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後編

前編・中編・後編の後編。






「外へ行くんじゃろう」



「━━━━…………」




 低くしゃがれた声を頭上に受けて、クマリは口の動きが止まっている。

 セッタ・ブンヤが操舵室に入ってくるなり言い下した短い言葉は、少女の正気の部分に触れる文言だった。

 ずっと伏し目のままだったクマリの金眼がゆるゆると三白眼になりブンヤを見上げる、その表情の変化を見張るハワードは息を飲んで、死神と少女の間に何事があるのかと口を挟むことはできなかった。

 ラルフも身を縮めて口を噤んでいるがキョロキョロと外を見回して何か言いたそうである。




「━━━━そ、そろそろじゃないっすか!?」




 江口が近い。両岸の風景に遥かにそびえ立つ要塞がつづいているのは外海から入江へ出入りしようとする船舶を監視する城砦の連なりで、巨船がこの先の江口であるアウズ東州第三関門海峡に迫っていることの表れなのだ。舟腹に大波を上げて高速航行するこの巨船が関門に到達するのは間もなくだろう。


 ラルフが焦り気味に声を上げた心配はセッタ・ブンヤに伝わっただろうか。

 このまま関門に到れば海底から空まで伸びる巨大な門扉に追突するのである。巨船とはいえども山のような構造物の塊に突っ込めば大破は免れず全員死ぬに決まっていた。

 門扉は魔族どもがやはり魔法で拵えたものか、人類の自然な理解で考えうる規模を遥かに凌駕する大きさのその構造物を破壊して突破する術など、ハワードとラルフには全く考えられない。


 ━━━━そのはずなのである。

 その山のような物が景色に見えるはずである。この巨船のビカビカ照らす照明は全方位を昼間のように照らし出しているのだから、すでに視界に見えていなければおかしいだろう。

 ただ外海からの海風が吹き付ける中を突っ切ってゆく巨船の両脇に、うずたかい街郭の関楼せきろうが上へ上へと伸びて霞んでいる。




「「「………………」」」




 海峡にあるはずの巨大な関門がどこにも見えない、左右の岬の切れた闇へと、ブンヤ達を乗せて巨船はゆく。

 江口の先には徐々に遠く、色濃い闇の海が広がって、暗陽の空に輝く白光が波を白々と煌めかせている。


 途方もないアウズの街郭に挟まれる暗い細海を通り抜けて出る心細さはどうであろう。

 まるで神話の巨人の股を潜るようで、巨船の中のハワード達が黙って動かずにいるのは死に際みたいな不吉な神妙さがあった。


 船は今、アウズから出てゆくところなのだ。

 ハワードとラルフは軍魔をどうして出し抜くか考えたものの結局何の準備もできぬままで此処まで来てしまっている。何しろ時間が無かったし巨船がものすごい高速で疾るから降りて他の退路をという訳にもいかなかった。

 巨船の派手な照明は結局そのままだし敵艦の軍魔からもう発見されている可能性が高いというのに、ハワードとラルフはこの船で何もできることがない。二人とも魔族との戦闘や交渉ばかりか、人類種間での戦争の従軍経験もあるのだが、しかし海上という逃げ場も遮蔽物もない船同士での砲撃戦などは経験がなかった。




「やばいっすよ……やばいっっすよ……!!!」




 今、砲撃を受けてもおかしくないのである。

 艦砲射撃が着弾するのではないか━━━━死を待つばかりと言った気分で息が荒くなっているラルフが目を血走らせて半獣人の夜目で左右の夜海やかいを見回している。これは半獣人の癖で敵が居るとなれば視認せずには居れずに落ち着きがなくなっているのだが、それだけに索敵能力は高い。裸眼ですぐに見敵したらしく、水平線に幾つもの船影が見えるという旨のことを泡を喰いながら一人で捲し立てては牙で舌を噛んでと口端から流血してしまっている。

 そんなラルフにハワードは一瞥もくれてやらずにブンヤの複雑な所作に見入って意図を理解しようと努めていて、いつの間にか煙草を吸っているブンヤが制御板の様々な機器類に手を伸ばしては電源を入れ開閉機を操作したり取手を引いたり計器や映像画面を確認したりとテキパキ動いているところから一つの疑念にも似た気づきを得た。


 セッタ・ブンヤは戦うつもりなのではあるまいか。

 ハワードは入江の外側に布陣する軍魔からどうやって逃げるか、外海の帝国軍艦とどうやって連携して逃げるかという、それでも万に一つの成功も難しそうな所に勝機を見出そうとしていたが、セッタ・ブンヤは論外だった。少女クマリを外国へ連れ出すのが目的ならば軍魔を掻い潜って逃げればいいだけで、まさか死神の伝説の通りに立ちはだかる全ての命を虱潰しに殺すつもりでは━━━━

 いや、そんなはずはないだろう。こちらは戦力と見込めるのが3人でしかなくて、敵方は軍艦50隻に魔族の配置がどれだけあるのか分からないが船を操作する佐官だけでも500人以上、他に戦闘員の動員もあるはずだ。まだ姿は見えないが、空と海の魔物もけしかけられれば巨大な軍様を相手取ることになる。

 ハワードにとって信じられない予感だったのだが、巌のように険しい表情のブンヤが煙草をふかしつつ淡々と作業する様には死相に似たものを感じずにはいれなかった。

 ブンヤが制御装置を操作する度に巨船に振動が起こるのは船体のあちこちの何かを動かしているのだろうが、この操舵室の床から天井まで埋めている操作機器を操作するだけで何ができるのだろうか。




