草食動物系男子カルロスの逃亡
ガウェインが人狼化した瞬間、カルロスは逃げ出した。
まさに脱兎のごとく。
肉食動物を前にした小動物のごとく。
一切の迷いなしに逃げ出した。
顔の造形も含めてほぼ全てでアイザックの後塵を拝しているカルロスだがこれだけは負けないと自信を持って言えるものがあった。
逃げ足である。
カルロスは幾多の戦場を逃げ足一つで乗り切ってきたのだ。
そもそもアイザックは頭がおかしいとカルロスは思っている。
悪魔に勝てると思っているのだ。
捕食者へ挑むという明らかな自殺行為。
その勝率が0でないと思っているのだ。
アッシュのように人外の力を持っていたり、アイリーンのように悪魔の庇護を受けているなら理解はできる。
なるほど勝率はゼロではないと納得するだろう。
だけどアイザックは人間である。
たとえ天才レベルで優秀であっても所詮は人間なのだ。
なのに勝ってしまったのだ。
公平な勝負であれば負けだろう。
だが悪魔相手なら生き残っただけで充分勝利したと言えるのだ。
というか普通の騎士なら話を捏造しまくって貴族に売り込む。
ところがアイザックは『次は勝たねば』とかという世迷い言を公言している。
確実に頭の線が2、3本切れている。
そもそも悪魔に勝とうなどという発想がおかしいのだ。
(ねえよ! ぜってえにねえよ!)
だからこそ凡人であるカルロスは逃げを選択した。
カルロスは敵を目にした瞬間には相手と自分の戦力差をはじき出していたからだ。
生存確率0。死亡確定。確実に死ぬ。
ところが役立たずだったガウェインが人狼化した。
戦ってもらうしかない。
カルロスはガウェインを置いて逃げた。
ただしこの場合、この判断は正しい。
戦力的にカルロスは足手まといである。
逃げた方が邪魔にならずにすむ。
カルロスは林をジグザグに走る。
この間全く減速していないのが逆に凄い。
それは忍者と間違われてもしかたのない動きだった。
「お、おい待てコラ!」
バリーが逃げられたことに気づいた時にはすでにカルロスは林の中へ消えていた。
バリーは思わず追いかけようとする。
あまりのカルロスの逃げっぷりにガウェインの存在が頭から失念してしまったのだ。
「ガアアアアアアアアアァッ!」
ガウェインはバリーに飛びかかった。
鋭い爪の生えた手を開くとバリーの顔面を爪で引き裂こうとした。
だがバリーの皮膚からは金属を切断するときのような火花が散っただけだった。
「かてえええええ! ふざけんなハゲ!!!」
ガウェインは狼に変化した顔で怒鳴る。
ガウェインは背中の剣を抜くと胴に一撃をお見舞いする。
人間相手なら上半身と下半身が永遠におさらばするところだろう。
だがこの一撃も致命傷にはならなかった。
「ぐははは。百剣のガウェインか! まずは貴様を捕まえるとするか!」
そう言うとバリーの皮がベリッとむけた。
その下からは顔だけが蛾の気持ちの悪い生き物が現れる。
無理に分類すればモスマンと言えるのかもしれない。
「すげえツラだな」
「ぬはははは! さっさとはじめよう!」
二大怪獣が戦いを始める。
バリーはガウェインを殴る。殴る。殴る。
鉄拳の雨あられがガウェインを襲う。
ガウェインはそれを一切よけない。
全てを受け止める。
バリーの拳は一発一発が大砲のような激しい威力でガウェインの体を容赦なく破壊する。
だがそれでもガウェインは引かない。
ガウェインの体は破壊された先から再生をはじめる。
いくら壊そうとも全ての傷は瞬時にふさがっていく。
バリーは何度も何度も攻撃するが次第に息が切れていく。
「はあ、はあ。お前……なんてタフ……なんだ……はあ、はあ」
