第8話 ブルーヴェイン家
カルディア歴334年2月。
ノエルとソフィアを追って襲撃を仕掛けた学生たちは、ソフィアに癒してもらった後にエレナを運んで学校まで戻っていた。エレナは未だ意識を戻さず、残りの女子生徒2人は男子生徒3人から今回の件について詳しく聞かれ、ソフィアの一件まで話すとそれを糾弾し去っていった。
残された二人はエレナをベッドに寝かせる為に血の付いた制服を脱がし、医務室にあった予備の医療用ローブを着せてベッドに寝かせていた。
エレナが目を覚ますと、そこは学校の医務室のようだった。起き抜けで記憶が曖昧だ。確か街の外に行ってあの男を追ったはず。それからどうなったと思考している時だった。
「エレナさん!」
声を掛けてきたのは兄を追った友人の一人だ。もう一人の友人も側にいる。だが男子生徒はいなくなっていた。
「一体何がどうなって…」
「あの白い髪の女、彩無しじゃなかった。光魔法で私たちの傷を癒してくれたの」
「あの女が、なんで?私たちが追ってる時には魔法なんて一回も使わなかったのに」
「本人は隠してたみたいだけどお兄さんは気付いてたみたいだった。それとエレナさん、あなたお兄さんに斬られて死ぬ寸前だったの」
友人の言葉を聞きながら徐々に記憶が蘇ってきた。
「そうだわ!私は斬られた、確かに…その傷もあの女が癒したっていうの!?」
「そうよ、凄い力だった。あんな治癒魔法は見た事ないわ。私たち全員を1回の魔法で傷跡さえ残さずに癒すなんて…」
エレナは愕然とした。それは自分が致命傷を負ったはずのあの深い傷さえも同時に癒したという事だ。周りを見渡せば血だらけの制服が側に置いてある。あれは現実だった。
兄は本気で私を殺し、それを兄が助けた女が救ったのだ。エレナにとってこれ以上の屈辱はなかった。
「何よそれ…何なのよ…」
今まで信じていた物、培ってきた物、全てが崩れていく音がした。過去に自分と比較して不要と捨てられた存在に殺され、自分が無能と蔑んだものに命を救われたのだ。
神に愛されていると皆から言われている自分がこんなにも無様で惨めな醜態をさらすなど、想像さえしていなかった。
「あの人たちはどこに行ったの?」
「次に同じような事をしたら首を撥ねるって言って去っていったわ。もう関わるの辞めましょう…」
「あれはただの彩無しじゃない、化け物よ!それに『お兄ちゃん』って何!?」
もう一人黙っていた友人が不意に叫ぶ。そうだ、兄だという事は分かっていたが皆には伏せていたのだ。
「ごめんなさい、3歳の頃に両親に捨てられた兄そっくりだったの。多分、間違いないと思う。あんな髪と目の黒い人なんて他に居るはずないわ。それで助かるならって思って…」
「エレナさん、あなたの事は尊敬してたし信じていた。でもあんな想いをするくらいならヒッソリと生きてた方がマシよ!これ以上、私は貴方にもこの件にも関わらない、ごめんなさい」
「ええ」
所詮自分の周りにいる人間なんてこんなものだ。利があるから側にいる、そんな事は分かっていた。
「あなたも迷惑かけたわね、ごめんなさい」
「私も共犯だからそんなこと言わないで。でも彩無しを蔑むような事はもうしたくない」
「そうよね…私なにやってるんだろう」
側に居続けることを選んでくれた友人の言葉を聞き、涙が溢れる。その涙は感情の奔流に押し流されるように止まらなかった。悔しい、怖い、切ない、様々な感情が入り乱れており、取り繕っている余裕なんてなくなっていた。ただただ泣くしかないその姿はまるで子供のようだ。
その晩、夕食が終わった後に父と母にこの事を話そうと決意したエレナは思い切って切り出した。
「父上、母上。今日、お兄ちゃんに…ナサニエルと会いました」
「ソフィア。あれが生きているわけが無かろう。まさか覚えているとは思わなんだが、気にする事はない。あれはこの家には居なかった」
「父上、この家とはもう関係ない事は承知です。私も存在を認めることが出来ないと考えて兄に挑み、魔法は全て通じず、杖も砕かれ、挙句に致命傷を負わされたました。その後、情けを掛けられたのか兄に同伴している者に回復魔法で一命を取り留めました。これが証拠です」
そう言って無残に斬り割かれ血がべっとりと付いた制服を見せたエレナ。そして粉々に砕かれた杖も見せた。
「エレナ!本当にナティがやったの?」