「ブンヤ殿、」




 まず軍魔戦艦一隻にこの巨船をぶつけ、直後に巨船を爆破させ、その間に軍魔戦艦に忍び込み艦長を拿捕して上長の魔公爵なりと人質をとる。そのまま軍魔艦隊に偽装しつつ航行し隙を見て外海へ出てそのまま外国の領海へ侵入すれば、その国の海軍と空軍が緊急発進で瞬時に駆けつけるから混乱に乗じて脱出する━━━━その途上で帝国軍艦のバルボアとも連携して窮地を凌ぐ。このアウズ東の海の向こうはアポロニカ大陸の北端群島諸国が近いから島陰に逃げ込める見込みはある。

 という内容をハワードが一息に言って戦わずに逃げることを具申していると、ブンヤが変わらず作業する横でラルフがハワードを見て口をパクパクさせて何か言いたそうにしていることに気がついた。




「は、ハワード!正面の艦隊が引いていくっす!いや、これは、左右に広がって……?これって……あああどうすれば━━━━」




 戦況は動いている。宣戦布告など無くて既に開戦しているのだ。

 正面の水平線上にある軍魔艦隊がそのまま遠ざかっているのはどういう事なのか分からないが、軍魔の艦隊は左右にも広がっていてこの船を徐々に挟みこむ陣形になりつつある様に思える。

 船同士の距離はかなり遠いからこのまま巨船の舵を横へきって海岸沿いに航行し、軍魔艦隊の囲いから抜けて逃げた方がいいのではないか。ともハワードには思えてくるのだが、しかし戦艦に搭載する艦砲の飛距離は途方もなく遠くまで届くのである。海岸沿いにも魔族所有の砲台が据えてあるからそっちも危険だろう。それはラルフも分かっているから「何で横に進路変えないんすか」とか言えずに頭をバリバリ掻き毟っているのである。


 海と、船と、砲撃。それらだけを材料に何をどうするべきなのか。今この状況で対応できる魔法などもハワード達には無くて為す術が無くて、せめて脱出用の小舟なりと艦内から探しておくとか、何か使える魔法具などを探し出してから対応を考えねばどうにもならないだろう。




「━━このでかい船には何か魔法具があるはずだ。魔法無しにはどうにもならない。探すぞ」

「そっスね!」

「私はバルボア艦長にもう一度、通信魔法を試みる。ラルフは脱出用の船と、━━━━いや、優先するのは……魔石を探してくれ。必ず大量にあるはずだ」

「そうか、魔石!魔石があれば何かでかい魔法が━━あ、でもクマリお嬢ちゃん……」



「動くな。そこにおれ」




 口を開いたセッタ・ブンヤの言葉に振り返ったハワードとラルフは、しかし━━と言おうとして口を噤んだ。

 今まで何も言わずに一心不乱に船を操作していたブンヤの作業が戦況に対応するものであった事が、船首甲板の構造物の大きな動きで明らかになったのである。

 船の改装前には無かったはずだが、甲板上の板敷にあちこち大穴が開いて大きな鉄の箱がせり上がり、箱が開くと幾つもの砲台が左右を向いて巨大な砲身の威容を顕にしたのだ。誰も巨船の中を調べる暇がなくて気がつかなかったのだが、この船は兵器を搭載するにわかな戦艦に仕立ててあるらしい。或は元から兵器の備わる偽装の商船などであったのか、ともかく━━━━━━━━




 ” 爆 ”


 


 という激震と白光━━━━目も耳も分からなくなった瞬間に、ハワードとラルフは船室に転がっている自分たちに気がついて、斜めに傾ぐ床から立ち上がれずに踏ん張ると横倒しのクマリを何とか抱き起こしてブンヤを見上げた。

 おぼつかない足場に根を張ったように立つブンヤは揺れをものともせず手を動かしている。左右の壁に幾つも並ぶ取手を全て手早く引き下げるとその下の突起をも全て押し、直後に船体が爆音と光の連続に何度も包まれた。


 このときブンヤには目視でなく脳裏に視える光景に船体の危機が見えている。ブンヤの乗る巨船の遥か遠くの左右の海に、軍魔の艦隊が横陣して並べた艦砲を一斉に砲撃してきていたのだ。それを考えられないことだが、この俄戦艦に乗るだけ満載した大砲でもって全て迎撃、軍魔艦隊が左右から撃ってくる大砲の弾を撃墜していたのである。


 弾は双方どのような弾なのか分からない。物理的な鉱石によるものか魔力によるものかブンヤも知らず、ただ威力あるものと思って撃ち込んでいる。爆炎と水柱と高波で訳が分からない中でハワードとラルフはクマリを抱き寄せて守ってやるしかなかったが、船はともかく走っている。


 軍魔の艦隊は鶴翼のように左右に広がり、中央の艦隊は沖へ沖へと後退してブンヤの巨船を外海へと誘うように退いてゆく。

 魔大公べクレヘムの搭乗する本陣艦隊はさらに奥だろう。

 そう目星がついているかのようにブンヤは舵を微妙にとって進路を軍魔の中央へと進ませ、間断なく降ってくる大砲の弾を撃ち落としつつ高速で巨船を走らせ続けるともう軍魔の中央第一陣の旗艦らしい巨艦の横腹に迫っている。


