アッシュさん傭兵辞めるってよ
それはレクター暦1776年のことだった。
砦に突如として戦場にカノン砲の音が響いた。
カノン砲が弾を撃った勢いでごんッと音を立てながら後ろに押し戻され、辺りに火薬の白い煙が充満する。
人の頭ほどもある鉄の玉は放物線を描き鉄と木でできた門にぶつかる。
幾重もある城門の一つがひしゃげ、崩れ落ち、辺りに火薬の焦げたにおいが充満した。
それは二つの大国の戦争だった。
この地に古くから存在する神聖クルーガー帝国に新興国ノーマン共和国が突如として侵攻した。
ノーマン共和国の電撃戦の前に一時は首都近くまで押されていたクルーガー帝国だが、この年奇跡のごとく連勝を重ねついには元の国境近くまでノーマン共和国を追い詰めていた。
その日も国境近くのカバリン砦を攻略しようと兵が集まっていた。
砦を守るノーマン軍約4000。
それに対するクルーガー軍は約1000。
明らかに不利なのはクルーガーの方だった。
それにもかかわらずクルーガーは連戦連勝を重ねていた。
その勝利の秘密は一人の男にあった。
「おい、甲冑潰し! お前の出番だ!」
砲兵長の怒鳴り声が戦場に響いた。
甲冑潰しと呼ばれた男が無言で前に出る。
男はカノン砲随伴兵だった。
男の名前はアッシュ。
傭兵を生業にしている。
彼のあだ名である『甲冑潰し』は素手で甲冑を着込んだ騎士を殴り殺したことからきている。
アッシュは身長2メートルもある大男であった。
しかも顔を覆うフルフェイスの兜を被っている。
そんな姿のアッシュが出てくるだけで、敵は恐怖に震えるのだ。
だが本当はアッシュは兜を外した方が恐ろしい、
なぜなら単純に顔が怖いのだ。
厚ぼったいまぶたに異常なほど眼光鋭い目が光る。
それを隠そうと伸ばした髪が余計に恐怖を煽る。
鼻も唇も傭兵業をやっているせいか大きく固そうである。
顔全体の印象はオークのような、オーガのような、それでいてギリギリ人間であるような、とにかく恐怖心を与えるほどの人外じみた顔である。
それがアッシュなのである。
砲兵長や砲兵隊員はアッシュを30代後半だと思っているほどだ。
だがアッシュの年齢は17歳だった。
幸運なことに傭兵には顔の怖さは問題にならない。
いや、むしろ傭兵業では顔が怖いことはプラスになる。
だからむしろ積極的に顔を出していけばいいはずなのだ。
それでも17歳にはその現実を受け入れるのは難しい。
男の子は案外ナルシストなのだ。
せめて顔を隠して格好つけたかったのだ。
たとえそれが全て裏目に出て仲間にも半ば傭兵業界での定番の都市伝説として定着するほどの恐怖を与えていたとしてもだ。
アッシュは兜の中から血走った目であたりを睨む。
壊れた城門から槍を持った兵がわらわらと出て来た。
その後ろにはマスケット銃を持った兵が援護のために並んでいた。
アッシュは腰に差した蛮刀を抜いた。
それはまるで不死身の殺人鬼なのだが、本人は気づいていなかった。
だがアッシュ以外の世界はアッシュに敏感だった。
バサバサバサバサバサ!
