enfin
04
「報告をお願いします、フェルディナン」
自室のベッドにて上体だけを起こす、目覚めたばかりの黒鷺姫の前で、フェルディナンは跪き、頭を垂れていた。
「は。昨夕のこと、城下にて暴漢に襲われた姫は、無事救出されたものの気を失い、今は翌日の昼前にございます」
「それは先程聞きました」
そんなことを聞いたのではないと。予想どおり不機嫌な姫の様子を、フェルディナンは息を整えて窺いつつ、先を続ける。
「暴漢は、町外れに住む『虫食み』の男でした。あのあと治療を施しましたが、間もなく息を引き取りました」
「そうですか」
フェルディナンが想像していたよりも、姫は素っ気ない言葉を返してきた。その顔色は、まだ青白いようにも見える。
「ご安心ください、姫様。あれは疑う余地もなく、姫の正当防衛にございました。目の前にいた私が保証致しますゆえ、姫が気に病まれることは何もありません。国王様も同様に仰っておられます」
「…………」
その言葉で、姫が安堵するような気配はなかった。物憂げな視線を窓の外に向けたまま、静かな呼吸だけを繰り返していた。
それは。
その様は。
果たして、何を思ってのものだったのか。
フェルディナンの知る限り――姫は初めて、人を殺したはずなのだ。
フェルディナンが見てきた初陣の兵士たち、或いは若かりし頃のフェルディナン自身とも違う、姫のその様子は。
覚悟の差か。大義の有無か。フェルディナンの頭に浮かぶすべてが正しいようで、しかし間違っているようにも思えた。
フェルディナンの心は、あの銃声を聞いたときからずっと、言い知れない不安にざわめいている。
「――ああ」
外は、雨である。しとしとと窓を叩く音が途切れず、まるで何かを急かしているように、フェルディナンには思えた。
「その故人の処遇は、どうなりましたか」
重苦しい空気をこじ開けるような、感情の押し殺された声で、姫は問うた。
フェルディナンは淀みなく、努めて平坦に回答する。
「――『虫食み』であるならば、動機は明確な悪意でしょう。そして何より、恐らくは当人も知らなかったとは言え、我が国の王女に刃を向けた罪、断じて軽くはありません。妻子ともども、死刑が妥当かと」
死人の罪は、縁者が償うべし。そのような判例は、この国ではありふれてさえいる。死とは、逃避ではないのだ。何かから逃れるための死など認められない。死で拭われる何かなど存在しない。本人に償えないならば、別の誰か、別の何かで採算を取る――そこには、何者であれ例外はない。
「貴方の目は節穴ですか、フェルディナン」
底冷えするほどの怒りを含んだ姫の低い声に、フェルディナンはさっと顔を上げた。
「あの狂おしい息遣い、そしてあの凶行。狂心症に違いありません」
黒鷺姫の、その思いも寄らない発言には、流石のフェルディナンも目を白黒させるより他になかった。
「しかしながら姫。あの死体からはそのような――」
「私を侮辱するつもりですか、フェルディナン。精神を喰らう呪われた病魔――狂心症は、骨化病に進行しない限りにおいて、人体に医学的な痕跡を残さない。その程度の知識は心得ています」
他ならぬ姫に侮辱だなどと言われては、フェルディナンは黙るしかない。たとえその病が、巷にて無責任に流布された迷信に過ぎないということを知っていたとしても。
精神を病み狂った人間が、恐ろしい骨人の怪物に化けるなどという狂言を、しかし信じている者は未だ多いのだ。人の心が患う恐怖という病巣は、時に本物の悪魔をも上回る怪奇を生み出してしまう。
「狂心症患者は罰されない。彼らはただの、哀れな被害者なのですから。直ちに処遇を改めるよう通達なさい、フェルディナン。稼ぎ頭を失った遺族に対する保障も、充分に手厚く行うように」
「――は、御意に」
フェルディナンはすぐさま、部屋の外の部下に指示を飛ばした。死体の埋葬が終わるにはまだ早い。鎮魂の儀が始まる前に、伝達は間に合うはずだ。
部屋の扉を閉め、フェルディナンは姫を見る。顔色は優れないが、弱々しさも感じない。いつも通りの王女――気高く、一国を担う一族としての誇りに準じることを強いられた――一人の女性の、凛とした横顔だった。
――いま姫は、何をお考えなのだろうか。
人は考える葦であるが故に、思考停止は病である。ゆめその空転を止めることなかれ。
フェルディナンは、かつて生死の境を彷徨ったときに出会った、黒鬼の魔女の言葉を思い出し、そして敬愛する主を想う。
主の秘された思惑を探るなど、騎士として万死に値する。
だがだからと言って、すべての者がそれを放棄してしまえば。本当の意味で、この姫を案じることができる人間がいなくなってしまう。
それではこの姫が、あまりに不憫ではないか。
そのような地獄をあえて歩ませることが、果たして、騎士道に準じる行いだと言えるのだろうか――
「フェルディナン殿」
扉の外から、先ほど走らせた者とは別の部下の声が聞こえた。その声の様子から、すぐにこの場を離れなければならないことを、フェルディナンは察した。