 軍魔第一陣旗艦の横腹に突っ込むのはブンヤは最初から考えていた事なのだろうか、当てられる軍魔船の方では避けようがなかった。巨船の周囲に落ちまくる砲弾が打ちあげる水柱は山のように高々と上がって視界を遮り、それなりの波も出て軍魔船は動けなかったのだろう。

 その中を高速で突っきる巨船の船首の非常に鋭角な、激突して貫き船体を割るための形状をしている巨大な衝角しょうかくが刺すように当たると、戦艦に挿入するようにずぶずぶと押し入りそのまま軍魔旗艦を八の字にし折って爆炎とともに吹き飛ばしたのである。


 侵撃による爆音と熱風と激震はハワード達の意識を麻痺させるほどであったが立ったままのブンヤが手早く制御盤の取手や摘みを操作すると巨船は唸りを上げてさらに前進してゆく。船が船を破り割くこの世のものとは思えない奇妙な轟音を上げる中でハワード達は最初の爆撃から耳が聞こえておらず、この巨船が沈みはしないかと操舵室の分厚い水晶窓から外を伺うと、炎と黒煙と波飛沫の間に転覆する軍魔旗艦から魔族達がぼろぼろと海へ落ちてゆくのが見えていた。




「っ━━━━!?お嬢さん??」




 クマリが立ち上がって外の危険な光景をまじまじと見ている。金眼を覆う前髪の間から柵越しに覗くようにして爛々と目を見開いて、少女は口を開くと何事か呟くように動かしては両手を広げた。




「お嬢さん!伏せさい!!」

「危ないっス!危ないっス!クマリお嬢ちゃん危ないっス!座って!!座って!!」




ハワードとラルフは少女が倒れぬよう支えてやるが、床へ座らせようとしても信じられない事に少女はびくともしない。

 そのクマリの金眼が風景の中を探るように、追うように目が動いているのをブンヤは顧みて一瞥すると、新たな煙草を取り出して火をつけ盛大に煙を吐いた。


 ブンヤにはクマリと同じモノが見えているのである。

 軍魔の旗艦には大勢の死霊達が並び立っていた。それらが沈みゆく甲板の上にあって未だ迎えの霊魂も無く窮しているのを、クマリは巨船に招き寄せたのだ。

 軍魔の船になぜ都民達がいて全員死んで死霊になっているのかブンヤには意味不明な事態であったが、鬼導師のクマリがそれらを身の内に憑き寄せるのが少女にとって自然な事であるのは分かって一人頷いていた。


 霊魂を視認していないハワードとラルフにはブンヤの首肯が不可解であったが、しかしラルフだけは身の回りを何か変なものが過ぎた気がして一瞬身震いするとクマリを見て驚いている。 

 狂気の抜けたような顔、━━というより、クマリは別の感情で一杯になったような顔つきでいるのである。

 眉根を怒らせてブンヤを睨む少女の顔貌が、はっきりと自分の意思を持って人を見て口を開くのを、ハワードとラルフは初めて見たような気がして惹きつけられる思いで見ていた。




「どうして、私を……貴方は、死神でしょう?私を殺さないんですか?どうしてこんな……」



「…………」



「私が、本当に、……外国へなんて……行きたいと思いますか……」



「…………」



「ヨーキは貴方に殺されました」



「…………」



「それを、…………━━━━」




 だらりと下げた細腕が拳を固く握っている、それがクマリ自身の掠れた声の、ゆっくりとした言葉で胸の内から漏れるどす黒いもののみなぎりを掴んでいる。そうして恨みの言葉を途中で噤んでしまい、溢れ出しそうな死霊を使うのを止めてしまった。


 セッタ・ブンヤは耳が聞こえているはずである。眷属の加護を受ける死神の男は、爆音で難聴になるような普通の人間とは事情が違っている。それはクマリも同じ類だからわかって、それなのに顔色を変えない男の静けさが、クマリは恐ろしくなったのだ。


 人外として因果の使命に生きる命の、愚かなほど真っ直ぐでしか居られなかった心の有りようが、死神の男の石塊いしくれのようにひび割れた顔貌に顕れている。

 死神の男には、目の前の少女の情緒や人生に何の興味もない。少女の恨みの言葉も視線も、この男には意味のないものなのだろう。

 底しれぬ洞穴のように真っ黒な瞳がクマリの金眼を覗いていて、そこにはクマリは映っていないのだ。クマリの魂を、鬼導師としての因果を覗こうとのみ死神の男は見据えている。

 その事が、今食った死霊を放ってこの男の心を探ろうとしなくても、少女にはわかったのだ。


 それはクマリが自分と同じ類のモノを死神の男の中に観たという事なのである。

 少女が目を逸らし続けている、眷属の使徒という自覚そのもののことを。

 宿命の中に永く永く生き過ぎて、身も心も巌のようになった意思の剛直。口をきいて言葉を交わすことが無闇に思えるほど純粋な、人類の因果を━━━━


 それには自分は少女にすぎないのだと、クマリはまた俯いて頭を抱えてしまった。

 様子がまたおかしくなっているクマリをハワードとラルフが手をとって支えてやると、クマリは酷く震えている。

 死神の男も甲板に向き直って対峙が終わり、二人を注視するほかなかったハワードとラルフは顔を見合わせて首を振った。


 ハワードとラルフにはクマリが何を言ったのか聞こえなかったが、この少女が鬼導師という、この世の禁忌の異能を操る存在なのだということを思うと、今ここで何をしでかすものかと内心恐ろしかった。

