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冬眠

作者: 音椋

 頬を撫でる風が一気に冷たくなった。

 文化祭が終わったころからか、気温がぐんと下がり、いつもより長かったような気がする夏の終わりを感じた。

 どこか浮ついた文化祭の熱も、次の日にはそれを感じさせないほどに落ち着いていて、普段通りの日常に戻っていた。

 文化祭期間は解禁されているジャージ登校にも特別感があったのだろう。制服姿の生徒たちが校舎を行き交っている風景が少しだけ懐かしく、元の日常を実感させた。


 そんなことを思っていたのが二週間前の話。

 つい最近のようで、とても昔のような気もする。

 あれからもぐんぐんと気温は下がり続け、秋はどこに行ってしまったのか、あっという間に冬を感じさせる程になっている。

 普段であればニュースなどで紅葉の情報をもっと見聞きすると思うのだが、今年はそれがないままに、山々はあっという間に茶色が占める面積が多くなった。ニュースでは初雪という言葉も見受けられるようになっている。

 僕はと言えば登下校のときはマフラーと手袋を付けているし、制服の下にはヒートテックまで着用した。

 今の時期からこの万全な格好をしてて、本番の冬を乗り越えられるのかと心配になる。けども、学校では風邪が流行ってるから対策しろと言い聞かせられている。クラスでも休みの人が多くなった。気温差にやられてしまったのか、文化祭が終わった反動なのか、多分どちらもだろう。

 それに防寒を怠って体調を崩すのはなんか違う気もする。僕らは受験生だし、風邪を引こうもんなら親もうるさい。万全を期すに越したことはないだろう。


 今日も一日何でもない学校生活が終わり、マフラーと手袋をばっちり身につけて昇降口へと向かう。さっさと教室を出て一直線に昇降口へ。そうすれば放課後の喧騒が迫ってくる前に抜け出せるのだ。

 靴を履き替えて、昇降口の扉から一歩外へ踏み出す。瞬間、肌を刺すような冷たい空気に襲われた。反射的にマフラーで顔を深く覆う。

 最近は日も随分短くなり、下校時間には夕焼けになっている。学校は町を若干見下ろせるぐらいの標高に立っている。町は盆地になっており、中央に行くほど栄えていて低い位置にある。一級河川と田舎にしては大きな駅が盆地のちょうど一番標高が低い位置にある。

 やや見下ろした位置にある町は、夕日を反射してきらきらと輝いている。

 向かい側に聳えている山々の少し上には太陽がいて、山と空の境目はオレンジに色づいている。天に近づくほどオレンジから薄い水色に、薄い水色から濃い水色に変わっていく。温もりと冷たさを感じるグラデーションだ。

 この時期は昇降口から正門まで続くいちょう並木を夕日が照らしており、黄金色に照った葉っぱたちと葉の隙間から差し込む光は優しく輝いている。毎日見ている光景ではあるけれど、なかなか幻想的な空間に魅了される。

 ただ、景観は良くとも銀杏のこの匂いはあまり好きじゃない。落ち葉の処理だって必要だ。掃除の時間に生徒が何人か駆り出される。ただでさえ割り当て人数が足りてないと感じる掃除分担なのに。

 美しいものにはトゲがあるの理論はあながち間違ってないのかもしれないな、と思った。

 道路に落ちて潰れた銀杏の実を避けながら歩く。なんとなく踏みたくないというだけなのだけど、これもまた難しくて、右に左に揺れながらいちょう並木のトンネルを潜る。

 小学生のころ誰もがやったであろう横断歩道の白い部分だけしか踏んじゃだめ、という感覚に近い。

 こと銀杏にいたっては、全て避けるのは限りなく不可能であるから、いつも後半部は普通に歩いてしまう。

 踏んだとて何が起こるわけでもない。


「何してんの」

 右往左往しながら歩いていたところ、不意に笑い声と共に背後から声をかけられた。僕は基本真っ先に帰路に着くので、誰かと下校を共にすることはない。だから、話しかけられたことにはびっくりした。それに見られていたと思うとちょっと恥ずかしい。

「めずらしいね」

 振り返りながら答える。会話としてはゼロ点だろうが、謎の行動に触れるのも嫌だし、言わんとしていることは伝わるだろう。聞き馴染みのある声から相手も分かっていた。

「今日は塾に行かなきゃだからね」

 百点の返答。なんとも受験生らしいセリフだとも思った。

 彼女が横に並ぶのを待ってから、これまでよりゆっくりと歩き出す。

たわいもない話をしながら、町の中央の方に向かって進む。帰り道は基本ずっと下りで、しばしば自転車を漕ぐ生徒にものすごいスピードで追い抜かれる。

 彼女の通う塾は駅前にあるはずだ。僕の家は駅の向こう、大きな川を渡ってすぐのところ。お互いの目的地は学校から徒歩三十分ほどで近いとは言えない距離だ。彼女が早く学校を出てきたのもそのためだろう。

