表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

2/8

中編

前編・後編だったものを前編・中編・後編の3部に分けました…

完結まで、まだもう少しつづく。


 ▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽









(空なんぞ、見えるはずがないけぇの)




 深く深く暗い、のっぺりとした広がり。煙の天蓋が別れるほどに黒々と露出してゆくそれをブンヤは見上げて歩いた。

 砂漠はアウズにない風景で、いや、これほど大量の魔族の死灰が━━━という事もおかしいのだが、しかしそれよりも見渡す限り頭上を覆う真っ黒に溜まったものがここから見える事はもっと異常な光景なのだ。

 茫楼街の街郭は雲を越えて空を刺すほどに突き建っているために、その街郭に入り組んだ深い入江の岸辺に立って見上げても空など欠片も見えるはずがなかった。

 黒というと夜の時間帯の色で間違いなかったかどうか、ブンヤ自身もう空の色を忘れているくらいに永い間見上げていないからちょっと自信がないのだが、それにしても港湾都市の街郭は何処にも無くて、遥かな遠くまで波打つ砂丘と黒い空が続いているのは夢でも見ているようだった。

 



(夢など、最後に見たのはいつじゃったか)




 アウズから出たことのない自分が見たことも無い世界を旅する夢━━━━━━━━━━━青や緑の透き通った海━━━━━聳える山々に広がる深い森━━━━━広大な草原━━━━━そこに生きる動物達━━━━━見知らぬ顔の、仲間達との冒険━━━━━━━━━━━脈絡もなく場面が変わる不思議な夢を。


 永い時を都市街郭を彷徨い続ける間一睡もしなかったブンヤでも、幼い頃に見た夢見の世界という奇怪な幻視の懐かしさを覚えていないわけでもない。

 というより、今この小高い砂丘に登って見渡す砂海の風景が、その古い古い夢見の記憶を俄かに炙り出す奇景だから思い出したのだろう。

 光もないのに砂漠の風景は遥かに遠くまで見えていて、世に言う”3つの太陽”というのがどこに在るのか、黒い空をいくら見上げても分からなかった。


 歩きつつ白い砂漠の方を見ていると、近くの砂丘の下に奇妙な物があってブンヤは目を留めた。

 遠目にも目立つ大きく剃り立った岩のような黒い物体があり、その傍に小さな人影がある。

 旅装をした顎の細い青年と見えて、しかし鋭い眼差しは明らかにブンヤを凝視しているが、立ち姿にどこか希薄さがある。




(死霊━━━)




 とまで思って、それが勇者ルウマ・ランペイジの魂であると気がついた。

 すっかり忘れていたが、あの廃人だった勇者の魂を見るためにブンヤは煙の中で立っていたのだ。

 それが今こうして眼下の風景の中に立っているとはいえ、このある種の地獄じみた景色の中に勇者の霊魂が居るのは異様な感じがしてブンヤは近づかずにじっと見下ろした。

 すると砂丘上のブンヤを見上げる勇者の死霊からただならぬ鋭利な意志が放たれた。




『死神殿ーーッ!貴方そなたは!死神であるのに身罷みまかられたか!!』




 途方もない大声である。

 静寂すぎる無音の砂漠に勇者の声が轟くとブンヤは息を呑んでしまった。




「━━━ッ!……」



『ハッハッハ!今のはいい顔だ!降りてこられよ!』




 破顔して笑い、気勢を吐く死霊というのをブンヤは見たことがない。ブンヤが砂丘を降りて歩く間、勇者ルウマは繁々とブンヤを眺めてはばからなかった。

 死神とも呼ばれるブンヤを前にして恐れない者も珍しいが、こうして会話に挑むような者もまた珍しい。まして死霊から皮肉を言われるなどとは初めてのことである。




「儂ぁ死んどらん。……死神なんぞでもないのぅ」




 ブンヤは降りて来るなり言ったが勇者はそっぽを向いて、




『こいつが何か分かるか』




 と、傍に立つ岩柱のような物体を見上げながら言った。

 ブンヤも見上げるほどに大きなそれは、近くに寄ってみてもなんだかよく分からない物である。

 不気味な青黒さの歪な岩柱がせり立ったような形状に、角か牙のような鋭角ある頭部らしき部位があり、そうするとどれが目鼻で口で━━━━━どうにも形容し難い異形が砂海に在る様は奇妙なバケモノの記念碑であるかのような。




『もっとよく御覧ごろうじろ。それでも分からないか』




 言われてブンヤがその岩肌の細部を見ると、何やら凝った作りである。小さな人間達を編み込み、組み込んだような、曲げてひねってねじって折り曲げて結んで固めたような、複雑な構造で形作られている。




「━━━呪物か」




 ブンヤが言うと、左様、とばかりに勇者ルウマは頷いた。

 こういった奇怪な構造物というのは多くの場合、魔物か魔族がこしらえた何らかの意味ある物体、つまり呪物なのだ。或いは魔物か魔族そのものだったりもするが、ブンヤはそのどちらにも興味がない。

 ただアウズの街郭にも稀に見かける意味不明で奇妙な物体にこれと似たような物があったとブンヤは記憶していて、その意味までは分からないが馴染みの眷属から「呪物だよ」「あんまさわんなよ」とだけは聞いていた。

 その呪物の周りをゆっくりと見て回る勇者が元の位置へと戻ってくると、顎を撫でながら感慨深そうに口を開いた。




『……世界中を冒険していた時、森の奥や崖や谷の洞窟などの辺鄙な所で見かけた彫像に近い。これを”呪物構造体”などと万象学士は呼んでいた。要するに魔族が縄張りを示す境像であり、結界に用いる呪物だろう』




「結界……」




『ここは魔界ということらしい』




「━━━魔界じゃと……!?……ここは━━━━━━━━━━」




 アウズのはずである。

 信じられずにかぶりを振るブンヤに勇者が続けて言うには、この呪物には魔族の文字で碑呪文が書かれており、そこにそう書いてあるのだという。




『少し読めるだけだが、おそらく、ダギリという魔神1柱の領界と読める』



「ダギリ」




 その名をすぐに思い出して、められたのだとすぐにブンヤは覚った。

 先刻、自分が喧嘩をふっかけたあの魔神ではないか。戦争してみろと眷銃を空撃ちさせて威嚇したブンヤだったが、するとさっきのヒュローキと群魔が魔神ダギリ系列の軍魔供であり、あの一方的な殺し合いともいえない一瞬の虐殺が戦争だったとでもいうのか。

 だとすれば━━━━━




「━━━━━……」




 思わぬところで魔神の名を聞いたブンヤは黙って考えたが、今がその魔神の術中なのだとすると一つ意味がわからない。

 ここにいる勇者ルウマはなんなのだろうと思うのである。

 ブンヤがその勇者の方を見ると、勇者は待っていたかのように口を開いてまた意外なことを言い出した。




『死神殿……いや、セッタ・ブンヤ。しばしパーティを組もう』



「……なんじゃと?」



『考えがある。ここから出るために協力するとしよう』



「……ぉ、……?……」



『名乗ったことがなかったな、私は”闇雲の勇者”ルウマ・ランペイジだ。不足はないだろう』




 ━━━などと、死神と死霊が仲間になることを提案した勇者は突然なにをするのか屈み込み、足元の死灰を掬って呪物の彫像から伸びる手のような1箇所にこんもりと盛った。意味がわからず言葉を詰まらせるブンヤの前を歩いて砂丘を登っていってしまう。


 ブンヤは今の状況に対して如何するも何も考えていなかったのだが勇者は判断が早い。ついて来いと言わんばかりの態度に判断のしようがなかったブンヤはつい登ると、その砂丘の峰を歩いて風景を見回しながら勇者の跡をついて行った。


 勇者ルウマは歩きつつ、ここは自分の還るべき”あの世”ではないのだと言う。死者はまず幽界だか霊界だかへ行くはずで、その後に然るべき”あの世”へ赴くべきだろうと。

 それが今こうして在るべきでない場所に在るということは意味があることに違いないのだと。

 そして、




『人の因果というものは、そういうものではないか。━━━俺はそう思いたい』




 と言ってブンヤを振り返った。

 普段通りの険しい表情で顔を固めているブンヤだが、内心ちょっとついていけないような気分でいる。

 勇者ルウマの考えや行動が早いのかブンヤが愚鈍なのか、この意味不明な状況に何かの原因と目的があるのだと早々に考えて悲観せずに何かをやってやろうと一人静かに意気込んでいる勇者ルウマの単純な前向きに引っ張られて歩くのがやっとである。

 この颯爽としたところのある男がさっきまで素っ裸で魔族に首を引かれていた廃人だとは思えず、人格の切り替わりが奇抜であることばかりブンヤは気になってしまった。




『そうだ、ブンヤ殿は何が出来る。この質問は冒険の仲間として重要なことだ』



「……儂ぁ……」




 協力するともなんとも可否していないブンヤはそれだけでも答えに窮したが、今の自分に何ができるかと考えると急に不安になった。

 珍しく胸の曇るような感情がブンヤに不思議な新鮮味を与えている。

 試しに黒龍の手印を示すが眷銃は顕れる様子がない。

 それどころか、さっきから全身が重く、頭がぼんやりしているのだ。歩きにくい砂漠を少し歩いただけで息が辛い。




(こんなぁ、どうしたことじゃ)




 馴染みの眷属達から与えられていた筈の不思議な力が全然感じられない。

 精神がどこか気弱になっているのも気のせいではないだろう。




『……ふむ。では、命が在るということが貴方の取り柄だ。それを活かそう』




 徒手の手印を見つめるブンヤの顔色を見た勇者はそう言って、また歩き出した。

 命がある━━━そう言われてブンヤは自分の顔を撫でてみると、確かに死んでいるような感触でもないかもしれない。死んだことなどないから肉体と魂の違いなど分からないブンヤだが、しかし今日が死ぬ日だと馴染みの眷属から言われているブンヤとしてはどうだか分からない気分もある。




「儂ぁ、殺したい命を探して殺す。魂にする。それだけじゃ」




 ブンヤが出来ることは実際それだけなのだ。

 意気込みを見せたブンヤの声に、勇者は僅かに口角を上げた。


 代わり映えのない白と黒の風景にやがて1箇所の異物が見えてきた。砂丘を下ったところにさっきと同様の呪物構造体らしき青黒い彫像がある。

 見るだに勇者ルウマが駆け降りてゆくと、その場で腕を組んで首を傾げている。




「……?」



『観えたな。同じところに戻ってきてしまう訳だ』




 砂丘を降りてきたブンヤに勇者がチラリと目線で示したのは、さっき足元から死灰を掬って乗せた呪物の手と同じ部位である。ブンヤから見ても彫像は確かにさっき見たものと全く同じ姿形に思えて、その盛られた真っ白な死灰がそのまま同じ位置にあることから、さっきと全く同じ彫像だろうということなのだ。その下の砂漠に死灰を掬い取った跡も残っているからまず間違いなさそうである。

 つまり、この空間をどう移動しても定位置に戻ってしまうと考えられる。ということらしい。




『稀に見る結界の一種だ。限定的な魔界の召喚、ということなのだろう』



「……?」



『私たちが魔界に移されたという事ではなく━━━アウズに、魔界が降りたのだ。セッタ・ブンヤは封印されてしまったという事らしいな』




 そういうと勇者ルウマは地面の死灰を手掘りしてまた何やらやり始めている。経験豊富な彼は次々とやることを思いつく様子だが何か解るのだろうか。封印されたという状態が本当ならこの男も一緒に封印されてしまっているという事だろうに人ごとのような言い方だ。

 ブンヤにとっては難しい話で、魔界を召喚なんて表現は意味が分からなかった。勇者の推察が正しいのかどうか判断する知識も何も無いのである。

 が、この風景がアウズのものでない事と、目の前に在る青黒い境像がさっきと同一の物体であることはほぼ疑いようがないだろう。


 他にブンヤに分かることといえば、今この勇者と歩いてきただけの僅かな空間には、死霊も生者も誰ひとり居なかったという事か。

 魔法の仕組みのことは知らないが、結界というからには外部から人が入ってくる事もおそらくないだろう。

 つまり、ここにはブンヤが殺したい命を持つ誰かなど永久に現れないかもしれないという事だ。




(こんなぁ、死ぬより悪いわぃ)




 ずっとこんな場所で生きていくなんて死んだようなものである。

 その元凶へ据わった目を向けたブンヤは右手を掲げ、五指に力を込めて黒龍の手印を示した。

 バケモノのような姿をした呪物が此処を結界ならしめているのであれば、それを壊してしまえばいい。


 ━━━━━眷銃は、顕れなかった。


 もう分かっている。眷属から加護が届かない状況なのだ今は。だから眷銃が顕れるはずがない。

 そもそも呪物を破壊して本当に結界が解けるかどうか分からないが、ブンヤは苛立ち紛れに手印を構えている。

 試みに彫像を長靴の底で思い切り踏みつけてみるが、その呪物構造体から足裏へ伝わる感触は重々しい物で壊せる気がしなかった。




『”大迷宮アウズは人を誘い命を喰らう。その悪魔達の住う巨大な街は、地の底から天を刺す街の群れの山脈である。その魔族の国を太古より永遠に彷徨う黒い死神の腕は二柱の黒龍━━━”』




 砂漠にしゃがみこむ勇者が短く物語り、ブンヤの掲げる徒手の手印をじっと見つめている。




『”死の光を放つその死神を見れば命は無く、生きて帰る者はいない”……冒険者間で伝わる伝説だ。それが今は使えないという事か』



「……」




 海外の冒険者達の間では、大半島アウズ都市街郭のことは計り知れない超巨大な迷宮という扱いになっている。冒険者達の興味を掻き立てる危険な伝説の一つだ。そこにブンヤの存在も”アウズの死神”として語り継がれており、その殺戮のことも”死の光”という死者が最後に見る光景そのものの表現で伝わっている。

 無論、ブンヤに撃たれて生きて帰るものなどいないから”死の光”の正体が眷属の神器である眷銃黒龍だとは知られていないはずだが、それにしても、生きて帰る者がいないにしては的確な言い伝えが人界に残されているのは不思議である。

 その光にさっき撃たれて死んだ勇者ルウマであれば、ブンヤの手印の意図は分かるだろう。




『そんな方法はどうかと思うが、今は撃てないということの原因が分からんな。いや、私の仲間にも戦闘魔法の手練れが居たからおおよそ不調の察しは付くが……』



「魔法ではない」




 ということだけは言っておきたいが、ブンヤは自分のことを語るつもりもない。言えば、眷属に力を借りていることを認めることになってしまうだろう。




『ああ、死神殿の背景を詮索するつもりはない。……しかし、思えば”あの時”も貴方はそれを撃てなかった』



「━━━……」




 あの時、とは遠い昔のことで、かつてブンヤは勇者ルウマに首を打たれて気絶し捕らえられた。そのとき眷銃を撃てなかった事についてである。

 そのことはもちろんブンヤも覚えている。

 ブンヤにしてみれば勇者ルウマがあの時なぜブンヤを殺さなかったのかということの方が今でも謎で、逆に勇者ルウマはその時のことを今でも不思議に思っているということなのだろう。


 だがそれは互いに事情があってのことなのだ。ブンヤが眷属主権で生殺与奪を決められているように、勇者ルウマにも魔都にまで乗り込んで死神を捕らえた何らかの背景があるに違いない。

 ルウマはそれ以上ブンヤに言及せず、「さて」と言って呪物像の足元を指した。




『この辺が私の死灰だ。私がこの空間に気づいたとき、その初期位置が此処だったから間違い無いと思う』



「……なに……?」



『やはり、この空間の死灰の表層は貴方がさっき殺した魔族共の死灰だ。それを魔界召喚の触媒としたものだろうから━━━』




 ちょっと此処で見ててくれと言って、勇者は自身の死灰から離れた位置の死灰を掬って退けると立ち上がって遠くへ走ってゆく。

 ブンヤはその後ろ姿を眺めつつタバコを吸ってぼんやりしている間、体と精神の異様な疲れを感じて立ったままウトウトしてきてしまった。


 この体のダルさや憂鬱な気分も本来の自分の一部なのだ。自分が受け取るはずだった。

 それを今、甘んじて受け止めていると━━━━━安らかな眠気というものが、酷く酷く懐かしい幼時の気分を呼び覚ますようで、━━━━━ブンヤは何千何万年のいつ依頼にぐったりと目を閉じて━━━━━━━━━━━




「っ……!」




 背中を突かれて伸び上がるように振り向くと、勇者ルウマが嬉しそうに笑って立っていた。




『見たかブンヤ殿。それ』



「━━━ッ!……」



『ん?おいおい、見ていなかったのか。仕方のない死神殿だな…』




 勇者に促されて見た呪物像の足元には、勇者の死灰しか掬った跡が残っていない。

 もう一方の死灰を掬った跡は消えて元の砂漠の状態に戻っているのだ。

 勇者が走って行ったことに意味があるかどうかは分からないが、此処までくるとブンヤにも糸口が見えてきた。




『そう。結界は結び目を持たせなければ成立し得ないんだ。必ず解ける。それが魔法の理というものだ。賢者ワーズワースの受け売りだがな……』




 背後でぶつくさ言っている勇者に目もくれずブンヤは勇者の死灰の上に立つ。

 すると━━━━━体を絞られるような感覚とともにブンヤは背筋が伸びて眉目に力が入った。手指を満たす気力はすぐさま呪物に手印を突きつけさせている。




『それでもダメか』




 ”死の光”は放たれない。眷銃の威容は顕れず、鉤爪のように曲げて組まれた徒手の手印があるのみで、ブンヤの骨張ったゴツい手が宙に止まっている。

 ブンヤの顔色を見た勇者が首を傾げて嘆いたが、ブンヤには驚きも落胆もない。

 眷銃”黒龍”は命を、死を喰らう銃なのだ。




「命を使うんじゃったのう」




 勇者を横目で見るブンヤは顳顬こめかみに手印を当てがうと、その手にとぐろを巻く黒龍の威容が忽然と顕れた。

 同時に勇者があっという間も無くて光が疾りブンヤと呪物像は消し飛んでしまったのである。



 天地を破り結界が割れる。



 解かれた世界がほころぶ。




『話す機会を逸したが言っておこう、死神殿。いや、此処だから言えることを先に言うべきだったが、しかし、ここまでの縁は奇妙な偶然ではないか?アウズの因果は鬼導師の悪戯なんだ。ヒュローキもそうだろう。アウズ都市街郭着工以来、手癖の悪い鬼導師が地表世界の人界の因果に作為ある混沌を生み育ててきた。それは広がるにつれて奇妙な因果の肉付きが増してしまう。魂達の本来の因果をねじ曲げてしまうんだ。それは因果を束ねる世界にとって不本意なことに違いない。……死神殿は、その忌子を外へ連れ出すべきだろう。本来そう在るべきだったはずの、僕が果たすはずだった冒険を━━━━━』




 煙の中に立つ勇者ルウマは振り返って言うと、よく似た顔立ちの壮漢に促されて、まばゆとろける金光の中へ足を踏み入れて消えていった。




『ブンヤ。今日という日はまだ終わらないんだ』

『今、第2の太陽が子午線を切って”髪梳かみすく人魚座”に入ったところさ』

『時間はほとんど進んでないですよぉ〜』




 馴染みの眷属達に囲まれてセッタ・ブンヤは立っている。

 爪先に触れるものがあって見ると倒れ伏すヒュローキの死体があったが、すでに崩れてゆくところである。死灰は風に殴られるように散って消えた。


 大気が轟々(ごうごう)とうねり乱れている。


 煙が唸りを上げて渦巻く向こうに巨大な、━━━━━途轍とてつもなく巨大な力がうごめいている。









 ▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽









 ”この世に産まれた悪人などいない

 この世が悪人を作るようにできている”




 ━━━ルビエット大陸、西ツンドーラ地方アクロポリス台地の万象学士、トトラテウスの言葉だ。

 アウズしか知らないお前には分からないだろう。兄弟。

 この世界が俺をそう形作ったんだよ。

 物心つく前の小さな餓鬼の時分に俺は眷属から魔法を貸し与えてもらっていたんだからな。


 だが魔法を使ったのは自分だろうって?