 なにしろ、少女の恋人だったであろう少年を殺したのは目の前にいる死神の男なのだから。

 この場で敵討ちなど挑まれては、この巨船も自分たちもどうなるか分からない。


 表立って人類社会に絡むはずのない二体の人外を前にして、ただの人間と半獣人である二人には介入する因果もない。

 勝手に鬼導師の世話を頼まれて勝手に出向した船に乗せられている今は、数奇な成り行きに身を任せるしかどうしようもなかった。


 この世界に、眷使━━━━”眷士”という、あまり一般的でない概念がある。

 人々が魔法使用契約を頼む神々の眷属神の眷属、魔法を司り、通常は人類社会に滅多と姿を現さない不思議な存在たちが直接干渉する魂の命。その個人の因果の運命を眷属により生かされている者を眷属の使徒として眷士や眷使などと言う。

 眷属の使いである彼らは一般社会におよそ関わり合いのない存在で、国家の盛衰や人種の争いにも加担せず、人類と魔族の戦いにも与しない。

 その命の人生の全てを神々の眷属神の眷属の駒として生きて死ぬ、言わば真性魔女や神獣のような半神と同列の存在なのである。

 自然災害が人の姿で立っているような者だと言っていい。

 一般社会に生きる人類種たちにとって伝説上の存在である彼ら眷士が、何の為に存在して何を為して生きて死ぬのかを知ることは出来ない。

 あたかも地震や津波や火山噴火が、落雷や巨大台風や飢饉や彗星の墜落が、どのような目的でそれを為しているのかを人類には必ずしも理解できないのと同じように。




(こんなあ、魂にかなっとる)




 天魔の忌子を観て、死を司る神の眷士は思う。

 今日という最後の日にアウズを出て行く今この時も、そのためだけの為に自分は在るのだ。




 命━━━━魂に敵う、真っ当な命に儂は興味がない

 それでいいんじゃ

 儂が殺す命ではない




 ふと、空のあるべき天を見上げるが、死神の男は首を傾げた。

 空とはこんなものだっただろうか。

 何百、何千年ぶりの空と思って見上げたが、黒い空の端に燃え上がるような眩い白光が在るというのが月夜とも少し違うようで、まして青空でもなく、ブンヤに感慨を得るところがなかった。

 死にゆく者達に促してきた空を自分が気にしていることがブンヤは自分で滑稽に思えたが、表情は巌のように硬くて微笑まない。




 歪な因果の命━━━━これは遺憾(いかん)

 撃ち殺す命じゃ

 (ほんもの)にしてやらんといかん




 暗陽の空をアウズの方角から迫り上がる分厚い雨雲が、巨船にすがるように伸びている。









▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽









 軍魔旗艦を突破した巨船は勢い舳先(へさき)を上げて波を越えてゆく。

 船中の大きな照明が全方位を照らして夜海にこの船ありと知らしめているが、砲撃は飛んでこない。既に抜けた軍魔第一陣旗艦の炎上する灯は遥か後方に見えていて、そろそろ第二陣にぶつかってもよさそうなものだった。 

 どの方角からも何の攻撃もこないのは軍魔が何か戦略を変えたということかも知れないのだが、ブンヤが航路を真っ直ぐ走っているのは目当てが有ってのことだろうか。




「……あ、あれ?……」

「…………?」




 ハワードとラルフが訝しげな顔で船外を見回すのは巨船の速度が急激に落ちたからだ。

 さっきの軍魔旗艦への突撃はハワードが具申した作戦の通りだったとはいえ、船体をぶつけるどころか突き破って撃沈してしまったし、軍魔戦艦にハワード達が飛び移れるような瞬間は全然無かった。

 軍魔旗艦に居たであろう佐官の魔貴族を拿捕するような作戦がブンヤの頭にあったら、あの場でこの巨船を停めていたはずだ。

 それはもう過ぎたことだが、しかしハワードの提案した作戦を実施するつもりが無いのだとしたら、セッタ・ブンヤはどうするつもりなのか。

 

 このまま軍魔艦隊主旗艦を突き破るまで馳しるつもりに違いない、━━━━と二人は思っていたのである。

 まだ第一陣を貫いただけのことだが、しかし軍艦を貫いて突破したのは事実なのだ。この勢いならばこのまま行けるのではないかという程に船は快進していた。艦隊戦においてそのような戦法を為し得た事例が世界にあるのか分からないが、果たしてこの巨船の船体は大破せずに行けるのだろうか。などと別の心配ばかり━━━━


 一抹の不安の過ぎる彼らが「ブンヤ殿」「兄貴」と今後を伺っても、セッタ・ブンヤは黙殺して煙草をふかすばかりで取り付く島もない。

 やおら慌てたラルフが船外を眺望すると海の遠くは靄が立ち込め出していて軍魔の艦影は全く見えなくなっている。あちらからもこの巨船の明かりは見えまいから砲撃が止んだのはそのせいかもしれない。


 制御盤の画面に映し出される海図をハワードが覗き込むと、このすごい速度で走ってきた巨船の進路がどこへ向かっているのかが見て取れる。

 アウズ大半島の東端から最も近いアポロニカ大陸の北端群島諸国の一国、オノコロ諸島アシュカィヒ大八洲の西海道クシュラ州シュラ国の領海へと航路は一直線に動いている。その群島の群れなすどこかの海へと向けて巨船ははしっているらしかった。

 他国の領海へ通告無しに侵入するとなると国際法上において即刻紛争に至る懸念が当然にあるのだが、今ハワードがそのような通常の通信をこの巨船から試みても魔族からの妨害を受けるかもしれず、強引なことだが無理やり渡航するしかないだろう。西海道クシュラ州という海賊の多いその海域では、こうした密航船とのやり取りは慣れているだろうから無難に交渉もできるかもしれない。

