アイリーンの過去とアッシュの誓い
準備が終わり、日の出とともにアイリーンたちは出発することに決まった。
アイリーンは最後にクリスタルレイクのあちこちを見て回る。
屋敷はごく最近を除いては一番幸せだった子どものときの思い出だからだ。
子どもの頃に友達と一緒に行った湖畔。
背が高くて迫力のある顔をしているのにやたら面倒見の良い少年……
いや、うすうす少年が誰かはわかっていた。
「アイリーンお姉ちゃーん!」
小さい生き物がぴょこぴょこと一生懸命走ってくる。
そのままぴょこんとアイリーンに抱きついてくる。
「あはは。どうしたレベッカ」
アイリーンはレベッカを抱っこする。
アイリーンはもうこの小さなドラゴンにメロメロだった。
だけどもう会えないのだ。
そう思うとアイリーンは悲しくなった。
レベッカもそれは同じだった。
「なんで行っちゃうのー?」
レベッカは目に涙をためていた。
「仕事があるんだ」
「帰ってくるの?」
はっきり言って生還するのは難しいだろう。
「ああ? ああ。帰ってくるぞ」
アイリーンは少し泣きそうになった。
こんなにもストレートに純粋な好意を向けられたのはいつ以来だろうか?
「やだ! いなくならないで」
レベッカはアイリーンにしがみつく。
アイリーンもレベッカを抱きしめる。
「どうしても行かなきゃならないんだ。私の父親が待ってる」
アイリーンは父親のパトリックとは心理的距離が遠い。
これは貴族の家庭にはよくあることだ。
アイリーンを直接育てたのは乳母や姉たちだった。
今となっては乳母は他界し、姉たちも嫁に行ってしまった。
まるでアイリーンは家で『お客さん』のような扱いを受けていた。
決して下には扱われないが、家族としては扱われない。そんな立場だった。
騎士の真似事をしてからも決してそこが居場所になることはなかった。
ベルだけは例外だが彼女も似たような立場だ。
実の父親は年に数回会うか会わないか。
母親の方は早くに死んでしまい顔も覚えていない。
だから親という存在に責任感はあっても情はそれほど感じない。
だがアイリーンは末席とは言え貴族の一族なのだ。
臆病者の兄たちや嫁に行った姉たちの代わりに家を守らねばならない。
それが責任というものなのだ。
「やだやだやだやだやだ!」
レベッカがわがままを言った。
アイリーンは困ってしまった。
アイリーンは貴族でありながら根無し草のような人生を送っていた。
自分の居場所というものがなかったのだ。
家でも騎士団でもアイリーンは『お客さん』でしかなかったのだ。
それがとうとう最後の最後に『家』を見つけてしまったのだ。
レベッカを守らなければならない。
だからアッシュのことはあきらめねばならない。
だけどこのときだけは別れを惜しんでもいい。
アイリーンは無言でレベッカを撫でる。
するとアイリーンへ大きな影がさした。
「アッシュ殿か」
アッシュはケーキ屋のプレオープン時のように騎士風に髪をまとめて小綺麗な格好をしていた。
まとめたまま悲しそうな顔をしている。
アッシュの顔になれた最近ではアイリーンは乏しいと見られがちなアッシュの表情が意外に多彩なことに気づいていた。
「別れなんかじゃない」
アッシュははっきりと言った。
「俺が助ける」
その姿にアイリーンの記憶が思い出された。
それは子どもの頃の記憶。
アイリーンは小さな子どもだった。
まだその頃はアイリーンは身分も孤児院も知らなかったし、子どもどうしだったらすぐに友達になれた。
だから毎日のように護衛をまいて教会に行き、子どもたちと泥まみれになって遊んでいた。
それをとがめるものはいなかったし、護衛もそのうちそういうものだと受け止め手を抜くようになった。
アイリーンは毎日が楽しかった。
だけどある日それは唐突に終わる。
「ぐるるるるるるるる」
犬の形をした黒い影が歯を剥き出しにして唸っていた。
それはヘルハウンド。いわゆるモンスターと言われる存在だ。
アイリーンと一緒にいた女の子は震え上がった。
それは安全なはずの教会の庭だった。
突然それは現れたのだ。
アイリーンは自分の後ろに自分より小さい子を隠してかばう。
そしてヘルハウンドを睨み付ける。
本当は恐ろしかった。
だけど勇気を振り絞って必死に守っていた。
ヘルハウンドの身が一瞬沈む。
来る!
