第二章 少年時代 後編
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第二章 少年時代 後編
1
ホスワード帝国歴百十二年九月二十六日。ホスワード帝国内で商いをしたい隊商三十名を、出発地のクミール王国からの警護として、衛士五十名と当地で募集に応じた、ガリン・ウブチュブクを含む護衛兵五十名は、目的とするホスワード正規軍との合流地点に達した。
時に午後の四の刻(四時)。この二日前の深夜にはエルキトの小集団の襲撃を受けたが、何とか其れを振り払い、この地まで達した。
ホスワード軍の出迎えは百騎。この場で警護は交代と為るのだが、ホスワード側とクミール側の代表が話し合い、この日は共に陣を築き、野営をする事にした。
合計で二百騎の武装した一団だ。流石にこれを襲撃しようとするエルキトの集団は居ないだろう。
クミール王国の衛士たちと護衛兵たちに、ホスワードの緑の軍装をした代表の男が進み出て、馬上より声を発した。
「馬上での挨拶失礼致す。小官はホスワード帝国軍下級中隊指揮官、ヨギフ・ガルガミシュ。酒の用意もしてありますが、場所が場所だけに程々にして於きましょう」
クミール側の衛士たちと護衛兵たちは久しぶりの飲酒に大喜びする。
一方、ガリンは「ガルガミシュ」と名乗った男が、かなり若いのに驚いた。
下級中隊指揮官なのだから、士官である。そして如何見てもこのガルガミシュと云う男は、三十前。恐らく二十の半ばにも達して居ないかも知れない。
「ホスワード軍はこんな若くても士官に為れるのか?いや、待てよ。軍人貴族は出世が速いらしいから、彼は貴族の出かな」
そう思い、ガリンはヨギフ・ガルガミシュを観察した。
緑の縁無し帽子には、鷹の羽が一本刺さっており、緑の軍装の上には、革の胸甲、革の帯、革の手袋、そして革の長靴は茶色で統一された物を身に付けている。
又、上半身で羽織った肩掛けも緑色だが、背には三本足の銀色の鷹が刺繍されている。
武器は腰の帯に佩いた長剣、馬の鞍の弓袋に弓と数本の矢、更に背には長さ百と五十寸の(百五十センチ)の鉄製の長槍が、胸甲の背の留め具で斜めに納められている。
紛れも無く、ホスワード軍士官の姿だ。
ヨギフはガリンに気付いた。自身を観察されたからでは無く、単にガリンが如何見ても十代の少年だからだろう。
「君は幾つだ?ちゃんと御両親の許可を得て、この部隊に入ったのかな?」
「父は居ません。母には許可を得ています。ガルガミシュ指揮官」
ヨギフは衛士の長と、護衛兵の長に、この少年と少し話をしたい旨を述べ、其れは了承された。
周囲では皆が幕舎を設置し、夕食の用意をしている。
先ず年齢を改めて聞かれた。
「六月で十三歳に為りました」
二人は下馬したが、ヨギフが驚いた事には自身と身の丈があまり変わらない事である。
ヨギフは百と八十五寸程の屈強な体格だ。
「そうか、丁度十違うな」
ガリンも驚く。この若い士官は二十三歳だ。
「ふっ、随分驚いている様だな。察しの通り私がこの齢で士官なのは、貴族の出だからだ。因みに私の父は将で、武衛長(軍事警察長官)を兼任している」
軍の実務部隊と、軍の高官を兼ねる事は、ホスワード軍では珍しい事では無い。
実務部隊の頂点は大将軍を筆頭に将軍たちが、軍高官は頂点に兵部尚書、兵部次官、と続き、武衛長は人事長に次ぐ四番目の地位とされる。
ヨギフはガリンの身の上話を熱心に聞いていた。
父親が遠い西方出身である事。母親の父親、つまり祖父がホスワード軍の正規の兵であった事。
