魂の自由
アッシュは激しく怒っていた。
アイザックもカルロスも大事な友人だ。
そんな友人たちを洗脳するなんて絶対に許せなかった。
だが、アッシュは怒りの表情を表に出さなかった。
ただ冷たい目で天使を名乗る男を見ていた。睨みすらしない。
アッシュはその価値を相手に見いだせなかった。
もう相手になにかを期待することも、コミュニケーションを取るつもりすらなかった。
「ふふふ、どうした? かかって来い」
男が羽をバサバサと羽ばたかせた。
次の瞬間、無数の羽がアッシュに向かって飛んでいく。
アッシュはよけなかった。
そのまま立ち尽くす。
飛んでいく羽にはカミソリのような刃が仕込まれていた。
それがアッシュに迫ろうとしていた。
いやアッシュだけではない。
その場にいた全ての人間に無差別に羽が襲いかかっていた。
そのときアッシュは、むんずとなにかをつかんだ。
会場の中央におかれた大理石製の大きなテーブル。
それをアッシュは片手でつかんでいた。
ばきりと音がした。
「おい、いくら何でもそれは反則だろ……」
神族の男が小さくつぶやいた。
もうその瞬間にはアッシュはテーブルをまるでウチワのように振っていた。
いや、それにしてはスピードが異常だった。
アッシュはブンブンと、大きなテーブルを振り回す。
あまりのスピードでテーブルは残像となる。
アッシュの振り回すテーブルは次々と風を作り、羽に襲いかかる。
風に煽られた羽が落ちていった。
それはまさに冗談のような光景だった。
その場にいた全員が人間離れした動きを前に固まっていた。
「逃げろ!」
アッシュの声がした。
その時点でようやく男たちは逃げ出した。
アイザックとカルロスは全員を逃がして、最後に部屋を出た。
アッシュはボキリボキリと指を鳴らしながら、ゆっくりと神族に近づいていく。
神族はこめかみに青筋を立てながら、大きな声でわめく。
「なぜだ! なぜ貴様は世の理を曲げる! 人間は我らの食料だ! それはこの世界が折りたたまれたときから決まっていたこと、なぜ貴様らは今さら反抗する」
「人間と悪魔は共存するしかない。お互いがお互いを必要としている」
「家畜が生意気な!」
もう一度、神族は羽ばたく。
「無駄だ」
その刹那、アッシュはテーブルを思いっきり神族にぶつけた。
羽ばたく隙など与えない。
ひたすらテーブルで殴りつける。
大理石のテーブルが割れ、少しずつ小さくなっていく。
神族は殴られるたびに大きく吹き飛ぶ。それでもアッシュの攻撃は止まらない。
先回りし、テーブルで殴りつける。
「この虫けらが!」
神族が叫んだ。
なにもさせてもらえない。
それは永い刻を生きてきた神族にも初めての経験だった。
それは神族のプライドをどこまでも傷つけた。
アッシュは殴り続けながら、抑えた声で反論する。
「お前は弱い。かつて戦った悪魔の魔道士がいた。やつは敵だったが魔法に真摯に向き合っていた。やつは強かった」
アッシュはテーブルを投げ捨て、今度は拳で神族の体を殴りつける。
重い音が響き、神族の体がくの字に曲がった。
「本山の僧兵をやっていた悪魔たちとも戦った。やつらは武術に真摯に向き合っていた。やつらもまた強者だった」
アッシュは神族の胸倉をつかむと腹にヒザ蹴りを入れた。
神族は悲鳴もあげられず、ただ顔を歪めた。
アッシュはもたれかかる神族にそっと言った。
「だが……お前は弱い。ただの人間よりも。アイザックにもカルロスにもお前は勝てない」
アッシュは拳を振り上げ、そのまま神族の後頭部に落とす。
「もし、あの場に人がいなければ、お前が口上を述べようと気を抜いた瞬間にアイザックに剣を叩き込まれていただろう。そして次の瞬間にはカルロスが結界を張り、動けなくなったお前を料理していただろう」
アッシュは神族の背中を踏みつけた。
神族はもがくが、まるで巨大な岩につぶされたかのようにビクともしない。
「人間は常に進化している。人間と関わる悪魔もドラゴンもだ。もう、人間を家畜などと言わせはしない」
「に、人間は、我らに不幸を貢ぐべきだ。永遠に、永遠に、我らのために殺し合いをするのだ!」
「人間はお前らのために生きているわけじゃない」
最後にアッシュは、神族を殴った。
神族は動かなくなった。
(瑠衣さんに引き渡そうか)
すると部屋にノーマン側の使者たちが入ってくる。
「な、なんと! ま、まさか神に勝てる人間がいるとは……」
神族を知っているものが何人かいた。
だがそのことよりもアッシュは気になることがあった。
「彼らは神じゃない。俺たちと同じ生物だ」
「で、ですが、ライミ卿、我らはもう何百年も彼らの言うままに暮らしてきたのです」
そういう男の表情は蒼白で、かすかに震えていた。
ノーマンの人々は心の底から神族を恐れているのだ。
だがアッシュはクリスタルレイクでの生活からある確信を持っていた。
「仮に神だとしても、彼らは人間がいなければ種を維持することもできない。彼らのために戦争などする必要はない。人間は……いや彼らも他の種族も魂は自由だ」
「か、彼らが……神ではないとしたら、我らはいったい……どうすれば……。それに彼らの機嫌を損ねでもしたら……」
「抵抗すればいい。ドラゴンがいる限り、彼らが暴力で人間を支配することは不可能だ。ドラゴンの封印を探し、解放するんだ。ドラゴンを守ってやれば悪魔も神族も人間との付き合い方を考え直すだろう」
それだけ言うと、アッシュは神族をむんずとつかみ、引きずっていった。
完全勝利。
ノーマンとの外交も神族との戦いも文句なしの勝利に終わったのである。
だが……。
次の日のことだった。
アッシュの宿泊する施設に帝国側の伝令がかけ込んだ。
あわてているのか、息は乱れ、汗でぐっしょりしていた。
伝令はアッシュとアイザック、それにカルロスを見かけるなり、膝をつき報告をはじめる。
「皇帝陛下が……皇帝陛下が! お隠れになりました!」
それを聞いた瞬間、カルロスは真っ青な顔で建物を出て行く。
皇帝の死。
とうとうやって来てしまった。
そう、その事件からはセシルは逃げることはできない。
たとえ妊娠中だとしても。