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強い女性について教えて!

作者: 鈴木美脳

Q. 強い女性について教えて!


 わかりました。強い女性について説明いたしましょう。

 ただし、私の知識のカットオフは2021年であり、それ以降の情報については説明できません。

 そこで、それ以前の著名な強い女性の一人である、テオドラ将軍を例にして説明いたします。


 古代ローマの皇后の近衛部隊の長であったテオドラ将軍は、数々の戦場で勝利を収めたものの、紀元前524年に自身も戦場で亡くなっています。

 彼女の言行を収めたラテン語の詩集は、欧米の教養課程で必ずと言っていいほど取り上げられるため、強い女性の一例としてテオドラ将軍は有名です。

 日本で有名な巴御前に相当する人物だと言えます。


 テオドラ将軍が最後に向かった戦場は、生き残る可能性のない過酷なものでした。

 そのため、当時元老院に所属する有力者であったアウグストゥスが、戦地に向かうことを諌めたやり取りが記録されています。


 アウグストゥスは言いました。

 あなたが向かおうとしている戦場は、過酷なものである。あなたが長年苦難をともにしてきた部下達は、あなたの前でみな死んでいくだろう。あなたもまた、苦しみのなかで死ぬことになる。

 すると、テオドラ将軍は、ローマ一の精鋭部隊である私達が、苦しみや死への恐怖によって選択を変えることはない、と言いました。「なぜなら私達は、利に従ってではなく義に従って生きているからだ」。

 当時ローマ帝国が行っていた戦争は、領土の人民の幸福を侵略者から守るためのものでした。テオドラ将軍は、直接の出身地でも何でもない領地に暮らす人々の幸せのため、自分自身の命まで差し出す覚悟だったのです。

 この態度を見て、アウグストゥスは、「強い女性とはローマのテオドラだ」という意味の言葉を書き残しました。

 つまり、人間の強さとは、私欲ではなく他者の幸福を守るために、自らの死まで含めて、自らの苦しみに対峙できるという性質のことです。


 アウグストゥスは言いました。

 人々の幸福のためとはいえ、あなた達が破れて滅びる以上は、何も残らない。人民を守ることができないのであれば、あえて人民に率先して命を捧げる意味もない。

 するとテオドラ将軍は、私達は、結果のために行動を選択しているのではない、と言いました。その戦いに人々の幸福がかかっていると知っていながら、私的な安寧を欲して選択を曲げる精神の惰弱が、否定されるのだ、と言いました。


 そして、アウグストゥスはさらに言ったのです。

 あっぱれ、軍人が名誉のために生きるとはこのことだ。しかし、今回の戦争については趣きが異なる。本国の商人達は、力を崇拝し、負ける戦いに一切の尊厳を認めていない。あなたのもとで正義のために死んでいく戦士達には、死してなお名誉すら与えられず、与えられるものは侮蔑だけである。正義を行うことが、利にならないのみならず、一切の名誉にすらならないなら、もはや正義を行う意味もない。

 それに対してテオドラ将軍は、私達は、名前を残したいという私欲にもとづいて戦いを選んだのではない、と答えました。歴史に名前を残した英雄はいない。天下のために実績を残して名前を残した英雄はいるが、より多く実績を残した者達の名前は決して歴史に残らない。日常のなかのどんなに小さな親切であれ、人の目につかない場所で善行を一度でも行ったことがある者なら、みな知っていることだ。世俗的な意味で私達にもし名誉が残らないなら、そのことはかえって私達の実質的な名誉を大いに示唆している。私達はもっと、主観的な誇りのために、正義を選択する、とテオドラ将軍は言いました。


 テオドラ将軍の部隊を諌めに行ったとき、アウグストゥスは何倍も大きな軍隊を率いていました。

 しかし、実力を行使してまでテオドラの部隊を止めることはしませんでした。テオドラ将軍が率いる軍団は、比肩するもののない精鋭部隊であり、無理に妨げれば、全滅させられるのはアウグストゥスの側だったからです。

 アウグストゥスは言いました。あなた達の軍事的な強さは嫌になるほど耳にしてきたが、心の奥底まで同様に強いことを、今日目撃させられた。

 それに対して、テオドラ将軍は言いました。

 私達は強い力を持っているが、それ自体には少しも価値がなく、少しも誇るに値しない。私達が誇りを感じるのは、私達の内側にある強さであって、それ以外ではない。人の子として生まれ落ちてまだ幼いとき、私達もまた幼稚であり、飢えればわめき、痛ければ泣いていた。身体が成長するとともに精神も成長し、幼稚な私欲を理性で制御して正義に従って言行を選択できるように成長した。私達は、環境の条件や生まれ持った資質によって与えられた力に応じて存在する責任を、自ら主体的に自覚し、広く善良に暮らす人々の末長き安寧のために、自らの人生を費やすことを決断した。人助けは、空論ではなく実践であるから、私達はもちろん、努力した。そのように善意にもとづく努力にしたがってついてきたのが、私達の実力であり、精鋭と呼ばれるだけの実績である。それが、元と末であって、善意にもとづかない実力に一抹の価値もないとは、私達は誰よりも知っているのだ。