「その祖父の名は分からないのかね。可能なら調べる事は出来るが」
「母は程無く戦死した、としか言っていません。自分と母親である妻を捨てた男だから、余り話したく無いのでしょう」
「では、ホスワード軍を憎んでいるか」
「いいえ!寧ろ逆です!数年前にクミールでエルキトと戦うホスワード軍を至近で見ました!軍規は粛正、功有る者は正当に評価する軍、だと聞き及んでいます」
ガリンは意を決して、ヨギフに言った。
「ガルガミシュ指揮官。俺はホスワード軍に入る事は可能でしょうか!?」
ガリンがホスワード軍に入隊したい理由を聞いたヨギフは、ガリンに真摯に答えた。
「母親の為、と云う理由は好く分かった。実際に我が軍には困窮したエルキト人を迎えているから、入隊自体は問題無い。だが、其の体でも問題は年齢だな。今は母親を援け、宿屋の仕事に精を出すのだ。事情は有れど、其の宿屋が無ければ、君も君の母親も生きていけなかったんだから、恩義は十分に返すべきだ」
「…其れは何時まででしょう」
「今の齢でこの様な任務が出来るのだから、其の内クミール当局から、正式に衛士の誘いがあるだろう。そう為れば、主人としては承諾せざるを得ないから、其の時が君自身の進路を決める時だ」
ガリンはこのヨギフ・ガルガミシュと云う男が、単なる貴族のお坊ちゃんでは無い事を感じた。
自分の様な小僧に対して、真剣に応じてくれる。
顔付きは若いが、黒褐色の瞳は知性と意志の強さに溢れている。
「ホスワードの軍人貴族は皆こうなのか?其れともこの方だけが特殊なのか…?」
ガリンはヨギフに誘われ、夕食の場へと向かった。
「言って於くが、酒は未だだぞ」
2
翌二十七日の昼前に、隊商と其れを護衛するヨギフ・ガルガミシュ率いる百騎は、ホスワード領へと出発した。
衛士の長がガリンに近寄って、言葉を発した。
「昨日は夜遅くまで、あのホスワードの指揮官殿からお前の事を尋ねられたぞ。勿論先日の襲撃の撃退の話も詳細にした。恐らくあの方は四・五年後には、二十前の若者を自部隊へ、上への許可無く、自由に入隊させる権を持つだろうから、ホスワード軍に入りたいのなら、あの方を頼るのだな」
将か、この様に自身の希望が進むとは思わなかったガリンであった。が、彼は得意絶頂の時では無い。
「我々も帰路は気を付けましょう。あの撃退した輩が復讐に来ないとも限りませんし」
衛士の長は「成程、これは逸材かも知れん。クミールで衛士をするより、ホスワード軍で出世して貰った方が、後々クミールの国防の役に立つだろう」、と思った。
十月の初日。クミール衛士五十騎と、護衛兵五十騎は、クミール王国へと帰還した。
死者は一人も出ず、即座の治療が必要な負傷者が二名、軽傷者が八名だ。
ガリンが無事に帰って来た事に、母のソルクタニは宿屋を飛び出して、迎えに出た。
「母さん!体の調子は大丈夫なのか!?心配なのは俺の方だよ!」
「何言っているんだい。無事で戻って来て本当に好かった…」
こうして、ガリンは元の宿屋の従業員と為ると思いきや、次第に使いの仕事が増えて行く。
この様にクミール王国からホスワード帝国へと、エルキト領内を通って行きたい隊商のホスワード軍への護衛の合流地点を決める使いの役を、ガリンは主に命じられた。
謂うまでも無く、宿屋の主人の意向だ。
これは一騎で赴くので、ある意味先の護衛任務よりも危険が伴う。
母のソルクタニは、益々心労でやつれて行った。
二年が経ち、ガリンは十五歳。
ホスワード帝国歴百十四年の七月。
この日もガリンはホスワード軍への使いの出発へと旅立つ。