「今度は俺の番だな!」
ガウェインは思いっきり剣をバリーの体にぶち当てた。
バリーは放物線を描いて飛んでいった。
◇
「ありえねえええええええ!」
カルロスはトップスピードを維持したまま林をジグザグに逃げていく。
完全に草食動物の動きである。
「あんなのに巻き込まれたら死ぬ! 死ぬ! 死ぬ!」
カルロスは必死に走る。
後ろをちょろちょろと見たがはっきり言って人間の戦いではない。
二人は人外でしかありえない戦いを繰り広げていた。
そんなのに付き合ってられない。
だから人質にされる前に逃げるのは正しいのだ。
カルロスは林を駆け抜ける。
あの悪辣なアイザックのことだ迎撃態勢は整っているはずだ。
だからこのまま逃げてしまえ。
「ふははははは。獲物の方がこっちに来おったわ」
痩せ形の男が立っていた。
ここからがカルロスの真骨頂だった。
迷いなくカルロスは跳んだ。
そして空中でターン。
痩せ形の男、シリルに背を向けて勢いそのままに逃げる。
「え……」
シリルはそのあまりに迷いのない逃げっぷりに呆然とした。
一瞬の間をおいて正気に返ったシリルはカルロスを追う。
「ま、待て!」
待つわけがない。
カルロスはシリルからも逃げる。
すでに見えるか見えないかの距離まで逃げていた。
その逃げ足はもはや人外の域に達していた。
カルロスは必死だった。
本気だった。
泣きながら逃げていた。
それそのものがアイザックの作戦だったとは知らずに。
アイザックは知っていた。
悪魔の習性に気がついていた。
悪魔は捕食者である。
少数の例外を除いては勝てるものなど存在しないほどの絶対者である。
狩られるなんてことがあるはずがないのだ。
だから当然のように自分が狩られる立場だとは考えない。
特に逃げる獲物を捕らえる時は。
本能のまま追いかけてしまうのだ。
しかもカルロスは本気で逃げているのだ。
シリルはあやしいとも思っていなかった。
バリーよりも足の速いシリルはその人外のスピードでカルロスとの距離を縮める。
あと少しで手が届く、その時だった。
「はいアウト」
それはアイザックだった。
まだ肋骨の治療用のコルセットは外していない。
息をするのはまだ痛いはず。
それでもアイザックはニコニコしていた。
シリルはぞくりと冷たいものが背中に走るのを感じた。
次の瞬間、足がなにかでグルグル巻きにされる。
ぐらっと自らの体が倒れる。
それが蜘蛛の糸だとわかったときにはシリルは地面に倒れていた。
さらに蜘蛛たちに囲まれて糸を吐きつけられる。
シリルは完全に身動きが取れなくなった。
「はいみなさん回収」
シリルは蜘蛛たちに囲まれていた。
「ま、まさか……私は人間にいいようにされていたのか……?」
「はっきり言いますと人間の方が手強いですねえ。なにせやり方が悪辣ですからねえ」
アイザックはそう言うとカルロスの方へ近寄っていく。
「アイザック酷えよおおおおお!」
「今回のお手柄はカルロスだよ。いやあよくやった! なんせ本気で逃げるからつい追っちゃうんだよな。偉い偉い」
「こんの鬼畜がああああああああッ!」
「あはは! 悪い悪い。でもお前がいなかったらこの作戦は成立しなかったわ」
本当に酷い。
「お前ら……おぼえてろよ!」
シリルは奥歯を噛みしめて悔しがった。
「ガウェイン殿も助けなきゃ!」
「そっちはカラスが行ってるから大丈夫」
アイザックは人の良さそうな笑みを浮かべていた。
カルロスはその笑みからアイザックが負けたことを相当根に持っているのを感じ取った。
「やはり頭おかしいわ……」
「なにか?」
「いえなんでもないです」
やはり普段怒らない人間を怒らせると怖いのである。