 ただ、海賊というのは主に人間族と魚人族の結託する組織ではあるのだが、根本的には魔族が支配している組織である。アウズの魔族達との関係も貿易などが当然あるだろうし、密航を見逃してもらう交渉など上手くいくかどうか。それでも、このセッタ・ブンヤという男の素性が人間ではないことからして、その背景の眷属達の間で何がしかの取引が外国の眷属達となされていると期待すると、やはりこのまま突っ走る死神の根拠を裏付けることができるのではないだろうか。━━━━などというのもハワードとラルフの淡い期待に過ぎないのだが。


 実際には巨船の速度はみるみる落ちているし、期待するシュラ国の海域は遥かに遠いのだからここで船を停めるのはおかしいだろう。

 今はアウズとシュラ国の領海の間の不可侵海域、どこの国の占有も認められていない海域であり、魚人や海人達が住まい外国船の往来のするだけの”自由海域”との境界に近づいているのだ。


 つまりはアウズ海域の終わりである。

 ついに巨船は音も無く停まり、次いですべての照明が落ちて真っ暗闇になってしまった。




「は?と、止まっ……え?」

「これは……どうなさるんですか」




 ハワードとラルフの潜めた声が暗い船室に聞こえて、二人は互いの立っている方を見合わせて驚いている。今、難聴が耳から奪い去られるようにして正常な聴覚が戻ったことに闇の中の顔を見合わせたのだ。

 二人にはどういうことか分からないが、さっきまで砲撃を受けていて軍魔艦隊に遠く包囲されている状況は今も変わないのだから、こんなところで停船してしまっては見つかるのは時間の問題といえる。

 そのとき急にブンヤが制御盤から離れて右舷甲板へ出て行く気配がしてハワードとラルフはどうしたものかと突っ立っていると、開いたままの扉の外から唐突な怒号が聞こえてきた。




「はよう、こんなぁ連れてこいっ!」



「「ぇぇ……?」」




 クマリを甲板へ連れてこいというのだろう。

 どういうつもりか分からず、いきなりそんなことを言われても、この暗闇でどうしたものかと二人は思ったが、




「い、いやっ」




 というクマリの小さな叫びで居場所はすぐに特定できてしまった。その声を上げなければ操舵室の隅の荷箱の裏に隠れているなんてハワードもラルフも直ぐには気づけなかっただろうに、クマリはちょっと間抜けなところがある少女なのかもしれない。




「お、お嬢さん。ブンヤ殿が呼んでます」

「クマリちゃんっ!ね?一回だけだから、ちょっとだけそこから出て、ちょっとだけ立とっか。ね?」




 暗闇でも二人は目を慣らすことができる。特に半獣人のハワードはもう景色が見えているらしくクマリに近づいて行っておだてて歩かせようとしたが、床に張り付いたみたいにクマリは動かない。またしても異常な現象であり、怪力ある半獣人のラルフがクマリの細い腰を本気で持ち上げようとしてもクマリはびくともせずに━━━━異常なほど身を震わせて、冷たい汗でびしょ濡れになっていた。




「クマリお嬢ちゃん……!?」

「っ!?」




 そのクマリがすっと真っ直ぐ立ったのにハワードとラルフは飛び退いた。

 驚いて飛び退いたのではない。体が勝手にそう動いて━━━━動かされたのだ。そのまま硬直して立つ二人へクマリが裸足でペタペタと音を立てて近づくのを、ハワードもラルフも途中までしか見ていられなかった。その”場”に釘付けにされた二人は眼球すらも動かせず、動きの止まった肺も血流も生命を止めてしまい━━━━


 その金縛りが、耳に聞こえた硬い金属音に解かれるようにして自由になった。


 崩れるように倒れ伏す二人が視界の端にセッタ・ブンヤを見たのが、彼らが最後に死神の男を見た記憶である。


 アウズの死神の手に、一丁の拳銃が握られている姿を。

 



「━━━━ッ………………」




 セッタ・ブンヤは撃鉄を下げた銃口を少女へ向けているが、ひび割れた顔は裂けたように笑っている。しかし、その顔の陰影は、しなびて落ちくぼんでゆく肉が様が見せた一瞬の造形だっただろう。