ガリンの身の丈は百と九十五寸近くに為り、顔付きも日々精悍さを増して行く。
使いは頻繁には発生せず、多くとも月に三回程だ。
だが、この間にガリンはかなり危険な目に遭っている。
草原を只一騎で奔り、彼目当ての襲撃者に襲われる事、しばしばだった。
弓術はこの御蔭で更に精度が増し、初陣で奪った槍を、独自に改良した二尺を超える槍には、先端に巨大な斧が付いている。
腰には副武器として長剣を佩き、次第にこの巨大な槍を持つ大男は、危険人物として、エルキトの諸部族を初めとして、各地の盗賊団は手を出さない様に為って行った。
後は何時もの様に宿屋の食材用の狩りだ。
ガリンは宿屋の様々な雑務を離れ、実戦的な業務が主と為った。
因みに、使いでホスワード軍と会う時、最初の数カ月しかヨギフ・ガルガミシュは現れなかった。
今現在、彼が中央にて栄達している物と思われる。
ガリンは宿屋の主人は別として、様々な人たちから好かれる性質なのだろう。
以前、駄目元でホスワード軍のある士官に使いで会った時、出来たら自身の武芸を上げたい為、ホスワード軍の武芸書を貸して貰えないか、と頼んだのだが、何と次に会った時は、其の士官は「自分は既にこれを隅々まで読み終わっているので、不要だ。君にあげよう」、と無料で貰った。
尤も、軍の機密に関わらない、訓練の小冊子だが、ガリンは宿屋に居る時は、熱心にこれを読んだ。
武芸だけで無く、初歩的な用兵等についても、図入りで書かれている。
当然ホスワード語で書かれた物なので、ソルクタニはこれを熱心に読むガリンを咎めなかった。
八月に入り、ある日ガリンは珍しく、一日中宿の為の食材探しをしていた。
其れもクミール王国からやや離れた、クミール王国と同規模の広さの湖で、数匹の鮒を釣り上げた。
身は揚げ物、頭や骨はスープの出汁、後は燻製にして、保存食とする。
夏場にガリンは、よくこの湖で水泳を楽しむ。
「ホスワードは東は海に面しているし、南はドンロ大河と云う、まるで内海の様な大河が在る。ホスワード軍に入るなら水上の活躍も出来ないとな」
ガリンはこの湖で漁をする者に、「手伝いたい」と称して頼み込んで、船の操船も時折学んでいた。
この日の夕、一階の食堂で、宿泊客たちが、ガリンが獲って来た鮒のスープを前に、こんな会話をしていた。
「ホスワードはテヌーラと完全な講和をしたらしい」
「つまり、南の脅威は取り除いたから、エルキトとバリスとの戦闘に集中出来る、と云う事か」
長らくドンロ大河の中下流域の、所謂「北東ドンロ地帯」と呼ばれるホスワード帝国の南部は、テヌーラ帝国が領していたが、フラート帝の登極で奪還に成功している。
其の余勢を駆って、ホスワード軍は大船団を擁し、テヌーラ帝国の首都オデュオスを長期に渡って攻囲していたが、これはテヌーラ水軍が、ホスワード軍の補給路を絶つ事に成功し、ホスワード軍の全面退却と為った。
暫く、両国は散発的な戦いをドンロ大河上で行っていたが、数年間より、国境線を其のままドンロ大河で決め、講和する事が話し合われていた。
エルキトとバリスとも同時に対峙しているホスワードとしては、これで少しでも負担を減らしたい処だ。
3
宿泊客たちは、ホスワード帝国の首都ウェザールまで赴くか、等と話し込んでいる。
テヌーラとの講和は、本格的なテヌーラとの交易の活発を意味し、帝都ウェザールは様々なテヌーラの物産で溢れているだろう、と。
尤も、対峙中でも両国は交易に特別な制裁を科さなかったので、以前より物産が増え、安価で購入出来るかも知れない程度だ。
テヌーラの物産なら、茶や絹や磁器等が先ず挙げられる。