 そうさ。俺は自分さえ良ければよかった。気持ちがよかった。人が苦しみ悶えて助けを乞う、気持ちの弱みを見せた瞬間に溢れる”許し”が、甘くて柔らかで大好きだった。涙が溢れるほどジューシーなんだ。


 俺は俺を責める奴を絶対に許したくなかったんだよ。

 だから殺した。両親も兄弟も殺した。友達とその知り合いも殺した。あらゆる他人をあらゆる痛みで苦しめて殺した。

 だから強姦した。エルフも獣人も人間も、老若男女10,000人犯して絶望させた。

 だから罪を着せた。詐欺、横領、魔薬、あらゆる悪事を犯し、数え切れないほどの仲間を警察に売った。

 だから財を奪った。あらゆる他人を脅し、その土地も金も、その親兄弟や子孫の財産も全て奪った。

 だから嘘をついた。あらゆる物事をたばかり、失望して気が狂う人を見て楽しんだ。

 だから神を呪った。人の神を、土地の神を、星の神を、世界を憎み、俺のやることに邪魔な物事の全てを恨み、俺の意思で動く組織を作って神々の干渉するこの世界を乱してやった。

 それらが全部、俺を優しい許しで満たしてくれたんだよ。

 だからもっと全部ぶち壊してやりたくて、全部が俺に許し乞えば俺はいつまでだって満足していれたんだ。


 ”悪”とはなんだと思う?兄弟。そんなの人が勝手に作った概念だろう。長い刻と膨大な命の因果が作り上げた価値観だが、元々はそんな価値観など無かったに違いない。

 なら誰しも勝手にすればいいのさ。

 全てが”存在”するから悪が在るんだ。そう決めつける。嫌なら全部無くなればいい。

 悪は作られている。


 だが、その悪は本当に悪だろうか。

 じゃあ”善”はなんだ?いつからある。


 善は悪から産まれた。悪がなければ善はないからな。逆に善がなくても悪はあるんだよ。

 そう思わないって?じゃあ見解の相違だ。これ以上は意味がない。俺は多様性を否定するつもりはないからな。それが愛というものだ。


 しかし悪は善を育むだろう。善を絶やしてはならないと、悪を討つべく善は強くなり、増えてゆく。

 なら、悪は”善”だ。

 悪意による人の苦しみは━━━━━”善”の産声なんだ。

 それが皆んなを清らかにしたし、俺も成長させてくれるんだよ。

 そのためには、眷属が俺にくれた魔法は凄く便利だったんだ。


 ……だが、それは地元じゃ得られなくなった。誰からも得られるはずの、俺の許しを奪う奴が現れた。

 俺は”それ”になりたかったってのによ。本物の魔族━━━そして、そいつらを使う悪魔って奴に。

 俺に魔法を貸していた眷属はその悪魔に頭が上がらず、俺は魔族と悪魔から逃げなければならなかった。俺は俺の使う魔法で楽しくやってきたってのに、なんでそこに「みかじめ料」なんて供物を捧げないといけねえんだよ、ってな。

 だから俺はアウズへ移住したのさ。ここで移民申請すれば、死ぬまで好き放題できるって話だったからさ。

 いや、なんでも希望が叶うって話だったのさ。

 だから俺はアウズの港へ降りてすぐに、魔族に━━━悪魔になりたいって願ったんだ。


 だが、だがおかしなことが起きた……その願いは叶えられなかったんだよ。

 この街の魔法の光は、どんな夢も希望も叶えるって話だったのに……おかしいだろう?

 落胆して街路で膝をつく俺の耳に囁く奴が現れて言ったよ、


「(オイかっぺ!この街じゃ今シュラ國訛りで話すのがトレンドなんだっちゃわいや!わかったらその野暮ったい帝国訛りをなんとかして来いだっちゃまんねん!━━━━━魔族になりたければな)」


 俺は耳を疑った。立ち去るそいつの跡を追ったよ。一生懸命にシュラ國訛りを真似して気を引いた。

 するとそいつは自らを魔族と明かし、アウズの秘密を語り出した。

 驚いたことに、この街は魔族が巣食う━━━いや、魔界が、魔族が運営する国だったんだ。

 それが移民の俺の「魔族になりたい」という願いを叶えられない魔都の事情だったのさ。どういう事か分かるな?そしてトレンドは虚構だった。


「お前は見込みがある。だが、……魔族は、誰でもなれるような娑婆しゃばいもんじゃあない」


 そう言って奴らは俺を何度も試したものさ。

 魔族は誇り高いんだ。この広くて狭いアウズでシノギを削り、都民の因果を奪い合っている。

 だから、この何でも夢と希望が叶う街でだって、魔族になりたいなんて願望だけは、おいそれとは叶えてはくれなかったという訳だ。


 ━━━と、思うだろ?

 俺はそいつらとつるむうちに、人が魔族に生まれ変わるのを何度も見た。

 海外からアウズへ逃れてくるどうしようもない犯罪者や冒険者達はこの街で簡単に魔族に生まれ変わっていった。

 差別しやがるんだよ。奴らは。

 魔族になりたがる者ほど理不尽なふるいに掛けてきやがる。

 大きな、大きな魔界の因果の値を貸し付けるに足る器なのかと値踏みするのさ。いや、単に俺への嫌がらせだったのかも知れんが……。


 でも、しばらくして俺は思ったよ。

 魔族になるのになんで魔族に頭下げなきゃなんねえんだ?って。

 だから言ったのさ。今日から俺は━━━━━って。

 それはきっと独り言じゃなかった。どこかで魔界の眷族が、悪魔が聞いていて、俺をそれからの”出会い”へと導いてくれたんだと思う。


 俺には魔法がある。小さい頃からずっと一人でやってきた魔法が俺を本当の魔族へと後押ししてくれる。

 それで魔界の眷族に、悪魔に目をつけてもらえると信じて、俺は一人でこのアウズの街に反旗を翻す土着民族組織クーロンの領土へ潜入し冒険者ギルドへ登録して独自に破壊工作を進めていった。工作員ってやつだ。

 仕事を失敗させるに連れてクーロンの勢力圏はみるみる縮小していったよ。

 そうしてアウズ対クーロンの紛争に関連する案件をこなすうちに俺は、ようやく魔族の目にとまって正式に仮盃を交わすまでになったんだ。伝手ができて少しづつ魔界案件の仕事を貰うようになった。そうしながら魔都の秘密をさらに探ったのさ。


 そしてある時、この魔都の秘密を見つけてしまった。

 難しくなかったよ。俺の魔法は特別だからな。


 無数にあるアウズの入江の中でも最も細長くて深い、この入江の奥深く。その最後のどん詰まりに小さな小舟が浮かべてあった。なんの変哲もないボロ船だ。魔族どもの後をつけまわしていなかったら気にも留めなかっただろう。

 だがその船に乗ったり降りたりを繰り返す奇妙な魔族がいて、変だと思った俺はそいつについて歩いて乗ったり降りたりを繰り返した。

 何度か繰り返すうちに何度目かの上陸で踏んだ岸辺の風景からは空が見えたんだ。驚いたよ。青黒い空の向こうに有害な感じの眩しい輝きが3つもあって「ここにいてはいけない」と感じたものだ。

 だが、そこには鬼導師のやつがいたのさ。

 その時の俺は鬼導師がなんなのかも知らなかったが、なんでも魔族にとって秘匿中の秘密と言える珍しい存在だそうじゃないか。

 そいつは、俺が前に立つと不思議な独言をったのさ。


 それは預言だった。

 神託と言ってもいい。

 俺の因果の筋書きを宣べあげた、約束された未来の神勅だ。

 それが証拠に、聞いた俺は運命が変わった。

 俺が本物の魔族に、悪魔になるために、俺の周りには協力する魔族が集まり始めた。

 いつしか俺は聖魔複合組織の”裏案件”依頼を指名されるまでになっていたんだ━━━━━


 そうして生きてきたのに、あるとき俺は他人に力を借りて失敗した。

 兄弟、お前のことだよ。

 伝説の死神が実在すると知ったときは胸が高鳴ったよ。お前は殺人狂で俺と同じだと思ったんだ。

 なのに見込み違いだった。殺しの、━━━”善”の方向性が違った。

 でも限界があったんだよ俺には。性格の悪いあの魔女会の魔女共との和議破談の末に戦争だなんて…魔族と魔女は根っこが別物なんだから相容れる訳がないのは分かっていたが、せっかくここまで来たのに悪趣味な魔女どもの変換魔法でスリッパとか物干し竿とか変な物に命を変えられて滅びるまでそのままとかになったら最悪だろう。

 だが、俺は真の魔族になるために、俺の魔法を超える力が必要だった。

 ずっとそう思っていた事だ。

 悪魔に魂を売って手に入る力が欲しかったんだ。

 それには俺の魔法を━━━”姿が存在しなくなる魔法”を手放す時が来たんだと思ったよ。最初からそういうことだったんだ。自分から魔界に捧げなければならない魔法だった。

 だってそうだろう、因果の前借りは支払い切れない負債なんだよ。

 今までの多すぎる悪事の因果をどうして昇華できる…


 それには因果を喰う側に、ずっと使う側になるしかないのさ。兄弟。

 お前に殺される予定を魔界に契約した。

 それは鬼導師の預言の執行だった。


 そしてようやく、俺は魔族になれたんだ。

 その後はずっと何もかも上手くいったよ。


 そんなわけないだろ。ハメられたんだよ俺は。

 鬼導師は嘘つきだ。

 天魔は因果を捻じ曲げる。

 今日お前に会えば天魔の魔籍に入れると鬼導師は言ったんだ。

 預言だよ。兄弟は天魔を堕とすために俺と杯を契り直すと。星土の因果はそれを引き合わせると。天魔直参の鬼導師がそう言ったんだ。

 だが、魔界の召喚に全ての因果を灰にしなければならなかった。魔神ダギリは俺を喰いやがった。

 ハメられたんだよ俺は。

 ハメられたんだよ俺は。

 俺は魔族になったはずなんだよ。そのはずなんだ。

 世界に必要な悪魔になるためだったのに。来る日も来る日も移民開拓や魔石結晶増産に精を出して働きづくめ。魔公爵なんて位階は貰うだけ厄介だった。

 魔界に、天魔に因果を上納するために、人間だった頃よりもずっと苦労して、苦労して、人類の因果を、魔石を━━━━━━━









 ▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽









 その魂は、あの世へ渡る権利を持ち得ない。

 売り渡してしまっているのだから。



 その因果を奪う者達があるのだ。



 命の値が、その精をかもすのをじっと見ている意思達がある。



 命に纏わる因果の値がその形を━━━現世における理の符号を為すのを、都市神の意志達はずっと待っていた。



 命の縁起は街塊に楼閣を為すために注がれる。

 元の因果にちなむ姿に、都市街郭は拡張されてゆく。


 命の無い者たちが紡ぐ因果の値が死者からすくわれて、アウズの街は人知れず多くの壁を成し、多くの柱を為し、多くのはりを、多くの屋根を、多くの床を、多くののきを、多くの道を、多くの穴を、多くの溝を、多くの階段を、多くの坂を、多くの橋を━━━━━


 高く、どこまでも高く


 深く、どこまでも深く


 広く、狭く、多くの街を、多様な街を


 どこまでも


 どこまでも


 何の窪地くぼちなのか、何の台地なのか、何の坂なのか、何の交差路なのか、何の竪穴なのか、何の戸口なのか、ちぐはぐでめちゃくちゃな間取りの街が塊り楼閣を為してゆく。


 まるで、目に見えない何かが道を(こ)ねては千切り、塔を削っては彫り、壁をならし、橋を伸ばし、建屋を囲い、街を積み重ねていくように━━━━━建築の拡張は広がってゆく。


 悶えるように広がりを見せる構造物群のうごめきは、波頭が起きて高まるように膨れ上がり━━━━━━━━━━━




「………………………………………………………………………」




 その様子を延々と見ている間、ブンヤは言葉もなかった。

 街郭の増殖は大気を掻き回される煙がおぼろに隠して全容が見えないが、都市の明かりが生きていて巨大な影絵が踊るようで幻想的に見える。

 だがその膨大な質量の造成は甚大な魔力の危険な発露によるものなのだ。そこに身体が巻き込まれれば、どうなるか分からない。


 ブンヤは今、都市街郭の拡張の渦中にある。

 ヒュローキ達を殺したその場で始まっていた街郭の変形増殖から逃れるうちに、高い橋脚の上の橋との隙間のような所に立って港を眺望していた。

 だが、元の港湾都市らしい景観はもうどこにも面影が無い。


 どの建築物も建て付けが混沌としており、縦横無尽に張り出す大小の建屋がゴテゴテに連なって窓から外へ通路や階段が多方向に伸びていたり、屋根や壁は配管や魔力伝線で雁字搦めになっており、あちこちに門扉や巨大な柱だけがポツンと無意味に立っていて無数に生えた街灯や看板がやたらとビカビカ輝いている。


 意味不明な構造建築の塊は、まさにブンヤの知るアウズではあるのだが━━━━━




(ここまでのわやくちゃは珍しい)




 都市街郭を永年彷徨うブンヤがそう思うほどに、今造成されている街郭は無秩序すぎた。




『『『『『『『『『『『━━━━━━━━━━━』』』』』』』』』』』



「………………」




 ふと気づけば、ブンヤの周りには眷属達が無言で佇んでいる。

 大規模な拡張の中にあるブンヤは彼らに構う気になれないが、しかし眷属というのは無意味に顕れることはないから、何らかの意図を諭すべくブンヤの眼前にこうして顕れているわけである。

 そういえばブンヤはヒュローキ達魔族を殺したのだから、また魔界の眷族達が苦情を言いに顕れるだろう。それに応対しようと眷属達は顕れたのだろうか。




『━━━違うよ』



「……?」



『ヒュローキの眷族は顕れない』

『さっき、もう落とし前がついただろう?』

『それに、魔界の眷族達は今それどころではなくなっているよ』



「……ほうかぃ……」



『『『『『『『『『『『━━━━━━━━━━━』』』』』』』』』』』



「………………」




 どういう意味かわからないが、詳細なことを眷族達の方から教えるつもりが無いのならブンヤもその辺のことはどうでもいい。

 では、尚も眷属達の林立する無言が何を意図するのか。

 それはむしろブンヤに自身の本懐へと意識を向けさせるものである。


 命を殺す━━━━━その目的のために五感を澄ませば、どこからかブンヤの脳裏へ不穏がじわりと入り込み、六感たる意識へ危急を訴えている。それは第七感であるブンヤの長久な記憶にも無い規模の莫大な不穏だ。


 一帯の大気を徐々に占めてゆく異臭━━━━━大量の血臭。


 街の造成が起こす不気味な風音に混じる異音━━━━━うめき━━叫び━━━泣き声━━━━━そう聴こえる音。


 大気の臭みと震えが湿気たように肌にまとわって重たく、舌にエグい苦味を感じたブンヤは真新しい街に唾を吐き辺りを見回した。

 難しい顔で眺め回しても”それ”を見つけられないが、居るはずなのである。━━━━━この景観には膨大な人数の人々が居たはずではないか。




「━━━━━!!!……」




 魔都にさいなむ命の震えを意識下に見れば、街の悲鳴は景色を歪めるほどにひしめいている。

 ブンヤは足元が覚束ずに立っているほどで、それほど膨大な人数の命が、その魂の因果が、都市に喰われるのを抗えずに狂鳴しているのだ。


 都民達は全員、街郭の変形に巻き込まれたのだろう。

 突然変形した街の壁や道により膨大な人数の命が潰れ、或いは飲み込まれて人体が建物と同化した━━━その人波の変貌した風景が、怨嗟えんさを渦巻く呪言が、世界に唸りをあげている。


 この都市で死んで、己の魂がどうなるかなんて誰にも分からない。

 自分の生きた証が都市に喰われてしまうなどと、自分のモノでなくなるなどとは思いもよらない。


 ただ解らなくなってゆく。


 ”自分”が”解らなく”なってゆく。


 自分の、魂を━━━━━




『『『『『『『『『『『━━━━━━━━━━━』』』』』』』』』』』

すことに力を、与えよう』

『命を殺す力を、死を喰む黒龍を与えよう』



「……………」




 立ち尽くすブンヤの前へ眷属達が進み出ると、ブンヤは捧げるようにして両手の手印を一つに組んで掲げた。空のあるべき方へ。


 天を仰ぐが、日の光はこの途方もなく深い入江の底までは降りてこない。


 ただ止むはずのないときに一白の間が差している。

 勧請かんじょうに降り立つ両腕を蝕み顕れた神獣の化身、その無数の銃身が、銃口が、龍体をもたげて烈岐れっきする様は、天地を喰らう黒龍の異形━━━━━


 天へかざす撃光が街郭を貫く。


 黒白こくはくの明滅は放射する光陰がもつれて踊るようである。









 ▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽









 ”都市神アウズ”という新興の神、としてこの街を祀る者は魔族達である。

 新興といっても太古よりこの魔都━━━━━魔法都市は、全土の都市街郭の物資、燃料、水道、交通、情報、廃棄処分、あらゆる社会資本が都市神アウズの魔力で成り立っている。


 その為には魔力が必要であり、その魔力には原材料が要る。

 都民である人草、もとい、人間やエルフや獣人といった人類種達の人生から生成される因果がそれである。


 人生から━━━などとは想像が難しいが、言うなれば、人ひとりの感情、過去、世界との関係性や行為による結果、それら全ての原因と結果という因果の値を”力”に変換して魔法に転用している。

 その因果値の保存には結晶という形態が採用されており、魔石と呼称される宝石として生産され、魔石は魔法に使う魔力資源として消費されているというわけである。


 それは人の人生の経験値の搾取であると言っていい。

 本来ならば、現世を生きる人類種達の生きて作った因果は善かれ悪しかれ個人の魂が収穫する掛け替えのない経験であり、その個人にとって唯一本当に自分のものとする事が出来る”あたい”だろう。

 それは死後に”あの世”である裏宇宙の霊界た天界や地獄界などの各界界で判定・管理され、表宇宙現世のあらゆる事象に反映するために用いられる値となるのだが、それがこのアウズにおいては別の方式がまかり通っている状態なのだ。


 この魔法都市では、ほとんど全ての因果は丸ごと都市神アウズの懐へと奉り収められる。

 然るのちに、因果の値を魔法に用いる証眷手形を発行する天魔により魔界眷族に魔法施工権が貸与され、魔力を分配。魔界の運営によって魔都は都民の因果を吸い上げている。

 人々個人個人の人生で経験した行為が刻む運命の因果というものが、なんの善悪の判断もされず、ましてそれぞれの魂の次の転生にも割り当てられず、ただの”値”として都市神の権限に収容されてしまう。

 その値が、都市神麾下の眷族達がこの現世の都市へ”直接的に”干渉するために用いることが神々に許されている施工資源なのである。

 それでも、その干渉権限の及ぶ範囲には厳格な11次元界界界神審規定が設けられているのだが━━━━━


 ともかく、その希望の尽きた、その干からびた魂から取り上げた因果値が街郭をさらに拡張し、より膨大な量の魔石結晶を産出するのだ。

 魔界眷族達により都市街郭が建設・拡張されて、建てられた都市魔法を整備する魔族達と魔物達により都民に希望を叶える夢を見せている。

 これは世界から因果を奪う邪法と言える横領でもあるだろう。

 それが魔を統べる天魔の考案した独占的因果利権『魔都による魔石結晶生成企画』である。


 それは一見、魔界が儲かっているかに見える。

 魔都の魔石は効率の良すぎる取れ高を誇るが故に、魔界にあぶれた多すぎる悪魔、眷族どもの擦り寄るところとなって、魔都邪法の協賛を呼びかける天魔の使徒として養われている。

 このアウズ都市街郭群に発案者である天魔の直轄領というのは1割に満たぬほど少なく、9割以上が魔界の領する管轄区であり、大半島の上に築かれたアウズの都市は魔界のものだ。魔族の国だ。

 しかしながらこの企画自体が天魔企画であるから”アガリ”は天魔が9割持っていく。それは無論というか、企画原案・発案側の有するえげつない権利なのだという。


 だから魔界眷族は、魔族は、街郭群を建造し、人草達に夢を魅せ、働けども働けども貧しく、因果に塗れてじっと手を見るしかない。


 ━━━今日も人類の夢をぱっと叶えて因果を獲るために、幸せにしてやるんだ━━━━━


 すると人草達は、意思のあるはずのない無機物である街に、意思ある人類が飼われているなどとは思いもよらず、楽しい日々を夢中で楽しみ合ううちにあっという間に死んでゆく。それが魔法による即席の経験だと知らずに。