 途中マフラーと手袋はさすがに早いのではないかという話になったけれど、彼女の手を見ると赤くなっていた。僕が正しかったなと思い、ふふんと心の中で胸を張る。くだらない。

 そんな彼女はいつもの赤いスカーフと黒地の制服。その上に白いカーディガンを身につけている。若干普段より厚着ではある。

「もう冬に向かってるのをちょっと認めたくなくて」

 と言い訳をしている。気持ちはわからなくもないけど、僕らは季節の移ろいには勝てない。

「無駄な抵抗はやめなさい」

 ドラマの刑事役が言いそうなセリフを発しながら、抵抗の相手が季節なことに心底バカバカしいなと思った。

 人間相手ならまだ抗えるかもしれないけど、なんて多方面に怒られそうなことを思ってしまった。口には出さないつもりだった。出していた。

「交番寄ってく?」

 怪訝な顔をしながら、中学生の下校において、寄り道の選択肢としてあるまじき提案がなされる。少なくとも下校中に思い立って行くような場所ではないだろう。

「ご勝手に」

「あることないこと話してきちゃうけどいいんだぁ」

 逆にそれはなんとか妨害とかで捕まりかねないのではと思った。まだぎりぎり十七歳だからある程度許されるのだろうか。

 ともかく、このくだらなさが心地良かった。


「なんか久しぶりだよね、一緒に帰るの」

 目的地まで半分ほど進んだ辺りで空を見上げながら呟かれる。

「そうだね、なんか懐かしい感じがする」

 彼女とは同じ部活に入っていた。他にも同学年の五人のメンバーがいて、部活を引退するまではいつも七人で帰宅していた。つい二週間前までの話。文化祭が最後のステージとなって、三年の僕たちは部活を引退した。三年も一緒にいれば当然色々あったんだけど、なんだかんだで平均的に見ればみんなが仲良くやっていたと思う。僕もあの空間が好きだったし、みんなもそうだった、と勝手に思っている。

 クラスも交友関係もバラバラだから、引退してからはわざわざ待ち合わせて一緒に帰ろうということにはならなかった。今の時代、下校以外にも時間を共有する術だってある。こだわる必要はなかった。

 だから、久しぶりだったのだ。たった二週間の空白だけど、三年間ほぼ毎日顔を合わせた僕らからすれば、十分すぎるほどの隙間だった。

「そういえば進路希望、決まったの? 」

 文化祭が終わってからは進路の話がメインになった。文化祭を免罪符に進路の話から逃れられていたが、向き合わざるを得ない季節になっていた。受験だってそう遠い話ではない。

「一応。志望校は前から話してたとこに決めた。将来何したいとか、高校の違いとかまだよく分からないけど」

「そうだよね。私も全然分からないや」

 そう答えた彼女ではあるが、志望校自体はずっと前から決まっていた。現実的に通学可能な範囲での一番偏差値が高い高校。学力的にも妥当だろう。

ちなみに僕は二番目のところ。彼女と同じ高校も狙えなくはないが、勉強のモチベーションもそこまで高くない。俗に、良い高校と呼ばれるような進路にこだわる必要も今の僕には感じられなかった。

「というか同じとこ来てくれないんだ」

 少し拗ねたような顔をしている。

「お生憎それほど頭がよろしくないもので」

「そんなに変わらないじゃん」

 実際はだいぶ変わるのだけれどそれはそうとして、そもそもの話、一緒の高校に行こうなんて話をしたことはない。ないはず。

「なんかさ、最近ね、そうやってみんな別々の道に進んでいくんだなって実感して。あんなにずっと一緒だったのに、それが嘘だったんじゃないかって思えるぐらいに、どんどん離れていってしまうの。やっぱり寂しいんだよね」

 どことなく儚げな表情をしている。

「私ね、さっき声をかけるときもさ、たった二週間なのに、三年ずっと一緒にいたのに、ちょっと怖かったんだよ」

 彼女は他人に話しかけるのが得意な方ではないことに思い至ったが、多分、そういう話ではないのだろう。

 彼女とは部活のメンバーの中でも一番親しくなれたと思っている。僕に対しては他の人よりも心を開いてくれていた気がする。食べ物の好みは真逆だけど、性格というか考え方とか、そういう部分で少し似ていた。