「それでは、姫。私はこれにて失礼致します。どうかご自愛くださいますよう」
フェルディナンは、後ろ髪を引かれる思いでいたから。
部屋を後にしようとするそのとき、掠れるような小さな声で呼び止める姫に、辛うじて気付くことができた。
「フェルディナン」
「は」
「我が騎士、フェルディナン」
「は」
幾ばくかのためらいのあと。姫は、その緋色の瞳を潤ませ、震える唇で、言の葉を吐き出す。
「自由気まま、思うがままに生きるというのは、……ああ。こんなにも、痛いものだったのですね」
「…………」
そうして、辛苦の吐息とともに。黒鷺姫は、自らの翼で羽ばたくことを知ったのだった。
――これは、ただ。自分が何者であるかを、自分で決めたいと願った姫君の、ほんの一幕の物語。
創作によくある題材で『誰かの敷いたレールの上を歩きたくない』みたいなのがありますよね。実家を継ぐのは嫌だとか、なんでもかんでも親が介入して全部決めてしまうのは云々とか。
その結末はだいたい、自分の道は自分で決めようとか、親の決めた道だとしても歩くのは自分自身なのだとか、そんな感じに収まるのではないでしょうか。まずまず前向きに、そして自由であるべきだというメッセージを読者に伝えてくれる。
けれど私は思うのです。それは確かに前向きであり、そして自由なのですが。しかしそれは、純粋に喜ばしく素晴らしい、誰もが等しく選ぶべき道筋――ではないだろう、と。
私は自分のサイトで、天才や努力というものについての雑記を書いたことがあります。その中で、『資質とは、本人にはどうしようもない、けれど才能と密接に関わる要素である』とか、そんな感じのことを言っています。
私の定義で言えば、自分のレールを敷いてくれる親というのは、自分自身の『資質』に含まれる。
だから。敷かれたレール、親の介入を拒むとは、自らの資質を手放すことと同義であると、私は考える。
加えて、何らかの分野で成功したいと願ったとき、その第一条件は『才能』と『資質』を高いレベルで保持していることだと。私はそう考えています。
たった一人の力で上り詰めたと思うなよ、みたいな話はよく聞くでしょう。どれほど才能に溢れた天才でも、誰の手も借りず本当にたった一人で頑張って来られた人なんていないはずです。指導、牽引、支援、承認、なんであれ。才能だけでは如何ともし難い、資質の重みがそこにはある。
つまり、自身が成功を収めたいと思ったとき、自分を強く支援してくれる誰かの存在というものは、非常に重要で有り難いものであるわけです。
もっと分かりやすく、ざっくり身も蓋もなく言ってしまえば。楽なんですよ、誰かが敷いてくれたレールを走るのは。
そんなレールを走るさまをして『鳥かごの中の鳥』だと揶揄することもあるでしょう。楽をして成功なんかできると思うなよ、誰かに頼らなきゃ何もできない弱い奴め、そんなことで本当の幸せなんか掴めねぇよと、まあありがたいアドバイスをくださる方もいるでしょう。が、しかし。
籠の外は安全なのか?
大空を飛ぶだけの力が自分にあるのか?
外へ飛び立った瞬間、致死の痛みにのたうち回り、想像を絶する苦しみの中で息絶えないという保証があるのか?
その辺りの、抱いて当前の疑問を見て見ぬふりして、『外は素晴らしいよ! 自由に生きるべきなんだよ! さあ、飛び立とう!』みたいな啓蒙は、なんと言いますか。極めて無責任だと思うのですよね。
あなたと私は違う。どこかにいる誰かと私も違う。視線を逸らすな。そんな大口は、私の目を見て言ってみろ、と。私はいつも、いつでも、そう言わざるを得ないのです。
生きることは苦行だ。ただ生きるだけで、こんなにも苦しいものだ。だったら、少しでも楽な方へ行こうとするのは、生き物として当たり前の、本能と呼ぶべきものである。それを否定し、あえて藻掻き苦しむことこそ絶対正義だと喧伝するなど、偽善にもほどがあるだろう――と、私は思います。
思うからこそ。その、自分で自分の首を絞めることを、さも高尚なものであると称えるような風潮が、どうにもこうにも気持ち悪い。時代遅れ甚だしい、その根性論も努力信仰も、クソ喰らえだ。
きっと、この作品には私の、そういう感情が込められている。
黒鷺姫はなぜあのような行動に出たのか?
彼女の最後の言葉は、つまり何が言いたかったのか?
今作のテーマは何か、と問われれば。これはそういう物語なのだと、私は胸を張ることでしょう。
自由を、好きな道を、選んだ先が、幸福だとは限らない。それはとても痛いことで、一生消えない傷を残すかも知れない。
思い切って飛び立って成功した経験を基に、その素晴らしさを広めるのは構わない。だけどその結末の責任を取れない立場の人間が、いっぱしの口を叩くんじゃない、と。
国の、世界の、誰かの有り様を変えようだなんて、だいそれたことをしたいわけじゃない。
ただ私は、それを言いたかった。それを形にして、そしてこの目で見たかった。私が何かを作る理由なんて、それだけあれば充分です。