 そうして人生に詰め込まれた膨大な因果は全て魔石に変換され、魔石の9割は街郭拡張魔法に変換され、1割の魔石は魔界が運用するために海外へ輸出される。せっかくの手取りをなぜ海外に?と思うところだが、これは少ない元手を増やすための魔族の博打なのだ。といって、1割とはいえ大陸の人類種達に流通する魔石はそれで莫大な量になるなのだが、この都市街郭を構成する魔界眷族達からするとそれは少なかった。だから、そこから使役される魔族達に直接落とされる取り分など微々たるものでしかない。


 なぜこうもアウズの魔族は天魔という存在から酷い扱いを受けているのか。

 それは所詮、魔族のくせに魔族であることを怠ける因果の穀潰しだからである。


 魔族は本来、人類の命と因果を脅かす悪魔の化身として悪虐非道の限りを尽くし世に跋扈ばっこせねばならない。朝に夕に人類を苛め抜いて人類社会に危機感を募らせ、「魔族を討たねば」と奮い立つ人の子の出現する機会を作らねばならない。

 そうして人類に”善”を尊ぶ”正義”が育ち、”悪”である魔族を討伐して人類社会の因果は消化され、ようやく次の次元へと進化してゆく。━━━━━或いは、少なくとも”世界”の因果を維持してゆく。

 世界がそうある為に、魔界と魔族はその存在の在り方の正当性を裏宇宙の界界界の”全てと全てと全ての神”により担保されているのだ。

 そうして勇者に討ち倒される事は魔族にとって、この上ない名誉であるはずで━━━━━




『さんそうろうや』




 ━━━そのはずであると、天魔は頷くだろう。

 それも出来ない愚図の為にと、星土クーロン大半島の上に都市神アウズを据え奉ったはずで。

 人類種として因果を醸す働きもできず魔族へ堕ちたくせに魔族らしく人類に仇なす活躍をするのも面倒臭がりアウズでのうのうと暮らす”ろくでなし”には、喰わせる因果はありませんよという訳だ。魔界界隈からも弾かれたダメ魔族の吹き溜りがアウズなのだろう。

 ましてアウズの因果値から独自に魔石を密造して横領などと、親神たる魔神や天魔が許すはずもない。


 アウズの魔族と魔界眷族達のやるせなさは、誰にも理解されない。

「人草」と、人外の存在達から揶揄される人類達が思うさま魂を搾取される裏では、魔界と魔族達も天魔からべらぼうに成果を搾取されているということを━━━━━。


 とはいえ魔族達にとって「今さえ良ければそれで良し」というのも本音であるのは、古の魔神ゼルゼルゼリの遺訓の示すところと違わない。


 ” 魔族たるもの、後先考えず好きにせむとす

 魔が差すは今が良き魔兆まちょうなりきとて

 一魔我魔々(いちまわがまま)足るべし

 努努ゆめゆめ、奮起、真面目ならざるべくなり━━━━━ゼルゼルゼリ十戒 ”


 都市街郭の運営は魔族達の生業である。

 アウズで人類をたぶらかしていれば魔力の食いっぱぐれは無い。いつまでだって現世にだらだら存在できる。

 どこかの悪魔のように異世界の田舎の闇夜の寒空の下で蝋燭を持たない旅人に魔寄せの蝋燭を気さくに配って歩くヤンガン・デビルなどに成り下がる必要はないのだ。


 ここは魔都アウズ。

 人草達に夢を魅せる奇望魔法の敷かれた港湾都市茫楼街アウズ街郭群は年中無休の終日営業、永年開店大解放の絶賛運営中。無限残業の休暇休日一切無しの天魔界の下請け魔界産業。

 茫楼街拡張事業のために、多額にまとまった因果投資━━━この都市街塊群全域に住う人草達の因果の値がもっともっと必要だ。


 都市魔法を担う魔族と魔物が都民を誑かし、時には海外へ出て移民を仕入れなければならないだろう。

 都市街郭の建築魔法を担う魔界眷族・悪魔が監督して、時には手ずから魔力で魔都をどんどん拡張施行しなければならないだろう。

 因果を壊した魔石を流して人類社会の因果の縁組を乱せば地表に天魔の足場を築けて裏宇宙の構図を変えれるかもしれないだろう。


 それらに滞りがあってはならないのだ。

 それらが粗雑であってはならないのだ。

 決して停滞、中断、停止は許されないのだ。


 都市街郭群はめちゃくちゃごちゃごちゃゴテゴテ継ぎ接ぎに固めて積み上げている荒らかな建築の塊にしか見えないが、そうではない。

 魔都は魔法都市、魔法を使うための都市である。 

 街の建築それ自体が織りなす符号である。

 莫大な、途方もない魔法の、複雑怪奇な術式なのだ。

 魔の上に立つ天魔の祈る、神々のための魔法の━━━━━




『さんそうろうや。しかるはずにて』




 ━━━━━そのはずである、と。

 天魔界のごとが浮世の生命に聞こえるはずもないが、その宣命は降されようとしている。


 この時、幾千年幾万年変わらずきているこの街に異変が起きていた。

 港湾都市茫楼街アウズの人口は増えず、かといって減りもしないが━━━━━しかし、人ならざる魔族達の数は激減している。

 そればかりか、━━━━━




『符号施術の誤り、止みたるは…』




 ━━━━━都市街郭の拡張が、停滞しているのである。アウズ東端の一つの局所で急激に都市街郭拡張が成される一方で他区画において造成が止まってしまっている。

 天魔界の懸念は都市街郭を監督・施工する魔界眷族達も同じであったが、しかし街郭拡張に充てる工数はどの区画でも割り振りが出来ない状況だった。

 魔従3位魔少納言ヒュローキ魔公爵・東アウズ街郭筆頭株主・東アウズ府知事東アウズ群港湾組会長が占めていた港湾利権の後釜をめぐって、周辺の魔貴族達の抗争が勃発しているのだ。

 魔領区画の一角が唐突に大きく欠けた波紋は瞬く間にアウズ街塊半島全区画に伝播している。

 今こそは隣の街区担当の魔族を殺して自分の魔領を広げて因果を奪ってしまおうという、魔族達にとってシノギを削る魔界間抗争の機運だったのだろう。


 そう、先の説をひるがえすようだが、現状に満足できないのもまた魔族の性分。

 彼らの原典”ゼルゼルゼリ十戒”はこうも記す━━━━━


 ” 魔族、ぬるま湯にとろけるなかれ

 立って行くべし

 ただ立って行くべし

 急に理由わけもなく輝き、ただ立って行くべし

 わるままに━━━━━ゼルゼルゼリ十戒 ”


 隣の人類牧場がイイ感じに見えたら立ち上がってしまうのが、アウズ魔族の常であり━━━━━




『そは、由々(ゆゆ)しき事なり』




 ━━━━━もっともな所でもあるだろう。

 天魔界も裏宇宙で手をこまねいてばかりはいられない。

 現状、この魔都運営事業を普請する魔族達を御するはずの、魔界眷族達で構成するアウズ魔族振興会までもが相争い、麾下きかの権力統制を取れていないのだから。


 しかし、こうも破綻すればこそ、”高き所”から降らざるを得ないというもの━━━━━




『━━━クマラ』

にえと”器”は紡がれている』

『すわ、そは堕ちむ』

『天魔1柱眷属神眷族となりて━━━━━』


『……』



 ━━━━━だから、そう天啓は下天の調べを下知したのだ。

 現世に干渉する神々は、その領界を擦り減らすわけにはいかないだろう。

 アウズ半島茫楼街の持ち主、その祀る神が祀る先の神が天降あまくだす天魔━━━━━その神が身を分けて降ろす祠廟みたまやの依代に、堕天して血肉となっても。




「ギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━!!!!」


「「「「━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━!!」」」」




 首を垂れていた神官達の耳を裂くような絶叫が打ち付けた。

 だんに横たえられた女身が瞼を開くなり放った叫び、現世に堕とされた痛みが鳴り上げる叫声━━━━━これは、同時に絶命を意味する断末魔でもある。


 祭壇を埋めて覆うほど飾り立てられた捧げ物のお花やお菓子の下で息絶えた女身。その周りに侍る者達は全員、耳から血を吹いて伏している。

 静まり返る廟舎びょうしゃに生きて女を看取る者はいなかった。冷えた空間に吐く息の白さが見られないのは、全員が息を引き取っていることを表しているだろう。

 もっとも、ここには吸って吐くほどの大気などありはしないのだが。


 天井のポッカリあいた神殿の上には、青黒い虚空のみが見えている。




『━━━━━』




 その天を見上げる存在がここに立って居ることを映す光は廟舎のどこにも無い。建物の床も壁も、空間もまたその存在に作用することはないのだ。

 女身を喰って降り立った者は次元の狭間に立つ、生命いのち無き眷属━━━天魔1柱で在る。


 降り立った天魔は尚も蒼い虚空を見上げて動かずにいるが、誰にも見られていないのだから、それをはばることなどなかっただろう。堕天の余韻は、もう還れないかも知れない界界へ縋るようにさせるのも無理もなかった。

 ついさっきまで居た天魔界が、天魔1柱を送り出した同胞達の声が━━━━━もう、曖昧な記憶になっている。

 現世に降ることの制約は厳格なものだと天魔はやや気が急いて、雲海と真空の間にそびえる街郭の頂から下界を覗き込むと消え去った。


 灰の積もっただけになっている際室から見えない存在が発つと、簡素なだけの天魔の廟舎に暖かな日差しが降りてくる。


 蒼い虚空の頂点、━━━そこに現れた眩い太陽が満ち欠けする様は、あたかも目蓋が開くかのようで。


 その瞳を隠していた第2の月が遠のくと、涙が零れるように細やかな雨が街郭を濡らした。









 ▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽









 撃々(げきげき)たる光の放射が命を求めて伸びたのは一瞬のことである。

 糧とする命を穿うがたれた都市街郭の拡張は静まり、既に人々の因果は途絶している。


 ”死の光”に喰らわれた命の灰は街郭の連なる楼閣を保てず、道はえぐれ、壁は削れ、柱は崩れ、塔は倒れ、高々と積み上げられていた街は形を為せずに崩壊してめちゃくちゃに混ぜ重なってゆく。


 いま爆発的拡張を見せた街郭がボロ崩れの瓦礫になる様は悪夢の降臨のようで、その悪い夢に、命という命の死に絶えて因果の抜け殻になったそこに、もう営まれる歪な人生は無いだろう。




「終わりじゃ」




 何万人━━━いったいどれだけの人数の命を今の一瞬で撃ち殺したのか、激光を放ったブンヤはふらついて足場の橋脚が崩れると共に遥かに落ちてゆく。

 雪崩のように崩れる街塊と共に落ちる先にも瓦礫の山がある。

 そこに自分は叩きつけられて、その上にまた瓦礫が積もり、この滅んだ街塊の地下深くで身動きが取れなくなって死ぬのだろう━━━━━今日という日が過ぎるその時に。それで終わりだという言葉がそのまま漏れて出た。


 いかに無敵であろうと、いかに最強であろうと、不死身であろうとも命の働きを止められれば死を待つのみである。

 命とは本来、働き、動くものなのだ。

 その命の動きの微大に関わらず、身も心も絶えず自他と摩擦、振動して、なんであれ反発を産み、そこに”在ろう”とする力の輝きが命ではないか。動けなくなるという単純な事象に死を予感するのは、命を鎧う肉身の本能として自然なことかもしれない。

 或いは、それは自ら死を決定するということになるのか。




「━━━━━━━━━━━……」




 音も色も光も見えず、ブンヤは指一本動かない自分に気がついた。

 落ちた衝突の瞬間までは覚えているが意識が途切れたらしく、今は計り知れない質量の重みが静かに身に迫るのを感じている。この上下もわからない闇と圧力の中は、茫楼街アウズの途方もない瓦礫に埋もれた状態でいるのだろう。


 ブンヤの体は潰れても相変わらず不死身で痛みもなく意識もはっきりしていた。

 普段は煙草を吸う以外で呼吸というものを怠けているこの男は初めて息苦しいという感情を得たが、もう肺の伸縮する隙間すら身の回りには無いようだ。

 埋もれた中からは分からない事だが、倒壊した街郭の上に延々と積もる瓦礫は尚もかさを増して下層を圧縮してゆく━━━━━。




『それは勘違いだよブンヤ』




 意思の呼ぶ声がすると、瓦礫で埋め尽くされた闇に眷属達の姿が見えた。

 どういう事なのか分からないが、やはり眷属というのは異常な存在らしくて普段通りにブンヤを取り巻いてそこに在るのだ。




『君の呼吸はもうずっとずっと大昔に止めてあるんだよ』

『気づいてなかったんですかぁ〜?』

『魔族みたいだよね……』

『煙草吸う時しか呼吸しないからこの人』



貴様きさんら……)



『今日はまだ終りじゃないって言っただろう』



「………?……━━━━━━━━━━━」




 こんな状態で今から何処かへ命を殺しに行けるのかと思いつつ、今会話に出て思い出した煙草を今すぐ吸いたいと、ブンヤがそう思った時のことであった。

 自分の身体が分からなくなっている。

 というよりも、どこからどこまでが自分自身なのかという肉体の不定形さが広がってゆくのを感じて自分自身のことが分からなくなってゆく奇妙な感覚が起きている。




(儂ぁ……どうなっとるんじゃ。溶けよるんか━━━━━)




 どういう訳かわからないが、今なら自分自身がどこへでも散って行く事が出来そうに思えるくらいの危うさを感じるのだ。




『どっちへ行く?』

『上か、下か……』



(━━━上じゃ)




 行先に殺すべき命があるとは特に根拠があったわけではない。眷属達から意思で示されて感で動くと、ブンヤは黒い水になって瓦礫に染み込み、隙間という隙間へ入り込んで「上」へと登ってゆく。

 自身の全身がその浸行しんこうに漏れ無くついてくるかと不安になりながら、黒い瓦礫に満ちた世界でひたすら眷属の先導する姿を追ってゆくと、その途中の所々でぼんやりした明かりを何度も通り過ぎた。

 それは魔石の明かりで、この街郭の命になった因果の残滓だろう。


 怒り━━━━━

 喜び━━━━━

 悲しみ━━━━━


 人々が得るはずだった人生の因果は周囲の瓦礫を被曝させている。それが今のブンヤには染み入るように伝わってきて足早に避けて登った。

 そうしてブンヤが撃ち殺しても間に合わずに魔石になってしまった者達の結晶を見届けながら、ブンヤはいつの間にか自身の身に触れる空気の感触で揺れていた。

 どこか開けた場所の瓦礫の上で自分は溜まっているらしく、巨大な空間の大気が全身に触れてくるのを感じて身震いすると立ち上がり、すると、もういつものブンヤの姿に戻っている。




「━━━━━…………」




 両掌を握ったり開いたりして今の自分の姿を確かめ、さっきまでの自分が水のような姿でいた不安な気分を思い出すとブンヤは首を振って忘れた。

 さっき魔界でも感じた類の感情だが、”不安”などという、普段にない精神の陰りにブンヤは妙な懐かしさがあって嫌いなのだ。それがどれほど古い記憶から滲む感情なのかは分からないが知りたくもない。

 自分が他と混ざりそうになるような術は二度と御免だと、胸が悪くなるのを毟り取るようにして懐の煙草を弄り一本取り出した。



 ━━━━━煙を吸って吐き、気分良く目を細めると、辺りは薄く穏やかにかすみがかった白っぽい景色である。

 溜まったように漂うもやは都市街郭の崩壊で舞い上がった塵芥の残りだろうか、空間は大きく開けているのは分かるが遠くは見通せない。ただあちこちに仄かな明かりが多くて、それらが魔石によるものか、都市魔法の光の魔物によるものかは分からないが暗くはなかった。

 楼閣の全てが倒壊して遮るものがなくなっているが、足場は瓦礫の山の緩急に富み過ぎる景観で非常に歩きにくそうである。


 その風景の中の方々で尖った先端に、瓦礫から突き出る突端がある。形は様々だが長く連なっていたり、やや独立して尖っていたりする。

 そうして眺めている自分の立っている場所もそういう場所の頂なのだ。

 さっき出会って別れた勇者ルウマではないが、これは街郭なのか何なのかとブンヤは少し気にしてみる気になって足元を触ってみると、今までにない感触であった。

 永年このアウズを歩いてきたブンヤには分かる。手の皮膚から伝わる質感、ざらつきや冷えた湿り気、水の匂いや━━━━━もっと細やかな、非常に多い成分を感じ取れる。




(都市街郭の構造体とは違うとる)




 アウズとは違うものがそこに在る。

 都市街郭とは違う、別の未知なる構造物の巨大な物がアウズの瓦礫の中に連なっているということか━━━━━


 いぶしく眉根を寄せた顔を上げると、ブンヤはその奇景をもう一度眺望しようとして、近くの瓦礫の影から踏み出して立つ人影に気がついた。




(死霊━━━)




 そういえば、今殺した膨大な命からまだ死霊の立つのを見ていなかった。

 そう思って人影の顔を見ていると、その者は身を縮めながらブンヤに向けて歩いてくるのである。

 足取りのおぼつかないその姿は死霊ではなかった。小柄な少女だ。


 生きている人間。あり得ないことに━━━しかし、そう思うと同時にブンヤは手印で狙いをつけている。




「私を外へ、……連れて出してください」



「━━━━━……?」




 少女が掠れた声で言う意味がブンヤは分からず、ただその顔を凝視した。

 死神の手印に迫るその顔をブンヤは見たことがある━━━━━港湾街へ至る直前━━━━━隧道で見かけた少年少女の片割れの娘ではないか。




「お、お願いします。死神様……アウズの外へ、どこへでもいいんです。外国へ……」



「━━━アウズから出たいじゃとッ!?」




 そんなことを言う人間を初めて見た。ブンヤはつい大きな声が出たが、少女がボロボロの服で泥まみれの顔を手で拭って見せる目の光には確かな意思がある。




「ダメなら、……こ、殺したければ、どうぞ。……あの人を、ヨーキを殺したみたいにするなら」



「……!━━━━━」




 少女の震え声でブンヤは手印の不発に気づいたが、しかし腕を下ろせなかった。

 撃てもしない手印を突きつけているのはブンヤも自分で意味が分からない。眷属が殺劾を許可しないならブンヤも命を殺す理由はないのだ。

 ブンヤが人の命を見逃す場合、今までその対象は外国人であった場合が全てであったと思う。それを眷属達が判断したのだろうが、しかし、それだけが命を殺さない理由なのかというとそうではないだろう。

 殺す意味の無い命だから殺さないのだ。この都市街郭で夢と希望を魅せる都市魔法にかかり因果を喰われた命でない限り、黒龍が喰らう理由にはならない。或いは因果の穢れた魔族でない限りは━━━━━


 この少女を何者なのかと思った時に、手印に点々と当たるものがあって、やがてそれが2人を細やかに打ちつけ始めた。

 あり得ないことに雨が降っている。空ものぞめない街郭で雨が降ることなど絶対に起こるはずが無いというのに。


 そこから天を見上げても、なにも見えない。


 雨の打ち付ける瓦礫の風景は一変している。

 靄を薄く灯す幽玄な色明かりが世界を斑らにさせている。


 それは死霊の群れが満ちて現す風景なのだと気づいた時にはブンヤは霊気の波間に立っている。

 消え去った街郭の往時のそこに在ったように、無数の亡者が仮初かりそめの賑わいをみせてひしめき合い━━━━━




「『セッタ・ブンヤは私を連れてゆく。アウズの外へ。海の向こうへ』」



「━━━ッ愚……餓鬼……!!」




 二重に掠れた声がした方へ、少女の姿へ視線を戻したブンヤは脳裏を焼く意思が刻む苦痛に顔を歪めて喘いだ。

 顔が割れるように痛む自我の屈服は、”その通りに動かねばならない”と逃げ道を示している。抗いようのない手足の動きを捻じ伏せる意思に任せると、それが和らぐのだ。楽になる方へと━━━━━この少女を外国へ連れ出すのだ、という考えが精神と思考を一つに纏めようとしている。

 場を満たす死霊の大群は大気をきしませてブンヤに殺到すると縋るように重なり一つになってゆく。表情のない魂達の何がそうさせるのか、ずぶ濡れの少女の金眼に映るブンヤは死霊の大群を一身に被曝して歩き出していた。

