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短編集・散文集

微風

作者: Berthe

 微風がわずかばかりの雨を掌で押すようになぐって、鬢の毛に雨滴がひとつぶひとつぶ吸い込まれていく。

  *

 少しでも暑い季節になると、毛穴からでてくるちょっとの汗でくるりとしなってしまう猫っ毛でゆるやかなくせ毛の髪を、ヘアアイロンにはさんで丹念にすべらせたあと指のあいだに薄く伸ばしたワックスでくりかえし絡めて馴染ませたり、はねたところを指先に押さえて溶けこませながらようやく見られるほどに整えて外に出ると、いつのまにか雨は去っている。

  *

 まだ全面を濡らしたアスファルトにところどころ小石の沈んだ水たまりがあって、ちいさい頃には学校帰りに家が近所の友達と別れてから汚れた白い運動靴のつま先で人知れず蹴り上げたあとすかさず周りを顧みて、今度はそうっと足裏から濡れないぎりぎりのところまで踏み入れたりもしたけれど、そんな遊びに付き合わせることはできない、おろしたてのオニツカタイガーのスニーカーを、これからさき驟雨が襲って来るかもしれないと心に知りながら、おびえながらも今日どうしても履きたいと胸の命ずるまま、昨夜のうちに足に合わせて結んでおいた靴ひもをいちど解いてさいど合わせるうち、しぜん彼女の胸は浮き立っていた。

  *

 地面と頬をなでる風がいぜん湿気に泳いでいる頭上で、鼠色の雲のすきまでぽっかり穴をあけて薄い青がのぞいている箇所や、背後の太陽に照らされて今にも破られそうな雲が見える。ロングスカートの裾から顔を出す、スニーカーの履き初めとは思えない装着感に彼女は思わず跳ねたくなって、すぐにそれを抑えて、心のなかでスキップしてみる。仰向くと、さらに雲がひいていくようで、このぶんなら傘はいらなかったかもしれないと、歩きながら右手に持った傘の先でアスファルトをこつこつ突くと、そのたびに手首を押しやるようなほどよい刺激にあう。

  *

 でも一応携えて行くに越したことはないと思い直しながら、明日のことに頭を合わせてみると、自分でも意外なほど落ち着いていると思う。一年半ぶりに連絡があったその人との時間を想ってみずに、今日は街へ出て以前知ってから気になっていた家具の下見でもしようと思ったのはそれとも、その間だけでも忘れようとしたのだろうか。あの頃はあの人にはちゃんとした人があって、でもそれでも会って。ふたりで会って。

  *

 髭のないきれいな頬に沿って女の子のようにふわりと浮いていたもみあげが就職活動の季節が訪れるとともになくなって、きっと少年みたいになると思っていたら案の定そうで、でもそれはいつから男の人の怖い顔つきになったんだろう。風が横から彼女の髪をついとさらって、それにつづいて雨滴がよこなぐりに微かに打って、気分をいくぶん落としながら掌でやさしく表面を払いなでつける。彼のてのひらが頭にそっと触れて、その肌を鬢にそって静かにおろすとき熱が伝う。冷たいときもあって。歩き始めはそろりそろり、草木も踏まず避けていた彼女の脚が物思いに現を抜かしていると片足が小さな水たまりを突いて、新品のつま先に数滴はねた泥交じりの水を爪ではじこうと奮闘してみても、そう上手くはいかない。

  *

 手をとめて、時折傘をつきつつ拉麺屋の角を右に折れて歩みながら、ショルダーストラップのついたハンドバッグから銀紙に包まれたちいさな丸いチョコレートを取りだして口に二粒放り込み、突き当たりを左に折れて、ファストフードに居酒屋とコンビニのつづく景色を横目に通り過ぎると駅まであと一息というところで、鬢に雨滴を覚えた。彼女はひとつぶひとつぶ受けとめながら、右手に握った傘はつんと地面へむけたまま差さず、しなやかなふくらはぎの歩みはそのまま、つま先に蹴り上げた雨滴が彼方へ飛んで行く。

読んでいただきありがとうございました。

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