第9話 欲求不満な勇者の回顧
「……んにゃ……」
「ほら、髪濡らしたまま寝るなって」
「んあっ……! じ、自分で拭けるってば……!」
今日も仕事があらかた終わり、日が暮れた。
いつの間にかおれの担当になりつつある晩飯も食べ終え、湯浴みも終わって、本格的にやることがなくなる。
熱い夜を過ごす相手もいないし、あとは本当に寝るだけだ。
……いや、可能性で言うなら、相手はいる。
目の前のソファーですやすやと居眠りをこいているコイツだ。
「……すぅ……すぅ……」
寝間着越しにもわかる形のいい胸が、規則的に上下している。
スカートの裾が乱れて、白い太腿が眩しく晒されていた。
「……ぐぅぅ……!!」
どうやらクルミの奴は、男の視線ってやつを気にしたことがないらしい。
さすがにおれの前に裸で現れるってことはないが、暑いと言って大胆に胸元を開けたり、そのまま前屈みになったりってことはしょっちゅう。
しかも、そうして覗く結構な谷間を、おれが思いっきりガン見してても、さっぱり気付く気配がない。
「……んん……」
ただでさえ、オークしかいないこの村では禁欲を強いられる。
そんな環境でこんなのと同居しているおれの身にもなってほしい。
極めつけに、おれが着替えとかで半裸になると、決まってクルミの方がちょっと顔を赤くしながらガン見してくるし。
「……んんっ……ふぁ……」
自分は男をそういう目で見るが、自分がそういう目で見られることはまったく想定していないのだ。
初日の処女卒業未遂事件もあって、ますますおれがそういうつもりになるとは思わなくなったらしい。
……実際、サルビアの孫をそういう目で見るのは、かなり気が引ける。
気が引けるのだが、身体は勝手に反応してしまうのだ。
おれの心臓は今、近所のアレグラ姉ちゃんに初めて男にしてもらったあの時と同じくらい、バクバクと脈打っている。
水際での死闘が続いている状態だった。
なのに。
「んんっ……っふ……ローダン……んぅ……」
さっきから悩ましげな寝言を繰り返しやがってコイツ!
寝返りを打つな! おっぱいをあっち行ったりこっち行ったりさせるんじゃねえ!
お望み通り卒業させてやろうか!? 盛大に!!
「……くっそ」
心の中の堰にヒビが入り、手を伸ばしかけたところで、罪悪感が全身を支配した。
……はあ。
この調子じゃ一生手を出せそうにないな。
安心だよ、ちくしょう!
行き場のない情動を抱えたまま、おれはクルミが眠るソファーの側に座り込む。
コイツはよくない。
本当によくない。
まず、どことなくサルビアに似てるとこがダメだ。
仕草や言動はともかく、なんで見た目までちょっと似てるんだよ、血ぃ繋がってねえくせに。
それでいて、自己評価が低くて男に免疫がなくて無防備なところもダメだ。
いずれ悪い男に引っ掛かっちまうぞ。
おれみたいな。
3人の仲間のうち、女傭兵のランドラと女僧侶のホップとは、旅をするうちに心を通わせて、夜も一緒に過ごすようになった。
二股ってわけじゃあなく、二人とも承知の上でのことだ。
明日をも知れぬ命を、毎日共有してたんだ……より強い繋がりを求めたくなっちまうのも、無理からぬことだったんだ。
だけど、サルビアとだけは、同じベッドで眠ることはなかった。
おれたちの仲を黙認してはくれてたが、それだけで。
出会ったのも最初だっていうのに――アイツと出会ったから、おれは勇者になったようなもんなのに。
なぜかサルビアとだけは、そういう仲になろうとは思えなかった……。
おれはアイツを、女性として見てなかったんだろうか?
そんなわけはない。
だって――100年後の世界に来てから、一体何度、アイツが夢の中に出てきたことか。
……まったく、欲求不満にも限度があるよな。
マジで理性を失う前に、どうにかする方法を考えておくか。
さしあたって、想像力スキルでも鍛えてみるかな――
と。
目の前のテーブルに、見慣れない巻物が置いてあるのに気付いた。
なんだこれ?