久々に食事の後片付けをしていたガリンは、話を聞いていて、ある事を思い出した。
「茶かぁ、確か母さんが一度でも好いから飲みたいと、言っていたな。確か王宮近くの繁華街では茶を扱っている店が在るな」
ガリンは使いの仕事をしてから、其れなりの給金を貰って来ている。
クミール王国の茶屋は、貴重な茶葉は扱っていなく、王族を初めとする茶葉を持った富裕層の元に、茶器を持って赴き、茶をたてるのだ。
茶葉を買い、この茶屋に茶を淹れて貰う依頼をするのに、一体幾らの金銭が掛かるのだろう、とガリンは思った。
八月中頃に発った、宿泊客の商人たちは、十二月初旬に、クミール王国に戻り、商いをしている。
先ず、ホスワードの地で物産を売り、そして帝都ウェザールで様々な物産を買い込み、其れ等を今度はここクミールで商いをしているのだ。
彼らはラスペチアの出身で、年が明け、一月中頃に故郷に戻るので、一カ月以上はこの宿屋を拠点とする。
既に十一月も中頃に入ると、この地では雪がちらちら舞い、空は大抵厚い灰色雲に覆われ、十二月に入ると、本格的な降雪が始まり、三月の初めまでは、定期的な豪雪が起こる。
この期間、ガリンは宿屋周辺の雪掻き等の作業に追われるのだ。
宿屋の食堂でガリンは大喜びしている。
それは、ホスワードから戻って来たある商人が、大量の茶葉を購入していたのだが、かなりの低額で数杯分は飲める分量を購入出来たからだ。
「何、俺が商いをする場所の雪掻きもしてくれたからな。其の分の駄賃を引いただけさ」
「有難う御座います!」
「おいおい、そんなデカい形の癖に涙ぐむ奴がいるか」
ガリンが事前に調べた処、残りの自分の持ち金でも、茶屋で茶を淹れてくれる事は頼めそうだ。
翌日の昼食後の食堂。休憩時間と云う事もあり、茶屋から職人が茶器一式を持って、宿屋へ現れた。
ソルクタニが座っている場所へ、ガリンは其の職人を案内して、茶を淹れる事を頼んだ。
周囲には数人の従業員や商人たちが居て、この光景を微笑ましく見ている。
「ガリン、大丈夫なのかい?高かったんだろう?」
「そりゃ高いさ。でも数カ月彼方此方で雪掻きをしたら、元は十分取れるぞ」
「そんな事をしなくても好いのに、可笑しな子だよ。お前は」
入れたての茶がソルクタニの前に出され、彼女は其れを飲む。
何より寒い時期。口内は元より、体の隅々まで、暖かくなり、湯気の馥郁たる香。渋みと甘みの合わさった舌触り。其れ等を十分に楽しんだソルクタニは息子を見た。
「お前も飲むかい」
「いいよ。全部母さんが飲みなよ」
「お袋さん、如何も此奴は茶より、酒の方に興味がある様だぜ。食事中の片付けに来る時は、何時も麦酒や葡萄酒の杯を全身涎を垂らして見てやがるんだ」
そう近くに座った商人が言うと、周囲の従業員たちは大笑いし、ガリンは否定出来ず、頭を垂れ巨大な身体は、小さく縮こまってしまった。
「来年、十六に為ったら、麦酒なら許可するよ」
母に言われて、茶を楽しむ母よりも、更に喜びを表すガリンであった。
4
季節を問わず、危険な一騎での使いの往復や、山野での狩り。宿屋では宿泊客の荷物の積み下ろしの作業。客が馬や馬車で来た時は、馬の世話。燃料の為の日々の薪割。夏場は湖で水泳。冬場は雪掻き。
更に、時間を作っては武芸の稽古に励む。
この巨大な少年は、体を動かす事で、体内から溢れ出る力を発散しているのか、或いは常にそうしていないと、体内の力が行き場を無くし、自身を焦がすのか。
ホスワード帝国歴百十六年六月五日。ガリン・ウブチュブクは十七歳と為った。