 ひしめく因果の群れが、一つの因果を歩かせてゆく。




「『今すぐお前は歩く。お前はこの近くの海に舟を見つける。移民どもの船でいい。すぐに私を船に乗せて、そのまま外国へ行く』」



「━━━━━━━━━━━」




 少女の言う通り、この瓦礫に埋まる風景のすぐ近くから長大な瓦礫の斜面になっていて、その遥かに下は港湾があった入江の海がそのままになっている。街郭の変貌は海までを侵さないのだ。船も残っていて、それら全てはブンヤの千里眼から視認が出来た。そこから先の海路、━━海外への近海を漂う軍艦の群れまでも見えて、それらがまるで入江から外洋へ一艘も出すまいと海上封鎖の形をとっているという事も。




「『私を追い縋る魔族と魔物を、お前は撃ち殺す━━━━━』」



「いいじゃろう。ついて来い」




 行動を示す意思が膨大に心を締めてゆく。己のものでない心が己を侵食する不快から逃れる快楽を抗えない。ブンヤは上書きされる因果の通りに足を踏み出して丘を降ってゆく。

 少女はついて歩くだけでよかった。この街郭の滅んだところに突き出た奇妙な地盤から百歩も歩けば瓦礫に至り、そこからさらに降れば急斜面をどうにか降りて船に乗るだけで彼女の望みは叶うだろう。


 その10歩も歩かぬうちのこと、一瞬の瞬きもない金眼がブンヤの挙動を常に見ていると、そのだらりと下げた両腕に黒龍の絡みつきが見えて少女は思わず息を呑んだ。あまりにも忽然とした死の予感に、

 ━━━━━セッタ・ブンヤは私を撃たない━━━━━

 そう新たな心命を下そうとした時、少女は足元に蔓延る無数の奇妙な感触━━━━━それらが一斉に喚いてコロコロと鳴らす騒めきの音を、もう防ぐ手立ては無かったのだ。




『ケロケロ、ってね』

『多勢に無勢さ』

『黒龍は脅しが効くなぁ』




 緑の小さな蛙の群れから三匹が呟くのが、白目を向いている少女に聞こえたかどうか。




「ギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」



『天魔の絶叫もここでは通用しない』

『無知な少女を媒体に選んだのは、天魔らしい失敗かもね』

『いやぁ、この剥き出しの地盤がクーロンの大地と知る者なんて、今の現世にそうそう居ないよ』




 蛙の鳴き声が世界を満たすと、色めく靄は白っぽく戻り元の風景に鎮まってゆく。

 ブンヤはいつの間にか馴染みの眷族達に囲まれて立ち止まっていた。




『”あの世”をしのぶ音霊へ、どうぞお乗りなさい』

『土地神クーロンからの餞別だよ』



「む!?……こんなぁ……━━━━オロロロォッ!」




 我に返ったブンヤは身の内側から離れてゆく膨大な死霊の感触が気持ち悪くて嘔吐とともに即倒してしまった。

 その薄れゆく意識の中で、真横に昏倒する少女の顔をブンヤは見ていた。記憶の向こうの誰かに、似ていると思った。


 天魔の気配の霧散に気付いた眷族達は、蛙達と歌い始めて暇を持て余している。

 倒れ伏す2人が起きるまで、やることがないのかもしれない。









 ▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽









『お前は女に出会う。女と共に、クーロンの街へ向かう』




 ━━━━━空……?




 見上げたが、空など見えるはずがないだろう。

 分かっていることだが、この途方もなく巨大な街塊であるアウズ都市街郭にいて空を見上げるなんて事は、よほど街外れの辺境にたどり着かない限り無い。ブンヤはもう永らく空など見上げておらず空の色を忘れているくらいなのに、今こうして暗い天幕を見上げているのはおかしかった。


 だが、もし見えたとしたら━━━と考えたとすると、これは夜空というやつだろうか。

 と言うには、それには何かが足りない気がして、ブンヤは目を凝らすうちに奇妙な変化を目にしている。

 暗くて遠い感じのするそこに輝く粒があるように見えるのだ。

 光の粒は見れば見るほどに暗い天幕に散らばって広がりを見せる。


 瞬き、小さく光る粒。

 色めき、大きく光る粒。

 集まって強く輝く粒━━━━━




(星空っちゅうやつか)




 いつか何処かで見た光景は、しかし妙な光で、手を伸ばせば届くように思えるほどに近い。

 それがつい腕を上げさせて、光の粒の集まる一所を掴むと、一握いちあくの星屑を手の内に感じてブンヤは眉根を寄せた。


 変なものを取ってしまったが何であろう。


 見るしかないのだ。


 それを見ようとして━━━━━開こうとする、その手をつかむ手がある。


 細い指の、白くて薄い手。




「━━━━━人の希望を食べちゃダメ」




 急に上から叱りつける声がして見上げると、女が立っている。




(女━━━━━)




 この女は小さく幼いブンヤの拾い食いを注意したのだ。この女は、いつもそうだった。

 女が歩き出すと小さいブンヤもついて歩いた。


 煙草の匂いがする女だった。

 浮浪児を纏めて茫楼街を徘徊する組織の女で、いつも煙草をふかしている女だった。

 魔都の呪縛から逃れ、魔族の襲撃と光の魔物の誘惑から浮浪児達を連れて逃がれ、何処かへと向かって逃れ歩いていた。


 この都市で産まれた子供を親である都民は育てず、魔都に魅せられる自身の夢と希望に見る子供を育てるのみである。実際に産まれた子供は放棄されてしまう。そういう子供が大勢いて、それらは魔族の獲物だった。

 幼児だったブンヤは同様な幼児達と彷徨っていたところをその女に保護されていたのだ。


 それが、ある時、たくさんいた浮浪児達は魔族共に連れ去られて居なくなった。

 一番小さくてガリガリに痩せこけたブンヤはその女の小脇に抱えられて逃げ延びた。


「ブンヤは喋らないのね。……でも、ちょっと、一回だけ、クマラお姉さんって言ってみない?……━━━━━耳、聞こえてる?……おーい……」


 女はブンヤに絶えず笑顔を向けた。

 常に横で煙草を吸い、寝食を共にし、常に身に寄せて抱いた。


 女はブンヤに全てを語った。

 自分は海外からきた冒険者なのだと女は言い、土地神の系譜の原住民を助けるのだと。


「ブンヤは魔族を退治するんだよ。大きくなって、強くなって、クーロンの大地をきっと取り戻すよ」


「だから、自分の希望を持って。本物の希望を!」


「人の希望を食べちゃダメ〜」


 と、女は何度も同じことをブンヤの耳目に訴えかけた。

 小さいブンヤは意味がわからなかった。魔都の人々が都市魔法の光の中で見る希望と夢のおこぼれを喰って生気を得てきた幼子に自分の望みなど思うべくもなかった。


 その頃まだアウズには、原住民達の街区が少し残っていて、魔都の移民や魔族達から辛うじて土地を奪われずに生きて居た。

 魔都の街郭とは景観の違うクーロンの街並みをブンヤは覚えている。

 不揃いな石畳の坂道を行き交う人馬や車、街に立つ道祖神の石柱、小さな神殿、街中にあって剥き出しの大地に田畑があり、その傍には林に囲まれた川が流れ、橋のかかる長大な市壁や砦に市場があって、開けた細長い土地━━━滑走路には飛行船があった。そこから見下ろす低い土地には内海を囲う広大な石垣が、港があって、たくさんの船の出入りがあって━━━━━はるかに遠くまで海の水が溜まっている、その先の並行に伸びる空と海の境界線が見えていて━━━━━記憶の中を探れば、そこを歩くようにして思い出せた。


「ごらんブンヤ。これ、ぜ〜んぶ外国の船だよ。クーロンの里は海外のいろんな国から支援を受けているの。だから、クーロン族は滅んだりしない!」


「君を海外へは出せないんだ。ごめんね。この町には大半島の国土神クーロン1柱の社稷しゃしょくがあるの。……ここが最後の神殿かもしれない。ブンヤはここで皆んなと頑張って、言葉を覚えて、笑顔を覚えて、本物の希望を持って……成長してね!」


 幼いブンヤは背の高い女に連れられて街郭を歩き抜いた末に、そうして素朴な町のギルドへ預けられたのだ。

 そこは少年ブンヤが浮浪児達と歩き回っていた巨大な街郭とは全く趣の違う人里であったが、海外資本の冒険者ギルドはこの半島の一隅を都市神アウズ1柱を奉じる眷属麾下の魔族の侵略から守る防衛拠点に近い市街としていて賑わっていた。

 外国から冒険者達を盛んに呼び込んでいたらしく、その人々も都市街郭の人々とは衣服も顔立ちも立ち振る舞いも全く違っていて、都市では少年ブンヤは人々から一切話しかけられなかったがここでは常に誰かがブンヤを心配する声をかけた。


 だが預けられたその場から女を見かけなくなってしまい、少年ブンヤはその女の姿を探してキョロキョロしてばかりいたものだ。

 驚いていたのである。

 一言も話さず表情も無く生きてきた少年にとって、自分で自分を信じられなかった。その女が居なくなることで波立つような感情が自分の中にある事は、常に感情を揺すられる不安でしかなかった。

 少年ブンヤが何を考えているのか、ギルドの者達は「まだ小さい子だ。人見知りで不安なのか、慣れたクマラが恋しいのだろう」くらいのことしか言わなかったが、少年ブンヤは子供心に女を思う自分の感情に動揺していたのだ。


 ただ、ここは冒険者が集ってこの半島の依頼案件をこなす冒険者ギルドなのである。保護した浮浪児を可哀想と見る眼差しばかりではない。

 命を賭してギラついている冒険者達からは、少年ブンヤも”そういう目”で見られる事になるのが自然な流れ━━━━━魔族達との戦い、その土地の奪還のための役に立つ人材に成り得る少年なのか、と命を値踏みする観察眼に晒されることとなった。


 どうしてもそう見ざるを得ないのだろう。

 この大半島が港湾都市茫楼街━━━”アウズ”という都市神に大きく領土を切り取られて都市街郭化されてしまっている最中、その都市の魔法や光の魔物に自ら抗える逸材でなければ死んでしまう。軍魔との戦いに使える者はなんだって使わねば全員死んでしまうのだ。


 この殺し合いの世界を生きる冒険者や戦う者達、それに広く一般市民の間にまで古くから言い伝えられている格言がある。


 ”魔法を使う子供を侮ってはならない”


 この世界では魔法使いこそが戦闘における屈強な戦士。7つに満たない童子であっても”魔法を自由に使えれば”一瞬で魔物や魔族を殺す。人類種との戦いでも、魔法使いは別格に強い。歴戦の騎士でも子供の使う初見の魔法1発で即死する場合すらある。


 というのが人々の社会常識の一つと言えるほどに知られているものの、実際には満足に魔法を使う子供など人生で目にする者は少ない。それは、幼くして強力な魔法を扱うと加減できずに己の身を焼いてしまうなど自滅することが多く、大人になる前に死んでしまう子供がほとんどだからなのだ。

 それ以前の問題もあって、魔法を戦闘という殺し合いに用いるほど満足に使いこなせる職業戦闘魔法使いというのは、大人でも少ないくらいなのである。だというのに幼いうちから人や魔物を殺せるほどの攻撃的魔法を巧みに使う少年少女など中々おらず、もし居ればあまりにも希少な━━━━━。

 という興味もあるが故に、戦う者達の観察眼はその一点にまず絞られた。魔都を抜けて無事にクーロンの街へ辿り着いた強運あるこの男児であれば、何か際立つ魔法を使えるのではないかと。


 その雰囲気ある虚げな少年ブンヤは冒険者達の期待を一身に集めてしまっていたのだ。

 何かがありそうな少年なのである。何しろ、この大半島生まれの子供、━━━━━産土の土地神クーロン1柱による因果干渉が無いはずがないではないか。


 入居したその日の晩には童子の力を試そうとして冒険者達は謀り、7歳に満たないであろう少年ブンヤをサキュバス討伐に試用すると決めたのである。

 サキュバスはアウズ都市街郭からクーロン街へ流れてきた魔族だったが、人間の姿を装って紛れ込んできたためクーロン民兵達の対応が後手になり、これまでに30人もの民間人や冒険者が淫魔の誘惑で精気を煽られ全身を精液に変換されて死んでしまっている。

 早急に始末する必要があったのだが、今この町に居る人材ではサキュバスの淫魔に対応できる僧兵などがおらず、冒険者ギルド経営者達は知恵と犠牲を払いつつもどうにかギルド内の神聖な祀室にサキュバスを押し込めて封印していた。それでも放置してはおけず、討つには精通していない子供に頼るしか手立てがなかったのだ。淫魔の魔力にかかり難そうな幼い少年であれば、サキュバスを討伐するのは度胸と魔法があれば難しくないだろう。


 それにしても失敗すれば少年ブンヤは精液になりサキュバスに喰われて死んでしまうという局面だったのだが、これに反対する者が一人も無かったのはどいうわけか。

 依頼を受ける当人に知らせずギルド運営が配するこの裏依頼の討伐案件は、折りよく冒険者クマラが連れ来たった都市街郭民の少年ブンヤをギルドにクマラが推薦・代理登録する形で内密に受理されたからだった。最初から決まっていた事なのだ。浮浪児の少年をこのギルドへ収容するところからが、冒険者クマラに依頼されていた案件で━━━━━故に、裏依頼なのである。


 冒険者ギルド・バガヴォンド・クーロン支部の経営陣があらかじめ用意していた差配に否を唱える冒険者達などいるはずもなかったのだ。

 何も知らない少年ブンヤは「祭祀室でクマラが待っているから行っておいで。お別れの挨拶に、土地神へのお祈りを一緒にしたいそうだ」という言葉を素直に受けて、単身、扉を開いて入っていった。


 手ぶらである。討伐に必要なはずの武器を何も持たされなかったのは、少年ブンヤに妙な勘ぐりをされては困るということもあるが、題目である魔力の有無を確かめるには手ぶらで行かせて危機に晒すのが良かったからだろう。


 そのブンヤは、八重に囲われた廟所祀室の八つの壁の八つの扉を開いて潜り、最後の扉を開いてガッカリした。そこにクマラはおらず、誰もいなかった。それはその部屋を一眼見て誰にでもそうと分かるほどに備品一つ何もない空間で、壁も床も天井も真っ白く全く装飾もない八面体の内部だった。祭壇すら無くて人が隠れるような隙間もない。何もないという事だけを見に来たようなものである。


 だが、このポッカリ会いた空間の虚無はどうであろう。不思議に静謐で、清らかに思われて、━━━━━この清らかというのが、初めての感覚が、少年ブンヤをすぐに踵を返す気持ちにさせずに佇ませた。


 その静謐が、自分の希望を持って━━━と、少年の心に鎮められた言葉を思っても良いような気にさせる場所だったのだろう、表情のない少年は自分の微笑みに気付いていない。

 あの女が絶えず向けてきた微笑みを思い出して、自分も微笑んでいるのだということに。


 だが、その望みは目の前に光を呼ぶ


 その光は望みの影を成す


 自分を慕った女の姿を━━━━━


 光の魔物はそうして夢を魅せる。

 目の前に現れた女は少年を掻き抱いて、その顔が、体が紛れもなくクマラでブンヤは息を呑んだ。


 自分の望みを魔物に知られたことは、その命を喰らう舌で背中をべっとりと舐められたようで。


 恐怖が、少年の手つきに自分でも意味がわからない仕草をさせていた。咄嗟に女の顳顬こめかみに手を当てたのが何故だったのか、━━━その手指が奇妙な形を━━━黒い色形に変化し”銃”になるという閃きがどうして想像できたのだろう。撃鉄を引いて銃弾を放つなどと少年は試したことがなかったというのに。


 一瞬の光陰の後━━━━━━━━━━━岩が落ちる様な重たい音を立てて女の頭が床に落ち、赤黒い血液が丸く大きく広がってゆく。


 クマラという人間の女の姿で横たわる魔物がそのままでいて、塵に変わる変化がなかった。

 少年ブンヤは呆然と立っていたが、いつしか足が震えていて、顎まで寒気が登ってきている。

 血の海に沈む裸の女は自分を慕ってくれた人なのだと気づいて。




『お前は魔族を光の魔物と見誤り、女を━━━クマラを殺す』



「━━━━━?━━━━━」




 クマラを殺すと言うクマラの声が聞こえる。

 それは今聞いた言葉だろうか。


 黒い銃身が右手に━━━ブンヤを掻き抱く女の顳顬にあててある。いま引いた引き金が━━━━━




(その引き金を引くな!!!!)




 今起きた光景を止めることはできない。

 一瞬の光陰の後━━━━━━━━━━━岩が落ちる様な重たい音を立ててクマラの頭が床に落ち、赤黒い血液が丸く大きく広がってゆく。


 声は、血の海に灰が積もったものの向こうから聞こえている。


 ━━━そこには死体があるはずではなかったか。




『お前は灰の中から結晶を取りあげる』




 真っ白な灰の中で淡やかに燐光を纏う石を見つけた。それを取り上げ━━━━━




『お前は石を、女を喰らう。その因果を━━━人魔を問わず99,999,999の命を殺す。最後の日に天魔に会い、喰われるだろう。冥府の坐籍はお前を死神に遣わすだろう。罰である。恩寵である。前世の、前世の、前世の、天魔に寇為あだなし報いた善なる罪により━━━━━』




 掌に収まる石を噛めば歯が砕けて飛んだ。飛び散る間に歯が生えて石を噛み、口の中がパチパチ弾けて火花が飛んだ。


 噛んで割って、火花を飛ばして


 噛んで割って、火花を飛ばして


 目の前が真っ黒になっても火花が視界を灯していった


 少年ブンヤは夜空を見たことがあっただろうか。

 見たこともない夜空というものに散らばる星々という光の粒が見える。

 血と灰の上に立つ、黒黒と燃え上がり光を統べる、天の闇が━━━━━━━━━━━

 








 ▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽









 ぐったりとした重みを感じる。



 ぼやけた何かが見える。



 ”在る”ということの光と苦しみは、誰のものか。







 ブンヤはうつぶせでいる自分に気がついて身をもたげると、薄暗く溜まった空気の中に在った。

 手足をついたところの感触はヒヤリとして湿っぽくザラついている。

 それは剥き出しの大地のものだ。




「━━━━━”クーロン”……」




 そう自分で口に出しておきながら、音の響きにブンヤは眉根を固くしている。

 初めて発声した言葉だが、しかし、懐かしい土地の名を今はもう思い出せている━━━━━ここは昔、遠い昔はクーロンという名の古土ふるつちの陸塊であったことを。

 ブンヤが覚えているのはクーロン大半島の末期の風土であったろう。そのとき既に大半を都市街郭に侵食されていた。


 大地を眺めると、その裾野を降った先は広々とした瓦礫の谷である。

 あちこちに折れた柱や梁の突き出た何の建築の残骸か何かわからないほどの風景の溜まり場だが、ところどころ壊れた街灯が転がっていて廃墟を白っぽく照らしている。


 ここはブンヤが破壊した都市街郭の瓦礫の荒野なのだ。野、というには起伏がありすぎるが。

 その破壊によって街郭構造体に隠されていた地盤が露出したものが、今ブンヤが居る丘であり、周囲の突き出た地形も同様ということだった。

 この大陸の大半島全土を覆う都市街郭から、星の土が大気に直に触れるのは何万年ぶりのことだろう━━━━━




「……?……」




 ふと、大地にうっすらと小さな足跡があって目で追うと、ブンヤの寝ていた横へと伸びている。

 というよりも、裸足らしいその足跡はここから発して瓦礫の向こうの闇へと続くものだろう。




『魂を変える呪いだ』




 立ち上がったブンヤの前に馴染みの眷属1柱が顕れて、広げた銀翼をたたみつつ、緑の眼を足跡に彷徨わせて言った。


 仄暗い響きのある声だが、この眷属が何を言いたいのかはブンヤも分かるつもりだ。

 吐瀉(としゃ)するほどに吐き出したとはいえ魂の因果を書き換えられた違和感の名残はまだ胸を悪くしている。

 死霊を用いて魂に干渉するなどとは魔法や魔術の範疇とも考えられず、尋常の技ではない。うら若いだけの少女に為し得る力ではないだろう。


 銀翼の眷属はブンヤの顔を真っ直ぐ見つめてくる。

 これはこの古馴染みの眷属が、ブンヤと話をしたいときの顔だ。長い付き合いだからそれはすぐに分かって、ブンヤは片足に体重を預けるとだるそうに斜めに立ちタバコに火を点けた。




