イノシシと魔道士(被害者)
宮廷魔術師ヴェルダインはクリスタルレイクを目指して夜道を急いでいた。
奪われた家宝の回収のためである。
クリスタルレイクにあるという情報がもたらされたのだ。
もちろんそれは表向きである。
実際の任務はアッシュの暗殺。
ヴェルダインは天才ではない。
エドモンドのような派手な魔法も使えなければ、治療も得意ではない。
だがヴェルダインは細かい魔力のコントロールに長けていた。
不死身の傭兵アッシュ。
大砲の暴発にも耐えるその体は確かに丈夫だ。
だがヴェルダインは恐ろしいほど丈夫なアッシュを殺すことができる魔法を持っていた。
呪いではない。
それは小さな小さな魔法だった。
人の脳にはたくさんの血管が走っている。
ヴェルダインは火の魔法で血管を通る血液を沸騰させる。
血管は破裂し、どんな化け物だろうがすぐに動けなくなる。
そしてあっと言う間に息を引き取るのだ。
呪いなどという面倒なやり方でなくとも人を葬ることはたやすい。
ヴェルダインのように暗殺の専門家なら特に。
そう言う意味ではヴェルダインはアッシュよりも実戦経験が豊富だった。
絶対の自信を胸に秘めヴェルダインは進む。
供は二人の魔道士。
二人ともヴェルダインの弟子だ。
暗殺術に長けたものたちだ。
この二人がいれば恐れるものなどなにもない。
若き日に後れを取った悪魔ですら倒せるはずだ。
その若き日の黒歴史をがっつりアイリーンに握られているとは知らないヴェルダインは笑った。
この任務をこなせばヴェルダインはさらに皇帝に重用されるだろう。
帝国内での地位は確固たるものになるだろう。
実は皇帝は任務が終わったらヴェルダインを亡き者にしようと思っていた。
悪魔たちの報復を恐れてのことである。
ヴェルダインは捨て駒にすぎなかったのだ。
完全にピエロ状態のヴェルダインはそれを知らずに上機嫌で馬を走らせた。
捕らぬ狸の皮算用でしかない未来を夢見て。
その時だった。
「ひひんッ!」
馬がなにかに驚き跳ねた。
ヴェルダインは振り落とされないように必死に馬にしがみつく。
「な、なにがあったのだ!」
弟子たちもなんとか振り落とされずにすんだ。
「突然馬がなにかに驚いて……」
そう言うと弟子の一人が目を剥きながら口をパクパクと動かしていた。
「どうした。なにか見たのか?」
「あ、あれ」
弟子が指をさした先、そこには山が見えた。
「あの山がどうした?」
「あ、あれは山では……」
ヴェルダインは山をよく見る。
よく見ると山は動いている。
遠くで地滑りが起こっているのだろうか?
