エピローグ_3
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甲板の脇で両手を広げる小さなクマリの周りには、大勢の軍人達と多勢の魔族達が入り乱れている。
というのが、およそ常人の目から見えるだけの光景である。そこに無数の数えきれないほど膨大な亡霊達が重なり蠢いている様相を視る者はいない。ただ一人、天魔の干渉する鬼導師の一族の忌子、クマリをおいては。
この軍艦の満場に満ちた霊魂をクマリは観ているのだ。その大きな瞳に映るのは、船の内外に満ちる死霊、亡霊、霊魂の群れ━━━━魂達のほとんどは、帝国軍艦を囲んだ魔族船に積載されていた都民達の死霊である。
その、姿の無い者達からの多すぎる視線がクマリを注視している事を、クマリが青ざめた顔でいる理由を、誰一人として気がつかない。
「このままじゃまずいっスよ、逃げる一方じゃあ。こういう時は、あっちの首格を討たないと。軍魔にも指揮系統があるはずっス」
「それは軍人達も冒険者達も解っているだろう。俺たちはクマリお嬢さんを守って逃げるんだラルフ」
「……」
「それはそうっスけど、じゃあ、この軍艦のどこが硬い拠点になってるっスかね。やっぱり操舵室のある船橋楼?」
「そうだろうな。さっきはぐれたバルボア艦長のとこだ。船を護持する魔法使いが各所に居るはずだが、艦長のいる本営が最も守りが硬いはずだ。この幕営の最終防衛拠点だろう。何とかそこまで急ぐぞ」
当然ながら、この修羅場に満ちた死霊の群れをハワードとラルフは感知せずに生き残るための思考をのみ働かせている。
黙って俯いているクマリを強引に背負ったハワードが甲板を走り、追い縋る魔族の群れをラルフが手足を働かせて打ち払いながら艦内へ駆け込むと、狭い艦内は甲板との出入り口付近で激戦しているものの内部は軍人や傭兵の冒険者達によく守られていて魔族の侵入がまだ少ない。
その通路や部屋を軍人達の誘導であちこち移動する間、クマリは艦内の風景も戦闘の状況も何も見ていなかった。
ただクマリは金眼を見開いて虚空を観るように視線を彷徨わせている。
軍魔の侵入と共に帝国軍艦へ雪崩れ込んで来た死霊達はあっという間に軍艦を満たしている。
それは彼ら人類種の死霊が、その人情から魔族の船に留まるよりも人類種の船へと移動したいから移ってきた、というわけではない。クマリの目に映る様相には、魔族に引きずられるように憑いてゆくのが見えていて、魔族に殺された人類種の多くはそうして因果の重さから魔族に魂を捕われてしまっているのだと解っている。
遍く死霊は自分という鬼導師の忌子のモノ。
━━として生きてきたクマリには、そうした魔族の憑物である怨霊達さえも、自分以外の何者かに引き憑けられているという姿は視ていて愉快ではないだろう。
だが、今クマリの金眼が前髪の奥でギラついているのは、そうした執着の眼差しとはまた違っている。
縋るように、その多くの魂の中から特別な何かを探し求めるように、霊魂達の顔色を忙しく見比べて泳ぐ目からは涙が溢れている。
「『私のところへ来て、私ものになって。皆んな、皆んな集まって』」
と、クマリは天魔の声でもって何度呼び掛けたか分からない。この海域にいる全ての━━全ての死者の魂達へ。
それが、確かに犇く魂達が船を埋めるほど集まったというのに、そこからクマリのモノになろうとしないのは、どうしてなのか。私の呼びかけに集った魂では無いのかと、クマリは広げた腕を怯えるように胸の前へと縮めてしまっていた。
そもそも、こんな言葉で何度も呼びかけなんて事をすること自体クマリは初めてで、なのに、それすら聞かない魂達をどうして自分のものにすればいいのか分からない。いつもなら死霊はクマリが求めればそのままクマリの意思へ依り憑くはずで、いや、もっと早く、クマリが意する瞬間にクマリのものになっていたはずなのに。
『『『『『『『『━━━━━━━━』』』』』』』』
と、死霊達の視線が集まるだけなのがクマリを刺すようなのはひたすら苦痛を与えるものだったろう。
死霊達が欲しいのに、でも欲しがる自分が嫌で、それでも欲しくて、心が乾いて擦り切れそうになるのを死霊達で潤したくて━━その想いが満たされないなんて。
船いっぱいに立っている霊魂達は、ハワードに背負われて走り去るクマリをただただ見つめるだけでいるのだ。
おかしい
おかしい
おかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしい
何かが違ってしまっている
自分の中の何かが変わってしまった
鬼導師の忌子の私が死霊を飲み込めないなんて嘘だ
━━その事が分からないなんて私は私に嘘をついている!