『三分も経っていない。君は長い夢を見ただろうがね』



「━━━夢とは、ちごうとる」




 煙を吐いたブンヤが応じると、銀翼の眷属は微笑んで頭を振った。違いを解っているならいい、というのだろう。

 というのは見せかけで、ただ三分しか経っていないというだけの事をブンヤに伝えたのかもしれない。

 それだけ話すと歩き出してしまったブンヤに続いて銀翼の眷属は並んで歩いたが、地に足をつけず器用にフワフワ歩く真似をしてついてくるこの眷属が真横にいると馬鹿にされているみたいな気がしてブンヤはことさら無視した。


 ブンヤには、難しい事は分からない。

 この眷属達が、このクーロンという土地の神の眷属であろう事はもう察しがついている。だが、その上に都市街郭を築いた天魔と、その都市街郭で使役される魔族達の間でどういう関係になっているのかなどと、ブンヤにはべつにどうでもいい。

 自分自身の人生の全てが最初から最後まで天魔と鬼導師に上書きされたものだとしても、だから何だ。と思う。

 本当は別の人生があったのかなどとも今更思うはずもない。

 これまでやってきた数万年の殺劾が今の自分を作っている。

 因果を弄られた命を殺して魂にすれば、それでブンヤは気分がいいのだ。




『被曝した都民が尽きなくて、ブンヤはずっと殺してきて、それで気分が良かった』



「じゃが、それを作っとる奴がおる」



『その鬼導師すらも作っているのは天魔だ』



「命の無いものを殺す事はできんのう」



『じゃあ、鬼導師を殺すのかい』



「殺す。殺すが、━━……じゃがのう、あれぁ、容れ物じゃろうのう━━━━」




 瓦礫の崖の淵から突き出す柱に立ったブンヤは長大な崖の斜面の下の、とてつもない深さの底でうずくまる少女の姿が脳裏に浮かぶ千里眼の視野に見えている。

 銀翼の眷属が言うには少女はあのとき、鬼術に失敗して丘の上で昏倒したものの、すぐに立ち上がってフラフラした足取りで立ち去ったらしい。それから少女は瓦礫の斜面で足を滑らせてそのまま崖を滑り落ちていったのだと。眷属たちは蛙の群れと歌いながらその姿を見送っただけだと言う。


 ブンヤに馴染みの眷属たちにとって、ブンヤ以外の人命と因果に興味はない。

 天魔という魔神の依代の器である少女は死霊を使役して魂の因果を改変する鬼導師の血族の末裔であり、いわゆる神子みこという種類の存在なのだが、それはブンヤの眷属である土地神クーロンの眷属神の眷属達としては、他界である都市神アウズと天魔の神界が企画する媒体に干渉しないという事らしかった。




『それでもブンヤがどうするかという事には、僕らは感知しない』



「……」




 ブンヤは黙って崖から飛ぶと、闇を落ちてゆく。吸い込まれるように下へ下へと落ちてゆく時間を長く感じるほど跳躍した頃に斜面に足がつき、跳ねるようにして崖を滑り落ちた。

 飛び散る瓦礫が崖下の少女に当たらぬように気を付けたつもりだが、崖の底に降りてみると少女はもう事切れていた。

 その少女の顔にブンヤを呪う女の面影があるのを視ると、ブンヤはあらぬことを口走っていた。




「━━眷属。こんなぁ、生き返らせえ」





 そんな事ができるのかどうか分からない。周りに眷属の姿があるかどうかも見ていないブンヤは、しかし当たり前のようにそう言葉を吐いて、右手の手印を少女の死体に掲げている。

 天魔に死に逃げなど許さず、黒龍で殺すためである。━━━歪な命の因果は黒龍で喰い殺して魂にするのだ。

 それが鬼導師を殺してどうなるのかを、最後に試みる機会を失う事などあってはならない。




「クーロンのためじゃ」




 柄にもなく嘆くと、銀翼の眷属や猫耳の眷属達が少女の周りに忽然と顕れて、ブンヤを振り返り意味深に微笑んだ。

 肉体の死んだ命を蘇生するという事がどういう事なのかブンヤには分からない。何しろ人を殺してばかり来たというのもあるが、考えた事すら一度も無かった。その考えがなぜ今この時に閃いたのかブンヤは自分でも不思議であった。

 ただ、ブンヤは自分自身の肉体がどう滅んでも再構築される事を繰り返してきて”死”という絶対的な不可逆に対して疎いのである。つい先刻も自分の頭部を眷銃で撃って消し飛ばしたが再生して生きているくらいなので、人の命などはどうにでも作れると考えている節があるかもしれない。


 この世界は魔法でできている。

 この世界は未知でできている。

 この世界は約束でできている。


 何が起きても、それは因果の結び目なのだと。


 しかし人の命は己の命とは別なのだ。

 



『やってみるけど……』

『命を成すかどうかは分からないよぉ』

『僕らはブンヤのために星土の神を━━━土地神クーロンを司る眷属だからね』




 眷属達はそう言うと、ボロボロの姿で横たわる少女を囲んでただ注視した。すると一瞬のうちに少女の欠損した手足や頭が元に戻り、胸が脈打ち弾んで徐々に落ち着き、突然咳き込むように息を吐いたのである。




『血と肉と、その働きを元に戻しただけ』

『魂が依るかどうかは干渉できないんだけど、ふむ』




 ご覧の通りと言わんばかりに眷属達はブンヤを見て少女を手で示したのだった。




「じゃけん、黒龍を出せ」



『それは酷い』

『無理だよぉ』

『ありえなくなぁ〜い?』




 直ちに少女を撃ち殺そうとするブンヤに眷属達は非難轟々である。

 徒手の手印を掲げたままでブンヤは苦々しくタバコを吐き捨てたが、眷属が否定するということは眷銃黒龍は絶対に顕れないということだ。




貴様きさんら……」



『命を生き返らせておいて、それを殺すなんて……』

『自殺みたいなものじゃないか……』

『僕らにそれはご法度なんだよブンヤ』

『ぷんぷん!だぞ!』




 魔族のようなことを━━━とブンヤは思ったが、眷族をなじっても仕方がないだろう。

 殺せない命に構うのが馬鹿らしくなったブンヤはもう少女に用がなくて居心地が悪い。

 息を吹き返した少女が眠ったままでいるのに立ち去るのが惜しい、と思う自分の気持ちが自分を居た堪れなくさせているということに、ブンヤという人格には自分で気がつけるはずもなかった。









 ▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽









 足裏が生温なまぬるい草地を踏んでいる、その感触が初めてなのにがっかりした。


 暗い水辺が前にある。

 よく見えないけれど、静かで小さな波が、悲しく過ぎ去ってゆく。


 水の上を疾った冷たい風が吹いてきて、裸足が寒くて。


 空には黒い雲が、幾重にも、幾重にも黒い雲が。


 光は、遠く、ずっと遠くに、黒い雲の切れ目から降りる淡いの柱が見えている。

 アウズの上から見る暗い黄昏が、ずっと遠くへと離れていくみたいだった。


 きっと、ここはふつうの黄泉路ではないのだろう。




 ごめんなさい


 ごめんなさい


 ごめんなさい




 在ったことは、そのままに在り続ける。

 在ったことを使って使い潰したつもりでも、世界に在った事実は無くならない。

 少女が使った魂の因果は少女と共に在り続けている。

 それは死んでも同じだったのだ。




 ごめんなさい


 ごめんなさい


 ごめんなさい


 ごめんなさい━━━━ごめんなさい━━━━




 姿を見るのも嫌で、目を瞑っても分かる気配があって。



 

 ごめんなさい


 ごめんなさい


 ごめんなさい


 ごめんなさい




 音や匂いが、声や感触が、舌に変な味がして、それが近くに居ると分かって。




 ごめんなさい


 ごめんなさい


 ごめんなさい


 ごめんなさい


 ごめんなさい


 ごめんなさい


 ごめんなさい


 ごめんなさい




 その意識の記憶が分かって、自分がおかされそうになるのが怖くて。




 ごめんなさい


 ごめんなさい


 ごめんなさい


 ごめんなさい



 ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい




「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」




 たくさんの意識を埋め潰すために謝るのが癖になっている。

 死霊達の記憶を、意識を、人生の因果を使い潰したことを無かった事にしたくて。




『そうやって俺のことも使ったのか。クマリ』



「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい━━━━っ」



『クマリ。…やめろ』




 頭を抱え、自分の髪を掻き毟り引き千切る少女の手に冷たい手が触れた。

 少女が声を詰まらせたのは、その声が会いたかった声なのに会いたくない声で、少女は声の主の顔を見ることができなかったからだ。

 このうつむいたままでいる少女をクマリと呼ぶのは、少女が生前の僅かな間だけ親しかった少年のヨーキだけである。




 何も知らないくせに


 私がどんなに苦しいか


 私がどんなに我慢しているか


 何も知らない男のくせに


 私に、好きにさせて、死んでいったくせに




『ああ。それでも俺はクマリを連れ出した』




 ヨーキはどこか外から勝手にやってきて、勝手に少女を見つけて、天魔の天領から少女を、鬼導師の娘を勝手に連れ出した。

 二人は出会ったばかりだった。

 少女とヨーキは魔族と魔物に追われて逃げ回った。都市街郭を30日間も逃げ続けて、あっという間に愛し合った。

 そのままアウズの外の外国にまで行けると思っていた。

 そうはならなかった。




「ヨーキが、私が”そうするように”させたから」




 勝手に、少女がヨーキを使うと分かって、少女がヨーキと居たいと思うと分かっていて、それなのに死んだ。アウズの死神へけしかけられて。

 どうして━━━━━




『何度も言っただろ?クマリに外の世界を知って欲しかったんだ。大陸を一緒に冒険したかったんだよ』



「……何度も、聞いた」



『何度も口説いたからな。一緒にシャエランタッシャーの草原を見に行こうって。野生の馬に乗って遊ぼうって。台地に大きなお城があるから、そこの気さくな王様に滞在許可をもらって、城下町の冒険者ギルドで━━━━』



「何度も聞いた」



『オブリオストラッタの樹海を一緒に歩こうって。漂流ゴブリンの群れを退治して小銭を稼ごうって。ゴブリン達の漂流する謎を解けば、フンババの眷属が━━━━』



「何度も聞いた」



『有名な魔女ドラドラの滅した村跡に新種の半獣人が現れたから見に行こうって。半獣人を仲間にして、気長なエルフの里に入れてもらって、それから冥府の冒険に挑もうって。そこで”星の扉”を探しに、クマリと一緒なら”泥に沈む前の世界”にだって行けるかもしれない。三つある月の一つの月面にでも入れれば、星からせる珍しい因果の滴が手に入るから━━━━』



「……じゃあなぜ死んだの」



『これでよかったんだよ。僕は冒険者だから。……話せば長くなる…………』




 話せば長くなる━━━ヨーキがそう言うときは、遠い目をして、話をはぐらかす時だ。今もその顔でいるのだろう。

 少女はその顔を見ると、ヨーキのことを深く探ろうなんて思えなかったものだ。

 知ろうと思えば簡単な事だったのに、ヨーキには”それ”をしたくなかったから。




『死者を、━━━━死霊を使えば、クマリには何でも分かってしまうんだよな』




 息のかかる所に立っているヨーキは知った風なことを言う。




「それがどんなに辛いことか……」




 死霊達を使うことが、どんなに、どんなに卑怯で、罪深くて、使わずにはいられない執着を生む事か。怖くて怖くて使わずにはいられないのに。

 人の因果なんて知りたくないから、自分の因果を知られたくないから、関わりたくないから、死霊達の因果を使ってしまう。使い切って消してしまう。それはかえって快感になるほどで。

 思い通りにする事のために死霊達の魂を因果を消費する。生きた魂の因果に上書きするために、死霊の因果を使う。書き換えられた因果は日の目を見る事なく潰える。

 それでもクマリの身の内には残るのだ。━━━━彼らの因果を使ったという事実だけは。




『今はもう、死霊を使わなくても分かるだろ。━━僕にも君が分かるよ』




 死んで魂になるという事の不思議さはどうであろう。

 お互いの思いが、記憶が、人生が伝わってくるのが分かる奇妙さは、一冊の本に触れる脳裏に目眩めくるめくほどの情景が浮かぶようで。

 それが事実なのかどうか━━━━全部なのか、一部なのか分からないけれど、それは観たくなかったものだった。




「こんなの……知ってしまうなんて、無理だよ……出会ったばっかりなのに……もっと、一緒に……生きて━━━━」



『クマリ……』




 大切な思い出だったのだ。少女にとって、天魔の使徒として生きる以外の人生を教えてくれた、初めての大冒険へ誘い出してくれた友達がヨーキだった。

 これからもっと仲良くなれると思っていたのに、こんなお別れなんて最悪だと思う。ヨーキがどんな人かって、もっとゆっくり知っていくつもりだったのに。

 涙をこぼして俯いたままの少女の両手を冷たい手が包んでいる。




『クマリの手は暖かいな』



「……━━え?」




 愛おしそうに撫でられている自分の両手が、火照るように朱がさしている。

 思わず見上げそうになった少女の頭に、少年の頭の重みが重なった。

 顔を見るなと言われているみたいで変だったのが、それが自分の頭の重みだと分かった時、少女は全身を浸す気怠い重みの中にある自分に気がついた。

 胸が弾んでいて、喉を通ってくる湿気った空気がむず痒くてむせせてしまった。




「━━━━じゃけん、黒龍を出せ」




 低く轟く声が聞こえる。




『ありえなくなぁ〜い?』




 迷惑そうな、非難がましい声が聞こえる。


 耳を打つ音も、視えている光もどうでもよかった。

 少女にはもう何の希望もなくて、生きている意味なんてない。

 男を好きになって、好きな男に騙されて、その男は死んでしまったなんて。




 ここが何処でもどうでもいい


 死体で出来た街なんて滅んでしまえばいい


 自分も死んだら、この街になるのかな


 願い事があったなら━━━━




 思いを思考に変えてしまう程に、沈む心に反して意識が明瞭になるのが少女は嫌になった。

 自分は瓦礫の谷底に倒れ伏しているのだ。

 そこに何故か、目を瞑っていても分かることに、枕元に死神が立っていることも。


 立ち去ろうとはしない死神の男の嘆きが頭に降ってくるのを少女は目を瞑って聞き続けている。

 ごめんなさい、と呟きながら。









 ▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽








 満ちて、引いて、ぶつかり、限りなく連なり合う━━━━海とはそういうものだろう。


 入江の波頭は変わらず揺蕩たゆたっている。

 ひしゃげた建物の折り重なる風景は、どれが何の建築でどういう部分だったのかも分からぬ有様だが、そのゴミ溜めのような景色の横にある海は変わらない。


 しかし海面に壊れた船船が連なっているのは、都市街郭の変貌と崩壊の凄まじさを垣間見るかのようである。船底を見せて浮いている船や、船体が潰れて中程から折れてしまっていたり、半分は水没して舟腹を見せているといった状態の船ばかりで、倒壊した街郭の余波はかくの如しという有様だ。

 狭くない入江だが、散らばり漂流する船船と街郭の瓦礫でめちゃくちゃになった岸辺は対岸に迫るほどになっている。


 その混沌を足場に船から船へと渡り歩く人影があって、背広を着た二人の男が一艘の小舟に乗り込むと、かじや動力の機体に触れて船体をつぶさに調べている。

 小さな操舵室の制御板には小舟ながら様々な操縦桿や開閉機や計器といった装置がたくさんあって、手漕ぎでないのは一眼で分かるものだ。魔法の動力で起動する魔道具の一種だが、船や車といった大きな機具にもそうした魔法文明の設計思想が生かされている。

 とはいえ、それは一般的というほどの普及はないのだが。




「俺、こういう、無理やり魔法で動かす感じに細工のこだわった船っ……て、わかんねっス」




 魔法で直に船を動かせばいいものを、魔法具の組み合わせでどうにか動かして制御しようという凝った機材というのはある種の変態性を帯びている。━━━━そこまでは言わないが、しかしそうとでも言いたげに若者の顔はちょっと引きつっていた。

 変な触り方をして船が爆発したら怖いじゃないか。何しろ船を動かすほどの魔力というのは小舟でも相当なものだろう。

 すると横に立つもう一人の若者も、頭を掻いては額の汗を拭い、困った顔でため息をついた。




「……私も分からない。操縦など……しかし、動けば何とかなる。ラルフの魔動車と似たようなものだろう」


「ええ?あれはヒュローキさんの旧車っすよね。骨董品だったんで……どうかな。船とは違うと思うっすけど……うーん……ここは俺がやってみるんで、ハワードは周りの船とかどけて欲しいっす」


「何とかしよう」




 入江の魔族の棟梁ヒュローキ一家と死神ブンヤの決戦は港湾一帯を吹き飛ばしたが、直後に始まった街郭の変貌はさらに凄まじく荒れ狂いアウズの入江を無惨に増改築し、尚且つ起きた爆発的な光の放射と街郭の破壊は完全に風景を瓦礫の更地へと改めさせている。

 その中で、人間のハワードと半獣人ラルフが飄々と瓦礫の浮かぶ海を徘徊しているのは奇跡的な生還に見える。

 だが実のところ、彼らがこのアウズ都市街郭の破壊と再生と崩壊から逃れえたのは偶然ではない。

 二人は二人が属する組織の異なる背景から予め知っていた”預言書”と”予定書”の擦り合わせにより想定しえた状況に対応したに過ぎないのだ。

 それは魔法の活きる世界でしたたかに生きようと志す者として当然になければならない処世の術であろう。そのことが組織に背叛する行為であっても正念場とあってはやむを得なかったのも、それもまた処世と言えよう。


 ともかく、死の光を放つ死神が輝く前に海へ飛び込んだ二人はそれだけで難を逃れたは良かったが、全ての災禍が過ぎた後の風景から脱出するのにはそれこそ絶望的な光景に直面していたところが今なのだ。

 ハワードは船室から右舷に出るとそのまま船尾に立ち、さらに左舷へ廻って船首に立ってと全方位を眺望して、暗い入江を埋めるぐちゃぐちゃの瓦礫と船船の隙間から沖へと出て行けそうな筋道を見通さねばならなかった。

 相方のラルフは「周りの船とかどけてほしいっす」などと言うが軽率なものである。人間でしかないハワードに船や瓦礫をどかすような腕力などあるわけがないだろう。

 見てわからんのかと言う思いでいるハワードだが了承したのはそんなことを言っている場合でもないからだ。どうにかできなくても何とか出来る工夫がなくてはアウズから生きて出ることは敵わない。




「ふむ、しかし、私の使える魔法や技では本当にどうしようもない━━━━ッ!!??」




 荒れた景色を見て周り独言を溢すハワードが思慮を巡らしていると、突然船室から高い音が鳴り響いて飛び上がった。警報のような高音が入江に鳴り渡る間ハワードはびっくりして船室を覗いているが船室の中のラルフはもっとびっくりして壊れたおもちゃみたいに壁や天井に頭をぶつけて転げ回っている。




「うわあああああああ!!!ハワード!ハワード!!助けてっす!!!!助けてっす!!!!!」


「馬鹿か!何をやっているのかねラルフ!!あっ!!?」




 船室の扉を破壊したハワードは飛び出してきたラルフに体当たりされて吹き飛び海に落ちると、二人して焦ってしまってラルフの腕力とハワードの攻撃魔法で小舟を爆破してしまった。

 これで周囲の瓦礫や船はどかせたものの、肝心だった動きそうな小舟は木っ端微塵に吹き飛んでしまったのである。





「や、やっちまったっす……」


「隠れろ。まだ海から上がるな……」




 海に浮き泳ぎしつつ、海面に突き出た瓦礫の柱や壁のような何かに隠れて二人はしばらくじっと息を潜めた。

 今この荒廃した辺り一帯に人や魔族の気配はないはずだったが、流石に大騒ぎしすぎである。港湾の船の爆発は街郭の崩壊直後から崩れた構造体の落下による衝撃であちこちの海面が何度も爆音と閃光を上げていたにしても、今は静まり返っていた時なのだ。

 都市の運営である魔族達が死神ブンヤに一掃されたとはいえ、生き残りがいないとも限らず、出会せば面倒だろう。ヒュローキの管轄外の遠く離れた街郭を運営する魔族達がこの空き地を狙って来ることも考えられるし、二人は気が気でない。