身の丈は、遂に二尺に届き、肩幅広く、厚い胸板、引き締まった腰回り、瞬発力を感じる張った臀部、そして筋骨の逞しさと太さが好く判る長い手足。
顔付きは少年っぽさを未だ残しているが、彼を戦士として迎えたく無い部隊等、この地上に存在しないだろう。
実際、クミール王国からガリンを衛士として、正式なクミール王国軍の兵士として迎えたい旨の依頼状が、ガリンの働く宿屋に来た。
宿屋の主人は考える。
ガリンを手放すのは、一人で何人分もの肉体労働が出来る人物が居なく為る事を意味する。
だが、彼を国の兵として、事実上売り渡せば、自身にかなりの大金が入り込む。
無論、彼の母親のソルクタニの意向などは無視である。
ガリン十七歳の誕生日から三日後、宿屋の主人は、三階の自分の自室にガリンを呼んだ。
主人はガリンに用事を命ずる時しか会話をしない、世間話等もしないし、ましてや自室に呼び出す事もしない。
主人は五十代前半。彼はガリンに長椅子に座る事を命じ、長椅子で囲まれた机の上に書類を置いた。
クミール王国からのガリンを衛士としての採用依頼文書だ。
「御上からこの様な文書が来たら、私としては断れない。如何だ、入隊は問題無いか」
ガリンは文書内容を熟読していた。
因みにガリンはクミール語の読み書きは、初歩的な内容なら問題ない。但し、役人が報告書に記す様な難解な文章の理解は不可能だが、衛士は其処まで学を求められていない。
十月から一斉に始まる三カ月程の調練の結果、採用不採用が決まるが、記載されていた調練内容はどれもガリンには簡易過ぎる物だったので、不採用は先ず有り得ない。
だが、ガリンには気に掛かる事があった。
母のソルクタニの容体が、一カ月ほど前から本格的に悪化し、もう彼女は仕事が出来ない状態に為っている。
「俺がこの宿を出て行ったら、母は如何為るでしょうか?」
「此方としては従業員を奪われるのだから、多少税が軽減される。お前の母親は、上手く金の遣り繰りをして、我が家で面倒を見よう」
「出来たら、定期的に医師に診て貰いたいのです。給金が入ったら、其の分の金額は払います」
「では、給金は全てお前の母の医療費に当てよう。これで問題無いな」
「…はい、判りました。この事は既に母に伝えて居りますでしょうか?」
答えは「伝えて無い」だったので、ガリンはこの部屋を辞し、其のまま主人一家の生活場から、同じ三階の狭い部屋が幾つか並ぶ、母と自分の部屋に入った。
時刻は昼前の十一の刻だが、ソルクタニは床で横に為っている。
目は覚めているが、ガリンが朝に床の横の机に置いた食事は、半分以上残っている。
「母さん、話があるけど、大丈夫か?」
話を聞く為に半身を起こそうとした母親をガリンは制し、「其のままで」と言った。
「王国の衛士の採用がほぼ決まった。十月から調練で、給金が入る様に為ったら、定期的に医師に診て貰う様に旦那様に頼んである。月にどれ程会えるのか判らないけど、もう母さんは働かなくって好いんだ」
軽く咳き込むと、ソルクタニはガリンを見詰めて言葉を返した。
「ガリンや、私の為に自身の進路を決めるのは、辞めておくれ。お前はホスワード軍に入りたいのだろう。私はもうそんなに長くないから、私が死んだらお前の好きな様に生きなさい」
「……」
ガリンは言葉が出ず、母の瘦せこけた顔を見ている。涙に潤んだ瞳の輝きは弱く、手を取るとまるで冬場に小道に落ちた小枝の様に、か細く折れそうだった。
「…兎に角、この食事は下げとくよ」
ガリンはそう言って、食事の残りを片付けに一階へと降りて行った。
5