「母上、間違いありません。私がお兄ちゃんと呼んだ瞬間に反応し、名乗ってもいない私の名前を呼びました。それにあんな黒い髪と目の彩無しがこの世に二人と存在するとは思えません。そして私が実の妹と知ってなお、私は兄に斬られました。友人が言うには治療魔法が無ければ私はその場で死んでいたそうです」
「ナティ、私達を恨んで…」
母は絶句していた。あの過去の事は最終的に自分も了承した事だ。どんなに言い訳をしたところでそれは変わらない事実である。故に彼女は自身を責め続けていた。そしてヴィクターとの間に子供を設ける事を拒否した。
もうエレナがいる、それで十分だと。それを聞いたヴィクターが外に女を作っている事も知っている。別の子を保険として産ませておくためだ。それもすべては自分のせいなのだと容認していた。
そこまでして忘れようとしていた、過酷な運命の挙句に幼くして死を迎えたと思われた我が子がまだ生きている。それは喜ばしい事のはずなのにエレナから語られた事実と後悔の念と入り交じった結果、言いようのない感情にイザベラは支配されていく。
「落ち着け、仮にあれが生きていたとしてもだ、エレナのような優秀なものが遅れを取る事はあるまい」
「父上は出来ますか?素手で魔法をそらし、まるで放たれた魔法を自分の力のように操る事が。私が放つ地属性の魔法を地面を軽く踏むだけで消す事が、私の距離で私の放つ魔法よりもより早く距離を詰め杖を斬り、刃で魔石を尽く砕くことが可能とお思いですか?」
エレナは必死に父に訴えかけ続けた。
「近距離を得意とする魔法戦士3人が魔法を付与した剣で斬りかかっても、その付与魔法を解除した上で命を奪わない様に手加減し傷を負わせ無力化する事が出来ると仰いますか?その全てを魔法無しでやってのけたのです!私はこの目でそれを見て、この体でそれを実感させられました!」
エレナは必死に状況を説明した。その様子に母はもちろん、父さえも狼狽えた。あんなに自信満々でいつも余裕の笑みを浮かべていたエレナがこんな様子を見せているのだ。ただ事ではない事は確かだ。
「し、しかしそのような荒唐無稽な話を信じろとにわかに言われても難しいな。あれが生き残りお前を凌駕するほどまでに成長するとは到底思えん。恩恵など一切受けていない者がそのような」
父は理解を示そうとしない。その様子を見てなおもエレナは訴える事を続けた。
「父上!お前ら程度の魔力の持ち主などこの世にいくらでもいる、その気になれば簡単に殺せる、自分の放った魔法で苦しむような雑魚、彩だけに頼る愚物…私はそう評価されたのです!その上で兄は私が彩無しと嘲り笑って追い詰めた女が、私よりもよほど力を持った存在だったと魔法を使わずとも気付いていたのです!」
エレナは一層力強く父に理解を求めるべく言葉を紡ぐ。だがヴィクターは考え方を曲げなかった。
「落ち着け、ただの偶然だろう。エレナ、お前は神々に愛されし選ばれた子だ。今後我らの前にあの者が万が一にも現れたとして、二度と不覚は取るなよ!」
「あなた、でもあの子はきっと私達を恨んで…」
「イザベラ、お前までそんな事でどうする。いいか、この話はなかった。神の恩恵無しにこの世を生きる事はあり得ん!」
ヴィクターはそう言って話を強引に終わらせリビングを出ていった。母は後悔と恐怖に震えているようだ。父は何もわかっていない。あの恐怖の前には私たちはあまりに無力すぎるのだという事を認められないのだ。
夜になっても今日の事が頭から離れない。眠れぬエレナは家族の事と兄のあの態度について考えていた。兄の事は彩無しの黒い髪と目を持った子供の姿しか覚えていなかった。
3歳の時に家からいなくなって、父からは「あれはブルーヴェイン家には居なかった存在だ、忘れろ」と言われた。その記憶しかない。
それからエレナは彩無しはこの世から消されるべき存在だと認識していた。だが再会した兄はどうだ?生きる為の術を身に着け自分でも理解できない力を使い、自分が無能と嘲り笑った者を守りその力さえ見抜いていたようだ。
弱者を守る力のある存在、それが貴族と学校で教わった。それを体現したのは自分ではなく兄ではないか。それでは貴族の自分よりもよほど兄の方が貴族らしい事になってしまう。
どうしてこうなってしまったのだろう?私は神より与えられた非凡な才能があると言われていた。だが、それは兄にとっては取るに足らないものでしかなかった。努力はしてきた、常に周りよりも高い位置に居た自分が、負けた。その理由が何処にあるのか?
