皇帝がやってきた
村長が行方不明になるというトラブルはあったが、皇帝一行の受け入れ準備自体は急に協力的になった村民の協力もあり無事に終了した。
同時に作業していた悪魔への追加報酬のホールケーキ300個もなんとか納入できた。
悪魔たちは大喜びし、さらにエルムストリートを修復した。
まるでクリスタルレイクはこれから貴族や商人を受け入れる町のようになっていた。
そして皇帝が到着する日がやってきた。
この日はアイリーンもベルもいつもの武官風の格好をしないで貴族階級の女性らしいドレスを着ていた。
こういうものなのでしかたがない。
「さて、皇帝陛下のお出迎えの順序はわかっているな」
アイリーンは全員に確認する。
「アイザックとカルロスはひたすら待機。近衛騎士が来てるから話しかけられたときだけ答えろ。それ以外は一切喋るな」
酷い話だが身分制社会なんてそんなものである。
「ベルは私の秘書として控えろ。ベルも話しかけられたときだけ声を出せ」
「かしこまりましてございます」
アイリーンの親戚でありながら家臣でもあるベルは身分制社会の掟にはなれているのだ。
「あとは……アッシュとレベッカだが……」
呼び捨てにするほどすっかり打ち解けたアイリーンは腕を前に組んで「うんうん」とうなずいた。
アイリーンが一人で納得していられるだけの余裕があった。
なぜならアッシュは厨房でレベッカと待機していたからだ。
あまり初心者向けとは言えない顔をしたアッシュに遭遇するのを防ぐためだ。
皇帝や御付きの貴族のためではない。
アッシュを怒らせたら最悪国が滅んでしまうからだ。
なにも帝国を打ち倒す必要はない。
帝国の危機に手を貸さないだけで充分だ。
ノーマンに手を貸すと宣言するだけでも簡単にクルーガー帝国は滅ぶだろう。
だからこそ無駄なトラブルを避けるべきである。
アイリーンは自分自身の判断は間違ってないと胸を張って言えたのだ。
一行が門の前で待っていると皇帝を乗せた馬車とその護衛や聖職者、文官、さらには人足までも加えた大行列がやって来る。
それでもこれは予想していたこと。
行列が見えてからアイリーンたちはひざまづいた。
スカートが汚れることなど気にしない。
これはこういうものなのだ。
行列が止まる。
すると文官がアイリーンに向かって歩いてくる。
背筋を伸ばし、無駄に勇ましく、ブーツを地面に打ち付けながらやってくる。
一見すると無駄だがこういう文化なのである。
文官がある程度行列から離れると楽団のラッパが鳴り響く。
これはすべて皇帝の威光を見せつけるためだけに行われる演出である。
(こいつらバカじゃないのか……この村に見せつけるような住民はいないのに)
合理主義者の悪魔たちにすっかり毒されているアイリーンは心の底から思った。
(こんなことをやっているからノーマンとの技術差が開く一方なのだ)
言いたい放題である。
それを知らない文官はアイリーンの元まで来ると羊皮紙を広げて大声で言った。
「皇帝陛下のお言葉である! ベイトマン伯の子アイリーンよ! クリスタルレイク代官を命ずる。よきにはからえ」
正確に言えばアイリーンは貴族ではない。
親が貴族なのだ。
だから家を継いでいないアイリーンに皇帝は直接話しかけない。
「はは!」
アイリーンは素直に答えた。
文官の言葉は皇帝の言葉と同じである。
逆らえば面倒なことになる。
アッシュと瑠衣ならば帝国を滅ぼすことも可能だろう。
だが初代皇帝の直系子孫であるアッシュが皇帝になることができるかといえば、そう事は単純ではない。
圧倒的に面倒だし、ケーキを作って喜んでいるアッシュの自由を奪うのは忍びない。
だから皇帝には従っておく。
過去がどうであれ敵にさえまわらなければ倒す必要はないのだ。
アッシュの自由を守るのはアイリーンの役目である。