 ハワードもラルフも外国から派遣されて来ていた役人のようなものではあっても、お抱えだったヒュローキが死んだ今となってはアウズで後ろ盾がない状態といえる。ヒュローキの所有する港湾の仕事を監督補佐すると言う名目があったから魔族達は二人に手を下さなかったというだけのことで、なんのかんのと揉め事をふっかけて来る魔族との遭遇を避けねば、このままアウズから地元の国へ引き上げる機会を逃してしまうだろう。




「本来の職場で仕事があるっすからね、俺たち」


「ああ、……本国へ持ち帰る情報が山ほどある。出来る事なら、”こいつ”だけでも先に転送したいものだが━━━━」


「それ、ほんとっすね……」




 ラルフとハワードが外套の内側に大事そうに襷掛けしている小さな鞄、それには魔都アウズでの情報収集による重大な魔族企画の報告書が取りまとめてある。アウズ都市街郭社会の実態や、密入国して行方不明になった冒険者達の顛末などもしたためた非常な価値ある文書になっている。アウズで起きていた魔石生産の不正や諸外国との違法な取引の証拠まで満載だ。これを組織に持ち帰り政治家達の陰謀を告訴すれば国家の勢力図がたちまち激変する事だろう。つまり、ラルフとハワードにとって赴任した仕事の実績そのものであるため絶対に手放すことのできない代物なのだ。

 

 魔法で何でもできてしまうこの世界において、わざわざ文書にしたものを手ずから運ばねばならないというのは奇妙な不便である。

 文書など魔法で転送すればいいだろう。そもそも文書にするまでもなく、魔法で組織と通信すればいいだろう。そう考えてしまいそうなものだが、━━━━実のところ、便利な魔法には対抗する便利な魔法があってそうそう単純に事は運ばない。

 この魔法の生きる世界には転送魔法を妨害する魔法があり、通信魔法を傍受する魔法があり、魔法は魔法によって対抗されてしまうため結局は体力と運がものをいう事態になって来る。確かな成功を掴むには、そこに技術も必要とされるだろう。

 つまり知恵がなければならない。




「まあ、転送魔法なんて専門的なのは扱いが難しいらしいっすけどね。使える魔法使いなんて見たことないし……整備した魔道具があっても国家機密級でしょ」


「……ラルフ、さっきの船と似たような制御盤のある船を探そう。思いついたことがある」


「?どうするんすか。教えてくださいっす」


「通信機器を使う。ここの船の魔機類なら通信設備もあるだろう。それで状況をもっと知りたい。アウズが今どういう状態にあるのかを知るんだ」


「ん〜盗聴っすか。バレないんすか?ああいう凝った作りの魔機船を使ってる奴らはやばい奴らっすよ」


「聴くだけなら大丈夫だ。こちらから発信するわけではない」




 入江に浮かぶ船は巨大な移民船ばかりで小舟は少なくて、転覆していない船となるとさらに少ないがどうだろう。

 とつい考えたが、とりあえず通信設備が使えればいいので二人は近くに浮かぶ大きな移民船によじ登ると斜めになった船内を何とか進んで制御盤の前に立ち息を飲んだ。制御盤のスイッチやレバーや計器やボタンやダイヤルのどれが何の為の装置なのかやっぱり分からないのである。

 さっきみたいな警報音をまた鳴らしてしまってはマズイ。

 制御盤の文字はパングラストラスへリア大陸共通言語であるジュメリイル語━━俗に南皇語と呼ばれる言語が元となった宝置たからおき文字、古代語の彫刻文字、斎主ギルド結社の縄手文字、地表世界共通の三星さんせい文字で書かれている。どの文字の組み合わせも二人にとっては読み解きに難しくはないのだが。




「……待て、ラルフ。なぜさっきは警報音が鳴った?操作の何を間違えたんだ」


「さっきの船は主要な文字が地底文字だったじゃないっすか……とにかく試しに、なんか、特別そうな感じの綺麗な石のまったボタン押してみたんす。その一発であれだったっす」


「そうだったか。……そういえばそうか」




 半獣人のラルフは警報音を思い出して獣耳をプルプルさせている。ハワードはあの時の制御盤の文字がよく読めなかったのだが、独特な装飾のあるドワーフ族の文字はというのは(そういえばあんな字体だったな)と思い出して頭を振った。


 通信設備は制御盤の中央寄りに別途取り付けてある小さな小箱であるらしい。いちいち小さな文字が書かれているのを読んでみると”界闢重工かいびゃくじゅうこう”と製造会社の名前が書かれている。

 界闢重工は一般家庭から工業機械に至るまであらゆる魔法器具類を製造している誰でも知ってる会社なので、それが魔動機船の無線機なんかも作ってるのかとハワードはちょっと意外な気もしたが、それなら使い方は解るだろうと安心して見てみるとなるほど普通の無線機やラジオと似たような作りではないか。ハワードは金持ちではないが仕事柄そういった機器を使うことは普通にあるからいける気がしてきた。




「ラルフも分かるだろ?ここの電源を入れる。っと、スイッチは受信に入ってるな。電源を入れて、このダイヤルで周波数、こっちで波形、これで波長を……探っていく。アウズの……この辺りのは…………」




 慎重な手つきで操作するハワードが横で神妙な顔をしているラルフにやって見せるとスピーカーから雑音が鳴りだしたが、しばらくしてラルフの獣耳がピンと立って前を向いた。




《「━━━━━━━━」》



「ん?……待った。ちょっと周波数、戻してっす……波形はもうちょいこっちに鋭角、波長そのまま。んで、これ、音量、上げて……っと」




 半獣人の獣耳は人間のハワードには聞こえない音が聞こえているらしく、ラルフはハワードに代わって受信を調節しはじめた。

 すると通信機のスピーカーから出る雑音が薄れて何者かの話し声が聞こえて来るのである。




《「━━━━るところの布陣は済んでいる。東区第八港湾口入江封鎖発令から一刻経ったが、そちらからはどう見える?……どうぞ」》


《「……はい、万端です。小舟一艘も通さない封鎖が出来ています。……どうぞ」》


《「……沖まで斥候せっこう船は出してあるな?海域の外に船影はないか?……どうぞ」》


《「……3隻の報告があります。アウズ海域に侵入はしていませんが……海境をチョロチョロしているようです。ただ、旗をあげていません。船形からして帝国の船…軍船1に商船1、漁船1かと。……どうぞ」》


《「……3隻……軍船1?……本当にそれだけか?とても仕掛けて来るとは思えんな。この封鎖に魔船団は緊急発令とはいえ33隻も集まった。余の魔戦艦1隻に、魔潜艦3隻、与力の海賊どもも合わせれば50隻になる。雲の上は魔空機に空賊、海中は魚人共をも泳がせてある。人草1匹通れまいし、この戦力差で開戦はないだろうが……うーむ……だが、この東区第八港湾街郭の崩壊とともに船を寄せてきたのは、人間どもも分かっておるのだ。今を逃せばアウズにクーロンの拠点を再起する機会はそうそう無いだろうという事をな……あとは大陸間弾道魔法迎撃の備えを怠るなよ。迎撃戦艦に機器の点検と予備動作の確認をさせよ。引き続き警戒。どうぞ」》


《「……了解です。……べクレヘム閣下、やはり、皇国の眷属による手引きと思われますか。ジュメリイルの神子と巫女の託宣…………どうぞ」》


《「……未来を閲覧されてはな……だが、人草共が海戦に大規模な戦力動員はできないだろう。人草共は所詮、陸の上の命。不自由な海へ出て戦うなどは、はなから無理があるのだからな。それに、この大陸の国々の岬からは距離もある。急な対魔戦に応じる国もギルドも少なかろうて……どうぞ」》


《「……この動員で消える我々の金の方が心配です…………どうぞ」》


《「……案ずるなギャッツ。ここはアウズだ。魔力資源など幾らでも生産できよう。移民収容は三千年先まで予約で埋まっておる。そも、都市街郭には天魔の御加護があるのだ。……貴船はそのまま哨戒(しょうかい)せよ。……以上。」》


《「……了解」》



「「━━━━━━━━」」




 通信が終わったらしく音声が雑音になり、黙って聞いていたハワードとラルフは互いの顔を見合わせて頷いた。それから機器の電源を切ったハワードは口に手を当てて俯き、ラルフは腕組みをして口を尖らせてとそれぞれ考え込んでいる。

 思いがけず、ちょうど欲しかった情報の会話をめちゃめちゃ聴けてしまった。かなりの情報量である。国家や行政組織の派遣社員であり密偵としてアウズに来ている二人としては心当たりのある内容が多い。


 まず今の独特な厚みある声の主達だが、両者ともハワードとラルフに既知の魔族達であった。

 ヒュローキの上司にあたる魔族の長の長、べクレヘム魔大公と直参のギャッツ魔公爵で、ヒュローキ魔公爵の領地であったこの港湾の対岸を護持する魔界眷族に使える魔族達なのだ。


 会話はのっけからハワード達にとって意外なもので、魔族達はこの入江から海へ出たあたりの近海に船団を布陣して海上封鎖しているのだという。

 封鎖というとハワード達にとってはまるで、この崩壊した一帯の街郭跡地の岸から外海へ出て逃げようとする自分達のような者の退路を封じるものかとも思えて(異常に大袈裟なことだな)と眉根を寄せたが、そうではなく海外からアウズへ侵入する船を防ぐための入江の封鎖なのだという。それも軍魔船団を大規模に揃えた戦陣で海戦に備える布陣となると国家規模の大戦に近い。

 その軍魔艦隊が警戒する外海にはジュメリイル皇国の帝国軍艦1隻だけで後は商船と漁船というのが妙で、しかし魔族達は今の崩壊したアウズ東区第八港湾街郭への侵入を異常な厳重警備体制で警戒している。という状況なのだった。




「帝国の戦艦━━━━」


「もう少し情報が欲しいっすけど……この状況。これって、そういう事っすよね」



 ハワードとラルフが最も気に留めたのはその点だ。

 預言書と予定書という、世にも奇妙な神託を書き留めた意志の記録を指針に動く者達にとって、世界をそういう目で見ざるを得ないのである。普通なら知り得ただけの情報で判断をするところだが、運命を俯瞰してしまう彼らにとっては別次元の状況が見えている。




「はぁ、……攻めろって事っすね」




 ラルフが溜息混じりに首肯して言ったように、この事は盲信と言っていい危うさのある理解だろう。

 通信を傍受して聴こえた会話がたまたま状況判に必要な情報が大いにあったという()は、自分達に干渉する眷属による運命の導きなのだろうと考えるのだ。

 それが「組織」という特定の思想を持った人々のある種の偏向した価値観ではあるのだが、それは、その組織が代々奉じる眷属による運命の加護を信じるものでもあるのである。

 これは、彼らにとって”自分に都合の良い解釈”というのとは少し違う。

 海上封鎖を突っ切れというのは無茶振りが過ぎるというものではないだろうか。




「たまらんな……」




 とはいえである。眷属がそう示したという事は、そこに突破口があるという運命をも示唆するものなのだ。方向性を示した上で後は工夫しろと。

 眉間を指で摘むハワードは懊悩して嘆くが、悩むほど機会を逸することになるだろう。陸路での帰国はそれこそ全く無理なのだから今やるしかないのだ。迂回を考えるのは無駄で、途方もない規模のアウズ都市街郭群を抜けて陸路で大陸へと越境するのには何年かかるか分からない。




「「……じゃあ、━━━━━━━━」」




 やるか、となれば二人の行動に迷いはなかった。

 まず帝国側の情報がもう少し欲しいし、できればなんとか連絡を取りたい。二人はジュメリイル皇国と直接的な繋がりはないにせよ、魔族と敵対するのはどの国のどの人種も同じだから基本的には協力関係になれるはずだ。

 ハワードはもう通信機器を調節して、外海に浮かんでいるであろう帝国の戦艦から何らかの信号が発信されていないかを確かめようとしている。ラルフは五感を澄まして通信機から感じる微細な魔力の波動を感受するべく静まっている。

 そうしつつ二人は、帝国の船が軍魔艦隊の近くにたったの1隻で浮いているという状況は、暗にこういうことを意味しているのだろうと思うのである。━━━━アウズの中の内通者、或いは未知なる協力者を期待して連絡を取りたいのではないか、魔族の警戒を緩めるためにただの1隻で艦隊の前にあるのではないか━━━━と。

 であれば、何らかの特殊な信号を放っている可能性はあるだろう。

 それは大規模に入江を封鎖する魔族達の方でも察しているかもしれないが━━━━




「…………ハワード」




 急に、ラルフが呟いた。

 ハワードが見ると、ラルフは目を見開いてまっすぐ前を向いたまま硬直している。

 制御版の前は窓越しに斜めに傾いた甲板があり、その向こうは瓦礫と船の疎らに浮いた暗い海がある。




「……どうした。言え」


「誰か来たっす」


「なに?」




 ハワードには、見えない。この荒れた景色と暗い海に━━━━とまで一瞬考えて、すぐに間違いに気づいた。ラルフは目の前のことを言っているのではなさそうなのだ。

 通信機のことでもなさそうで━━━━




「分からないっすか?船の重心、ちょっと変わったっす。━━いや、……気のせいかな…………」


「……」




 足元、この傾いた巨船そのものの傾きに微細な変化があるのかどうか、それを感じようとして判らないハワードは首を傾げたがラルフという半獣人のこうした感は無視できないものだ。

 当のラルフ自身も半信半疑なのか首を振って辺りをキョロキョロしだしているが、ここは念のため通信機器の操作を中断して身の保全を優先するするべきであったろう。身を隠すなどして侵入者の有無を確かめ、もし何者かが居れば、その者に気づかれる前に殺すか、どうするか。

 ラルフの方が判断が早くて一足先に物陰に隠れると床に耳をつけて船内の物音を探り始めいている。ハワードも身を引くくして隠形の体になり制御室の左舷側の扉を密やかに開いて空気の流れを確かめ、匂いの変化などがないかラルフに様子を伺わせる。

 心得たラルフが鼻をひくつかせると、床に耳をつけたまま怪訝な顔になって、すぐにハワードの顔を見て二本指で船尾右舷を指した。そのままの意味で、二人の侵入者がその方角にいると言うのだろう。




「……左から背後に回り込んで始末する」




 半獣人ラルフの能力に感心しつつハワードがそう決めて言ったのは、侵入者はおそらく魔族以外にあるまいとも思ったからである。都民は全員死んだだろうし、生き残りが居たとしても瓦礫と船の残骸を渡ってわざわざさっきの爆発のあった付近まで来るとは考えられない。

 そうして影が滑るように動いたハワードが船室左側の扉を静かに開こうとして、




「これ、お迎えした方がいいっす」




 逃げても無駄なんで、と言いたげに聞こえるラルフの声音にハワードは振り向いて驚いた。

 ラルフは立ち上がって服の埃を払いつつ、困ったような変な笑顔で作り笑いをハワードへ向けている。額から大粒の汗が吹き出ているではないか。どういう感情の表情なのか判らずハワードは困惑し、誰が━━━━このアウズで誰か目上の知り合いでも来たのか、と問おうとして自ら察した。

 ハワードも感のいい男なのである。感が良くなければ務まらない職務でもあるだろう。

 ラルフは手鏡を取り出して手櫛で髪型を整えながら、やってくる者達の名を口にすること無く右舷へ出てゆく。

 ハワードも続いて出ると二人して並んでやや斜めの甲板に立ち、膝に手をついて腰を折り出迎えの仁義を切ると暗い甲板の先を見据えた。


 小さな灯りの点が、ゆっくりと、明滅している。

 瓦礫の海の暗闇の向こうから訪れるその気配が真っ直ぐこちらへ向かってくるのは、先方にハワード達の位置が知れての事と思えてならない。風邪に臭う煙草の香りにハワード達は覚えがあるのだ。

 それなのに身を隠すような事は、先刻、煙草と付け火で仁義を切ったばかりの御仁に対して有り得ない非礼となるだろう。

 

 闇の中でこうしていると怪しげな儀式の始まりのようだが、逃げ出しようの無いハワードとラルフにとっては、後の祭りであった。









▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽












 出迎えのていでいる人間と半獣人、その二人の姿を遠目に見て甲板を行く黒づくめの男━━━━セッタ・ブンヤは煙草を吸いきり煙を吐くと吸殻を爪弾いて塵に変えた。


 先刻の海上爆発があったとき、遠く離れた瓦礫の岸辺に居たブンヤは何者かが入江の船にいる姿を目視していた。遥かに遠い距離だが、ブンヤがその命の姿を詳細に見ようとすると、千里眼に眷属が補正をかけて入江の闇も爆炎も船体も透かして2名の素性まで確認できたのである。ヒュローキの舎弟と若党であった二人のことをブンヤは無論覚えていて、生存に驚きもなかった。

 そのとき思いついた用向きの為に、わざわざ船船を踏み渡ってやってきている。

 ハワードとラルフが仁義を切って待機したのはブンヤに意外な事であったが、二人の前に立つともっと意外なことに気がついた。




「……貴様きさんら。こんなぁ、知った顔か」



「「━━━━━━━━っ……」」




 出迎えておいて言葉が出てこないハワードとラルフの、その驚く顔が何を見ての表情か。

 ブンヤが小脇に抱えている少女の姿を見て彼らは絶句しているのだ。




「ぉ、……お嬢さん。鬼導師のお嬢さんじゃありませんか。……ご無事で……」

「で、でも、どうして……」



「……」



「……………………」



「「……………………」」




 ハワードとラルフに見られて、ブンヤの小脇でだらりと手足を下げている少女は俯いたまま口を開こうとしない。ブンヤも黙ったままで、なぜ鬼導師の少女を死神が抱えているのかと問いたかったハワードとラルフも困って無言になった。その関係性に興味を持って知りたがるのは無礼かもしれないと思ったのである。


 だが、ヒュローキの客分であり部下として港湾に務めていたハワード達は、少女のことを少しばかり知っているだけに、心痛なものがある。



”「とある魔族から追われています。港湾魔族の主である、ヒュローキ会長のお力を貸してはいただけませんか。僕とクマリが、このままアウズから出てゆくことを見逃してください━━━━」”


 ヨーキという名の冒険者の少年がヒュローキの庇護を求めて港湾に現れたとき、少年が背後に隠すようにして少女クマリを伴っていた。

 外国から密入国してきた冒険者などを捕らえることはたまに有ることだが、魔族から逃れるために魔族を頼る者というのは珍しく、この少女の、目の周りの隈の濃い、俯きがちで動きの緩慢な疲れたような風でいるのを変な娘だと誰もが思った。このとき少女を鬼導師とは見抜けずに、ヒュローキはただ食客として留まることのみを許褚きょちょしている。

 どういう訳で魔公爵ヒュローキが珍客を匿う気になったのか、廃人にして魔石にする在庫とみなしたのかもしれず━━━━今となってはわからない。ただともかく、馬鹿正直にアウズからの脱出を懇願したヨーキとクマリの願いをヒュローキは聞き入れずに、しかし手元に置いて他区画の魔族の追手から隠してやったのだ。


 そうして港湾都市街郭に起居する少年少女を世話したのはハワードとラルフである。夢見る都民達と同じ街郭にある廃墟のような賃貸の一部屋に二人を住まわせて、食い物などを与えていた。年頃の少年少女を一つ部屋に同居させるのは如何なものかとハワードは思ったが、少年少女は離れるのを拒むから仕方がなかった。

 少女の素性が割れたのはすぐのことで、アウズの何処かにある天魔直轄領から派遣された魔族によるヒュローキ領への侵犯や様々な要求により、少女が天魔の干渉する鬼導師の子孫と大方の推量がついたのだ。

 そのことでヒュローキの命令を受けたのもハワードとラルフで、ヒュローキから託された廃人一斤はいじんいっきんの配当と、アウズギルドの”裏依頼”と言う形での密命を少年少女に下している。

 廃人はヒュローキの抱える魔石資源原材料の在庫の一体だが、それを少年少女に拠出する意味が当初解らずハワード達はともかく少女に引き渡したところ、少女の方では辛そうな顔を一層悲壮な顔にして首肯しゅこうした。それと裏依頼である”死神の暗殺”と、成功報酬である”アウズからの解放”を言い渡すと、ヨーキはその場で廃人の横首を斬って殺し「承りました」と言って出て行ってしまったのだ。


