エピローグ_1
忘れておったのだが、ブブゼラスであるこの儂の手元に残ったレコードの切れ端を少し置いておこう。
蛇足にすぎん観測記録とはいえチキウの人草の賓達の興味に触れるところがあるかも知れんからな。
目の前にある物質を、どこか遠くにある物質と、その位置を入れ替える。
それには物質を動かすための時間も空間も必要なはずだが、ただ世界における一瞬の瞬間に存在の位置だけを変えてしまう。
ただそれだけの現象を起こす地味な魔法を”転移魔法”とか”瞬間移動”などと俗に称して世の人々に知られている。
それは主に、市井を賑わす大道芸人が客から紙幣を受け取って手の内から消してみせ、驚いた客に「さあ、胸のポケットを見てご覧!」と示すとあら不思議、客の上着の胸ポケットの中には消えた紙幣が━━
「え?おいおい、こりゃ俺が預けた1000モニー紙幣じゃあないよ。500モニー硬貨じゃあないか」
「ええ、ええ、お代賃は、それ、お客さんのお財布から500モニー硬貨一枚、私の手元にこのとおり頂戴しましてございます」
果たして客の財布の中からは確かに500モニーが消えているのだ。━━━━という具合に、自他の物品を取り上げたり忍ばせたりする見せ物の手品魔法として扱われていたりするのが、一般的に転移魔法と思われている魔術である。。
だがこれは実は人間の”思い込み”を逆手にとった手品の技術と、軽微な”物隠しの魔法”の組み合わせによる見せかけの”擬似転移魔法”の魔術。なおこの場合1000モニー紙幣がどこへ行ったかは神のみぞしる。
本当の本格的な転移魔法は禁忌であり、世界中の国々で違法とされているため使い手は至極稀である。古来から決められている化石のようなその法律は現行上においても効力がある。違反者が発覚すれば直ちに死刑に処される。
実際、物品を瞬間移動させるなどという魔法を悪用する者がいれば社会の秩序はいくらでも乱れ得るから禁止も仕方がないだろう。
だが、使えば時間も空間も無関係に物品を移送できることの有益性は危険性に目を瞑ってもいいほど非常に有用でもある。だから本格的な転移魔法を取り扱う魔法使いというのは、国家間で機密情報をやり取りする要員として国に一人か二人在籍するかどうかというくらいで、世界的に見てほぼ居ないのだという。
というのは建前で、実情は少し異なる。
そもそもその転移魔法を使用するための司神の眷属との契約内容は使用者側にとって甚だ難解であり、条件が厳しく、なお使用方法も難しく、一度の使用にあたる危険は自他の命に直結するほど大きいから使用者が少ないということなのである。転移させる物質の大小や距離、その初期位置の指定と転移位置の指定には様々な神々の権限を侵犯してしまうため、実際の魔法施行は甚だ困難極まる手順と段取りの組み合わせが必須なのだ。
それゆえに魔法の失敗例も多くて「使ったら死ぬ魔法」と称されるほどに━━━━
「━━じゃないんすか?」
「だいたい合ってる。確かに巷ではそんな風に聞くな。……まあ、”使い捨て魔法”というのが本当のところだ」
「……使い捨て……って、……?」
「……」
使う者のことを”使い捨て”と指すのが転移魔法である。
国家が国策により重要な文物を何処かへ送受するとき、転移魔法を使わせるために人員を眷属と契約させて、転移魔法を使用させる。契約した使用者が転移魔法に失敗して死んだら、また別の人員に契約させるのである。無論、倫理的に問題あるこの施策が公に知られることはない。
青い顔をして引いているラルフの横で淡々と短く国家の裏事情を吐露したハワードは、それが俺なのだと言下に言うと濡れた前髪を掻き上げた。
二人とも波間に浮いていて沈まぬように忙しく両手足をバタつかせている。今の今まで巨船の操舵室に立っていたはずだったのだが━━━━
「こ、この海って、ハワード……━━あ、」
「━━━━お嬢さん!?クマリお嬢さんはどこだ!?」
海を見渡しても少女クマリの姿が見えず、ラルフが海中へ潜って見回しても、遠くまで透き通る青い海と足下に底知れぬ暗い海にそれらしい人影は無い。辺りはまだ暗陽の空が開けたばかりの薄明かりとはいえ、半獣人のラルフの眼には海中でもよく見えるから人の形象を見落とすはずはないのだが。
ただし、この海の位置が何処なのかは、黒々と海面に突き出る岩礁に見覚えがあって二人とも気がついている。
失敗したか、と命がけの大魔法をしくじった痛恨で顔を歪めたハワードが見上げているのは、巨船が横付けしていた岩礁”死出島”だった。巨船の異様が視界のどこにも映らないのは、ハワードとラルフを海原へ残して船だけ転移先へ行ってしまったという事だろうか。
━━━━と、未だ見通せるはずもない濃霧の景色を見回すハワードは大きな船影が自分たちの目の前に聳えているのにようやく気がついた。岩礁の向こうに見えるそれをよく見れば、
「━━あの紋章……この形……」