 だから、だと思う。

 さっきの言葉には、その僕相手ですら、というニュアンスが混ざっていたと思う。たぶん

 どうでもいい会話を積み上げてきた時間では、他の人に負ける気がしない。周りからは付き合ってるだのなんだのと茶化されることもそこそこにあった。

 実際に僕らの関係性に名前が付くことはなかったのだけれども。

「二週間でこれだったら、一年とかもっと間が空いたら話しかけることもできなくなりそうで嫌だな」

 不安そうに口を開く彼女を見ていると、少し安心した。

 決して、不安になっていることを喜んでいるわけではなくて、僕も同じようなことを考えていたから。

「僕も同じようなこと考えてた。みんなが別々の道に進んで行くこと、しょうがないけど寂しいなって。ずっと文化祭のステージが終わらずに続いてくれればいいのにって思ってた」

 地表に残った僅かな熱をも奪い去っていくように、強く冷たい風が吹き上げる。

「仲間だね、私たち」

「これまでも、これからも、ね」

「約束だよ」

 ふふっと笑みをこぼす彼女を見て、また安心した。

 これは純粋に。その様子を見て、そう思った。

「勝手に縁切ったら怒るからね」

「そちらこそ」

 怒ってもさほど怖くはないけれど、でも怒らせたくはないなと思った。

 息を一つ吐きながら、ふにゃ〜とした表情になった横顔。ある程度気を許している相手にしか見せない表情に嬉しくなる。それと、怖かったというのも本当だったんだなと実感する。