クマリがその事を自分で分からないはずがない。
鬼導師の忌子には死霊を観ればそれだけで死霊の視点が、自分の知らない世界の記憶が解る。それは物からも分かるのである。
物の魂にまつわる記憶、その因果の縁を、自分が手に持つ黒い拳銃の背景を観れば、その過去はもう視えている。
私は私が大事に抱えているこの黒くて重くて小さな銃に撃たれて魂に穴が空いたのだ
私の天魔の忌子の器は穴が空いてひび割れてしまっている
だからもう霊魂達を、━━死霊を使うことは出来ないんだ
全部、自分で解っている。
「『そんなの嫌だっ!嫌だ嫌だ嫌だ!!みんな私のものでしょ!?人草の魂は全部全部私が使うのに!私はアウズを統べる天魔の鬼導師!その忌子の、イサナト・クマリ・クマラ・ヨームヨーミ!この天魔の権限を持ちて、命の死する魂達に命じる。この声に応えて、私のところへ━━━━』」
『『『『『『『『━━━━━━━━』』』』』』』』
鬼導師なんて存在を知っている霊魂はまず居ないのである。人類の中の、ほんのちょっとの人数しか鬼導師の存在を知らないから霊魂になっても彼らは鬼導師を知り得ない。その霊魂に縁ある守護霊とかまでも鬼導師の概念すら認知していないので認識の助けもなくて知り得る術はない。
でも無意味な名乗りをしてまでもクマリは彼らが欲しかったのだ。身近に溢れる霊魂達が遠くの雲みたいに絶対に手が届かないなんてそんなの悪夢みたいだった。
ましてや口答えするなどと。
『━━━━何言ってるんだ。この子は』
『━━━━自分のものだと?』
『━━━━俺たちを何だと思っている』
死霊達が口々に呟く意思の言葉にクマリは絶句した。
まず、死霊が勝手にものを言うのをクマリは許可していない。
そして、鬼導師の忌子のクマリへ向けて反意を示すなんて、初めてのことだった。
『━━━━この子は私たちが見えているのか。死んだ私たちを』
『━━━━我々を、魂を、自分勝手に使おうとしている、というのか?』
『━━━━アウズの、天魔……?』
「『ぁ、ど、どうして!?あなた達は、死んだ魂というのは、……天魔の、鬼導師の忌子である私のもの!私が、私が命令すれば、あなた達は、もう一度、人生を生きることができるのに!生者にとり憑いて、私の命令した通りに生きることができる。あなた達の自我を活かした人生を、私が作って……いつも、そうなのに…………』」
命令するための知識も知恵も霊魂たちの”因果の命樹”を観れば祖霊と過去生の情報から適当な指示を出せる。そうして憑かせた死霊達は生者の人生の因果を上書きしてもう一度人生を手に入れることが出来る。生者が本来持っている以上の潜在能力を守護霊や過去生の因果から引き出して、技も力も心も強化することができる。それを忌子にとっても死霊達にとっても”天津罪”とするのが、天魔の眷使の使命だったはずで。
それは死者達にとっても悪い話ではないだろう。死んで魂になった彼らには、魂でその事を感じられるはずなのだ。一度しかない人生を死後もう一度生きる人生が形作る縁組は、現世に決して消えない歪な因果を残すことができる。死んだ自分の未練を、恨みを、希望や執着を果たした因果は、歪のままで冥府に凍結される━━━━そうすればその魂はずっと、果たした達成感のままで存在し続けられるのだ。それは魂を勝手にアウズの出鱈目な街郭なんかにされるよりもよっぽどマシじゃないか。魔族に殺された命の魂は浮かばれることなんてないのだから。
だから、クマリが彼ら死霊を使ってこの船の乗員達に憑かせ、軍魔撃退に利用する指示を出すのは、彼ら死霊達にとって”在りうべからざる未来”の実現のはずで、きっと、そう在りたいはずで━━━━
『…………はあ?』
『そんな訳ないだろう』
『それはいけない。』
『ダメだ、ダメだ……』
『君みたいな小さな子が、何を言っている。いけないよ』
「ぁ、」
『━━━━嫌だ死にたくない』
『━━━━魔族め』
『━━━━うそ……』
『━━━━まだ戦える。死んでない。俺は死んでないんだよ』
『━━━━なにこれ』
『━━━━お母さん……お母さん……』
『━━━━ここまで旅をして、魔族に殺されて終わりだと……』
「ぁぁ」
『僕たちの魂が欲しいだなんて……』
『よくないよ、お嬢ちゃん』
