皇帝と瑠衣
もはやクルーガー帝国はセシルとアッシュのものになった。
これはそういう布告、いわゆる宣言がなされたわけではない。
公式文書には一切そのことは触れられていない。
あるのはライミ侯爵の長男アッシュへの遺産相続の許可が降りたという記録だけである。
だが貴族たちはセシルとアッシュが国を取ったと思っていた。
これは論理的な話でも、そう断言するにたる物証が存在したわけではない。
ただ……そういう空気があったのだ。
それまで暗愚と思われていたセシルは最後の最後に逆転を果たした。
ライミ家の忘れ形見にしてクルーガー帝国最強の男、アッシュ。
英雄パトリックの娘にして魔女とまで言われる妖艶な才女アイリーン。
そして海軍全軍までも傘下に収めた今、セシルに逆らうものは誰もいなかった。
さらにその後のセシルの態度も噂になった。
兄たちやその傘下の貴族を粛正しなかったのだ。
なんという大きな器量だろう。
貴族たちは噂した。
実は……ただ単にセシルは復讐とか仕返しに興味がなかっただけなのだ。
なぜなら、セシルの頭の中は「いつ子ども作ろうかな?」という現実的な問題でいっぱいだったのだ。
はっきり言って兄たちなど、妊娠に比べれば本当にどうでもよかったのだ。
そして、それはアッシュたちクリスタルレイクの関係者しか知らない。
そして夜会の翌日。
皇帝から国の雇われ店長に成り下がった男は目覚めた。
常に側にいるはずの護衛の騎士や女官は部屋の隅で倒れていた。
皇帝は呆然としていた。
すると部屋の片隅に女がいるのに気づいた。
「ごきげんよう。皇帝陛下」
いつぞやの悪魔、瑠衣だ。
皇帝は悪魔が自分を殺しに来たのだと思った。
「そんなに怯えないでください。危害を加えるつもりはありません……個人的には殺してやりたいところですがね」
瑠衣は微笑んだ。
それは絶対零度の冷たさの笑顔だった。
それもそのはず。
瑠衣は怒っていたのだ。
なにせもはやアッシュは瑠衣にとって家族みたいなものなのだ。
瑠衣にとっては皇帝は敵でしかない。
「今日は契約の終了と新たな契約のお知らせをしにやってきました」
「契約の終了とはなんだ?」
皇帝は言った。
「初代クルーガー帝と交わした契約の終了です。これまでの契約の代わりに、このたび霊的にこの地の支配者となったアッシュ様との契約を上書きさせて頂きます。以降我々はアッシュ様と法に従うことになります」
とうとう皇帝は悪魔に切り捨てられた。
たとえ皇帝が契約を軽視してたとしても悪魔には重要なことだった。
「そうか……やはり国を取られたのか」
「皇帝陛下が敗北を受け入れたときにアッシュ様がこの地の支配者となりました」
「そうか。ではライミ侯に皇位を譲り渡せばよいのかな?」
皇帝はすでに事実をありのままに受け入れた。
「いいえ。アッシュ様は年若く、まだ学ぶことが多くおありになられます。即位はまだ先でよろしいかと存じ上げます。皇帝陛下におかれては、どうぞ引き続き皇帝ごっこをご堪能ください」
瑠衣は皇帝を『ごっこ遊び』と切り捨てた。
皇帝にはそれで充分だった。
「わかった……」
それで充分だった。
「ではもう一つ。封印されたドラゴンの場所。その情報を提供しなさい。これはアッシュ様の命令です」
皇帝はヨロヨロと立ち上がる。
そして棚から箱を取り開ける。
中には小さな羊皮紙が入っていた。
「代々伝わっているものはこれだけだ……」
瑠衣は羊皮紙を受け取る。
「アッシュ様もお喜びのことでしょう。では失礼いたします」
瑠衣は消えようとした。
だが皇帝が瑠衣の腕をつかんだ。
「なんでしょうか?」
瑠衣は聞いた。
皇帝の目はあまりにも真剣なものだったからだ。
「待て、神……神族との契約がある」
皇帝は声を震わせていた。
「それがなにか?」
瑠衣も知っていた。
皇位を簒奪した偽皇帝の一族が神族と契約をしていることを。
「奴らは不幸を望んでいる。我らは民を痛めつけ、神族は我ら……いや皇族に繁栄を約束する。それが契約の内容だ」
「神族らしい外道な話ですね……まったくあの連中は……」
瑠衣には理解できない世界だ。
大局に立てば人間の繁栄こそ悪魔の繁栄だとわかるはずなのだ。
だからこそ悪魔は人間の友人でいるべきなのだ。
皇帝は続けた。
「それはノーマンも同じだ。やつらとの戦争は全てやらせだ。この戦争は間引きなのだ! ドラゴンを封印したのも、ライミを暗殺したのも、戦争で負け続けたのもやつらの命令だ。仕方がなかったのだ!」
おそらく神族の命令だけではないはずだ。
瑠衣は見抜いていた。
これまで数百年嘘つきをたくさん見てきた。
だがこの男はその中でも最悪の嘘つきだった。
瑠衣は言った。
「我々に神族を倒せと?」
「そうだ。そうでなければ、また同じ事の繰り返しになるだろう」
瑠衣は力ずくで皇帝の手を振りほどく。
皇帝の体は瑠衣の腕力の前に宙に浮き、部屋の壁にぶち当たった。
皇帝は意識を手放した。
瑠衣は少しだけ気が晴れたような気がした。
「アッシュ様に相談ですね」
瑠衣はそう言うとショートカットでクリスタルレイクに戻った。
クリスタルレイクの広場ではタヌキたちが酒盛りをしていた。
花冠をつけたドラゴンたちも踊っていた。
瑠衣はアッシュを見つけると今の話をしようと思った。
だがなぜか目の前にクローディアことタヌキの花子が立ち塞がる。
「なんですか花子」
「花子って言うな。って……まあいいわ。瑠衣、酷い顔よ。アッシュちゃんのところに行くのは、気を落ち着けてからにしなさい」
クローディアはそう言うと瑠衣に木のジョッキを渡す。
「はい、お酒でも飲みなさい」
クローディアは普段はいいかげんな生き物だ。
だがこういう時には頼りになるのだ。
瑠衣はお酒を飲みながらドラゴンとタヌキたちの歌を聴いていた。
「クローディア。皇帝は許せないことをしてました」
「でしょうね。あの一族はいつもそう」
「神族と戦争になります」
「でしょうね。そうなると思って私も来たんだもの」
そう言うとクローディアは瑠衣の背中を優しく叩いた。
「ま、なるようにしかならないでしょ。それにうちの子たちなら大丈夫よ」
クローディアと話していると、なんとなく瑠衣の気も晴れてきた。
アッシュや仲間たちを守らねば。
家族を守らねば。
瑠衣はそう心に誓った。