 たった二週間の時間が、僕らの関係を明確に変えている。

 当たり前だった日常が離れていく。

 終わらなければいいなと思っていた時間が、当たり前が、手の中からするりと落ちていくような感覚がある。

 もちろん、上手くやれば、今まで同様は難しくとも、それなりに関わり続けていられるかもしれない。世間の人はある程度うまくやっているのだと思う。

 だけど、僕も彼女も、そこまで上手く生きられるタイプではなかった。

 だからこんな些細な口約束に未来を託した。

 そういう部分で、やはり僕らは似ていた。



「あのさ、」

 少し間の空いたあと、彼女はそう切り出した。

 次の言葉を待っていると、また空白が生まれる。

 ちらりと右横を見ると、悩んでいるような、困っているような顔をしていた。声をかけようか迷ったが、やめておいた。考えているときに邪魔をするのは良くないだろう。

「いや、なんでもない」

 しばらくの逡巡ののち、風の音でかき消されてしまいそうな小さな声で放たれた。

 彼女は今何を言おうとして、何を考えて、言うのをやめたのだろうか。ゆっくりとした歩調を緩めることもなく考える。

 何もわからない。

 沈黙が落ちる。

 風の音だけが耳に入る。何もかもをさらわれてしまうのではないかと思わされる。

 また横を見ると、今までに見たことのない、苦しそうな笑顔がそこにはあった。なんだか胸がきゅうっとなる。

 なんで。どうして。

 何も分からない。

 彼女の中の葛藤も、得ようとしたものも、守ろうとしたものも。

 胸が苦しくなるのも。

 たった三年じゃ何も分からなかった。

「何も聞かないんだね」

 決して責めているわけではないと、声色が伝えてくる。

「考えて、考えて、伝えるべきじゃないと思っただろう決断に対して、何も考えずに聞くべきじゃないなと思った」

 考えても何も分からないんだけどね、と自嘲気味に付け足した。

「やさしいね」

 急に褒められてびっくりする。あまり褒められ慣れてないもので、咄嗟に反応できない。

「ちょっとずるいことしようと思っちゃったんだ」

 こちらも自虐的に付け足される。

 ずるいこと、という言葉が引っかかった。ずるいこと。あの場面のずるいことってなんだろうか。

 もっと彼女のことを知っていたつもりだった。

 なのに、今の彼女のことを何も分からない。

 顔色を伺うために視線を移すと、真っ直ぐに目が合った。

 こちらの困惑した顔を見て、ふふっと笑う。

「わからないままでいいよ」

 楽しげに放たれたその言葉にモヤモヤとする。

 分からないことに対してもそうだけど、分からなくていいよと言われるのはなんかいやだ。自分の無力感というか、情けなさを感じる。期待すらされていないのか、とも。

「変わらないままでいてよ」

 同じような響きの、全く違う言葉が飛んでくる。

 変わらない、か。

 何も分からない僕のままでいいと、それを望まれているのだろうか。それはなんというか、残酷なお告げのように聞こえた。

 この二週間で僕らの形はこれほど変わっている。それでいてなお、変わらないことを望まれている。

 僕は分からないままでいいだなんて思えないけど。

 それでも、その他の部分でそれが実現するのならば、どれだけ素敵なことだろうとは思う。

 それほどまでに、どうでもいいことばかりを積み上げた時間たちは、どうでもいいとは思えなかった。 

 ただ、変わらないなんてことは叶わないと、何となくわかってしまえるぐらいには歳を重ねていた。

「そうだといいな」

 横に車が通っていたら聞こえていないだろう小さな声で、彼女は呟いた。

 またしても胸がきゅうっとなる。

 彼女も薄々分かっているのだろう。変わってしまうだろうことを。

 そうであるならば、きっと今、僕が投げかけるべき言葉は、変わってしまった未来でも羽根を伸ばしていられるような、そういう類のものだろう。

 想像する。僕らの未来を。

 違う場所で交わらない日常を送っている僕らを。

 お互いのことなんて忘れるぐらいに、幸せになっている日々を。

 何もかもが今とは変わっている未来を。

 少しずつ伝えるべきことの輪郭が浮かび上がってくる。

「もしかしたらさ、今こうやって、ちょっと前までの日常を失って寂しいと思っていることも、本当は失いたくないと思っていることも、いつかは忘れちゃうかもしれない」

 浮かび上がった輪郭をなぞりながら、ゆっくりとゆっくりと、自分でもひとつずつ確認しながら吐き出す。彼女の目はまっすぐにこちらを捉えていた。目を合わせて上手く話せる気がしなかったので、視線を上に向ける。

 オレンジ色の部分がほとんどなくなっていた。空は濃い青にどんどん支配されていく。

「もし、忘れているとしたら未来の僕らはきっと、その未来で充実した生活を送っているんだと思う」

 自分でも何を言っているのか混乱し始めて、ちゃんと言いたいことが言えているのだろうか、伝わっているのだろうか、と心配になる。

 それでも、ひとまず最後まで続ける。

「それでいて、ふとしたときに今の僕らのことを思い出したら、そのとき、寂しいと思うんじゃなくて、今の僕らを忘れられるぐらいの幸せに包まれていることを噛み締めて欲しいなと思ってる」

 ちゃんと言葉として人に届く形をしているのか、よく分からなかった。

 言葉がそのまま宙を舞ってどこにも届かないような気すらした。

 でも、それでも、ひたすらに言葉を発した。

 伝えたいことを伝えるのって難しい。言葉にするのはもっと難しい。ひょっとしたら言葉なんかじゃ何も伝わらないのかもしれない。

 けど、今の僕にはこれしかできないから、僕の精一杯で何かが届いてくれたらいいなと思った。

 そんな願望を込めて隣を見やる。

 もう僕が回収できない場所までちゃんと届いていた言葉たちを咀嚼しているような様子だった。

 視線はこちらを向いていなかった。

「やっぱり、やさしいね」

 彼女は伏し目がちにそう呟く。

 褒められているとは、思えなかった。

「私はね、その逆のことをしようと思ったんだよね。今抱えている気持ちをできる限り離したくないと思った」

 私は優しくないんだ、と付け足される。

 そんなことないよ、と無責任には放てなかった。

 彼女のこと、結局まだ、何一つ分かっていなかったから。そんな僕はきっと優しくない。

 またしても空白が生まれる。今までの僕らにはあまり無かった時間。三年分を今日使い切っているような気がする。

 それでも、不思議と居心地は悪くなかったことに安堵する。

 とはいえ、ここに留まっている場合ではない。

 今、僕が、彼女に本当に伝えるべきは、伝えるべきと思ったことではないのだろう。

 伝えたいと思ったことなんだと気付かされた。

「僕も優しくないよ」

 彼女に対して、優しいとか優しくないとか言う権利を持っていないと思ったから、僕に対する彼女の評価を覆した。

「本当は僕も離したくないと思ってる。こぼれ落ちていく日常を、1粒でも残しておきたくて必死に握りしめている」

 手袋を付けていても実感できるほどに手は冷えきっていた。

 彼女の手もとうに冷めきっているのだろうか。

「でも、ずるいから、その気持ちを隠したんだ」

 白状した。全てを晒す。

 普段なら恥ずかしくてたまらない行為も、今この場所なら、いや、彼女が相手だからか、できてしまった。

 そうやって自分の気持ちを吐き出して、少し彼女のこともわかった気がする。気がする、だけだったのだとまたいつか気づくのだろうけど。

 今はこれでいい。

 お互いに、お互いのことを思った上での言動で、その方法が違っていただけなのだと思う。僕らのすれ違いはきっとそれだけで、もしかしたら埋まることのない差なのかもしれない。

