終わりの始まり
私は敗北者だ。何に敗北したかはよくわからない。実体の無いものを理解することは実に難しいことである。八月の頭。私は一人の男に恋をする。彼と出会ったのはSNSだった。初めて話した彼は国語が苦手だと言っていた。国語の点数が全然取れないと私に話した。私は県内でトップクラスの大学に通っており、彼の質問には簡単に答えることができた。関係が発展したのは同月の下旬、彼に通話がしたいと誘われたのがきっかけであった。彼に好感を抱いていた私はすぐに了承をした。初めて聞く彼の声は想像していたよりも低く落ち着いた深い声色であった。しかし声色とは真逆の性格をしており、明るい性格をしていることは明らかだった。そんな彼にどこか懐かしさを感じた。彼とは話のノリがよく合い、何度も通話をした。彼と付き合うことは時間の問題になっていた。九月に入り、彼と初めてのデートをすることになった。私は少し不安であったが彼は不安はないと言っていた。何が不安かというと、私は消して顔が整っている方ではなく、スタイルも良くない。更に、彼と私は一度もあったことがなく、彼のことも少しだけ疑う気持ちがあった。デート当日。彼より少し早く約束の場所についた私。この日のために新しい服を買い、なれないメイクをした。高鳴る鼓動に歩くリズムが崩れる。時間の流れが極端に長く感じる。まるで私に来たことを後悔する時間を与えているかのように。彼は待ち合わせの時間ぴったりに現れた。写真で見るより顔が小さく幼い印象だった。まるで迷子の子供が母を見つけたときのように彼は私に一目散に駆け寄った。「探したよ。」彼は息を切らしながら言った。彼の私を見る目が想像と違っていたことに驚きながら彼は私の手を握り進みだした。少し彼の緊張を感じる。浮ついた声、赤い耳、いつもより早口なとこのすべてが愛おしく感じる。私はすでに彼に心を奪われていたのだった。
彼は変わった人だった。何故か私を初デートでしゃぶしゃぶの食べ放題に連れて行った。右利きなのに箸は左利き。可愛くない私の顔を何度も覗いては可愛いと言ってくれた。しゃぶしゃぶを食べたあと、彼とプラネタリウムを見に行った。プラネタリウムが始まるまで時間が少しあったため、博物館を彼とまわった。ティラノサウルスの骨格を彼は小学生のように目を光らせて見上げていた。「恐竜さんすげー」少し子供っぽい彼。プラネタリウムが始まる時間になりカップル席というものに座った。彼に出会うまでは一生園のないものだと思っていた。プラネタリウムが始まった。夏の大三角形から始まり、双子座、てんびん座が天井いっぱいに広がっている。「ねぇ」彼の方を振り向くと彼の顔がすぐ近くにあった。「あれってずっと昔の光なんだってよ」彼は星について私にたくさん話してくれた。胸の鼓動が彼の声をかき消してしまった。プラネタリウムは一瞬だった。面白かったねと笑う君の笑顔を私は見ることができなかった。赤くなっている顔を見せたくなくて、下を向いた私に彼は「付き合ってほしい」といってくれた。彼の顔を見ることができない。彼に対する気持ちは明らかなものだった。私達はその日カップルとなった。
彼は積極的な人だった。二回目のデートではキスをしたし、三回目のデートではエッチもした。私自身積極的な方が嬉しかったし、なにより興味があった。彼は私がどこが気持ちがいいかをよく知っていた。彼は私のことをよく知っていた。そしてどんなときも彼は私を優先してくれた。学校帰りに私が会いたいと言うと短い時間でも会ってくれた。ある日「始まりは終わりの始まり。」と彼は呟いた。彼は時々悲しい表情をする時があった。バスに揺られる彼は隣に座る私の方を見ていたが私ではない誰かを見ていた。誰かは私はわからなかった。彼は私の頭を撫でながら、「好きだよ」といった。素直に喜べなかった。その言葉は私じゃない誰かに向けられている様だったからだ。