野鳥が我先にと逃げ出す。
チューチューチュー……
野鳥のただならぬ気配を察知したネズミも我先にと逃げ出す。
本能に訴えかける危険を察知したのは小動物だけではなかった。
人間も不安に押しつぶされそうになっていたのだ。
小動物の恐怖が敵にも感染していたのだ。
「こ、殺せええええええええッ!!!」
なぜか裏声で隊長が叫ぶと青い顔をした兵が槍を持って決死の覚悟で突っ込んでくる。
アッシュは「またかよ」と呆れながら片手で握った蛮刀を肩に載せた。
槍兵が突っ込んでくる。
だが恐怖のためか、その動きは実に単純でつまらない、ただ突っ込んでくるだけのものだった。
アッシュはため息をつくと空いている方の手で槍の穂先をつかんだ。
がっつり刃をつかんでいるのにもかかわらず、アッシュの手からは血は出ない。
槍兵の顔が青ざめた。
槍兵の想像通り、そのままアッシュは槍ごと兵を持ち上げる。
人間離れした膂力である。
「う、うわあああああああああッ!」
手放せばいいのに槍兵は悲鳴を上げながら水面に浮かぶ浮き輪にするかのように槍にしがみついていた。
恐怖で判断力が狂っていたのだ。
アッシュはそのまま片手で持った槍を持ち上げると兵ごと地面に叩きつけた。
グチャリと嫌な音がして兵はピクリとも動かなくなる。
「う、うわあああああああああッ! 化け物だああああああああああッ!」
その叫びとともに兵たちに蔓延した恐怖が爆発した。
兵が次々と悲鳴を上げ我先にと逃げていく。
あるものは転び、その上を別の兵が踏みつけて逃げていく。
踏みつけられた兵士はこれはたまらないと誰かの足を掴み、それで倒れた兵士のせいで将棋倒しがあちこちで起こる。
怪我をした兵たちの悲鳴が響きその悲鳴がパニックを誘発し同じような悲劇があちこちで発生する。
それはまさに地獄絵図だった。
(そこまで怯えなくても……)
アッシュは勝利に酔うこともなく、心中はただひたすら悲しかった。
この巨人、顔とは反比例して心はどこまでもピュアで優しいのだ。
(虚しい……ちょっと顔が怖いだけじゃないか)
問題はそこではなくむしろ人間離れした腕力の方が問題なのだが、アッシュはあくまで殺人鬼のような顔が問題だと認識していた。
アッシュはブツブツと文句を言いながらカタカタと震えるマスケット兵へゆっくり歩いて行く。
(そもそも俺は傭兵に向いてないんだよな)
「ひ、ひいいいいいい! う、撃てええええ!」
必死の形相でマスケット兵が銃を撃つ。
さすがのアッシュも鉛玉の前に蜂の巣に……されなかった。
アッシュは銃で撃たれるたびによろけるが、すぐに体勢を立て直しゆっくりとマスケット兵たちへ近づいていく。
いや良く見ると一部の銃弾を除いては「カン」という固い金属に当ったかのような音を立てて情けなく地面に落ちていた。
マスケット兵からしたら化け物と戦わされている気分だろう。
(撃たれると痛いし。痛いの嫌いなんだよなあ。あーあ……絆創膏貼らないと)
撃たれてもその程度ですむのがすでに人外なのであるが、アッシュがそこに気づくことはない。
アッシュはゆっくり間合いを詰めると蛮刀でマスケット銃を薙ぎ払う。
バラバラになったマスケット銃の破片が宙を飛んだ。
「ひいいいいいいいいッ!!!」
マスケット兵たちは悲鳴を上げながら我先にと逃げ出す。
もちろんどこにも鈍くさい人間はいるものだ。
3割ほどは恐怖のあまり腰を抜かして動けなくなっていた。
恐怖で動けなくなった兵にはアッシュは持っていた蛮刀をひっくり返し、頭を叩いて昏倒させていく。峰打ちである。
アッシュは見た目に反して心優しく無用な殺生はしない主義なのだ。
だが外から見れば血に酔った殺人鬼が無抵抗の人間に無用な殺戮を繰り返しているようにしか見えなかった。
そんな様を見て逃げた兵たちがパニックを起こす。
またもや恐怖は伝染しあっと言う間に広がった。
パニックを起こした兵たちは足はもつれ転倒し、階段では将棋倒し、門には兵たちが殺到、一人ずつ並べば通れるはずの門のところで潰され怪我人が出る。
それでも後ろからは兵たちが押し寄せる。
気がついたときにはほぼ全員が戦闘不能になっていた。
無事な兵たちも地獄のような様を見て戦意を喪失して虚ろな目でブツブツとつぶやいていた。
こうしてアッシュはたった一人で兵たちを戦闘不能にしたのである。
まさに一騎当千。そんな最強の傭兵アッシュだが、アッシュ自身は自分が傭兵に向いているとは考えていなかった。
(もう争いは嫌だ。この戦争が終わったらどこかに土地を買って牧場でもやろう。そうだスローライフだ!)