 そして、お互いのために、今の気持ちから逃げた。

 そういう決断をしたのだ。

 僕らはお互いに生きるのが下手で、ずるくて、優しくなかった。

 それでいて、お互いの自由を奪う勇気も、覚悟も、ずるさも持ち合わせていなかった。それほどに優しかった。

 どこまでも僕ららしいなと思って、それが可笑しくて、つい笑ってしまう。

 その様子につられて彼女も笑う。

 つい数十秒前からは考えられないほどに、軽くなった雰囲気に笑いが止まらない。笑うしかないのかもしれない。

 その調子で大通りまで出てきた。すっかり日は暮れてしまったけど、行き交う車たちや飲食店にコンビニにスーパーなど、様々な明かりによって視界は明瞭である。今まで通ってきた道を振り返るとそこは真っ暗に見えた。

 忙しく動く明かりに照らされながら信号が変わるのを待つ。

 ひとしきり笑いあったタイミングで、ちょうど青信号に変わった。

 大通りを横切って、また暗い町並みに吸い込まれる。一瞬の安寧だった。

 ふぅと一息つく。

 空には月が見えている。半分に欠けている。

 なんとなく、いつかのやり取りを思い出す。思えば、あれをきっかけに彼女と距離を縮められた気がする。

 あれから、たくさんの時間を共有した。

 日常として染み付いていった時間。

 そんな日常を、失いたくないと思っている自分が、今、ここにいる。

 失いたくないと思ってくれている彼女も、今、横にいる。

 その事実がこの上ないほどに嬉しくて。

 この想いが共有できただけで今の僕にとっては十分に感じられた。



「あのさ、」

 音はすぐに目の前の黒に吸い込まれる。僕一人がその音を拾うことができた。

 街灯もほとんどない田舎の道。だからこそ星空が綺麗に見える。気温が下がっているおかげで、夜空がより一層美しく見える季節になってきている。

「約束だよ」

 今度はハッキリとした声で聞こえる。

「縁切るなってやつ?」

「んーーー、全部、かな」

 欲張りだな私、と楽しそうに笑っている。

 その笑顔を見れてよかったと心から思う。

「善処するよ」

「それだいたい後ろ向きに検討するときにしか使わないやつじゃん。前向きに検討して」

 ちょっと怒ったような顔をしながらグーで右肩を小突かれる。いつもの感じに安心する。

 ふぅともう一度息をつく。

 結局のところ、口約束で終わるところが、やはりなんとも僕ららしいと思った。

「どうしようもなく不器用で、どうしようもなくやさしいね」

 どちらが発した言葉なのか分からなかった。

 どちらが発していてもおかしくないと思えるぐらいに、僕らを表すのに最適な言葉だと思った。



 暗い住宅街を抜け、駅前通りまで辿り着くと人工的な光が目に飛び込んでくる。やけに明るいその光は、今の僕にはあまりにも眩しく感じられた。

 街路樹のものであろう葉が、今日の強い風でだいぶ落とされている。風に身を任せてあちらこちらで落葉が踊っている。

「じゃあね」

 彼女の目的地に着いたので、そう声をかけると、何やら不服そうな顔をしている。何かまずかったかと心配になる。

「じゃあね、はなんか嫌だ」

 すぐに答え合わせがなされた。こんなこともわからないのだ。

「それも約束の一つ?」

「そうだね、そうしよう」

 それなら仕方ない。約束だからね。

「またね」

「それでよろしい」

 彼女は満足げに頷き、またね、と言いながら腰の辺りで控えめに手を振って、背を向けた。


 一人になってしばしの間ぼけっと立っていると、横の街路樹も同じように立ちすくんでいることに気づく。

 どこか寒そうに見えるこの木々も、冬を越して、また来る季節に芽吹くために、じっと長い間耐えるのだろう。

 もう落ちてしまった太陽も、明日を照らすために昇ってくる。

 欠けている月も、いつかは満ちる。

 僕らもまた、いつか、どこかで幸せになるのだと思う。

 今抱えている不安も、気持ちも、忘れてしまえるほどに。

 この冬はそのための準備期間なのだろう。

 だから。

 この夜にも、この季節にも。

 変わりつつあるこの日常にも。

 僕らが今抱いているこの気持ちにも。

 蓋をして閉じ込めたりなんてしなかった。

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