「うわああああああああッ!」
別の弟子が叫んだ。
「だからなんだというのだ!?」
「ヴェルダイン様。あれは山ではありませぬ!」
「は?」
ヴェルダインは今度こそ目をこらす。
月明かりに照らされたそれをよく観察する。
木だと思っていたそれは毛だった。
山だと思っていたそれは背中だった。
「ぶも?」
目が合ってしまった。
それがヴェルダインの人生最大の過ちだった。
いや、アッシュに遭遇しても虫のように蹴散らされていたし、そもそも悪魔たちに遭遇すればそこで終わりである。
悪魔たちがクリスタルレイクの防衛で動けない今だからこそイノシシに遭遇してしまったのだ。運悪く。
「ぶもッ! ぶもおおおおおおおおおおおおおッ!」
山のような獣が吠えた。
バラバラと蹴られた木がどこかに飛んでいった。
(おいおい嘘だろ……)
ヴェルダインは思った。
いくらなんでも大きすぎるだろと。
「……ヴェルダイン様」
「逃げるぞ……」
ヴェルダインは馬を全速力で走らせる。
あのデカブツがそんなに早く移動できるはずがない。
ヴェルダインは逃げられる……はずだった。
「ぶもおおおおおおおおおおおおおッ!」
地響きがした。
木をなぎ倒しながらそれは走ってくる。
丸い体、立派な鼻、そして牙。
それはイノシシだった。
「ふ、ふざけんなああああッ!」
ヴェルダインは叫んだ。
あんなふざけた生き物が存在するはずがない。
遠近感が狂ってしまうほどの早さでイノシシが迫る。
(そうだ。魔法で……)
ヴェルダインは呪文を詠唱する。
「喰らえ! 暗黒暗殺術!」
ぷすりんこ。
なにも起こらなかった。
もちろんごく少ない量の血が沸騰はしたかもしれない。
だがイノシシの体が大きすぎたのだ。
出力が圧倒的に足りなかった。
イノシシは「やんのかコラァッ!」という顔をしてヴェルダイン目がけて突進してくる。
「え? ちょっと待てよ! これ反則だろ! 勝てねえよ! ふざけんな、ちくしょおおおおおおッ!」
それがヴェルダインの最後の言葉だった。
その一撃は弟子たちと周囲の土ごとヴェルダインを消し飛ばした。
ヴェルダインの生死は不明。
そしてヴェルダインの不幸は無駄にならなかった。
もちろんクリスタルレイクの悪魔たちの栄養にもなった。
それにこのおかげでアッシュたちにイノシシの居場所がわかったのだ。
◇
レベッカはアッシュの雄っぱいを枕にして寝ていた。
アッシュの雄っぱいはレベッカのお気に入りのポジションである。
それは気持ちよさそうに寝ていた。
なにせ寝ているのに尻尾をピルピルとふっていたのだ。
気持ちよさそうに寝ているレベッカを見つめながらアッシュは目を開けていた。
アッシュは起きていたのだ。
それもこのただならぬ気配、殺気を感じ取ったからである。
だがすやすや眠るレベッカを起こしたくなくて動けずにいた。
そんなジレンマの中、アッシュが困っているとドアがそうっと開いた。
ベルが足音を立てないように忍び足で入ってくる。
アッシュは手を振って「起きてるよー」と伝える。
「アッシュ様……きゃぁッ。レベッカ……かわいい」
ベルは鼻を押さえながら悶絶している。
するとベルの後ろから子ドラゴンたちが眠そうに目をこすりながらアッシュの部屋に入ってくる。
「ベルママ。じょーおーさまいた?」
子ドラゴンがベルを見上げる。
「はい。いましたよー」
「じょーおーさまーおきてー」
子ドラゴンの一人が声をかける。
「あい……」
子ドラゴンが呼ぶとレベッカが小さく返事をした。
寝ぼけている。
再び寝息を立てる。
「じょーおーさまー。おきてー」
もう一度声をかける。
「あい」
今度こそレベッカは起きる。
目をゴシゴシとこすってそれから欠伸をした。
「どうしたの?」
レベッカはベルに聞いた。
ベルは母性あふれる微笑みを浮かべながら説明をする。
「アッシュ様はお仕事で出かけられます。レベッカは私たちと一緒にアッシュ様の帰りを待ちましょう」
「あい!」
レベッカはシャキーンとする。
最近レベッカはお姉さんぶっていてお手伝いに積極的なのだ。
「アッシュ様。アイザックとカルロスも準備させています」
「ああ、わかった。ベルさん。アイザックとカルロスには避難準備をするように言ってくれ。いつでも逃げ出せるようにするんだ。ガウェインも村人の避難準備にまわしてくれ」
アッシュはコートを羽織るとベッドの脇に置いた仮面を装着し、チェーンソーと蛮刀を取る。
「アッシュ様は?」
ベルが聞く。
聞かなくてもアッシュがなにをするかはわかっていた。
だがベルはアイリーンに報告するためにも聞かなくてはならなかった。
「俺が行く」
アッシュはそう言うと部屋から出た。