『人の人生を勝手に、強引に変えてしまうだと?』
『それが間違いだということは、いくらなんでも分かりますよ』
『いくら魔族を倒すためでも……』
「ぁぁ━━」
『━━━━街から連れ出されて初めて分かった。私たちは都市魔法に人生を食われていた』
『━━━━来てはいけなかった。アウズには』
『━━━━嘘だったんだよ。全部嘘だったんだ』
『━━━━でも、今更どうしようもない』
『━━━━アウズに殺されたんだ。全員』
『━━━━全員、アウズに殺されて、魂にさせられた』
『━━━━天の……悪魔』
『━━━━このガキが、俺たちの魂を使うために……』
「あああ━━━━」
『過去生?祖霊を……?そんなことは━━━━』
『こうして死霊になったからこそ分かるんだけど、やってはいけないことだ』
『最悪だ』
『罪だ』
『いや、僕は、今の提案はとても惹かれる言葉、だとも思うけど……でも、…………』
『いいかい?君、そんな事をしたら、君は大いなる懇願の神キボンヌから裁きを受けるだろう。やめなさい』
「ああああ━━━━━━━━」
理解しない魂、話を聞かない魂、死んでなお信仰を語る魂━━それはそう。解り切っていた事で、そうして初めて霊魂と対峙する、拙く掻き口説く少女の言葉には、もう魂を喰らい遣わせるほどの権能など無かったのだった。
今死んだばかりの死霊の群れが渦を巻いて意識に触れる感触が、否定が、憎悪が、侮蔑が、悲しみが、迷いが、絶望が、満たされるはずだったクマリの器をくちく満たす事は無い。
ただ目眩く因果の刺が腹わたを傷つけては出入りするようで、その不快をすら留め置けない自分の魂の器の穿たれた虚穴が恨めしくてクマリは。そこから因果の零れてゆく右胸を塞ぐように押し当てた、黒い拳銃を━━━━━━━
「あああああああああああああああ!!!!!」
『『『『『『『『━━ッッッ!!!???』』』』』』』』
クマリ自身、これは後になって思えばありえない事であったのだが、手に持っている拳銃で殴ってしまっていたのである。死霊たちを。
殴って殴って殴って、手近な死霊へ拳銃を振り回して皆んな皆んな殴ってしまっていた。死霊達は船にぎゅうぎゅうづめだったから、魔族との戦闘からクマリを背負って走り回るハワードが動き回るといくらでも死霊達に手が届いて叩くことができた。死者の声を聞くクマリに霊魂達の方でも実際引きつけられて離れ難いのかもしれなかったが、霊魂自身で海を渡ることのできない彼らには船から逃げる術もなかっただろう。
でもこんなの仕方がない。口で言って聞かない死霊に手が出てしまったクマリはこの点においても青い少女に過ぎず、人間でいう普通の娘の癇癪と何も変わるところがなかったのだ。何しろこんなふうに死霊と話すことなんて、口答えされることなんて、クマリは今まで……それは全部クマリの言い訳だが、しかしクマリは鬼導の術を使うことが善い事だなんて本当はちっとも思っていないのに、それなのに、魂の因果を勝手に上書きして良いなんて思ってないのに、苦しいのに、━━━━。
クマリは途中から自分の乱暴に気がついていたけどもう振り回す腕は止められなかったし、その細い腕を癇癪の力でもって振り回した重たい重たい拳銃の遠心する重さを途中で止めるなんてそんなの無理だったのである。
『や、やめ━━』
『ぐあっ!!』
『たわぱ!?』
『ひでぶ!!』
『めこおっ!!』
『ひぃいッ!?』
『逃げ、ッ逃げろー!』
「あああああああああああああああ!!!!!」
このとき、小さな顔を涙でくしゃくしゃにしながら叫んで腕を振るうクマリの感傷は、余人には分からないものである。
悔しくて怒ると信じられない力が湧くなんてクマリは今まで生きてきて知らなかった。その感情が身の内に湧いて出る感動への、少女の新たな自我の産声だっただろう。
取り返しのつかない自身の魂の器が、もう二度とは元には戻らないほど壊れてしまっているのだと分かってしまった嘶きは、自分のものだと信じる霊魂達に裏切られて哀しく海域へ轟いた。
今はただ死霊達の無理解を拳銃の柄尻で叩き殴る、右胸のスッとする気持ち良さで、そんなの止められるわけがなかったのだった。
「あああああああああああああああ!!!!!あああああああああああああああ!!!!!あああああああああああああああ!!!!!」