八月が終わりに近づき、日が暮れると、ごく僅かに軽い冷気を孕む時期。
ソルクタニの病状は一気に悪く為って行った。
ガリンは全ての持ち金を出して、クミール王国内に在る唯一の数人の医師と、数十人の看護師が常駐している施設に、母を九月に入って入院させた。
そして、入院費を稼ぐ為に、宿屋の仕事を朝起きてから夜寝るまで、休み無く、些細な雑事でも率先して行った。
宿屋の主人には頼み込まざるを得ない。
「十月からの調練で、俺は宿を離れますが、給金が得られる様に為るまでは、母の医療費を御願い致します!必ずや全額返します!」
宿屋の主人は無関心そうに頷いた。
実は、ガリンの衛士の募集で、貴重な従業員が居なく為るのだから、当局から主人は大金を得ている。
この金で充分ソルクタニの入院費は賄えるのだ。
ほぼ毎日、ガリンは時間を作って、施設に赴き、母を見舞ったが、日々弱って行く事を確認するだけだった。
流石に医師もガリンに正直に告白した。
「最善の手は尽くしているが、君のお母さんの御命は、そう長く無い物と覚悟する様に」
「何か特殊な薬が必要なら、俺が入手して来ます!」
「いいや、もう心労で心身が持たないんだよ。若し良薬が在るとすれば、君がお母さんの傍にずっと居る事だな。幸いにして、お母さんの部屋の隣は空き室だから、其処で住む事を許可する」
「…ですが、費用は?」
「費用?君の働いている宿屋の主人から、来月の末までの入院費は貰っているぞ」
「……!」
「知らんのか。君は衛士に為るのだろう。従業員を取られるのだから、あの主人には当局からかなりの大金が振り込まれた、と聞いているが」
「…判りました。有難う御座います。明日より、お世話に為りますが、宜しいでしょうか」
こうして、翌日よりガリンは宿を離れ、自分と母の私物も全て撤去し、施設に一日中居る事に為った。
事実上、彼はこれで、自身が生まれてから世話に為った宿との決別を決行したのだ。
「…ガリン、仕事は?其れにそろそろ衛士の調練の準備もして於いた方が好いんじゃないの?」
自分が横たわる床の傍で、椅子に座したままのガリンに、ソルクタニは珍しく明瞭で明るい表情で声を掛ける。
ガリンは何となく察した。恐らく母の命が尽きる命の残り火の最期の輝きなのだろう、と。
「何も心配する事は無いよ。何か有ったら俺に言ってくれ。もうずっと母さんの傍に居るから」
「そうだねぇ。今日は珍しく食欲が有るねぇ。食べ物お願い出来るかい」
用意したのは山野の根菜を煮込んだスープ、パン、そして温めた蜂蜜入りの山羊の酪奬だ。
スープはガリンが匙で掬い、母に飲ませた。
確かに珍しく、ほぼ完食したソルクタニは横に為り、ガリンは施設の調理場で、食器等を洗いに行った。
九月十八日。この日ソルクタニは、朝から本格的に気分が悪く、昼前から意識を失う様に為った。
ガリンは無論、医師も常駐して様子を診ている。
午後の六の刻を過ぎる頃。ガリンはこの日は朝から何も食べていない。
ソルクタニがガリンを見詰めて、最期の言葉を発した。
「…ガリン、お前は私の自慢の息子だよ」
そして、目を閉じたソルクタニは、再度自身の意志で目を見開く事は無かった。
七の刻に医師が脈と心の音と閉じられた瞼を開く確認を、三回連続で行い、ガリンにこう告げた。
「ソルクタニ・ウブチュブク。其の死去を確認しました」
享年四十八歳。
ガリンは医師に礼を言い、明日には母と自分たちの荷物を持って退去する旨を述べた。
6
翌十九日の早朝。ガリンは以前より覚悟していたので、葬儀屋で注文していた棺桶を貰い受けに行った。