何気なく手に取って、紐を解いてみる。
「…………んん?」
何語だ、これ……。
見たことのない文字、見たことのない言葉。
いや、そもそも言語なのか……?
「んんー……? ローダン……?」
後ろのソファーから、クルミが身じろぎする音が聞こえた。
「ああ、悪い。起こしたか――」
「んんんー……」
「――ぬおあっ!?」
クルミがいきなり、おれの背中にしなだれかかってきた。
右耳を浅い息がくすぐる。
コイツ、まだ半分寝てる!?
「んー……? それ……わたしの……」
寝ぼけ眼で巻物を見たクルミが、それを手に取ろうとして身を乗り出す。
背中に押しつけられた感触が、電流のごとく全身を駆け巡った。
「バカバカバカバカやめろヤバい今はマジでヤバいんだって―――!!」
せめてもうちょっと落ち着いてからなら大人らしく対応できたのに!
圧し掛かってくるクルミの体重に負けた風を装う形で、どんどん前屈みになっていくおれ。
くっそ柔らかいしデカいしいい匂いだしコイツくそう……!!
これ以上はマジでマズい。
そう思ったおれは、急いで巻物を紐で閉じて、クルミの手に渡した。
「はいはい、これな!」
「んー……」
柔らかい感触を押しつけるのはやめてくれるものの、クルミはおれの背中に圧し掛かったままだ。
意識を他に逸らすために、おれは質問した。
「なんなんだ、この巻物? ずいぶん難しそうだったが」
「……これね……おばあちゃんのなの」
「えっ」
サルビアの……?
「おばあちゃんが遺した……唯一の、研究資料……他には、なーんにも、遺していってくれなかった……」
「資料……って、どういう研究の……?」
「わかんない……。全部、暗号……。でも、タイトルだけは、暗号じゃなくて……ほら……」
少し弾んだ声で、クルミは巻物の側面を見せる。
「――『ネ』」
そこにあった文字列の1文字目を、クルミは指差した。
「――『ク』」
2文字目。
「――『ロ』」
3文字目。
「――『ノ』」
4文字目。
「――『ミ』」
5文字目。
「――『コ』」
6文字目。
「――『ン』」
そして、7文字目。
それで全部だった。
「―――ネクロノミコン?」
聞いたことのない言葉、響き。
しかし、その題名に、おれはなぜだか身震いした。
なんとなく……それは。
聞いてはいけない言葉だったかのような。
ヒトが手を触れてはいけない領域に触れてしまったかのような―――
「これね……実は、ページが足りないの……。おばあちゃんが、どこかに失くしたか、隠しちゃって……。もっとページがあれば、きっと、解読……そしたら、わたし……おばあちゃんに、追いつ、いて―――」
耳元の声が徐々に消えゆくもんだから、寝たか? と思ったら、
「―――あれ?」
むしろ逆に、半覚醒だった声がはっきりした。
息のかかるような距離でおれを見るクルミ。
見る見るうちに真っ赤になっていくクルミ。
と思えば、逆に青ざめていくクルミ。
「あっ、あっ、あっ、あっ……!? わ、わたし、寝ぼけてっ……!」
クルミは慌てておれから離れて、ソファーに背中を押しつけた。
「ご、ごめっ……ごめん……! そっ、そういうつもりじゃなくてっ……! あはっ、あはは! き、気にしないでね? わたし、どこにも触ってないし! ちょっと汗臭いのがいいなあとか全然思ってないし!」
「いや、あのなあ! そういうのはむしろ―――」
おれの方が言うことだろ、と言いかけたそのとき。
甲高い笛の音が、どこからか響き渡ってきた。
「「―――!?」」
この音は……!
「外獣の襲来……!?」
「行くぞっ、クルミ! 早く着替えろ!」
「うっ、うん!」
着替えのある自分の部屋に向かいながら、クルミは寝間着を頭から脱ぎ捨てた。
おっぱいがぷるんっと弾んでこんにちは。
「あっ……!」
クルミは今更のように顔を赤くして、胸を腕で隠しながら自室に飛び込んだ。
「……あっぶな……!」
緊急事態じゃなかったら、今ので理性とさよならしてた。
ああいうところ、マジで直させよう。
襲来した外獣をどうにかしたらな!