「ぐるぁッ!」
ヘルハウンドが顎を開きアイリーンたちへ飛びかかった。
アイリーンは死を覚悟し目をつぶった。
なるべくなら痛くないようにと祈りながら。
「きゃいんッ!」
だが痛みの代わりに聞こえたのはヘルハウンドの悲鳴だった。
それは大きな手だった。
それがヘルハウンドの顔をつかみあげ、いわゆるアイアンクローをしていたのだ。
「大丈夫か?」
背の高い男の子だった。
教会の孤児院でもお兄さんとして小さい子の世話を焼いている男の子だ。
普通の男の子の……はずだ。
「きゃいんきゃいんきゃいんきゃいん!」
その普通の男の子は魔物の顔を片手でギリギリと圧迫していく。
そして男の子は言った。
「めっ!!!」
いやちげえだろ! そうじゃねえだろ! おかしいだろが!
それはアイリーンの魂の叫びだった。
今思えばそれがアイリーンがツッコミに目覚めた瞬間だった。
男の子はヘルハウンドを解放する。
するとヘルハウンドはあろうことかひっくり返ってお腹を出した。
その尻尾は千切れそうなほどブンブンと振っている。
幼いアイリーンの目にもそれが命乞いである事は明白だった。
「もうダメでしょが! 人間を襲ったら『めっ』だよ!」
男の子は小さな子に言い聞かせるようにヘルハウンドを叱った。
「きゅ、きゅいーん、きゅううううん」
ヘルハウンドは男の子に露骨に媚びている。
先ほどアイリーンたちに牙を剥いたのと同じ生き物とは思えない。
「もう人を襲ったらダメだよ」
「くうーん」
「わかったら行ってもよし!」
「きゃん!」
そう言うなりヘルハウンドは尻尾を丸めて逃げていく。
はたしてこの男の子は人間なのだろうか?
アイリーンは失礼なことを考えていた。
だが男の子はしゃがんでアイリーンと同じ目線になるとそっと頭をなでた。
「よく小さい子を守ったね。すごく勇気があるいい子だ」
あまりほめられなれてないアイリーンは顔を真っ赤にする。
なんだか恥ずかしかったのだ。
でも男の子は気にせず優しい言葉をかける。
「怖かったろう。一緒に帰ろうな」
そう言って片手で小さな子を抱っこすると、もう片方の手でアイリーンと手をつなぐ。
その手がなんだか温かったのをアイリーンはおぼえている。
その日からはアイリーンは少年につきまとった。
まるでカモの親子のように少年の後ろをついてまわった。
アイリーンは少年のように強く、そして優しくなりたいと強く思ったのだ。
その秘密をどうしても知りたかったのだ。
だからいつまでも後ろをついて回ったのだ。
でもある日それは唐突に終わった。
家の財務状況が悪化し別荘を引き払うことになったのだ。
その時は大泣きした。
最後は物理的手段で引き離されたほどだ。
それほど男の子と一緒にいるのが楽しかったのだ。
そして現在のアイリーンは自覚してしまった。
男の子こそかつてのアッシュなのだと。
まるで初恋の思い出じゃないか!
現在のアイリーンは顔を真っ赤にした。
「うん? どうした?」
アッシュが聞く。
なぜかアッシュのその顔が、悪魔より三割恐ろしいその顔が……美しく見えたのだ。
なんでだー!!!
ねえよ!
ないからな!
アイリーンは全力でそれを打ち消そうとする。
「変だぞ?」
「い、いやなんでもない」
そう言いながらもアイリーンの顔は真っ赤だった。
そしてアイリーンは決心する。
(ベル……すまん)
「アッシュ殿、しゃがんでくれ」
「あ、いいけど」
アイリーンは深呼吸をする。
すーはーすーはー。
そして意を決した。
アッシュの顔に顔を近づけ……
「な!」
アッシュのほほに口づけした。
どうにも男性との交際経験がないアイリーンにはそれが限界だったのだ。
「安心しろ。私は戻ってくる!」
アイリーンはふっきったように微笑んだ。
そしてアッシュもアイリーンに言う。
「絶対に守る」
それが気休めか本気かはアイリーンにはわからなかった。
だがなぜか心は晴れ晴れした。