 痩せ、縮み、乾き、目が白く濁り━━━━━━━━ブンヤの姿は急激にえてゆく。立木が枯れてゆくように。

 その前に立つ少女の顔色は、暗闇が隠して見えないが、




「『君は、……どうして君が、アウズの外へ━━━━』」




 という、少女の口から出るものでない音が大気を震わせると、ブンヤはやや頭を傾げた。だが、老いてゆくその耳にはもう聴こえていないのだろう。

 白濁する見えない瞳の前に立った何かが訴える嘆きを、ブンヤはもうわからない。




「……━━━━━━━━」




 死神だった男の顔はもう灰の粉を吹いて崩れている。

 最後に小さく息を吐くと、半身が崩れ、衣服共々に塵と消えて、真っ白の灰の山を甲板に残した。


 それが、アウズの死神と呼ばれた男の最後の姿となった。




「『━━━━…………』」




 闇と、風が、開いたままの扉から吹き込む中で晒されて死神の男の灰は散ってゆく。

 そこから見える暗雲が降した雨柱と一柱の眷属は居たたまれなかっただろう。

 死神の眷士の前へと天降り、為すべき事があったはずの天界の魔神の使徒は間に合わなかったのだ。

 背筋の伸びた少女が灰を踏んで立っているのは、呆然とした天魔のやり場のない立ち姿であった。


 天魔は膝を折って屈むと両手で死灰をすくった。目の前にあるそれを触るしかやる事がないかのように自然な所作である。

 だが、そこにはまだ立ち現れるはずの魂が在るはずだろう。

 天魔はそれをこそ求めている。

 魂を喰らい都合の良い因果を作り得る天魔が死神の魂を喰うことは、意味のあることなのである。




「『ブンヤ』」




 雨音が波音を打ち消して、何も聞こえないノイズの闇に誰でもない女の声が落ちた。

 天魔の愛おしそうに呼ぶ声が、見つめた灰が、手指の隙間から零れて散ると、女はまた灰を掬おうとして━━━━手を伸ばしたそこに、灰に抱かれるように埋る黒いものが見えている。

 岩を切り割った角に似て四角く張り出した銃身、灰の白さに際立って、見る者の目を吸い込むような漆黒の拳銃が。


 その銃口が暗い意志を宿すようで惹かれたか、女が手を伸ばして触れた時には一条の白光が闇を貫いていた。


 撃鉄━━━━━━━━硬い音を遅れて響かせた拳銃。その上へと、背中を丸めた少女の体が倒れ込み、小さな胸へ拳銃を押し抱くように眠った。


 白光は少女の器の闇を貫いて、それだけで天魔と死神の逢瀬は果たされたのだということを、誰も知ることのないままに。









▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽









 魔族というものに、そもそも興味が無い。


 魂を剥き出しに生きている命を殺す価値など無い。


 魔神の眷属神の眷属、悪魔の使徒達と言っていい魔族達━━━━その歪な魂が歪なままに正常な因果の命であれば、排除しようとは思わない。


 だから自分には、魔族達を殺す目的など最初から無かったのだ。


 というだけのことだ。




『……気になりますんデ?現世のことが』



『━━━━……』




 出された茶に手をつけず、黙って座したままでいる黒づくめの男は声をかけられて瞼をあげた。

 そのしゃがれた太い声が、正面の席に座っている女の細首から発されたものであることにはまだ耳が慣れない。




『セッタ・ブンヤ殿。女の顔をじろじろ見るものじゃありません。見せもんじゃ、ないんデ』




 ことさら注意するのはこの女自身の顔の左半分が焼け爛れたようになっている事を自分で醜く思っているからかもしれず、しかしブンヤは言い繕うのも気が億劫で、代わりに茶をとって飲んだ。

 黒い湯飲みの黒い取手を掴んで口元へ運ぶと、何色か判らぬ液体から黒々とした湯気が立っている。なんの香りか懐かしい匂いがして、一口含むと甘く、次いで渋みがあり、後口に淡い酸味を残して暖かなとろみが喉を降りてゆく。

 その心地よさにブンヤはつい懐を弄るが、いつもの物を取り出してみると違和感がある。




『もう死んでるんデ。お忘れなく』



『…………』



『吸っても消えちまうんデ』




 そういう訳なのだ。霊体が霊体の煙草を満足に吸えることはないらしい。今取り出して手に持った煙草はどこか存在が希薄で吸う気持ちになれなかった。ならなぜ煙草らしいものが生前のように懐にあるのか謎だったが、どうしようもない。


 セッタ・ブンヤは死んでしまっている。今はこの黒い部屋の黒い椅子に座り黒い机の上にある黒い茶を飲んでいる。


 小さな窓の外に冥々たる暗雲の広がりが見えている此処は、深淵なる奈落━━━━広くて狭い冥界冥府の某所であるという。

 ブンヤはこういう景色を見るのは初めてで、窓の外ばかり気になって茶を飲んでは眺めた。茫楼街都市街郭アウズという、どこまでもどこまでも建築物の続く風景しか知らないブンヤにとっては、いくら見ていても飽きない自然の景観だった。


 遥かな遠くに巨大な黒い山脈が連なり、冷気を放つ白嶺が空の暗雲を白く濁らせている。

 その裾を幾筋もの黒い河が流れて緑の樹海を割っており、見ていると風景を白や黒の霧が立ち込めて遮り、それが過ぎると黒い砂漠の広がりが現れて延々と風紋の続く砂海ばかりが見える。

 にわかな雨が降り━━━━見上げると、雲間の空がどことなく赤っぽく、黄色や紫にも見えるが暗く、ここから見える空はだいたいいつも薄明かりの黄昏なのだという。それが美しいのだと。

 ということを、目の前にいる黒い外套がいとうを頭から被っている女からさっき聞いたばかりだ。


 初めてみる景色が山や河だと分かるのは、ブンヤが本当は、そうした自然を見ることが初めてでないからだろう。


 女の話では、人霊とは違う人外の眷士の魂は、通常の”あの世”をめぐる『霊魂の道』を経ない特殊な行先が”あの世”の界域に有るのだという。

 その一つが此処だということなのだが、ブンヤは目が覚めるなりこの椅子に座している自分に気がついて状況が分からず顔を険しくしているだけだったのが、この女の丁寧な説明でようやく自身の死の認識を飲み込めたところなのだ。


 こうして自分を恐れずに話をする者を見るのも、ブンヤには生前あまり無かったこと。

 この女は人間なのかなんなのか人種が分からないが、肌の色が藤の花のように淡い紫である。その色がアウズには見なかった鮮やかさで、ブンヤの死の自覚を改めさせた。このようにして己の死の自覚を深くしてゆくものなのかもしれない、と。