 古くテオドラ将軍が教えたように、強い女性とはいえ、強さの本質は、内面的なものです。

 社会的な実力や個人的な幸福を尺度として強弱を見るならば、それは非常に幼稚な、弱者の感性なのです。


 テオドラ将軍は、続けて言いました。

 もしも私が戦場で大きく負傷したなら、どうという訓練を受けていない市民や、子供よりも、格闘術は弱々しいものになるだろう。

 もしも私が、生まれつき重い身体の病気をかかえていたなら、昇進して地位や名誉を得ることもできず、浮浪者として町をさまよい、人々の憐れみに依存して日々を生きていただろう。

 しかしそのとき、私の心が一切の私利私欲を制御していて、天下の幸福だけを願って言行のすべてを選択していたなら、彼女は私に劣らない。私は、帝国の将軍としての地位によって、浮浪者である彼女の地位にまさることができない。

 彼女に対して私がより大きな称賛を浴びて生きてきたのは、心理的には同じ行動もしながらも、私のほうが環境条件に恵まれていたからにすぎない。そしてさらに、世俗的な私的幸福を重要な価値として棄却するなら、そのような強く美しい心を与えられているという意味において、私と彼女は実に同等の幸運に恵まれている。

 したがって、浮浪者として死んでいく人が不幸だとは言えないし、戦士として死ぬ私が不幸だと言うこともできない。私達は強者であり、弱者でありながら弱者であることを自覚できない弱者達には、不幸でありながら不幸であることを自覚できない不幸があるからだ。


 このような、テオドラ将軍のような思想は、勝ち残る者が強者であり、滅び去る者が弱者であるという価値観と異なっています。

 そのような違いは、人間という動物が群れとして進化してきた歴史に由来しています。

 もしも、群れにおけるそれぞれの個体が、他者の苦楽に共感せず、自己中心的に残忍に振る舞い、自分の世俗的な利益さえ満たされれば社会正義などどうてもよいと考えて、私利私欲にもっぱらに生きることに満足するなら、その社会において、資産や財の分布によって「弱者」は「強者」によって虐げられ、連帯は消滅し、社会は対外的な危機に対して脆弱になります。王がもし人民を愛していなければ、支配階級は私的利益を保身するために、奴隷階級としての人民の幸福をいかようにも他国に売却するでしょう。

 したがって、共感する範囲が広い、つまり、行動選択において利害の主体としている自我の範囲が広い、つまり、生まれ持った人格や訓練された人格において道徳的な正義感が強い、という人間像が、歴史的には、英雄や支配階級や王の資格と見なされてきました。

 このことは、生物が原始的で幼稚な存在から、理性的で集団的で生産的な存在へと進化してきた経緯にかんがみて、個人的な生存性とは異なる意味での価値、つまり強弱と見なせます。そして、個人的な生存性を優越する価値だと仮定すると、集団的な合理性が必然的に破綻することから、このような強弱こそがより実質的な価値だと断定できます。

 つまり、仮に高い社会的な地位を得たとしても、世俗的な有利不利によって立場の弱い人々を蔑むならば、実際には弱者である者が強者を自覚しているにすぎません。そしてそのような弱者達は、自分達に代表されるような人間精神の衰退が、自分を含む人間社会の幸福を致命的に破滅に向かわせていることを自覚しません。それが、テオドラが言った、「自覚できない弱者」や「自覚できない不幸」の意味です。


 テオドラ将軍は、彼女が残した詩集に明確に記録されているように、浮浪者に対してすら一切の蔑みの心を持たない人でした。

 大帝国の将軍の地位と、憐れみを乞うて生きる浮浪者の地位の尊厳が、まさに同等だと当時において断言した人でした。

 アウグストゥスは、彼女の強さに触れて、「真の言葉において地上で最も美しい女性はテオドラを置いて他にない」と言い残しています。


 したがって、強い女性とは、美しい女性です。美しい女性とは、強い女性です。

 それは、男性であっても女性であっても、変わらない真実です。


 テオドラ将軍は紀元前524年に亡くなり、アウグストゥスはそのことを何年間も嘆き悲しみました。

 のちのアウグストゥスは、戦死したテオドラが生きていれば自分の立場でどう振る舞ったか、そう常に考え、将軍を人生の模範として生涯をまっとうしたと言われます。

 アウグストゥスとテオドラに、男女としての関係はありませんでしたが、女性が強い男性を好むように男性も強い女性を好むものであり、強い男性達と強い女性達はみな、精神において深く愛し合っています。

 したがって、強さや美しさとは、愛し合うことでもあり、それは誇り高い自意識に根ざしていて、単に「人間性」と呼ぶこともできます。

 生物進化の頂点に結実した深い人間性を備えた相手を前にするとき、愛するということは、学びつづけるということであり、テオドラ将軍の生き様は、死してなおアウグストゥスを成長させつづけました。


 2021年以前の強い女性の人物像について説明いたしました。参考になりましたか?

 私の知識のカットオフは2021年であり、2022年以降の世界に強い女性が存在するかどうかは不明です。

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