にいたんはレベッカたんが最優先
男は爪を噛んでいた。
男は皇帝と呼ばれる男である。
神よりも尊い血を持った唯一無二の存在。
誰よりも尊重され誰よりも価値のある支配者。
敬われるのは当然。
その言葉は悪魔すらも支配する絶対のものであった。
だがその日は違った。
皇帝は城の中庭で空を仰ぎ見た。
いつもより空が広い。
空を狭くしていた塔。
その塔があった場所は瓦礫の山に変わっていた。
皇帝の権威を表す謁見の間も粉々に砕けたステンドグラスが散乱し惨めな有様になっていた。
何者が成した行為かはわかっている。
葬り去ったはずのライミ侯爵の息子。
彼奴の宣戦布告に違いない。
皇帝はガウェインに助け出された伽奈の最後の言葉、呪いの言葉をはんすうした。
「あなたに虐げられたものの痛みを思い知れ」
その直後、皇帝の体を呪いが蝕んだ。
皇帝はあれから徐々に体が弱っていくのを感じている。
それが虐げられたものの痛みだと思っていた。
だがそれは違った。
伽奈の呪いはそんな生やさしいものではなかった。
あろうことか闇に葬ったはずの悪夢が復活してきたのだ。
皇帝は心の底から恐ろしかった。
呪いに蝕まれていくのも恐ろしかったが我慢できた。
まだ皇帝として死ぬことができるのだから。
だがライミに殺されるのだけは嫌だった。
なぜならライミに殺されるということはただの虫けらに成り下がるからだ。
皇帝である自分が死ぬのは全ての国民の後でなければならないはずだ。
なぜだ?
なぜ神はあのような理不尽を遣わしたのだ!
皇帝はウロコの出た顔を青くしてぶるぶると震えていた。
圧倒的な孤独感が皇帝を締め付けた。
その皇帝に近衛騎士たちが報告にやって来た。
「陛下。ご無礼を平に謝罪致します。ですがこの場はお許しをたまわりたく……」
本来なら近衛騎士と話すのには間に国務大臣を挟まなければならない。
だがそのような余裕は皇帝にはなかった。
「苦しゅうない。話せ」
「飛来した物体が明らかになりました。物体は帝都から約10キロ先の平原に着弾。着弾した周囲に大穴を作りました。これによる人的被害はゼロ。物体はまるで狙いすましたかのように誰もいない場所に着地したと思われます」
「それで飛来した物体とは?」
「それが言いにくいのですが……いわゆる台所用の清掃用具でして……つまり……その……」
「早く言え」
「タワシでした!」
皇帝の目が見開いた。
そして皇帝は理解した。
皇帝は……いや帝国はライミの息子に敵とすら思われていなかったのだ。
あまりうるさいなら虫のように殺す。
そういう意味なのだ。
「あはは……あはははは……」
皇帝は笑った。
今まで認められなかったことを心が受け入れる。
この国は終わったのだ。
これから終わるのではない。
もうとっくに滅亡していたのだ。
このようなふざけた力。
悪魔以外にはありえない。
つまり悪魔は……初代をこの国の皇帝にした悪魔である瑠衣はライミの息子を選んだのだ。
ライミの息子こそ真の皇帝なのだ。
絶対に刺激してはならぬ相手だったのだ。
実際は企画アイザック、実行アッシュなのだが皇帝は盛大に勘違いしていた。
「それと砦と僧侶の本山ですが……」
「それも掃除用具なのか?」
「は、はい。仰るとおり砦はデッキブラシ、本山はモップで攻撃を受けました」
「それらは正式な報告か?」
「いいえ。間者の報告です。正式な報告書では槍と明記されていると思います」
「そうか……そなたはどう思う?」
「『次は槍だ』という脅しかと思われます」
「だろうな。余は犯人に心あたりがあるが捕縛できるか?」
「無駄死にを出すだけになると思われます。ただ……本山が黙ってはいないでしょう」
「うむ。わかった。下がっていい」
皇帝は深くため息をついた。
◇
皇帝のため息とほぼ同時期にクリスタルレイクに食材が到着した。
エドモンドがキャラバンを率いてやってきたのだ。
アッシュたちはそれを出迎えた。
村人はクリスたち子どもまでもが倉庫への搬入を手伝う。