決まっている。兄は自分と違って過酷な環境を生き抜いてきたのだ。その環境こそが兄を強くさせた。自分は所詮、そんな世界も知らない子供から成長していないと認めざるを得なかった。それが分からないほどエレナは馬鹿ではない。
それを認めたくないというプライドと、認めなければ追い付けないという事実が頭の中でせめぎ合う。暫くの葛藤の中でエレナは一つの結論を出し決意した。
翌日、朝食を取った後に母の様子が心配になったエレナは声を掛けた。
「ママ。お兄ちゃんが怖い?」
「ええ、あの子はきっと私を恨んでいるわ」
「お兄ちゃんは私達に無関心で恨んですらいない、私たちの事は他人だと言っていたわ。だから余計な事をしなければ何も起こらないから安心して」
「エレナ、でも私はあの子を…」
「ママはお兄ちゃんを捨てた事を悔やんでるのね。でも昨日話して判ったわ、パパは貴族の地位のしか興味が無い。私たちは只の道具なの。お兄ちゃんもそう。ママだって被害者よ」
「エレナ、私にはその決断を許した事に責任があるの。私が反対する事を諦めなければこんな事にはならなかったわ」
母はこんなにも悔やんでいたのか。側にいてどうして気付かなかったのだろう。そう思うと悔しい。
「ママ…これは結果論でしかないけど、ママが諦めた事でお兄ちゃんは強くなる切っ掛けを得てそれを掴んだ。それは私の才能を歯牙にもかけないほどだったわ。これもまた神に課せられた運命だったのよ」
「そんな運命を背負わせたのは産んだ私よ…」
今の母には何を言っても無駄だろう、それほどにナサニエルの事を後悔しているのだ。ならば自分に出来る事をするしかない、エレナはそう決意を新たにし母に打ち明ける。
「ママ…私決めたわ。学校は退学して軍に志願する。私はお兄ちゃん…ううん、あの人に負けたまま終わりたくない!絶対に追い付いて対等に話せるようになってみせる!だからその時まで待ってて」
「エレナ!あなたまでそんな過酷な道を選ぶ必要はないのよ!」
「このままじゃダメなの!私が私でいる為にはこんな所で立ち止まるわけにはいかない。私が強くなってあの人と対等になれれば、きっとママの事だって話を聞いてくれる。だからお願い、自分をそんなに責めないで。ママのそんな姿、私は見ていられないよ」
「エレナ…あなたにまでそんな思いをさせて、私は本当にダメな母親だわ」
エレナは母の肩を強く掴み、その言葉を強く否定した。
「そんな事ない!ママは沢山私を愛してくれた!お兄ちゃんの事だってずっと悔やんでるからパパが外で勝手をしているのも黙って見過ごしているんでしょ!」
エレナは知っていた。父ヴィクターが外に女を作って囲い、新しい子供を作ろうとしている事を。父がそんな行動に走るのも、母がそれを認めているのも、全て彩無しが存在するせいだと考えていた。
しかしその考えはもうやめよう、彩無しでも強い物は居るのだ。それを理解できなかった父の選択が間違っていたのだと考えるようにした。
そして翌週、エレナは学校を自主退学し軍へと志願した。それがさらなる悲劇の始まりになる事になるとも知らずに。
ちなみにこの間、ノエルは前話のようにソフィアと気まず~い夜を過ごしていました。