「わたモテ」の心理描写の巧みさ (「雪の日の学校」篇)
「私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い」(「わたモテ」)は心理描写が巧みな作品だという定評だ。考察ブログなんかで、優れた洞察がもうかなり出たので、ファンは良い批評に恵まれているし、自分もそんなに言う事はないのだが、自分の場所から見える事もあるかもしれないという気持ちで文章を書く事にした。まあ、好きなんで、なんやかんや言いたい。
心理描写というのは、物語・文学においては中核を成すくらい大切で、心理を描写するとは裏側から人間を創造する事にあたっている。文学作品というのは、なんといっても人間をリアルに感じられなければそこに盛られた思想も色あせてしまう。トルストイの「アンナ・カレーニナ」を読むと、トルストイが嫌いな人でも、文豪がいかに細やかに人間心理を描いているか感嘆せざるを得ないだろう。
我らが「わたモテ」はどうした事か、十巻過ぎたあたりから、急速に作者の表現技術が上がって、自分も驚いたし、最初から読んだ人も相当驚いただろう。(いやーこんな事もあるんですねー)
喪109の「モテないし雪の日の学校」を見てみよう。上質な短編小説のようなこの回は、読後、誰しもがこんな経験がある、という思いにとらわれるだろう。雪で交通機関が遮断されて、少ないメンバーしか教室にいない。そこはいつもの学校だが、いつもの学校ではない。少しだけ特別な空間で、ちゃんと授業が行われるわけでもなく、図書室で自習となる。その少し特別な空間で、いつもは話さない人ともなんとなく会話をする。仲良くなる。その交流は、雪の中で、教室が特別な空間になった為に生まれたものだ。
印象深いのは、主人公のもこっちが、下校する場面の一コマだ。ここではもこっちが、雪の道を歩いている様が俯瞰で写し出されているのだが、あたかも、もこっちが上から下に降りてきているようにも見える。(画像検索するかコミックスを読み返していただくとわかりやすい)
自分はこれを「下界に降りてきたもこっち」という風に、象徴的に見る事ができると思った。わざと俯瞰で描いて、もこっちが下に降りてきているように見せる。雪で閉ざされた教室、いつもと違うコミュニケーション。それらは特別なもので、ほんの少し非日常的な場所だ。その非日常的な場所から、「自宅・お母さん」という日常にもこっちは降りてくる。上界(非日常)から下界(日常)に降りてくる。
その後のコマも素晴らしい。もこっちは母親と会話をして、牛乳を飲む。それらは完全に「日常」であり、いつもの平凡な場所だ。しかし、もこっちの指には、教室で加藤さんが塗ってくれたネイルがまだ残っている。加藤さんが一本だけ塗ってくれたネイル。ここで、塗ったのが指一本だけというのがまたいい。これが五本なら、ケバケバしいイメージになってしまう。たった一本塗ったネイル、それが日常に戻ったもこっちの指に宿っている。それが、あの雪の中の特別な空気が、もこっちの中に、余韻として残っているのを象徴している。
こんな風にして、ほんの一話、数コマだけでも、色々語りたくなってしまう。うーん、ほんとに谷川ニコはどうしたのか。どこでこんな技術を身に着けたのか。
他にも釣りの回だとか、ネモが本性見せる回だとか、「?!」と思う回があるのだが、それについて話すのは別の機会にしたい。とにかく、谷川ニコが急速に表現技術が上がったのが、自分にとっては嬉しいサプライズだった。まだ読んでいない人、最初だけ読んで離れたという人には、ここ最近の「わたモテ」を自信を持っておすすめしたい。