そして、自分たちの荷物を纏め、毛布に包まれた母を棺桶に入れ、この医療の施設を後にした。
「ガリン!」
現れたのは、宿屋の従業員たちだった。
でっぷりと太った中年の料理長が言う。
「最期の別れ位、俺たちも共にさせてくれ」
その料理長の妻で、ソルクタニとは長年の友人だった女性が言う。
「埋葬の前にお化粧をしないとね。埋める場所は彼女のお母さんの処かい」
ガリンの祖母。つまりソルクタニの母もあの宿屋で働いていたが、ガリンが生まれるずっと前に亡くなっている。
ある従業員は馬車とガリンの愛馬を用意している。
ガリンは死に化粧を施された母の棺桶と、自分たちの荷物を、この馬車に納めた。
一行は、ソルクタニの母が埋葬されている場所へと進む。
城外へ出て、北へ一里(一キロメートル)程行った針葉樹林が疎らに林立した草地だ。
ガリンより十歳程上の若い従業員が、其の埋葬場所の途上で言う。
「で、お前はクミールの衛士に為るのか?」
「いや、全てが終わったら、俺はこのままホスワード帝国に行き、ホスワード軍に入る心算です」
「では、クミールの衛士に為らないのだから、例の金は返却を求められるかも知れんな」
料理長が言うと、ガリンは申し訳なさそうな顔をした。
「皆さんの給金が引かれるかも知れない。なので、大した物は有りませんが、母さんの遺品と、俺が要らない物は、皆で分配して受け取って下さい」
ガリンは必要最小限の荷物で、ホスワードへ行くのだ。
当地に着き、ソルクタニの棺は彼女の母親の隣に埋葬された。
「俺はこれからクミール王国の当局に衛士の調練の断りを入れて、其のままホスワードへ出立します。皆さんお元気で!」
ガリンはそう言うと愛馬に乗った。背嚢に最小限の荷物。鞍に付いた左右の袋に弓と矢。腰には長剣を佩き、背には長槍を背負っている。
即座に走り出した彼は王国に戻り、衛士に為る断りの申し出に奔った。
十九日の昼過ぎのクミール王国の衛士の部署。
「そうか。ホスワード軍に入るのか。立派に出世して、同盟国である我がクミールが危機に在った時は、宜しく頼む」
そう対応にしたのは、初めて護衛の仕事をした時の衛士の長だった。
クミールの衛士は全員騎兵なので、一応騎兵団とも名乗っている。
現在彼はクミール王国の副騎兵団長で、クミール王国の正規軍の二番手だ。
尤も、五百名程の副長なのだから、ガリンが千人を越す大隊指揮官に出世すれば、確かにクミールの国防では、ガリンの方が寧ろ重要だ。
こうしてガリン・ウブチュブクは、クミール王国を出立して、東へと騎馬で向かった。
母ソルクタニの父親の祖国ホスワード帝国。其処で彼はホスワード軍への入隊を求める旅だ。
つぅー、と太陽の様に輝く彼の明るい茶色の瞳の両目から、涙が溢れ出て来た。
だが、彼は其れを拭わない。
何故なら、これが自身が流す最後の涙だと決めていたので、只流れるままにする、ガリンであった。
第二章 少年時代 後編 了
改めて10万文字超え作品を何作も完結させている方はすごいと思います。
私は一年以上かけて作りましたが、もうしばらくはやりたくありません。
【読んで下さった方へ】
・レビュー、ブクマされると大変うれしいです。お星さまは一つでも、ないよりかはうれしいです(もちろん「いいね」も)。
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・誤字脱字や表現のおかしなところの指摘も歓迎です。
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