 死んだというのに”自分”が在るのは奇妙かというとそうでもなくて、生前のブンヤが魂の行き先を知ろうと死霊を見たがった事から分かるように、ブンヤは最初からこういうあの世の世界が存在するような気はしていたのだから意外でもなかった。

 ただ自分の死を迎える者がいて、それが永年アウズを生きたブンヤでも見たことのない姿の女であったのが、全く思いもしなかった事で。


 などと思っていると、女はまたブンヤがじろじろ見ていると思ってか外套で体の前をさり気なく隠すのでブンヤは気まずくなり額を撫でた。でも女の方も自分の肌の露出が多い自覚はあるのだろうに、とも思うブンヤは生前にない自分の感情にやや冷や汗を掻くような気持ちになっている。━━━━今の自分は何者なのだろうかと。




『お手前と手前は腹の内を読めません。……それでも、お手前のお気持ちに察しはつきます。この意味がお分かりデ?』




 女が背もたれに深く背を預け、足を組み替えて言った。

 意味がわからない。




『……なにが言いたいんじゃ』




 死神と呼ばれたアウズの殺し屋だった自分はもう死んだのだ。

 なら今の自分は誰なのか。




『生前、”死神”呼ばわりされていましたんデ? あの、アウズの━━━━』



『儂は死神ではない』




 自分でそう名乗った事は無い。思ってもいない。

 ただアウズの都民を殺すだけの命だっただけだ。

 その力を不思議な奴らに託されて━━━━天魔の忌子を討つために生きたのだ。

 そのことを最後の日に思い出せて、果たしたはずである。




『命を殺す者じゃ。……じゃけん、それだけじゃ』



『…………』



『…………』



『手前は、お手前の”死”を担当した死神の眷属です。”スガル”と申しますんデ』



『━━━━死神……こんなあが…………?』



冥神みょうしんエド神界は冥府の死神1柱ホト、━━━━その眷属神1柱ルルイエ冥王付きの、眷属ですんデ。手前が死神という話じゃありません』




 ブンヤが口端から溢した生前の在り方に、女は上目遣いをすると自分の茶をすすって静かに机に置いただけで沈黙して素性を明かした。その切り替わりはブンヤの生前などに興味がないのだろう。それより自分以外に死神という存在の名が出るのをブンヤは眉根を寄せて聞いていた。

 そこまで聞くと鈍感なブンヤでもようやく気がつくのだ。自分の魂は冥界の死神に由来するのだろうと。

 生まれも育ちもアウズ都市街郭の自分の魂がどこから来たものかなどとまでブンヤは考え及んだことがなかったが、そういう事なのかと思うと死神と呼ばれてきたことにも少しは腑に落ちた。


 ただ、すると自分はどこから、いつからがその死神に類する魂で、現世で自分に終生干渉した眷属共はなんだったのか。

 それに、あの天魔の女は。


 死者が己の魂を顧みる余暇よかは有るべきだろう。

 ブンヤは生前には、これも考えが及ばなかったことだが、死んだ今は『自分はかつて何者だったのか』という事にまで思慮が遡ろうとしている。

 それは、”在る”という事の、その元の在り方を辿ろうとする事は”在る”者にとっての本能なのかもしれない。

 己を在らせた成り立ちを知ろうとする事は、己を確かに在らせようと保存を試みる”因果の因果”なのではないか。




『眷属の身の上は人草共とは因果が違いますんデ。お手前がご自身の過去生を思い出そうとしても、自儘じままにはいきません』



『儂は、天魔を━━』



『━━それは、御自分から捨て去った因果のはずですんデ』




 役目に殉ずるのが眷属という者なのだと、スガルという女はブンヤの回顧を遮って懐から煙草の箱を取り出し、ブンヤに一本差し出した。

 それがどういう意味なのかをブンヤはもう分かっている。

 とった煙草は薄紙で雑に巻かれた物で、それは一眼見てほんものの煙草と分かる存在の値を顕している。霊体ではない煙草がどうしてあの世の冥府に有るのか、何故この女が持っているのかは分からない。

 しかし価値あるこの煙草にどうして火を点けることができようか。ブンヤは現世でやっていたように指を弾くが、魔力の火は点かない。

 するとスガルが自身の煙草に掌の炎で火を点けて燻らせ、おもむろに机に身を乗り出して咥えた煙草の火を焚く明かりを顎をしゃくって差し向けた。ブンヤは甘んじて付け火を貰い煙草を吸うと、それで二人は死神の眷属の契りとしたのであった。


 済むなり『これからは姉さんと呼べ』と態度を不遜に変えたスガルにブンヤは咳き込んだが、生前一度も笑う事のなかった死神の男がこの時少し笑っていたことを、ブンヤは自分でも気がつく事がなかった。


