アッシュの出世
夜会から数日後。
アッシュは農作業に励んでいた。
元気いっぱい。侯爵をやっているときよりも数倍ははつらつとしていた。
アッシュの認識では侯爵がパートタイムのアルバイトで、農民やケーキ屋が本業である。
さらに言えばスラムの帝王業もアッシュの認識ではパートタイムのアルバイトである。
その認識は著しくズレているのだが、誰もツッコミは入れない。
クリスタルレイクの中ではその認識は決して間違ってないのだ。
それにアイリーンもセシルもわりとどうでもよかった。
クリスタルレイクの中でなら困ることも少ないのだ。
アッシュは作業員がいるため必殺技を使わないで普通に耕していた。
クリスタルレイクの移民たちも、スラム街の労働者も元気に働いている。
スラム街の労働者は特に必死に働いていた。
彼らは2種類に分けられる。
瑠衣の地獄へのご招待の執行猶予を受けたものと、志願して来た普通の住民である。
スラムの住民は、普通と言っても闇の帝王の仕事だと理解している。
地獄送りの執行猶予を受けた連中はもう後はないと覚悟を決めていた。
現在は村はずれの戦災で焼けた空き地を農地として耕作中であった。
「俺たちはなにを作らさせるのだろうか……」
顔に入れ墨を入れた男が言った。
予定では男が掘り返している場所ではイチゴの栽培をする予定である。
「ミミズの糞と家畜と人間のクソを混ぜて発酵させるとかわけわからねえよ! きっとヤバい薬に違いねえ……」
頭をそり上げた屈強な男が言った。
ただの発酵堆肥であるが、まだこの世界ではメジャーなやり方ではない。
しかも学者たちの計画では、土それ自体から作っていこうという計画である。
学者たちが豊富な資金を背景に仮説の実験を好き放題やっているのだ。
この世界の最新鋭の実験である。
「骨に炭まで混ぜるとか意味がわからねえぜ!」
入れ墨の男は不安がっていた。
ただのカリウムとリンである。
「火薬でも作るつもりか……?」
屈強な男が言った。
惜しい。
レシピは似ている。
「悪の帝王が作るんだ。きっとヤバいものに違いないぜ……」
ヤバい薬などではなくイチゴである。
男たちはため息をついた。
先入観とはかくも恐ろしいものである。
作業員は絶望に包まれているが、仕事そのものはホワイトである。
給料は出るし、時間も決められている。
怪我もしないし、ドブさらいよりは衛生的である。
アッシュも暴力を振るったりしない。
それなのにここまで恐れられているのだ。
イチゴを見たとき、彼らはなにを思うのだろうか?
そんな作業員たちの恐れをよそに、農場へ女性たちが颯爽とやって来る。
やたら男らしい二人の女性。
アイリーンとセシルである。
さらにレベッカもいる。
アッシュはニコニコとする。
「どうしたー?」
のんびりとしたアッシュに対して、アイリーンたちはかなり焦った顔をしていた。
「アッシュ! たいへんだ!」
アイリーンが婚姻前の女性にあるまじきスパートで走ってくる。
それは大股でまさに怒濤の勢いであった。
首にはレベッカが乗っている。
セシルも走ってくるがこっちは遅い。
セシルも体力は常人なのだ。
「アッ~シュ! ぜえ、ぜえ、領地が決まった、はあ……」
セシルが息を切らせながら言った。
だがセシルが言い終わる前にアイリーンがアッシュの所に辿り着く。
レベッカはアッシュに飛びついた。
「あのね、あのね、新大陸の~……なんだっけ?」
レベッカは首をかしげた。
よくわからないらしい。
代わりにアイリーンが軽く息を整えると言った。
「アッシュが新大陸総司令官に任命された!」
「総司令官?」
傭兵のアッシュにとっては兵長より上になると雲の上の存在である。
司令官ともなると架空の生き物のような存在である。
いるかいないかすらもわからないのだ。
司令官と言われても困ってしまう。
「国軍の位階第三位だ。皇帝め! なにを考えている!」
この場合の三位とは他に二人司令官がいて、新参だから名目上三位という意味である。
それぞれの司令官に上下関係はない。
事実上は国軍のトップである。
地位の大盤振る舞いにもほどがあるのだ。
おそらく完全な屈服を示したのだろうが、アイリーンやセシルとしては面倒だ。
代官という官位の低い雇われ店長だからこそ今まで好き放題できたのだ。
総司令官になってしまったら、部下の目があるせいで今までのように遊んだりできないのだ。
「でも俺は大勢の人を使う方法なんてわからないぞ」
アッシュが言った。
「わかってる。ああいうのはな、名家に生まれて親の背中を見て覚えるものなんだ」
育ちや階級違いのと言うのはどうしても埋めることが難しい。
努力で階級差を埋めたアッシュでも帝王学というものを学ぶことは難しいのだ。
アッシュは困っていた。
そこでようやくセシルが追いついた。
それを見てアイリーンは言った。
「ここに第三皇子という名目のお姉様がいらっしゃるわけだが……」
「あ、アイリーン……わ、私に期待しても無駄だぞ。あのな、私は兄の邪魔にならないように、ただ娯楽に金を浪費するためだけの存在として育てられたのだ! 帝王学など一切学んでいないぞ!」
セシルは焦った。
自慢することではないが、それは全て真実である。
セシルはあくまで放蕩者の弟として育てられたのだ。
今のセシルが親の期待通りにならなかったのは、娯楽を通じた人脈や本人の商才のせいである。
「……どうしようか?」
アッシュは本当に途方に暮れていた。
解決方法が浮かばない。
「とりあえず私とセシル様で伝手を総動員してみる。なあにアッシュならなんとかなるさ」
レベッカもアッシュの頭をポンポンと叩く。
「にいたんならだいじょうぶよー」
アッシュはなんとなく大丈夫なような気がしてきた。
根拠こそないのであるが。
すると今度はセシルが深刻な顔で言った。
「それとな。アイザックがたいへんなんだ」
「ん?」
アッシュは目を丸くする。
さらに事態は複雑になっていくのだった。
その事態にはアイザックも巻き込まれることになる。
なにせアイザックはアッシュの右腕なのだから。