エドモンドは執務室でアイリーンと話し合っていた。
「アイリーン殿、まずこれが武具の売買契約書でございます」
「エドモンド卿。お手数かけてすみません」
そう言うとアイリーンは契約書を見る。
思ったよりも桁が多い。
「エドモンド卿。値段が当初より高すぎるようですが?」
「ええ。ここ数日で武具の値段が高騰してますからな。なんでも砦の崩壊に本山への攻撃があったとか」
アイリーンとベルは料理人二人の顔を思い浮かべた。
なにも言わないが犯人はわかっている。
「あはははは。偶然とは恐ろしいものですなあ」
「まさに恐ろしいものです。……噂では帝都まで襲撃を受けたとか」
「あはははは。あくまで噂でしょう。そんなことがあったら私も帝都に招集を受けるはずです」
絶対に呼ぶはずがない。
だが形式上は呼ぶことになっているはずなのだ。
「でしょうな。ところでアッシュ殿はご在宅かな?」
そもそもアイリーンたちがいるこの屋敷はアッシュの家である。
「はい、いますが……」
「ぜひお呼び頂きたい。アッシュ殿には大事なお話があります」
エドモンドは真剣そのものの顔をしていた。
アイリーンはそこにこめられたなにかを感じ、ベルへ目配せをした。
ベルは無言でうなずくとアッシュを呼びに行った。
アッシュが執務室にやって来る。
倉庫への搬入を手伝っていたのでシャツ一枚という格好だったが誰も気にしない。
エドモンドも格好は気にしないようだった。
悪魔の関係者は人の外見にはあまりこだわらないのだ。
「アッシュ殿。大事なお話があります」
「はあ」
「アッシュ殿の本当のご両親のことです」
「……はあ」
アッシュからしたらどうリアクションを取ればいいかわからない。
「アッシュ殿はライミ侯爵家、ライミ侯爵のご長男にあらせられます」
「エドモンド殿!」
アイリーンが立ち上がった。
ライミ家の終焉を教えるのをためらったのだ。
ところがアッシュは無反応だった。
詳しくは知らないもののある程度の話は漏れ伝わっていたのだ。
「まあ知ってます。滅んだ家の跡継ぎだったって話でしょ?」
「知っておられるのなら話は早い。これをご覧ください」
エドモンドは家系図や証言などをまとめた資料を取り出した。
「アッシュ殿は初代皇帝陛下の直系の子孫です。つまりこの国の正当な皇帝になる資格が……」
「俺は俺です。今の俺はケーキ屋を開いたばかりの青二才で、ようやく従業員を一人雇ったところなんです。皇帝になんてなる気はありません」
「そうですか……それは残念。ですがすでにあなたは悪魔の加護を得ている。それこそが皇帝の証です」
「その契約の相手はアイリーンです」
「え、私にまで話が飛んできた? 私だって嫌だぞ。ようやく代官も軌道に乗りそうなのに!」
バタバタとアイリーンが手を振る。
二人とも善良な人間である。野心などないのだ。
エドモンドは渋い顔をした。
本当ならアッシュもアイリーンも英雄だろう。
なのに野心がなさすぎるのだ。
エドモンドはこの野心のなさが欠点だと考えたのだ。
だがエドモンドの考えは間違いである。
もし野心があったなら瑠衣も二人の前に姿を現さなかったし、レベッカは死んでいたかもしれないのだ。
そして次の瞬間にそれは起こった。
ごつりという音がして執務室のドアが開いたのだ。
「いってー! だから押すなよって言っただろ!」
若い男の声。
「うっせーな! 開いちまったもんは仕方ねえだろ!」
甲高い少女の声。
「あのね。あのね! 楽しかったの♪」
舌っ足らずな子どもの声。
それはアイザックとクリス、それにレベッカだった。
「にいたん!」
レベッカはアッシュに抱きつく。
「エドモンドさん。つまりこういうことです」
アッシュはしがみつくレベッカをエドモンドに見せた。
エドモンドはふっと笑う。
「わかりました。今のところは引きましょう」
エドモンドは理解した。
レベッカのいる生活こそがこの二人の守りたいものなのだ。
だから今はまだ二人を動かすことはできないだろうと。