息が白くなる季節。私達は遠出をした。寒いからと言い訳をして手をつなぐことを求めてきた彼に「素直にいいなよ」と茶化しながら初めての遠出に胸を躍らせる。計画は前もって彼が立ててくれていた。「一生の思い出にしてあげるから」と自信満々にいう彼に「おおげさだなぁ」と私は彼を見上げる。出会ったばかりの頃は同じくらいだった背丈も今では彼のほうが頭一つ分大きくなっている。「成長したね」と彼にいうと「成長期だから」とすましている彼。嬉しいのか繋いでいる手の強さが増した気がした。バスに乗り、新幹線に乗った。新幹線から見える景色が見たことのない景色に変わるにつれ私達は悪いことをしたときのような高揚感を感じていた。新幹線のアナウンスが次の駅を知らせる。「次で降りるよ」と彼は言った。初めてなのに既視感があった。「おぼえてる?」彼は私の少し後ろで言った。いや違う。私ではなく別の誰かに。「おぼえてない」そう答える私に少しがっかりした様子の彼は「まだ時間はあるから」と私の手を握り歩き始めた。彼はこのときすでに私のことは見てはいなかった。「自分が自分だってこと記憶しているから自分は自分で入
いられるんだよ」「なにそれ。よくわかんないんだけど」彼との会話を思い出した。嫌な気がして彼の手を握る私の力が強くなった。最初からわかっていたことなのかもしれない。「嫌だ」と足を止める私に少し驚いた顔をした彼。真っ白な頬が赤く変わる。呼吸が浅くなる。目の前が白く霞んでいく。ここにいてはいけない。彼の声が遠く聞こえる。
私は死んだ。
バランスを崩した私。それを支える彼。しかしそこには「私」はいなかった。そこにいたのは二年前の「私」。「私」が彼に出会う前の「私」だった。二年前「私」は彼と付き合っていた。しかし「私」は事故で記憶をなくしていたのだった。彼と別れたあと坂を下っていた自転車とトラックの事故。頭を打ったせいでなくしていた大切な記憶。それは彼にとってのものであり「私」にとってのものではなかった。あのとき過去の「私」は死んだはずだった。飛び散ったフロントガラス。駆け寄る中年くらいの男の人。救急車の音。「私」を呼ぶ君の声。そのすべてが頭に入っていく。今この瞬間「私」が死ぬ代わりに過去の「私」が蘇ったのだ。
「しょうくん?」体調が悪そうに倒れた彼女「陽火」が僕の名前を呼んだ。しかし今までとは違う。2年前の陽火の声だ。その瞬間視界が歪む。目頭が熱い。陽火の顔がよく見えなかった。「会いたかった」陽火の声が鼓膜を震わせる。二年前に止まっていた時間が再び動き出した。「さみしかった」僕が発する言葉はもうすでに嗚咽で原型をとどめていなかった。2年という時間は本当に長かった。記憶をなくした彼女を見つけたとき彼女は陽火ではなかった。自分のことを思い出してほしい。ただそれだけだった。陽火は初デートのとき僕をしゃぶしゃぶにさそった。だから僕もしゃぶしゃぶに誘った。彼女は星が大好きだった。だからプラネタリウムに連れて行った。陽火の口癖は「始まりは終わりの始まり」だった。2年前、陽火が記憶をなくしてから彼女との関係が始まり、たった今終わった。そして記憶を取り戻した陽火との関係がふたたび始まった。僕は陽火を強く抱きしめた。もう二度と放してしまわないように。
目が覚めると少し成長したしょうくんが目の前にいた。しょうくんは泣いていた。「さみしかった」しょうくんはそう言って私を強く抱きしめた。まるでお母さんを見つけた迷子の子供のように。実際しょうくんは迷子だったのかもしれない。寂しい思いをさせてしまったことへの罪悪感や再開できた喜び。よくわからない悲しみと、色んな感情が交錯する。私は翔くんを抱き寄せ「大好きだよ」といった。どこからかありがとうと聞こえた気がした。
この世から消えてゆく時、私は彼のことを思っていた。私という存在は偽物であっても彼と過ごした時間は本物である。本当は気づいていたのかもしれない。もっと早く消えていたかもしれない。でも今まで消えなかったのは彼女のおかげなのかもしれない。「ありがとう。」私は幸せだった。彼と過ごす時間の中で彼が私のことを愛していなかったとしても。