”翼ある太陽”の紋章、飾り気のない簡素な船体、紛れもなく帝国軍艦ではないか。ここで帝国軍艦といえばライズ・クラウディア戦艦に違いなくて、遠くの海にあるはずだった軍艦が海境の岩礁の横に在るのは転移魔法が一応の転移を成功させていたらしい。となれば巨船はやはり転移先へ移った可能性が高いと考えられるだろう。
しかし乗員はどうなのかと自分たちを顧みて、海から上がってきたラルフがハワードに首を振ってクマリの姿の無いことを悲痛な顔で示したところで、帝国軍艦の甲板から波間の二人へ救助具の浮き輪とロープが投げられた。軍艦のあちこちに乗員の姿が見えるが声を上げる者が無いのはここが戦場だからだろう。それも濃霧に包まれた海上の、軍魔艦隊の包囲網の渦中なのである。
「ケイン……いやハワード!おお〜やはりお前か!幽霊じゃあるまいな?」
「バルボアの旦那……いや、ちょっと待ってください。海に小さな女の子が浮いてませんか?大事な連れなんです……」
「探させよう。時間はないが……」
甲板へ引き上げられたハワードとラルフは艦長バルボアと乗員達に迎えられ転移魔法の成否をまず確認し、帝国軍艦側には船も人も欠損のないことが確認された。
アウズ出奔という身辺いろいろな事情あるハワードとラルフに特段の警戒もなく軍艦へ受け入れたのは直前まで転移魔法のやり取りがあって艦長バルボアから乗員達に紹介があったからだが、連れに少女がいるというのは艦長バルボア達にとって意外で困惑しつつも急遽で霧の海を掃海がてら小舟を放ってくれた。いつ軍魔艦隊の船船に見つかるか分からない中でこれからどうするか、という所なのにバルボアはできる限りの手助けをしてくれようというのは無理をさせている気がしてハワードはやや気が重くなった。
ここは戦場である。この軍艦にとって窮地でもある今に紛れ込んだ少女一人を探している場合ではないだろう。
転移魔法直前の打ち合わせでは帝国軍艦はこのまま濃霧の海をゆるゆると走り一直線にアウズの関門の開かれたところから荒廃した入江へ侵入する手筈だったのである。ここでもたついていれば全部台無しになってしまうに違いなかった。
「申し訳ありませんバルボアの旦那」
「すんませんス」
「……その、いなくなった子供が”アウズの死神”か?」
「いえ、違います。死神殿はいません。女の子はちょっと訳ありで、……アウズの要人とだけ」
「そうか。転移した巨船の方に乗っているといいんだがな」
以前の通話で判明していたアウズの死神の同行が無いらしいことを知るとバルボア艦長はうんうんと何度も頷いて周りを見回して、周囲の軍人達にも安堵の顔色が広がった。
不吉なその存在のことをバルボア艦長は追求するつもりがなくて、話は今重要な彼らの分岐点について決めねばならないところである。
「さて、貴様らはどうする。小舟をくれてやるぐらいは構わんが、逃げ切れるか?」
「バルボアの旦那、アウズに拠点を築くなんてのは辞めてください。引き返すべきです」
「そうっすよ。この船の全員、死ぬっす。アウズの都市魔法を舐めないほうがいいっす。このまま逃げましょう」
「我々は軍人だ。本国の辞令を遂行するためにここに居る。問題は貴様らが我らと共に行くのか、小舟で逃げるか、ということだ。あと三十秒で決めろ」
「旦那、私とラルフはアウズに7年ばかりいて色々見てきた。アウズは魔族の本拠地の一つですよ。あの大半島の国土全てを埋めて雲まで聳え立つ都市街郭そのものが魔族の作った魔法の城廓なんです。世界最大の軍魔が皇国紀元前から陣取っている中へ孤軍で襲撃してどうなるってんですか」
「勝算あるんすか?」
「無い」
「「なら何故……」」
「解るだろう」
談議する間もバルボアの目は油断なく周囲の部下達の動きを追っており戦況に変化の兆しがないか張り詰めた風で居る。その中で会話の行き着いた不可解なところは結局、解る者には通じて解る、理屈を度外視した思想信条にも似た一点の価値観に帰結して黙るしかなかった。それはハワードとラルフにも解る、秘密裏に生きる組織の者達の行動の指針となる”預言書”や”予定書”といった抗い難い因果の契約を示す存在の根元への恐れからくる沈黙であった。
未だ誰も知り得ぬはずの世界の因果の先を示すそれらの異物に”示された未来”を前に、剣も魔法も用を成さない事を彼らは知っているのだ。
海を覆う濃い霧はいまだに視界を埋めていて、帝国軍艦の甲板にいても船首から船体中央が見えないほど異常な視野になっている。
帝国軍艦が動き出すなら今が好機だろう。
もう三十秒の時は過ぎている。
バルボア艦長が会話を切り上げようと懐中の時計に目をやったとき、時計の針が意味不明に高速回転しているのを見て「ああっ!?」と裏げた声をあげてしまい、ハワードが意を決して小舟で巨船へ向かおうと決めかけたときのこと━━━━いつの間にか一層濃い異常な霧が甲板を覆った中に、小さな人影がバルボアの裏声に驚いたように立ち竦んでいた。
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