もたくさん集まった

 だけど、そういうのは自分の家や船だけにしておいたんだ

 大望は胸に秘めておかないと嫉妬を買うし、何事も分別が大切だからね


 そういうのはもう終わりだ

 これからは魔業で示すのだ

 新たなる魔都に鎮座して、新たなる魔王とよばれて




 獲物を鬼導師を求めるベクレヘムの瞳は執着のあまり全身に現れてか翼の節々に至るまで艶やかな眼球が生じている、無数の目玉ある翼の化け物になって東の海へ降下して行った。

 鬼導師の忌子を乗せた巨船の位置に目星がついたのは、あの帝国軍艦の奇異な出現から察することが出来た通りである。転移魔法を使ったということは位置を入れ替えたと考えてまずその元居た位置の海域を探すべきで、そういう転移魔法の実例を永く生きて知る魔族の長が人類種などに欺かれたままでいるほど間抜けではないのだ。


 空から見下ろすと細かく煌くシワの広がりにしか見えない大海だが巨船を見つけるのは魔性のベクレヘムには難しくなかった。全身の眼という眼が見るのは近く、遠く、長年かけて自ら産出してきた空と海の魔物の眼をまで我が物として視野を得る。

 すると巨船は難なく見つかった。

 海原に高波をあげて爆進する巨船は高空から見ても波紋を広げているのがよく目立つ。アウズを脱した鬼導師の娘は船足を急がせて近海の島影なりと隠れ込むために焦っているのだろう。

 翼を畳み込んで切り揉み回転し高速降下するベクレヘムが船首甲板を穿つように降り立つと勢いで巨船はつんのめって船尾が尻上がりに持ち上がった。それからゆっくりと海へ戻る船体が盛大な波飛沫を立ち上げて停船し、巨船の動力が故障したか操縦手が驚いて手を止めたか船は動かなくなっている。




『忌子━━━━忌子━━━━』




 死神の男などもうどうでもよかった。

 忌子のクマリ姫。天魔クマラの末裔のひなびた痩身を鷲掴み、そして何処へでも外国へ飛び立てば後はどうにでもなる。




『忌子━━━━忌子━━━━』




 甲板に姿の見えないクマリを求めて腕を振るうが、左腕が一本無くて平均なく空転するベクレヘムの異形はそのまま巨大な右腕の勢いに船体を破って階下へ落ちていく。


 


『忌子━━━━━━━━━━━━』




 暗い空間は意外なほど巨大で両翼が優に広がるほどに広い。その背がゆっくりと底に着くと玉砂利が鳴るような音がして、手近に触れた手頃な塊を拾い上げたベクレヘムは満身の眼でそれを凝視した。


 昏く、闇く輝く、硬くて小さなそれは魔石である。


 ベクレヘムの墜ちた巨体を大量の魔石が沈めるように受け入れている。


 巨船の階下の巨大な荷室に敷き詰められたアウズの魔石の山が━━━━━━━━




『忌子』




 その上に立つ人影を見てベクレヘムは無数の眼を瞬いた。

 仄暗い明かりをもたらす魔石の輝きの中で人影は、どこか暗い、生気の無い姿で━━━━それが、無数に立っている。

 たくさんの眼がベクレヘムの全ての眼に映ると、全ての全てはまばゆくらんで輝いた。


 眉間を貫く一筋の無明が視界の元を白占しろしめてしまったのだろう。

 因果を無に帰す、死の光が。









▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽








評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