 何故ヨーキ少年が突然に廃人を殺したのか、鬼導師の末裔とされた少女クマリが何だったのか、そもそも鬼導師という存在すら知らなかったハワード達はヒュローキから聞いたその噂を半信半疑で何も解らなかった。

 その後、アウズの死神という伝説上の存在を探し出したヨーキがヒュローキに報告し、そして死神ブンヤの背中を刺して返り討ちにあったヨーキの亡骸の前に立ち尽くしていたのが少女クマリだったという事が顛末なのである。

 

 それが今、この船の上にあって死神と共に在るのはどういう巡り合わせだろう。

 ハワードとラルフの当然の疑問なのだが、ブンヤは興味がないのか何も言う事なく小脇からクマリを甲板へ下ろして転がすと二人に顎で少女を示した。




「「……え?」」



「沖に軍魔が艦隊を敷いとる。こんなぁ外へ連れて行くけぇ、貴様んら、面倒みてやれ」




 それだけ言うとブンヤは操舵室へ入って行ってしまってハワードとラルフは少女を起こしてやるやらブンヤを追うやら慌てて状況を飲み込もうと苦心した。




「お嬢さん!……クマリお嬢さん。怪我はないですか?お辛いでしょうが、今は気をしっかりと強く持つんです。話してくれませんか、外へ行くって、アウズを出て、外国へ行くんですね?あの死神殿がお嬢さんを……?何があったんですか」


「…………━━…………━━…………━━━━」




 ハワードが寝転がる少女を起こしてやるが、少女は立とうとせず半眼で俯いて何も関心がないみたいに虚脱している。見たところ怪我もなく、ただ精神が疲弊しきっているのか、それでも小さな口をぽそぽそ動かして譫言うわごとみたいに拙い言葉を零している。

 聞き取れない言葉を呟くその姿が、少女は目の前に甲板ではない景色が見えていて話しているような、異様な感じがしてハワードは胸が痛んだ。




「クマリお嬢さん。すまなかった。私たちを憎んでくれ。子供を助けてやれなかった、ダメな大人だ……」




 聞こえていないと分かっていても、今は少女にそう囁かずにはいれなかった。ハワードの言葉は少女のためと、自分のためと半々の気持ちからだろう。




『この子はね、そうじゃないんだよ』


「っ!?……」


『この子は、そういう事じゃないんだ』


「━━━━━━━━」




 奇妙な音のような声━━━━意思そのものを伝えれられるような感覚に、ハワードははっとして顔を上げると、その存在達の姿に気がついて息を詰めた。

 少女の傍らに異様な姿の意志の塊達が立っている。

 護符を抱く真っ青な肌の人型の眷属と、漆黒の毛綿に覆われた何かが少女の腕をとって静かに立たせ、小さな白象が少女の背中を鼻で押して立たせ、布でグルグル巻きの猫人と桃色の樹木が両脇から少女の両足をとって「いち、にー、いち、にー」と歩かせ始めたではないか。

 ヘンテコすぎる光景で、呆気にとられて見ているハワードは眷属という存在を見るのが初めてではないにしても、その非常に珍しい超常の存在達がこうも活動しているところを間近に見ることは無くて言葉が出なかった。

 そうして眷属に歩かされる少女と共に操舵室へ入っていくと、そこではセッタ・ブンヤが制御盤のあちこちへ手を伸ばして触れており、その挙作を目まぐるしく目で追うラルフが口をぽかんと開けている。




「し、死神殿……どうなさいますんで?……この船は━━━━」




 ハワードがペコペコしながらせっつくが、死神と呼ばれた男は険しい顔のまま天井や壁にまである制御装置に手で触れながら関係ないことに答えた。




「死神ではないけぇ」




 死神と称されているセッタ・ブンヤは自ら死神と名乗ったことはない。ということを誰も知らないのでハワードの困惑は仕方がなかったが、今はその事はどうでもいい。

 操舵室に入ってきたハワードと少女と奇妙すぎる眷属達の姿に気がついたラルフはギョッとして凍りついたように動きを止めて、驚愕しつつハワードの目をジロリと見たが、ハワードは静かに首を振って「わからない」と無言の返事をすると眷属達の方へ目配せし「俺も見えている」という意味の視線をラルフへ送った。するとそのラルフの真横に銀翼を背負った眷属が忽然と顕れたのでハワードもまたギョッとしてしまった。




『ブンヤ。操作は今頭に入れた通りだ。あとはこの船を直そう』




 銀翼の眷属がそう言うのと巨船が動き出すのは同時であった。傾斜していた船体が浮き上がって水平を保ち、斜めに立っていたブンヤ達はようやく真っ直ぐに立てている。




やわい船じゃあいかんのう」



『そうだな。砕氷船みたいにするか』

『戦艦がいいなあ!』

『漁船にしようよ』

『これから戦争なんだけど?』

『お、改装するんだ』

『もうやってるよ』

『その辺の船と瓦礫を利用して、パパッとやっちまおう』

『使えそうな部材がいくらでもあるからな』




 れた会話を交わすブンヤと眷属達の傍でラルフとハワードは外の急激な変化に気がついた。突然、眩い明かりがあちこちに現れて、甲板の外側に即席の足場のような構造物が船体全体を大きく覆っているのが見えている。そこでは操舵室にいる眷属達と似たような異形の意志達が動き回り、この巨船に何やら手を加えている様子なのだ。


 ブンヤは船の出来栄えが気になるのか船室から出ていき船を見回りながらタバコを吸い始めてしまった。舳先へさきの下を覗き込んだり船縁ふなべりに立って船橋楼を見上げたりして周りの眷属達と仕切りに談議している。




「……ど、どうするっすか?ハワード」


「……私たちには、私たちのできることがあるじゃないか。さっきの続きだ」




 外海にいる帝国の軍艦へ通信を試みる途中であった。

 ただし、それにはその軍艦が特殊に用いる周波数・波形・波長の信号による組み合わせでなければ交信できないため通信を複雑に調整する必要があり、その通信が軍艦へ届いたとしても交信に応じてくれるかどうかは分からない。魔族の艦隊に傍受される危険も大いにあるだろう。

 難しい試みなのだが、しかし、うまくいけば━━━━━━━━




「……む?」




 通信設備を調整しようとハワードが手を伸ばした時、周波数などの操具が勝手に動いて調律されるとスピーカーから雑音が鳴って手を止めた。雑音はすぐに静まって、何かの物音や、人の足音━━━━人の声が鳴りだしたのである。




《「━━━━オイ、誰だ電源を切り忘れてる者は。貴様達、気が緩んでいるぞ!何やってんの!」》


《「え、そんなはずは━━」》


《「言い訳をするな!」》


《「「「か、艦長殿!申し訳ありません艦長殿!」」」》

《「(艦長、艦長!電源切ってから怒ってください!)」》


《「馬鹿者ォーーッッ!!!貴様達!恐れ多くも皇帝陛下の御艦みふねを預かる!若い士官共の━━━━……む……?……待て、これは……そうか、私がでよう……」》




 何故か通信が繋がっており、厳しい叱咤の声が聞こえてくる。通信先の詳細は分からないが、しかしハワードもラルフもこの状況では入江の先の外海付近に留まるという帝国の戦艦であろうことを期待した。通信機が勝手に動くなどという奇怪な挙動は身近な何者かの強引な干渉に違いない。ハワードの横に立っているクマリの傍に立つ眷属達はそしらぬ顔でいるが━━━━

 ともかく、軍艦の搭乗員らしき声は、どうもこの通信が無断に繋がっていることに気がついたようでにわかに警戒する雰囲気になっている。




《「……何者だ?こちらは皇軍第八艦隊巡洋戦艦ライズ・クラウディアである。当艦と知っての通信だろうか。返答せよ。どうぞ」》


「(こ、これって……)」

「……━━━━」




 ハワード達に都合が良いようでいて不気味である。実のところ、人類種という命を超える次元の意志達のこうした無言の導きに関わると時というのは、何か大きなものに巻かれるような気持ちになるようで、ある種の取り返しのつかない事へ踏み出す勇気と決意が試される。

 ハワードもラルフもそうやって難所を乗り越えてきた人生ではあれども、こうして不可解に人生を左右される奇妙さには毎回心のどこかで慣れないものがあった。

 あまりに出来すぎているのだ。というのも━━━━




「こちら、ハワード・マルセイユ。アウズ東区第八港湾の船から通信している。応答を感謝する。━━バルボア・ロイド艦長。どうぞ」


《「━━……貴様か。久しいなケイン……いや、ハワードと呼んでおこう。なんという奇遇だ……護国卿の就任式以来ではないか?」》




 奇遇は時に続くものである。巡洋戦艦ライズ艦長バルボアはハワードのかつての同僚であった。

 十数年も互いの息災を知らずにいた二人が通信の作法も忘れてくだけるのも無理のないことで、ハワードはつい非番の電話口のようになってしまっている。




「あれっきりで左遷されましてね」


《「ああ聞いている。だがアウズ送りとはな知らなんだ。ハハ……w」》


「笑い事じゃあ、ありませんよ。旦那……」


《「さて、回線を変えるぞ。覚えているな?」》


「了解」




 通信の秘匿性をさらに確保するために、古馴染みの二人がかつての仕事で使っていた魔法の通信手段を介して交信しようというのだ。魔法器具を用いただけの通信とは別次元の手段を使えば魔族に傍受される心配は無い。互いの置かれた今の状況の仔細を伝え合うのに、たまたま相手が信頼のおける古馴染みであったのは本当に渡りに船といった巡り合わせだろう。

 ハワードがバルボアとかつて共に共有し契約していた通信魔法の眷属へ、その魔法の結印を示すべく━━━━現在時刻を計り、”通心の神”の眷属神ミロロクを司る方位を拝し、組んだ手印を右耳に掲げ、双方の姿を想起して心言しんごんを念誦しようとしたとき、━━━━不意に操舵室の扉が開いて重い足音が近づくのにハワードは気がついた。

 アウズの死神が通信機を鷲掴みにして指でなぶり、眉目に力を入れて口角を斜めに上げている。




「《━━━━━━━━出航するけぇの。……おどれら、道開けい━━━━━━━━》」




 ゆっくりと、地獄のように深く重たい声が、入り江に轟き渡った。巨船に増設された拡声器から物凄い大音が放たれるようになっている。

 ハワード達は耳を押さえて驚いたが、その手の一方は目を塞ぐためにも使わなければならなかった。巨船全体に増設されまくった照明器具から色とりどりの明かりが放射されて入江の闇は破廉恥な天国のように煌びやかになっているのだ。




「え!?なんすかこれっ!何の音……眩しい!怖い!」

「死神殿……ブンヤ殿!これは……」




 海上にあって地震に遭遇したかのような揺れが甲板を軋ませて、爆発するような音が左右の舟腹から上がっている。ハワードとラルフは外へ出て確認するまでもなく船室から外の明るい様子が見えているのだが、どうも周囲の瓦礫や沈没船をこの巨船が押し分けて強引に入江の外への海路を作ってしまっているらしかった。




「しにが……兄貴!ブンヤの兄貴!ちょっと待ってください!このまま突っ込んだら魔族の艦隊に撃沈されますッス!」

「ブンヤ殿、今少しお待ちください。私が帝国の船と通信魔法で渡りをつけます。それから━━━━」

「この照明全部落とさなきゃダメっすよ!何すかこのデコデコした派手な光の飾り付けは!夜のお店じゃないっすよ!?今、お外は真夜中なんすから目立ちすぎるっすよ!」



「《チッ、せせろーしいのう》」



「兄貴〜!?その拡声器もダメっす!入江の外まで聞こえてたらどうするっすか!」

「しにが……ブンヤ殿!船を一度止めてください。今のままではマズいですよ」


《「お、おいどうした?今の音は……その声は何者だ?どうぞ?」》




 ややこしいことになった。通信先のバルボア艦長に死神ブンヤの声が聞こえてしまっているらしい。




《「死神━━━━……死神だと?」》




 アウズの死神、とくれば冒険者間に伝わる御伽噺の伝説である。僅かに聞いたことのあるそれを察したバルボアは教養がある方なのかもしれないが、しかし言いつつ自分で信じがたい。いや、この魔法が起こす不思議で成り立つ世界において、伝説が実在する物事であるのは枚挙まいきょでないほどではあるのだが、しかし「人を見れば殺す」という死神が近くに居てハワードが喋っているのはどういう訳か。




《「ハワード、お前……」》


「ば、バルボア艦長。ともかく回線を変えましょう。どうぞ」


《「……………………」》




 ふと、口に手を当てて考えるバルボア艦長に過ぎる不安、逡巡、それは紛れもなくアウズの死神への恐れである。

 そしてハワード━━━━かつての同僚ケインの声が果たして本当に生者のものか、実はこの通信は冥界の干渉するものであり、自分はオバケと喋っているのではないかと急激な不安がバルボアを襲って黙らせてしまった。

 まま有る事なのである。こうした通信が死者と繋がってしまう不吉な事態というのは縁起の悪い場所で起こりやすく、茫楼街都市街郭アウズ大半島近海ではその手の冥界通信が意図せず起こることが時たまあった。なにしろこの魔都アウズにおける死亡者数が膨大なのは大陸百国行政委員会の諜報部による極秘報告書によるところ、年間平均6千6百66万人にものぼり、アウズへ流入する各大陸諸国からの移民の絶えることがないのが記録上は大陸史4万6000年より以前の前文明アジャスティアという太古の時代から続いている事が帝国近衛魔女ギギギの収蔵するアジャスティア王墓クロロ碑文により判明しているのである。

 つまり、この星の地表上でもっとも局所的に死霊を量産し続けている地域の近海にライズ・クラウディア戦艦は浮いているのだ。であれば、死者と通話し、尚その死者と引き合うような事は不自然ともいえず、そうなればこの状況は最悪な冥府の呪いを受けかねない危険を孕んでいると言っていいだろう。

 何より、アウズの死神が自分の軍艦へ向けてやってくるなどという事態をバルボアは絶対に避けたかった。命を殺す”死の光”に晒されて生きて帰れる者は居ないという伝説ではないか。




《「なぁハワード。いや、ケイン。俺たちは、ライズ・クラウディアは沈むわけにはいかない。ここで為すべき事がある」》


「……バルボア艦長?」


《「おお、我が愛すべき古友の御霊よ鎮まりたまえ。全てと全てと全ての神の御元へ、安らかに━━━━……?」》




 現世に未練あるハワードの魂よ”あの世”へ還りたまへと、バルボア艦長がついお祈りと敬礼を捧げだしたそのとき、通信に割り込むような雑音があってその手を止めた。

 傍受を探知する機器から聞こえる異音、そして傍受を阻止す機器を突破してハワードとバルボアの通信に繋げてきたもう一つの通信が鳴らす怪異の声が、バルボア達の耳を舐めるように不快に響いたのである。




《「━━━━このアウズ海域から全なる神々への祈り……?我らが魔神1柱ダギリへの供物を喜んで承ろう。それとも天魔への帰属をご希望かな?バルボア艦長殿」》


《「……!!!」》




 魔族━━━━とバルボアは固まり、ハワードも息を詰めて黙り込んだ。

 通信は短くやりとりし終えるものであり、それをちんたら喋っているから魔族艦隊の通信傍受網に捕まってしまった。ということだろう。バルボアは帝国軍艦本職としてあり得ない失態であり、表向き公務員のハワードとしても免職ものである。

 血の気の引いているハワードが硬直し、ラルフがあわあわしている間も、通信機器は魔族の介入する通信をそのまま伝え続ける━━━━




《「ハア……もう少し、盗聴を続けてもよかったのだが……自制できぬものだ。魔族としては貴様ら人類種のベチャベチャした友情や希望とかいうのを混ぜっ返したくてたまらん。あ〜人間、獣人、エルフ……人類種達が結託して我ら魔族に立ち向かう、その勇気と正義を最後の最後に踏みにじり、人生の後悔と絶望に喘ぐ心から滲み出す真っ赤な苦しみ。”どちらかを捨てなければならない”という板挟みに悶える選択の苦悩。それらを提供することの嬉しさは、我々魔族にとって掛け替えのない因果の報酬━━━━なにせ、このアウズでは都市魔法に染まった都民から絞り取るばかりで、なまの因果というものが━━━━」》



「《おどりゃあ、船全部どかせ》」



《「━━あ?」》





 一拍いっぱく、通信が無音になった。割り込んだ低い声の言う淡白な要求に魔族はつい言葉を失っているのだ。

 だが、その無音をすぐに奇妙な雑音が埋めてゆく。




《「……シーハー、シーハー━━━━」》


「「……??」」


《「シーハーッ、シーハーーッ、シーハーーッ!シーハーーッ!!」》


「……ぐぅ……ッ!?」

「…………ッ!!」




 ハワードとラルフは不気味な音に背骨を舐められたような悪寒を感じて体が動かない。その魔族の震える呼気は歯間から漏れて通信機を超え、聴く者に禍々しく怖気を立てる魔力そのものなのだ。 

 引きずるような、吐き出すような音が徐々に、徐々に通信機から漏れ出してゆくと、ハワード達の操舵室を耳障りな音が占めて空気が下水のように濁り始めた。




《「シーハーーッ!!シーハーーッ!!シーハーーーッ!!!シーハーーーッ!!!!!ッハァ、フゥ、フゥ……そう、その声……死神殿だ。オォ〜アウズの死神セッタ・ブンヤ。冥府に魅入られし御魂よ。当方、軍魔艦隊ヒャヒャーイ提督、アウズ東区デヴォンテ河口一帯を預かる魔大公デヴォデべクレヘムと申します。いやぁ、アウズに居て貴方と出会った試しがないが、被害の噂は私もよく聴いている。先刻もヒュローキ系列の魔族と都民からこさえた都市街郭を更地にしてくれたそうじゃないか。ええ?湿気臭いクーロンの大地のみねがひょっこり見えだ。我らが魔神は御冠だよ。その事でちょうど君に話が━━━━」》



「《”ピカ”でしごうたるけえのう》」




 なぶるように、吐き捨てるように言ったブンヤは一方的に通信電源をガチャ切りしてしまった。

 ”ピカ”というのは死の光、眷銃黒龍の放つピカッと眩い光線ことで、魔族間でそれを示す隠語である。ブンヤは魔族界隈のそうしたところをいじって「さぞ怖かろう」という脅しをかけたのだ。

 実際はブンヤは魔族の艦隊から危害もないのに黒龍を撃つことは出来ないが、脅された側の魔族としてはどう思うだろう。ついさっきヒュローキ達群魔と東の入江港湾はそのピカで壊滅したばかりなのである。


 ハワードやラルフには帝国と結託する伝手があったようだがブンヤにとってはどうでもいい。ともかく外海へ出てしまえばあとは外国の岸辺へ向かえばいいだろう、というくらいにしか考えていない。

 ブンヤには、そろそろ急がねばならない理由がある。

 入江の障害物を破砕する爆音と衝撃でガタガタ揺れ続ける巨船を急がせるのは、なにもブンヤが横柄な性分というだけの強引さではない。




『ブンヤ、帝国の船にこの子を預ければ安心じゃないか?だって、君はもう……』




 俯きっぱなしのクマリの横に立つ銀翼の眷属が肩を竦めて言うのは一理あって、今ブンヤ達が乗っている船が如何に巨船と言っても乗組員はブンヤとハワードとラルフ、それにクマリだけで、航海中に海の魔物や魔族や海賊・空賊の襲撃を受ければ防ぎ切れるものではないだろう。ブンヤが不死身でも船は大破すれば沈没するのだ。

 それに、眷属が言下に含ませた意志はブンヤの行く末を諭すものである事は、ブンヤには分かる。




「……こんなぁの好きにさせろ」



「……━━……━━━━……」




 見下ろすブンヤからはクマリの顔は見えない。だがその小さな口の呟きは、ブンヤには確かに聞こえている。

 ごめんなさい、ごめんなさいと謝罪を言い続けている少女の絶望的な思いというのは、しかしブンヤには解せない。

 死者達の魂を傀儡に使った事を頭の中が焼けるようになるまで悔やんで反芻しては自ら苦しんでいる、そうせずにはいられない執着に悶え続ける女の気持ちなど、命を殺すだけのブンヤには埒外らちがいのことで分かってやる気持ちにもなれない。


 もはや自分の意思表示ができる状態でないクマリに好きにさせろなどと言っても、どうしようもないのではないか━━━━傍で聞いているハワードとラルフは口を挟まないが、しかしブンヤに面倒をみろと言われて不思議とその気になってもいる。

