序章最終話 死者復活の書
ネクロノミコン―――
サルビアが遺した唯一の研究資料。
それはそう長くはない巻物で、全編が複雑な暗号で記述されていると言う。
『鍵』を発見したその日から、クルミは昼夜を忘れてネクロノミコンの解読に没頭するようになった。
おれは失った体力を回復させながら、その手伝いを務めた。
「ローダン、あそこにある資料取ってきて」
「ローダン! 桃が食べたい! 桃もらってきて!」
「ローダン! 汗で気持ち悪い! 身体拭いて!」
解読にのめり込んだクルミの様子は、鬼気迫る、という形容が似つかわしかった。
とにかく時間が惜しいようで、服を脱ぎ捨てておれに身体を拭かせている間も、決して資料から目を離そうとしないのだ。
胸だのお尻だの股間だの、おれの持った手拭いがどこをまさぐろうと眉一つ動かさないもんだから、おれもおれで劣情の催しようがなかった。
そんな時間が、一週間も続いた。
朝。
クルミの口に突っ込むための朝食を作るべく、おれが炊事場に向かおうとしたとき、ちょうどクルミが部屋から出てきた。
彼女が自分から部屋を出てくるのは、実に一週間ぶりのことだった。
「解けた」
と、クルミは言った。
「読んで、ローダン。……きっと、あなたも読むべきものだと思う」
そう言って、クルミは1枚の紙を差し出してくる。
そこに――
サルビアがこの世に遺した、たった一つの言葉。
ネクロノミコンの第一章が、書き写されていた。
◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆
【ネクロノミコン 第一章】
これをあなたが読んでいるということは、きっとわたしの目論見がうまくいったということだと思う。
おはよう、ローダン。
久しぶり、クルミ。
ネクロノミコンと題したこの手記は、あなたたち二人に向けて書かれたもの。
読むかどうかはあなたたちに任せるけれど、他の人に読ませるのはできればやめてほしい。
今の世界にとって、これから書くことはあまりに刺激が強すぎる。
この手記に記される真実に耐えられるのは、今となっては、きっとあなたたち二人だけだろうから。
さて、ローダン。
あなたはきっと、今頃困惑しているはずだと思う。
わたしの試算によれば、あなたは魔王ベルフェリアと共に異空間に飛ばされた時点から、現世時間で約100年後に、勇者の祠で目覚めたはず。
リターナ村のオークたちに頼んでおいたから、生活には困っていないと思うけれど、まだまだわからないことがたくさんあるんじゃないかな?
例えば、なぜ現世に戻ってこられたのか。
例えば、なぜ世界がこんなにも様変わりしたのか。
言ってしまえば、このネクロノミコンは、その辺りのことをネタばらしするためのもの。
この100年、わたしが一体何をしてきたのか。
この100年、世界に一体何が起こったのか。
そういったことを、この章を含めて四章に分けて、書き残しておこうと思う。
まず、始めに言っておくと、ローダン、わたしはこの100年、あなたを現世に呼び戻すためだけに生きてきた。
その試みが成功したことは、今、これをあなたが読んでいることから自明だけれど、こんな望みは本来、叶うはずのないものだった。
いつか挫折して、諦めて、過去にばかり囚われず前を向いて生きていこうって、そんなありふれた成長をして、乗り越えていくはずのものだった。
それが覆されたのは、"彼ら"に出会ってしまったから。
そして、それをきっかけとして、"真実"にたどり着いてしまったから。
"彼ら"を知ることで、わたしは手段の実在を知り、"真実"を知ることで、それが具体的な形になった。
"彼ら"については、第二章に書くつもりでいる。
"真実"については、第三章に書くつもりでいる。
最後の第四章には、きっとローダンが一番不思議に思っているであろうことについて書くつもり。
そう、《ローダンの加護》についてだよ。
レベル、ステータス、スキル。こんな概念がどうして生まれたのか、それを記すことで、ネクロノミコンは完成する。
これも先に明かしておくべきかな。
『ネクロノミコン』というのは、『死者復活の書』という意味だよ。
ピッタリなタイトルだと思わない?
内容の秘匿性を高めるために、ネクロノミコンの内容は、バラバラにして違う場所に保管してある。
第二章以降が読みたければ、勇者都市ローダニアへ行って。
あなたの後継者たちが集まる街で、きっとあなたの求める出会いと、あなたの求める真実が待っている。
それじゃあね、ローダン、クルミ。
続きは、第二章で。
・追伸
クルミ。もしステータスを確認していなかったら、ちゃんと確認しておいて。
ローダンがわたしの知っているままのローダンだったなら、きっと今頃、あなたの力が目覚めているはずだよ。
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読み終えるなり、くらりと目眩がした。
……"彼ら"……?
……"真実"……?
ほのめかされてばかりで、何が何やらさっぱりわからない。
100年間。
サルビアが、おれを呼び戻そうとしていた?
それが、"彼ら"だの"真実"だの……そして《ローダンの加護》だのに、どう関係するって言うんだ?
サルビア……お前、一体、何をした……?
気になることは無限にあったが、まずははっきりとわかることから片付けようと思った。
おれは紙から顔を上げ、クルミに視線を移す。
「クルミ……この追伸なんだが」
「うん。確認した……。イゴールナクとの戦いからこっち、全然見てなかったから……」
「何か、あったのか?」
「見た方が早いと思う」
クルミは例の薄い板を出して、おれに差し出してくる。
クルミのステータスは、このようになっていた。
【レベル:22】
【STR:G(24)】
【VIT:G(15)】
【AGI:G(32)】
【MAG:G(61)】
【SAN:EX(99)】
【スキル:《狂気抵抗EX》《軍団指揮D》】
【魔法:なし】
「―――SAN!?」
なんだ、このステータスは。
《加護》によって可視化される能力は4種類のはずだ。
なのに、なんだ、この5つ目の能力は!?