ツッコミ所しかない発言を脳内で肯定するとアッシュは大砲の所に戻ってくる。
するとゲスを極めたかのような顔をした砲兵長が命令を下した。
「甲冑潰し! いつものをやれ!!!」
(えー……)
アッシュは露骨に嫌な顔をした。
でも命令には逆らえない。
正規兵の隊長クラスは雇い主なのだ。
アッシュはしかたなく片手で大砲を持ち上げ、肩に担いだ。
大砲の下にはアッシュ専用の持ち手が付いていてアッシュはそこを掴む。
どうひいき目に見ても人外の所業であるがアッシュには普通のことだった。
そのまま味方にも関わらず怯えた表情の砲兵がアッシュに随伴する。
アッシュは先ほど壊した門のさらに奥、第二の門の前まで来る。
門を守る敵兵が度肝を抜かれる。
「お、おい、待て! それは反則だろ!!!」
敵兵がアッシュを指さした。
すると砲兵はアッシュが担いだままのカノン砲に火をつけた。
「ふ、ふざけんなああああああああああッ!!!」
門を守る敵兵は青ざめた顔で我先にと逃げ出す。
アッシュが肩に担いだカノン砲が火を噴いた。
ドカンという轟音が鳴り響き、門はバラバラに砕け飛んだ。
逃げ遅れた兵士たちもゴミのように飛ばされる。
(もー、耳がキーンっていうからこれ嫌いなのに)
アッシュは「よっこらせ」とカノン砲を置いた。
「ひいいいいいいッ! こ、殺さないでくれ!!!」
門の近くで地に伏した敵兵たちが命乞いをしていた。
どうしてこの状況でアッシュは傭兵に向いてないと思ったのかは永遠の謎である。
こうしてアッシュの恐怖効果のせいか、短い時間で敵は総崩れになった。
なにせアッシュは銃で撃っても槍で刺しても死なないのだ。
敵兵に残された選択肢など命乞いしかないのである。
そして最後の門の前にアッシュは来ていた。
この門を壊したらあとは砦を攻略するだけである。
さすがに疲れたアッシュはカノン砲の横にいた。
砲兵が火をつけ発射するまでの間、カノン砲を守るためだ。
(どうしようかな? 牧場やるにも動物は高いから、まずは畑でひまわりでも作ろうかな?)
アッシュはどうでもいいことを考えていた。
もう仕事は終わりだ。
最後の門を開けたら、後ろにいたお偉い貴族が楽団を引き連れて中に突入するのだ。
あとは見守れば終わりだ。
そしたら給料が出る。
給料が出たら引退して土地を買うのだ。
土地さえあればお嫁さんをもらうことだってできるかもしれない。
……できるかもしれない。
(お嫁さんは無理かなあ)
ほろりと涙がひとしずく頬に流れてきた。
(あれ……? どうして汗が出てるんだろう? ふふふ。おかしいなあ)
アッシュは案外繊細なのだ。ガラスの心を持っているのだ。
直後、そんなアッシュに事故が起こる。
それは爆発だった。
砲兵が火をつけたカノン砲が破裂した。
それは突然の暴発だった。
マスケット銃で撃たれても無傷だったアッシュですらもこの爆発では吹き飛ばされた。
アッシュの巨体が宙を舞い、放物線を描いて城門にぶち当たる。
粉塵が立ちこめる。
少しの間を置いてガラガラという轟音とともにアッシュという砲弾を受けた城門が崩れた。
城門の残骸が容赦なくアッシュの上に降り注ぎその体はあっと言う間に瓦礫に飲み込まれた。
無事なはずがない。
只人が無事であるはずがないのだ。でもアッシュなのだ。
アッシュは無敵の傭兵なのだ。人外という意味で……
こうしてアッシュ一人の反則気味の活躍によりクルーガー帝国は勝利を収めたのだが、アッシュの活躍は貴族達の耳に入ることはなかった。
アッシュの手柄は貴族達により横取りされたのである。
名誉も報奨金もアッシュ以外の誰かのものなのだ。
むしろノーマン共和国側の方がアッシュを正しく評価していたほどである。
もうどうしようもないほどにクルーガー帝国は腐っていたのである。
そんな腐った国の体質をよそに瓦礫に埋まったままのアッシュは思った。
……転職しようと。
もうこんな職業やめて田舎暮らしをしようと。
アッシュは本当に辞める決意を固めた。
こうしてアッシュの退職により人知れずクルーガー帝国の敗北が決定した所から話は始まる。