 天津罪への贖罪を撃ち果たしたことはアウズの死神がやったことである。

 それは現世にしか有り得ない、無の向こうへ置いてきたのだ。

 形見の少女に死神の黒龍を託して。






 無垢なる魂に人の情緒を推し量るべくもない。

 命を殺す宿業に置かれた価値は人類のそれと眷属において違って見えて、見え方が違えば得るところも違っている。

 自我の自獄に自らをさいなむ人草に因果の失われる価値はただただ喪失に似ていたずらに執着を生むだろう。

 表に浮かぶ現世(うつしよ)に映す根元は隠り世にあって、人草の昏きまなこは裏返り見知ることを出来ないのだ。

 その因果の縁組を。神計り織りなす神々の姿を。全ての始まりを生んだ無の向こうを。




 死神の魂よ


 死神の魂よ


 呼ぶこと無き死神の魂よ


 因果は熟れ滴りて潰える命の永久とこしえ


 死に死に死んで暗く


 生まれ生まれ生まれてくらきは全てと全てと全ての尊き御霊に生き別れし神の形代


 救いの刈り太刀は死神の利鎌とがま


 命を刈る形は死神の死に鎌


 現世うつしよくらがりの縁起を刈り断つくらみこともちて死神をさしたまいし死に鎌に命をくらわさん

 

 暗きは人草の命


 昏きは人草の因果


 闇がり溟がして界界の玄界は現世にはばかり界界に界濫かいらんせしものなりき


 は命を啖う

 

 其は命を啖う


 冥冥めいめい跋扈ばっこせし冥界にいずくんぞ黒龍の無きや


 いつきたる冥府に随神のちょうせる黒龍やあらん


 其の龍一柱の眷属となりて死神にかくも仕えん


 死神の命もちて命を啖わん


 仇為す天魔が天津罪を


 根の国底の国へと

 

 死に(つか)わんとす









▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽









 というわけでだな、人草のまれびと達よ。

 今回もまたブブゼラスであるこの儂が”チキウ”の人草である君たちに”ニホヌン語”という言語でわかりやすく伝える物語の一部だったのだが、如何だったであろうか。

 儂が誰なのかわからないでいる人草は本編を読んでおらぬ人草に違いないから、この書稿しょこうを無視しても構わんだろう。

 ただこのレコードはこの惑星、━━━━うむ。この星の人草達の自称するところの”バベルステルニャ”の星のことだが、その地表世界における魂と因果の奇妙な交わりが今回のように色々と見て見ぬ振りできぬ異形の者共の一期いちごの邂逅があったりなかったりしてうっかりしていると見逃してしまう偶然にも目にする事が出来た一幕であったため、念のため保管しておいたものから紹介してみたという程ものである。


 なにしろ”アウズ都市街郭”という歪な因果の集合体をこねくり回す天魔と魔族の営みに迷惑している星神が冥界と共謀して”神降し”を図る、永い永い均衡が崩れる瞬間だったのだからな。


 この眷属の使いの”眷士”というのは人の形に姿が似ておるが人とは違う人外でな。後天的にしろ先天的にしろ、眷属の使いになった時点で人類種であることを辞めておる。人類の因果から離脱しておるわけだな。それ故に人類社会の価値観とは別の価値観の元で活動しており、まあその、有り体に言えば本来ならば人類種の人草どもを使って現世を舞台に裏宇宙界界各界の企画を実現するべく各界がせめぎ合うところを、気長すぎるゆえもう少し直接なんとかならんかということでセッタ・ブンヤのような超人を拵えては何かと他界領への邪魔立てとかの工作にこき使っておるわけだ。”眷士”などと称させてはいるが要するに使いっ走りの使いっ走り、代理人の代理人、下請けの下請け、というわけだな。

 これらを使役する現世への干渉には神々の間で色々な取り決めがあってまどろこしいのだが、まあその事はいいだろう。


 とまれ、そう聞くと何故に神が直接に現世へ手を下さぬのかと人草共は不思議に思うのではないだろうか。何か都合が悪い事でもあるのかと。

 その邪推じゃすいはもっともである。

 神々が現世においそれと顕現できぬのは非常に重要な問題で、それは重要であるが故にこの儂も口を滑らすわけにはいかんのだが、チキウという星の人草である君たちには察することができるだろうか。


 まあそうした裏宇宙からの使者達の表宇宙での日常を少しばかり眺めていた儂が気になった一幕、天魔界と冥界がすれ違いざまに戯れてみせた神へのはかりごとを、こうして気まぐれに紹介してみた今回のお話というだけのことだ。


 この男が何者であったのかは触れるまい。元々の魂がどのような個性であったのかなど、いったいその因子がどれがどれだか、あちこち遡って見渡しても切りがないものだからな。

 ただ彼が僅かな執着を見せた天魔の女のように、かつて何処かの神の眷属であった事は確かだろう。眷属のままでは現世へ肉薄した干渉ができぬから、一段次元を低くして受肉したという事は言える。それは今の地表世界━━━━七度目の世界よりも前の世界かもしれず、はたまた、かつてはこの星と行来のあった惑星フェイトロンにおける因果の宿命であったのかもしれんし、冥府といえば地底世界や月世界に縁ある者と思えんこともないのだ。

 

 さて、この死神の眷士セッタ・ブンヤの観測はこの辺にしておいて、儂は少し別の宇宙の━━━━つまりいわゆる無の向こう側へと様子を見に行かねばならぬからレコードは終いにしようと思うのだが、なにしろこのセッタ・ブンヤの現世でのレコードは切迫したところで終わっておる。

 アウズはどうなるのか、魔大公ベクレヘムは、鬼導師の娘はどうなるのか。そうしたことにまるで頓着がなく、生や情という事に対して淡白すぎるのだな、セッタ・ブンヤという男は。

 死後に自身の因果を知る権利を顧みることもなかったのは、やはりその魂の出自の本性は抗えぬものなのだろう。

 現世に残された黒龍は眷使から眷使へ、人から人へと方々流れてゆくのだが、それはまた別の話である。









完結ということにしましょう。うん。

丸一年ちょっとも時間かけたなあ…

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