しかもランクEX……測定不能……!?
「たぶん、この《狂気抵抗》っていうスキルの効果だと思う。開いてみて」
《狂気抵抗EX》と書かれた部分に指を触れると、詳しい説明が空中に浮かび上がる。
【《狂気侵食》スキルの効果を軽減し、冷静な思考を保つことができる。《指揮》カテゴリーのスキルを保有する場合、指揮下にある味方に《狂気抵抗G》を付与する】
「……狂気、侵食……」
おれは思い出した。
ングンキ・イゴールナクと一人で戦っていたとき、不自然なほど暴力に身を任せていた自分を。
まさか、あれか。
あれも外獣が持つ能力?
だとすれば……そう、オークたちが異常に脳筋なのにも納得がいく。
外獣の《狂気侵食》とかいう隠されたスキルで、冷静な思考を奪われていた!
だから、《狂気抵抗》スキルを持つクルミだけが、イゴールナクを落ち着いて観察し、作戦を立てることができたし、クルミの指揮下に入ったときだけ、オークたちもちゃんと作戦を実行することができた……。
外獣。
その真の恐ろしさは、そこにあったんだ。
奴らは、人間からも魔族からも、知性を奪い取る。
それを武器に発展してきたおれたちの、まさに天敵……!!
「……クルミ……お前……」
「……うん」
おれよりずっと聡いクルミには、すでにわかっているようだった。
もし、おれの考えが正しいとすれば。
外獣に対して優れた知性を発揮できるクルミの存在は、人間と魔族、双方にとっての切り札になりうる。
まるで、かつての勇者のように。
「ローダン」
おれが何かを言う前に、クルミが心を決めた顔つきで言った。
「わたし……この村を出る」
ダメだ、と反射的に言いかける。
だが、クルミの瞳が、その答えを拒絶した。
「おばあちゃんから受け継いだ知恵を、もっと役立てたいって、ずっと思ってた。おばあちゃんに追いつきたいって、そう思ってた。
でも、わたしにはそれほどの力はないって……そうも思ってた。
でも、でもね……わたしにもやれることがあるって、ローダンが、おばあちゃんが、こうして教えてくれた。
だから……だから、わたしは……」
止める言葉を探した。
おれが勇者として経験したつらいこと、そのすべてから彼女を遠ざけるために、必死に言葉を探した。
だけど……結局、出てこなかった。
だって、かつてのおれが、そうだった。
やると言ったら、聞きはしない……。
「……なら、おれもついてってやる」
だから、実際に出てきたのは、そんな言葉だ。
「お前の夢が叶うまで、おれは絶対に、お前の傍を離れない。……絶対だ。約束する」
もう二度と、取り残していったりしない。
この100年で失ったものを、余すことなく彼女に注ぎ込むと、おれはすでにそう誓った。
「見せつけてやろうぜ。お前の才能を、世界ってやつにさ」
「……うんっ! ありがとう! ローダン!」
そうして、クルミは花開くように笑った。
……ああ、まったく、卑怯だよな。
せっかく、勇者なんて肩書きから足を洗えたのに。
その笑顔のためなら、何をしてやってもいいって気分になっちまうんだから。
◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆
勇者都市ローダニアへ行け、とネクロノミコンは告げていた。
そこに第二章以降がある、と。
「勇者都市ローダニアは、その名の通り、《勇者》が集まる街。人界と魔界の間――《大穿穴》にあるの」
「……それは、おれがいっぱいいるって意味か?」
「ローダンは《勇者》じゃなくて《原初の勇者》、あるいは《大勇者》。
今で言う《勇者》っていうのは、外獣退治を生業にする人たちで……ローダンの時代で言うと、《冒険者》に当たるのかな?」
ああ、冒険者。
あの名前だけ格好を付けた、ただの日雇い労働者な。
「もしかしてだが、《ローダニア》っていう街の名前は……」
「もちろん、ローダンが由来」
いつの間にか街になっていた。
「100年前の冒険者と違って、今の《勇者》には社会的地位がついて回るって聞いてる。すごく活躍したら、貴族よりずっと贅沢な暮らしができるんだって。だからローダニアには、一攫千金を夢見る人たちが次々と集まって、《深淵迷宮》に挑んでは散っていく」
「……《深淵迷宮》か」
100年経ってもそう呼ばれてるんだな。
詳しい説明はとりあえず省くが、人界と魔界の境界に当たる《大穿穴》には、《深淵迷宮》と呼ばれる超巨大な迷宮への入口がある。
おれの知っている深淵迷宮はただ広いだけの迷路だったが、今の深淵迷宮は外獣の巣窟と化しているそうだ。
「だから、深淵迷宮の一番奥を、勇者たちはこう呼んでるんだって」
次のクルミの言葉が、おれを激しく刺激した。
「勇者たちの潰えた夢を越えた果て―――《夢の彼方》って」
―――夢の彼方で、待ってるよ。
夢の中で、サルビアが言った言葉。
……まさかな。
偶然だろう。
そう思いたいが、あの暗号とネクロノミコンの内容の手前、軽々には無視できないものがあった。
「……さて。それじゃあ、そろそろ行くか」
「うん」
荷物を纏めたおれたちは、扉から外に出る。
おれは1ヶ月ほど。
クルミは生まれてからずっと。
暮らし続けた、家を出た。
扉を閉める寸前に、クルミが家の中を振り返る。
そこにはもう誰もいない。
しかし、そこにいる誰かに投げかけるように―――
クルミは、呟くのだった。
「……ばいばい、おばあちゃん」
こうして、おれたちはリターナ村を出て、勇者都市ローダニアを目指した。