この視察はある意味勝負である。
スローライフを邪魔は誰にもさせないのだ。
アイリーンは心に誓った。
◇
アッシュはレベッカと焼き菓子などを皿に飾りつけていた。
幽霊メイドも一緒である。
この仕事が終わったらレベッカと遊ぶ約束をしているのでレベッカも真剣にお手伝いをしている。
アッシュはアイリーンのメモを注意深く見る。
そこにはアッシュには聞き慣れないルールがたくさん存在した。
皇帝の食べるものは毒味役のためにも多めに盛る。
近衛騎士や文官、さらには人足用にもちゃんと作る。
こういうところに気を回せるのがアイリーンの強みである。
なにせ気の利かない両親のフォローを子どもの頃からしていたのだ。接待も得意になる。
それに宣伝のためにもなるのだ。
配っても損にはならない。
さらにはお土産まで作る。
お土産用はさらに複雑だ。
聖職者用には菓子のかわりにお金を入れる。
お金が嫌いな聖職者などいない。
少なくともアイリーンは会ったことがない。
たいていの教会が貧乏であることを知っているアッシュも否定はしない。
文官や人足のお土産には菓子もお金も入れておく。
清廉潔白であるという建前のイメージで糧を得ている近衛騎士にはお菓子を多めに入れる。
現金を渡すよりも好印象を持たれるのだ。
アッシュは「なるほどなるほど」と感心しながらお土産を作っていく。
レベッカは一生懸命お皿を拭いていた。
きゅっきゅっと拭いているとレベッカの目がくわっと開く。
「にいたん。できました!」
「ありがとう。そこに置いてね」
「あい!」
レベッカはすっかりお手伝いができる子になっていた。
幽霊メイドがレベッカの頭をなでる。
レベッカは尻尾をふりふりした。
アッシュは最後のお土産の袋をリボンで縛った。
するとガラガラとカートを押す音が聞こえてくる。
「はいお菓子の回収です」
いつもの執事服を着た瑠衣である。
頼みもしてないのにお手伝いに加わっている。
それもしかたない。
アッシュたちの中で皇帝の前に出ても恥ずかしくない所作ができるのはアイリーンとベル、それに瑠衣だけである。
なので手伝ってくれるのを断る手はないのだ。
アッシュはお土産の一つを瑠衣に手渡す。
「瑠衣さんの分です」
「あらあら。これは嬉しいです。アッシュ様ありがとうございます」
甘党の集団である悪魔への報酬は感謝の心と菓子が一番である。
機嫌をよくした瑠衣はカートに荷物を積み込んでいく。
「さてと……では行って参ります」
るんったったーと軽やかな足取りで瑠衣は出て行く。
すると皿や調理器具を洗っていた幽霊メイドのメグが言った。
「アッシュ様。いいのですか?」
メグはアッシュを『様』づけで読んでいる。
これはメグがアッシュをアイリーンの愛人であると認識したからである。
将来的に自分の主になる可能性もあると思っての態度である。
アッシュはなにを言っているかわからないという態度で聞き返す。
「なにが?」
「瑠衣様は悪魔です。皇帝陛下はもちろんですが一緒に大司教閣下もおいでです。さすがに悪魔はまずいのではないでしょうか?」
さすがのアッシュさんも瑠衣が妖精さんだとは思ってない。悪魔だとわかっている。
「まあ昔、王宮に仕えていたらしいので大丈夫じゃないかな?」
アッシュの答えはテキトーである。
信心深くなければこんなものである。
「そうですか……それならいいのですが」
メグはどうにも嫌な予感がしていたのだ。
そう彼らは危険である。
人間兵器アッシュ。
大悪魔瑠衣。
その二人のカオスな世界観に毒されたあるじさま。
どう考えてもトラブルの予感しかしない。
しかもそれは当っていた。
彼らは完全に忘れていた。
瑠衣が仕えていた期間。
それは数百年にもわたっているのであった。
そんな瑠衣の記録が残っていないはずがないのだ。