言うこと聞かない死霊達なんて消えてしまえばいい。非難の声なんて何も聞きたくもない。どんどん叩いていけば死霊達は━━━━大勢の魂の意思達は、いつの間にか少なくなっている。
徐々にその叩きごたえが止むごとに気がつくものがあってクマリは殴る手を止めると、もう腕が上がらないほどに拳銃が重くなっている。
死霊を殴れば殴るほど重くなっていた拳銃の異様が、ようやくクマリの目に留まって小さな胸を慄のかせた。
銃把を握る右手に黒い何かが━━━━━━━━真っ黒なモノが絡みついている。
クマリの、鬼導師の霊眼に映るその拳銃は現実の姿ではない異形の、異常な龍体を銃身に絡める黒龍の姿だった。
頭がいくつあるのか、眼があり、牙があり、角があり、爪があり、獣毛を靡かせる、長い龍体をうねらせた恐ろしいその姿を見ればさらに見えてくる。どう伸びているのか黒々と蔓延る異形の龍の四肢という四肢がクマリの半身を━━右胸を掴むようで、すでに人の腕の形をしていないクマリの右腕は真っ黒に昏く輝いて、いっそう暗くピカピカに煌めいてゆく。
━━━━死霊を食んでいるのだ。
魔族に殺された者達の寄る辺なき魂を。
忌子の心を潤すはずの、天魔の器を満たすはずの、因果の塊を。
泣いたり怒ったり喚いて腕を振り回したりしたクマリが突然に項垂れて動かなくなったのを、ハワードもラルフも構ってやる余裕がないほど船内にまで魔族と魔物が溢れて戦闘は佳境を迎えている。甲板との出入り口各所を封じていた傭兵や軍人達が殺されて狭い船内の部屋や通路でも剣と魔法が飛び交いジリジリと人類達の拠点は後退してゆく。ハワード達は結局、目指していた中央船橋楼の大拠点まで辿り着く事ができずに魔族に囲まれてしまっていた。
現世は残酷に刻まれる”時間”にどんどん縛られてゆく。
刻々と決定されるそれぞれの世界が一つの世界を決定してゆく。
死霊達からクマリに伝わる膨大な未来の様相は一つの可能性へと鮮明に濃くなってゆく。
この帝国軍艦に足を踏み入れた軍魔艦隊7柱の魔公爵と軍魔と魔物の群れが、人類種の軍人と冒険者達の抵抗を挫くのはもうすぐだろう。
クマリがハワードの背で項垂れているだけで居るのなら、それはただ過ぎてゆく。
これは天魔の権能が上書きし得る縁組に対する裏宇宙の因果の縁組の魂建の攻防なのだ。クマリが因果の縁組を新たに打ち出しても裏宇宙の全てと全てと全ての存在たちは膨大な未来の可能性の全てに先手を打って組み立てるだろう。それが決定してしまう前に、クマリは決めなければならない。
(私は、どうしたい━━?)
”魂を込めなければ黒龍は撃てん”
そういうモノなのだ。この銃は。
命を喰らう、魂を穿つ、眷銃━━━━
霊魂を使役できない今のクマリには、それしかできる事がなかった。
この場に錯綜する人類種達の未来を見るクマリの霊眼に、クマリが己の未来を観るのはそれが少女にとって主軸とするべき未来だからである。
それによれば少女は己に納得のいく未来を見つけ出すのにそう難しい流れではなかった。
眷属の眷使である魂の器を壊してしまった少女の存在価値は、あの途方もなく巨大すぎるアウズの都市街郭群を統べる天魔の僕としてどうなのか、天魔の鬼導師を囲う魔族の処置は想像に難くない━━━━どころか、クマリの霊眼には全て視えてしまっているのだ。少女の体と命を弄ぶ、魔族の惨たらしい所行が。
そんなのは殺されて死ぬより嫌だという、視える未来を自ら作り替えることへの決断は、天魔の少女に眷属の使いならざる人としての本能を極自然に強く煽り立てるものであった。
「ッお嬢さん!?お待ちを!!」
「クマリお嬢ちゃん!!ダメだ!!そっちは━━」
突然、背中に現れた異常な重さに煽られたハワードが尻餅をついて振り返ると、ひょろひょろの足を歩かせてクマリが通路を駆けてゆくところだった。すぐ近くの階段を少し上り甲板への扉へ向かうクマリをラルフが追い縋るが、例の如く動き出したクマリはラルフに肩を掴まれても腰を掴まれてもびくともせずに歩いてゆく。その先の出入り口は闘っていた戦士の最後の一人が血を吹いて倒れ伏すところで、あたり一面が人々の死体と血と臓腑で塗れていて、その上を裸足で歩くクマリの足音が場違いにも軽やかな雨音のようで、立ちはだかる魔族の群れ達は躍り上がってクマリに振り向いた。