 そうでなくても憔悴しきった少女に多少の縁ある二人は放っておくことなど出来ないのだが、まして少女が天魔の忌子である鬼導師というのが本当ならば、国家機密級の人材が目の前にいるのである。それが魔都アウズで見つかって、その国外へ逐電しようというというのを放っておけば、その後の”世界”がどうなるか分からない。クマリを捕らえて鬼術を利用させることにより人類の因果を工作する組織があれば、悪戯な勢力が勃興してゆくゆくは天下を大いなる混沌に乱す事は想像に難くないのだ。

 まだ世間に知られる前に少女を保護して隠し、ともかく海を安全に航海するには軍艦に身を寄せるのが得策だろう。死神ブンヤが無敵の殺し屋だとしても、側にいて安心とか頼もしさとかは全く無いのだから。

 

 ただ、そうするとハワード達には一つの疑問が浮かぶのである。

 このアウズの死神自身は外へ出てどうするつもりなのだろうと。


 慮外の存在が何を思い、何をするのかを人類は計り知れない。

 ハワードとラルフは御伽噺の伝説が真横に立っているのを一抹の寂しさを持って見上げていた。



 入江の航路を巨船がゆく間、両岸にそびえる街郭群は綺羅綺羅しい灯りで照らされてどこまでも続いて見える。もうずいぶんヒュローキの港湾からは離れたらしくて、巨船の速度はあり得ないほど速くなっているのだ。このまま岩礁や両脇の街郭にぶつかったら沈没するのでは無いかと思えるほど高波を上げて奔っているが、実際何度も街郭から伸びる橋や柱や何かの建築物にもろにぶつかり吹き飛ばして突っ切っている。


 長い長い入江もそろそろ江口の岬に差し掛かるだろうという頃合いのこと、左右の岸に物々しい軍港めいた要塞が増え始めると、その街郭の下部にある横穴のような巨大な空間から流れ出る豊かな水流━━━━おそらくこのアウズの元々の大地に流れている河口だろう、入江へと流れ出ている河水と海水の潮入りに一艘の小舟が浮いている。

 小舟の上に寄り添って立つ異形の意志達が、巨船を凝視している。

 ブンヤは右舷甲板に出るとその小船をじっと見て、ただ見送った。




『ブンヤ。僕たちはそろそろ、ここまでだ。領海から突き出る岩礁が尽きる頃には、僕たちの干渉は終わる』

 



 銀翼の眷属がブンヤの横に顕れてそう言うと、ゆったりと着ている絹服の懐から取り出した物をブンヤに差し出した。

 ブンヤは無言で受け取ると、その物体が放つ冷気で手に霜が立ち、重さで腕がやや下がった。それは角張った硬い、真っ黒な闇を押し固めたような一丁の拳銃である。




黒龍へいろん━━━━)




 見覚えのない拳銃に面影がある。

 つか銃把じゅうはを握ると吸い付くように掌に馴染む。

 その黒い銃身をブンヤは目を細めて眺めまわし、それから銀翼の眷属を見ると、ブンヤを見る緑の眼が潤う宝石のように輝いていた。




『選別だ。永い勤めだったな、セッタ・ブンヤ』



「よく言うのう。……選別じゃと……?」




 最後の仕事しのぎを手渡されたのだろう。これから死ぬブンヤに選別などと、黒龍の形代を下賜かしする意味は慰めではあるまい。

 片手に収まる眷銃━━━━拳銃に過ぎないが、眷属神が現世に降した神器の一つとなると尋常の火器ではないのだ。今まで撃ちまくっていた眷銃とは比較にならない小さな火力だろうが、人類の造成出来る次元とは別物だろう。




()()()で殺す命が、魂になるんじゃけぇ……最初が肝心じゃのう」




 小さな神器の撃ち下ろしを言ってブンヤは懐深く眷銃を納めた。

 そのブンヤの顔が複雑そうなのを見てか銀翼の眷属は少し鼻で笑うと、ブンヤは気に障ったらしくもう踵を返して行ってしまった。




『そう言うなブンヤ。何も語るまい。君が本当に知ろうとするなら、死後にわかる。僕たちとの縁も、君の魂も。━━━━御勤めを、ご苦労様』




 操舵室へ去ってゆくブンヤの背中へ掛けられた別れの言葉もそれだけで、眷属達は消えてしまった。


 神に仕える眷属神の眷属と、その手駒の筆頭たる直参の眷士。人外の存在達の交わりは淡すぎて、それは今生の現生だけが魂と因果の全てではないのだと、一期いちごの別れを惜しまない彼らの在り方を世界の人類種には理解出来るものではない。

 船室から見ていたハワードとラルフはブンヤと眷属達の様子をただ別れと察して、どういう事はか分からないけれど、頭を下げて仁義を切っていた。


 ━━━━というのも束の間のことで、背後に人が倒れ込む音がして二人は振り返るとクマリを抱き起こして介抱してやらねばならなかった。

 クマリは相変わらず放心したままでいるが、今までクマリを傍で支えていた眷属達の姿が見えなくなっている。









▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽









 視界は一面、夜の海である。

 第一、第二の太陽がすでに西方の果てへと沈み、第三の太陽が子午線を切るまでもうしばらくというところだが、大空の神は早くもとばりを下ろしてしまっていた。

 黒い空に輝く真っ白の太陽はどこか間抜けに浮いて見えて、迫る第一の月に急き立てられてもとぼけたみたいにゆっくりと傾いてゆく。


 この地表世界で稀に見る天文現象の刻限”暗陽あんよう”のひとときに浸る黒い海に、灯火のない船影がつらなっている。


 アウズの東の最も沖合にある岩礁”死出島しでじま”の外側の外海へと、軍魔艦隊第8陣は戦線を移動していた。その横陣中央の戦艦ヘルレオニスに搭乗する軍魔艦隊提督、魔大公デヴォデ・べクレヘムの指示である。入江の近海から八層に船陣を敷いた最も先に位置している。


 アウズの死神セッタ・ブンヤを干渉する土地神クーロンの眷属達による強烈な加護圏内がその岩礁までであることは、同地の上に永らく都市街郭を築いてきた魔族達によって見当がついている。その岩礁を越えた先の外海で眷属達の干渉を失うセッタ・ブンヤは、惨めに老いぼれた単なる男になるだろう。


 というのはまだ希望的観測に過ぎないにしても、しかしおそらくはその筈なのだ。

 土地神はその土地に寄する神であり、海上は海神わたつみの神の領界である。その地下の岩盤においても神々は厳格に領界を分けており、神々の神域というのは一つの星の全ての場所で持ち場があって司っている。


 如何に死神と謳われたセッタ・ブンヤでも、別の神の神域では、少なくともアウズにいる時のように無敵ということはあるまい。




「おい!アウズの死神もこれまでだぜっ!」

「フォウフォーウッ!!!」

「どうやって殺す!?」

「やっぱ全裸で尻穴爆弾か!?」

「定番すぎるなぁ」

「「「「ギャハハハッww」」」」




 首尾よく外海に布陣した戦艦に乗る魔族達は士気が高い。景気付けに連れてきた都民達を甲板上で無闇に嬲り殺したり姦淫したりしては酒を飲んで酒池肉林の宴で船を飾り、人間達の骨肉で作った楽器が奏でる魔界の曲が最悪な雰囲気でハジケまくっている。

 都民達人類種の理不尽に命を殺される絶望の因果が彼ら魔族の勇気と希望の魔力に変わり、これからたった一人の討敵のための全身全霊で殺し合う準備が整えられるのだ。

 普段ならアウズの死神に挑むことなんて考えても考えるだけで済ませておく妄想癖の魔族達も気合が入っている。

 魔族として死に方を重要視される彼らは、今までならアウズの死神に殺されても普通すぎて魔界から何らの評価をも得なかったが、それは死神セッタ・ブンヤに殺されることに珍しさも面白味もなかったからである。そして勝ち目が無さすぎて端から功名にも成り得ないのに挑む意味もなかった。

 だが今回は勝てる見込みが有り、失敗して殺されてもこの大戦で派手に散ったとあれば魔族として一つの勇名を残す事になる。死後の魔界でもマシな扱いを受ける期待ができるだろう。




「アウズ運営も飽きたからな」

「都市魔法で得られる因果は少ない。あんまりだから」

「ああして人草から吸い上げる因果は即席麺みたいでさ、いいかげん喰い飽きたよ俺は」

「今なら、殺してよし、殺されてよし、の三方良しだ」

「え?あと一方は?」

「もし怖くなって、死んだヒュローキの跡地に逃げ帰っても、また食いっぱぐれはないだろ」

「な〜る」



 

 死神戦に挑む魔族達に精神的な憂いはなさそうで、どの船の甲板上も拐ってきた都民達の屍肉が散らかって血臭が立ち込めている。正常な人間なら取り返しのつかない殺戮も、魔族達にとってはいつもよりちょっぴり胸のときめく晩餐だったろう。


 だというのに、操舵室の魔大公デヴォデ・べクレヘムは一人黙り込んで通信機の前に立ち尽くしている。

 大小50隻もの戦船いくさぶねを布陣しておいて、心許無いのである。入江の江口から外海に至るまでの海原に8層に渡る横陣を敷いて何人なんぴとの出入りも為し得ぬ万端の構えでありながら、果たして大丈夫だろうかと気が滅入っているのだ。

 アウズの死神というたった一命の眷士に艦隊は撃ち破られてしまうのではないか━━━━という心配ではない。

 



(余は、嫌われてしまっただろうか)




 セッタ・ブンヤに一方的に通信を切られてしまったことが、魔族の巨躯をいやしくすくませていた。

 通信を傍受して割り込みんだ興奮から通話を迫ったものの、目当てのセッタ・ブンヤは横柄にも軍魔艦隊の陣払いを要求し、あまつさえ魔族の命を殺す脅迫をして通信を切断したのだ。伝説に謳われる死神の声を聞いたべクレヘムの呼気が粗くなったのは気持ちが悪かったかもしれないが、セッタ・ブンヤの応答はあまりに淡白すぎはしなかっただろうか。


 この最初で最後になるだろう邂逅に命と因果の全てをかける意気込みでいる魔大公デヴォデ・べクレヘムにとって、作戦の失敗は自身の大きな野望を取り落とすことになってしまう。アウズの死神に”早とちり”をされては困るのだ。

 べクレヘムには来たる”魔王選挙戦”━━━━人類種にとっての魔王戦への準備の足がかりに、死神セッタ・ブンヤの討伐は欠かせない魔族査定の大手柄になるのだから。




「余が、私が、魔王1柱になるのだ。その列柱に並び立つのが他の魔族どもであってはならない」




 ”敵の敵は味方”というが、魔族にあっては同胞は皆敵である。

 大勢の同族からなる軍魔艦隊を率いておいて何だが、自分以外の誰にもセッタ・ブンヤを討たせたくないのである。


 此度の戦線━━━━入江封鎖の目的は、実のところ、帝国の侵入を防ぐ真意ではない。帝国の軍艦はさっき布陣を外海へ進めた時に遠くへと去ってしまったし、水平線の向こうに停船しているのが見えるものの軍魔から追討することはしなかった。


 アウズからの脱走者を捕縛するためでもない。

 この作戦は、永年、アウズの魔族の命と魔族の財産である都民の命を横奪してきた”死神”ことセッタ・ブンヤを討ち取る為の施作なのである。


 天魔界と魔神ダギリの名のもとに━━━━この”クーロン大半島封神企画”は預言書と予定書の両建てで魔族と人類種を扇動して形成されていた。

 それはパングラストラスへリア大陸聖神界眷属の発行する預言書に、同大陸魔界眷族の刊行している予定書、それらを元にしてベクレヘムが作成し頒布した偽典予言書と予定書別巻の二書による計画だった。

 人類種たちの命の因果の帳尻を合わせて”出来事”を作り上げ、天魔の遣う都市神アウズを奉じて土地神クーロンを封じる、その実現を目前にまであつらえてきた。その仕上げに、これまでに関わる無数の人員の命の行動を”アウズの死神がアウズから出てゆくように”仕立て上げたのである。天魔の落胤らくいん、鬼導師の鬼術までをも使わせて。


 それが、まるで逃げ道を塞がれたかのように思ってセッタ・ブンヤが別の退路の工夫をしてしまうのでは、魔大公べクレヘムにとっては困るのだ。

 そのために東の入江からすんなり外海へ出て来てもらうべく江口の両岬を閉じる巨大な海門を開け放ってあるのだし、べクレヘムを嫌って逃げるのではなく討たんとして掛かって来てもらわねばならない。

 船橋楼の操舵室から見渡す入江の方角に未だ変化は無くて、ただこうして死神の密航船を待つばかりなのは苛立たしかった。

 



「━━━━」




 何か他に、今のうちにできる手立てはないものか。何か忘れてはいないかな。と、爪を噛んでいるべクレヘムの頬に冷たいものが触れている。

 その存在に気がついて魔大公べクレヘムは表情が硬まった。




「べクレヘム」


「これは……」




 魔王1柱サタナ・バジリヴィチ4世の手に持つ酒杯がキンキンに冷えている。それがべクレヘムの右頬に触れているのだ。大きな水晶の酒杯に波波と注がれた琥珀色の液体から豊潤な果実の腐敗香がべクレヘムの鼻腔にツンと触れると、ハッとしてその場に膝をついた。




「ハハ……w、呑みなさい」


「陛下がお出ましとは、……」




 べクレヘムは立って外套がいとうの裾で半身を隠しつつ深々と敬礼し、魔王の手から酒杯の一つを受け取ると一口含み、次いで一息に飲み下した。




「━━━━っぷは……」


「ハハ……w、オイオイ……やるじゃないか」




 炎酒と言っていい酒度数1000%の銘柄ドラスコの古酒”ウィッチライズ”を飲み干して青い煙を吐いたべクレヘムを魔王は笑って見ている。

 この酒は、魔族にしては生真面目かつ我欲の少ない魔大公べクレヘムの戦陣を参観しに来た魔王からの景気付けだろう。魔族たるものいつでも酒くらい飲んでなければならぬ、というのがこの魔王の考えで、主立つ部下に会うとまず飲ませるのである。

 べクレヘムは魔王の目に掛けて頂いているという事に、喜びと同時に恐れ多くもあってやや緊張していた。

 魔王、というほどの魔族が何故にこの前線にまで足を運んだのか、それも供回りもつけずに単身であるところの理由には様々あるだろう。

 魔王は体格のいいべクレヘムよりも広い肩幅を静かに揺らして自らの酒杯を煽り、にこやかに頷いた。

 

 魔王サタナ・バジリヴィチ4世は大半島アウズ都市街郭の全域を統べる実質的国王の魔王である。

 初代からの世襲で4代目にあたるバジリヴィチは、アウズ各区の都市街郭を支配する魔公爵達を監督する四方魔大公4命を指示する多忙の身の上だ。

 その魔王が他の魔大公3命ではなくべクレヘムの戦陣にやってきたということは、今のアウズ全域の混乱は大方のところ片づいたということだろう。

 東区最大の版図と派閥を誇る魔族勢力の会長であったヒュローキ魔公爵の失った更地の領土があるが、周辺魔族達は分捕り合戦により分割統治する魔族同士の戦争の開戦を今か今かと待っている。死神セッタ・ブンヤが港湾から出港して入江から出れば、魔族達は安心して移民達を住まわせることができるのだ。




「街郭を造らねばならない」




 言葉少なな魔王バジリヴィチが和かにそう言って酒を呑み、また頷いた。

 間断無き魔都施工はここアウズ都市街郭の魔族社会において絶対的責務なのである。

 クーロンの大地にアウズ都市街郭を着工する企画の原初に魔神が天魔との盟約で取り決めた約束であるから、その履行りこうを違えることは出来ない。もし拡張工事の遅延ちえんや中止などになると法外な(神々の次元においても無茶な)損害賠償を工面せねばならなくなる。

 



「仰せのままに。……されど、今しばらくの御猶予を頂きたく」




 死神セッタ・ブンヤの討伐は魔大公べクレヘムが主導で企画立案し、この魔王バジリヴィチに採用されて進められた大型案件なのだ。その締め括りを自ら勤め上げるのはべクレヘムの魔大公としての責任感であり、魔王選挙戦立候補者として魔王バジリヴィチの推薦を授かるために果たさなければならない仕事なのである。




「申し訳ありません。ですが、セッタ・ブンヤを討ち獲り魔王選挙に到れば、当選枠入選は確実です。アウズの魔族票は全て私に集まるでしょう。バジリヴィチ陛下の魔領であるこのアウズから新規魔王輩出となれば、陛下の大魔王評価もさらに高まることは疑いありません━━━━」




 目を伏せて陳謝しつつも、べクレヘムはその所を曲げることは出来ない。

 本来ならばヒュローキ領の跡地を直ちに街郭施工するために自領の移民達を移住させて都市魔法に浸し、因果を吸い上げて街並みを造成しなければならないのだが、今はいいところなのだ。これから死神戦という時に、海に布陣させた自領旗下の魔族と魔貴族たちをヒュローキ領跡地に割く余裕は無かった。

 べクレヘムがふと視線を向けると、魔王はまた酒を飲んでは頷き、和かに微笑んでいる。その様子にどこか含みがあるようで、べクレヘムは言葉を止めて魔王の意図を伺う姿勢になった。




「ふふ……w」


「……?」


「いらないよ。すべては片付いている」


「陛下?」


「べクレヘム。君はよくやった。……暇を出そう」


「……━━━━━━━━」




 あまりに突然の解雇通告━━━━やはり街郭拡張施工に幾分かの人員を割くべきだったかと、べクレヘムは床に膝をつきそうになりつつも気がついた。

 この解雇は懲戒ではないのではないか。

 魔王という魔族を統べる大魔族がそのような狭量ではないだろう。

 その真意を受け止めるべく背筋を伸ばすべクレヘムに魔王は告げた。




「死神を討ち取りなさい」


「あ、……有り難うござます……!!!」


「魔族の門出かどでだ。偉大なる魔神”ゼ”眷族神ダギリの僕、デヴォデ・べクレヘムに幸いなる不幸を━━━━アクマ・アクマ・アクマ」




 そうして悪魔三唱、魔大公デヴォデべクレヘムを呪った魔王は酒杯をちょっと掲げ、星の散らかるように光の粒になって霧散した。アウズ魔王の在るべきアウズの城郭アウズ宮殿、その都市神アウズを祀る角座へ坐すべく去ったのである。


 魔王選挙の推薦はどうなるのだろう━━━━

 それは、心得ある魔族ならば知っている。

 魔王を名乗るのに、本当は資格なんていらない。



魔神ゼルゼルゼリ10戒 第9項

魔子まし一度ひとたび魔王たらんと期したるは、すなわれ魔王宣誓して立つべし”



 このように太古の大魔神ゼルゼルゼリも残しているところだ。

 魔王選挙などとはここ数万年の近年に作られて徐々に拡大した流行に過ぎず、古式に則るならば魔族個人による”魔王宣言”こそが魔王たる気概の本質なのである。「魔王はこうだ」という事実を作ってゆく者こそが魔王なのだ。

 魔大公べクレヘムが心から「俺は魔王だ」と宣言できれば、その時から彼は魔王なのである。それには目前の課題を何としても達成出来なければ、べクレヘムは自分で自分を魔王であるとは高らかに誇れないだろう。


 このことは、魔領改易となったべクレヘムにはもう帰るべき居場所が無くなったという事からも解る。あえて幕臣筆頭の魔大公ベクレヘムを解雇する事で、後顧の憂いなく己の為すべき事を為せと示した魔王の選別に違いないのだ。

 実際、すでに魔大公べクレヘムの魔領はバジリヴィチが勝手に他の魔族達に分配してしまっていたし、ヒュローキの跡地にも光の魔物を放って都市街郭施工の準備段階に入っている。━━━━という事実が魔王の去った直後の魔界通信で元部下ギャッツ・ギャン魔侯爵からの垂れ込みにより判明した。その外周では近隣魔族同士の紛争も盛んに始まっているから内戦が旧ヒュローキ領の全域に波及するのも時間の問題だという。


 つまり、死神セッタ・ブンヤは入江を出たのだ。

 そう気がついたべクレヘムが顔を上げると、遥かな水平線の向こう、入江の方角から明々と爆煙が上がるのが見えていた。





ときどき更新中。完結までもう少し

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