夫婦喧嘩はドラゴンも喜ばない
クリスがアイザックに襲いかかった。
クリスはアイザックの背中に抱きつき、その肩に噛みつく。
「痛ッてえええええ!」
アイザックが悲鳴を上げた。
アイザックは紳士である。
女性に手を上げるなんてもってのほかと思っている。
だが痛い。半端ではなく痛い。
この時のクリスは戦闘力は半端ではなかった。
なにせクリスはド庶民である。
それも下層階級である。
夫婦喧嘩など普通の環境で育ってきたのだ。
その噛みつき攻撃は悪魔と同格のアイザックでもただじゃすまないほどだ。
だから叩きこそしないが頭を押して引き剥がそうとした。
だがビクともしない。
本気で噛みついている。
「だから話を聞けって!」
クリスはアイザックの肩を解放すると怒鳴った。
「離婚ってなにさ! 離婚するならアンタを殺してアタシも死ぬ!」
「だから違うって! 頼むから聞いてくれ!」
がぶり。
「むぎゃあああああああああ!」
クリスは完全にキレていた。
話も通じないほどキレてしまっていたのだ。
そこにセシルとアッシュがやって来る。
「おう、すまん。遅れた……ってお邪魔だったかな?」
セシルは屋敷の惨状を見て言った。
アッシュは大きな体でオロオロしている。
「どこを見たらそういう感想になるんですか! アッシュさんも見てないで助けてください!」
アイザックが助けを求めるがアッシュもセシルも手が出せない。
最強の男もキレた女性には弱いのだ。
「うがああああ! セシル姉! アイザックがアタシと離婚するって!」
久々に野生化した少女が吠える。
涙目であるが、アイザックの方が酷いありさまだった。
それを聞いてセシルは笑顔で言った。
「ああ。だってそれを命令したの私だし」
「セシル姉えええええええええッ!」
クリスは目を尖らせた。
そのうち炎を吐きそうである。
「聞けってクリス。アイザックは出世する。そのためにいったん離婚するんだ」
クリスは呆けた。
そしてアイザックに噛みつく。
よくわからなかったらしい。
わからなかったのでとりあえず攻撃したのだ。
この辺の習性は猛獣クラスの肉食動物と同じである。
「痛てええええええええッ! だから痛いって! あのなクリス。俺はお前に婿入りするんだ!」
クリスはアイザックを解放する。
するとセシルを見た。
わけがわからないのだ。
「いいかクリス。大人しく聞け」
コクコクとクリスがうなずく。
アッシュはアイザックの手当をし始める。
『もう、女の子って野蛮ね』
『女の子怖い』
と、お互い無言で目で語り合っていた。
セシルは二人を気にせず続きを話す。
「アッシュの右腕である以上、今の地位では困るのだ。そこで調べたらライミ侯爵家の親戚の家を見つけたんだ。年老いた夫婦だったから暗殺のターゲットにされなかったんだろうね。主家の復活と聞いて喜んでたよ。そしてそこの老夫妻には子どもがいない。そこでクリスに養子に入ってもらう」
どうやら親戚で貴族である。
ライミ家が本家だったようだ。
「なんでアタシが養子になるのよ。そう言うのってアイザックが養子に入って、アタシをもらうんじゃないの?」
「それがだな……このアイザックな。なかなかの名家の出身なんだよ。近衛騎士を輩出したこともある名門だよ」
「……没落寸前って言ってなかったっけ? それも勘当されたんじゃないの?」
クリスが仁王立ちする。
アイザックは小声で言った。
「いや……あのな……勘当は本当なんだよ。中央を追い出されちゃったから」
アッシュはアイザックの肩をぽんッと叩いた。
「アッシュさん!」
アイザックはアッシュの胸で泣く。
「はいそこ! 小芝居はいいから!」
セシルは手を叩いた。
アッシュとアイザックはそれでもやめない。
どうやら小芝居ではなかったようだ。
アッシュの優しさが本当に身にしみたのだ。
そんな二人を放ってクリスは疑問を述べた。
「それで名家だとダメなの?」
「なるべくなら嫉妬を買いたくない。アイザックの経歴は完璧すぎるんだよ。中央を追い出されたのだって、アッシュの部下として貴族になるためにそう装ったようにしか見えない。騎士に貴族の嫉妬を買ってみろ。ストレスでおかしくなるぞ。入り婿で女房の尻に敷かれているくらいでちょうどいい。ここ何年も夜会へ出席してなかった家だ。養女の記録なんて残らないし誰も気にしないさ」
クリスは首をかしげた。
なにかがおかしい。
なにか今、セシルはさらっと凄いことを言ったのだ。
「貴族?」
クリスがそう言うとセシルは最高に悪い顔をして答えた。
「うんそうだよ。男爵家令嬢のクリスさん」
クリスは一瞬の間を置いて、ぐらっと倒れた。
アイザックがクリスを受け止める。
「お、おい大丈夫か?」
その瞬間、クリスは目をカッと開いた。
「もうね! この村の連中がメチャクチャなのは知ってたけど、アタシまで巻き込むか!」
村でのクリスの評価は人外クラスである。
なにせ悪魔の信頼を集める女なのだ。
保持する戦力はクリスタルレイク最強と言っても過言ではない。
もうすでに人類から大幅にはみ出しているがその自覚はクリスにはない。
人間は案外自分を客観視できないものなのだ。
セシルも『なに言ってんのこいつ』という顔を一瞬だけしたが、気を取り直して話を続ける。
「というわけで、いったん離婚というか結婚自体をなかったものする。もうすでにガウェイン村長の所にある人別帳は書き換えた。あとは任せろ」
悪いセシルはそう言った。
クリスの方は不安でいっぱいだ。
「あのさ、セシル姉。親父はどうするの?」
「問題ない。記録を書き換えるだけだ。忙しくはなるけど今と変わらんよ」
クリスは考える。
断ることはできないだろう。
正確には離婚でもない。
結婚し直すだけだ。
クリスはアイザックを見た。
アイザックはモテる。
若く顔が良くて優しい。
アッシュに勝つ日が来ると信じている変人なところはあるが、そこもヤンチャで済ますことができる程度だ。
ギャンブルにのめり込むタイプらしいが、友人のカルロスがいれば問題は起きない。
取られる危険性は常につきまとっている。
だが入り婿ならどうだろうか?
今よりも飛躍的に安全性が高まるのだ。
と、比較的冷静になったクリスは計算した。
ややゲスな想像なのは、普段からそれだけ焦っているということである。
セシルは『あーあ、このバカップル爆発すればいいのに』と言わんばかりに言った。
「というわけで今の生活に変わりはない。しいて言えば酒場を誰かに任せろよ」
雇われ店長は退職なのである。
アイザックはこの日一番嫌そうな顔をした。
さて、ここでセシルは完全に失念していた。
アイザックはセシル派の有力者たちも贔屓にしている酒場の店長である。
顔見知りだし、かなり気に入られている。
単に派閥の長のお気に入りというだけではない、生のコネションを構築していたのだ。
いきなり有力者たちが味方になった状態からのスタートである。
その意味をまだ誰も考えていなかった。