「━━待て!その子は、……貴方様は……何故ここに。アウズは━━━━」
一声で動きを止めた軍魔を押し分けて一体の風格ある魔族が甲板を降りてくる。
クマリのよく知る魔公爵である。魔公爵の方でもクマリを知っている。
あのアウズの魔王城の先、天魔の天領で、護持として囲う鬼導師の一族の忌子の欲する死霊の元を朝に夕に献上してきた魔貴族達の中の1柱だった。この魔公爵が今目の前に現れる未来をクマリはさっき観たところだ。
「忌子様━━━━?」
魔公爵がそう呟くが早いか、その首はもう床の血溜まりに落ちて割れるようになり灰になって崩れて消えた。
クマリがだらりと下げたままでいる右手に黒い拳銃があるのを魔公爵は気が付かなかっただろう。撃鉄の音は聞こえただろうか。閃光は見えたかもしれない。だがおそらくは、右胸を黒龍に穿たれて魔公爵の体は身動きできずに、背後に立った青年にあっけなく討ち取られてしまっていたことを、その顔面が血の海に迫ってから気づいたことだろう。
この瞬間、軍艦に跋扈していた軍魔と魔物が灰になって消えた理由を、眩い光線の束が放射して船体を貫き奔った刹那を、目にした者は一人も居なかった。
帝国軍艦ライズ・クラウディアとその乗員達は死灰に埋もれる甲板に立って出て互いの無事を見たが、喜ぶどころか何が起きたのかわからず、全員無言で異常な現象の後の静まり返った空と海の空気を吸っては肩で息をしている。
「━━━━魔公爵ギャッツ・ギャン。この勇者ルウマが討ち取ったり━━━━」
鏡のように煌く刃を低くして魔族の死灰を左━━右━━左、と掻くように払った青年が独り言のように呟いて勝ち名乗りを上げた。
魔公爵ギャッツを一太刀で討ち取ったこの青年は勇者ルウマの名を継ぐ者で、この軍艦の白兵戦に雇われていた主力の一人。この勇者と魔公爵ギャッツが居合わせる時にクマリが自らを晒して意表を突くというのが、クマリに視えた未来の中で最も簡単に軍魔の首格を討ち取る因果の縁組に敵った頃合いだったのだ。
━━という事がクマリには周囲の霊魂達を通して観て解っていたのだが、勇者ルウマの方ではクマリのことは分からずに、ただ血溜まりに棒立ちでいる少女を一瞥すると小首をかしげ、そのまま目を離さずに無言で立ち去ってしまった。少女を抱き止めようとしたままでいるラルフの姿や、通路の奥から駆け付けて来たハワードの少女を心配する様子を見て、この血塗れの少女の身の安全を任せればよかろうと思ったらしい。小首をかしげたのは、手応えの無かった首級の意外な勝機が小さな少女であったことを、訝しく思ってのことだろう。
━━という所までもクマリには霊魂を通して分かって、自身の身の上を勇者に知られていないことに安堵している。
なぜか、安堵したのだ。
あの勇者ルウマという青年を守護する霊魂の1柱がクマリを見る目がひどく懐かし気で、その素性を観てみると先代の勇者ルウマの一人としてアウズへ赴き鬼導師を捜索した冒険者だったらしい守護霊である事が解ったからだ。
誰も知らないはずの鬼導師を知る霊魂に出会すのは初めてのことでクマリは怖くなって立ったまま気絶してしまった。もちろん、ハワードとラルフが倒れるクマリを支えてくれる未来をも知っていたから、気絶してしまえばいいと思ったのだが。
後のことも視えているから、その時が来たら、また黒龍を撃てばいい。自分のモノだった最後の霊魂達にその事は伝えてある。
目を閉じて眠る事に怯えないでいる自分の心持ちが初めてのことで、クマリはゆっくりと味わうように微睡の暗闇に沈んでゆく。
鬼導の術で因果を弄られて困っている霊魂と、祖霊や縁ある魂達の姿が脳裏に見えることはなかった。
この現世から”あの世”の裏宇宙の全てを視るなんて事はクマリにもできない。
その、”無の向こう側”で、”全てと全てと全て”はクマリを許すだろうか。
眷使をやめて人間になるなんて、天魔の神はどう思うだろう。
いつかきっと地獄に落ちるのかもしれない。
存在してはいけない魂として、冥府の底の底で、永遠に凍結されるのだろう。
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