プレ公演 1
クリスタルレイクやスラム街のアッシュの支配地域は、とても清潔で地面にはゴミ一つ落ちていなかった。
道の脇には花が植えられ、季節の花が道行く人を見守っていた。
それは庶民街や商人街、上流階級のいる貴族街でも見られないほどの清潔さだった。
なにせ、隣接する庶民街は汚く、そして臭かった。
ゴミがそこらじゅうに落ちていて、ネズミや害虫があちこちを這っていた。
スラム街の大清掃のせいで、ネズミや害虫が平民街に逃げたのも一因である。
水路は汚れ悪臭を放ち、緑色に濁った水からは次々と泡が浮いてくる。
アンデッド狩りの達人であるアッシュが見たら言うだろう。
「淀んだ瘴気だ。そろそろアンデッドがわいてくるかもよ」と。
それほど庶民街は荒んでいた。
なにせクルーガー帝国は戦時状態だったのだ。
新大陸とは違い配給制でこそなかったが、庶民に金は回ってこなかった。
それはブラックコングの活動とリンクしていた。
なぜブラックコングが崇められたのか?
クルーガー帝国では戦災や経済的事情で子どもを手放す人が多かった。
衛生状態も悪いため病死も多かった。
毎年夏には病気で何人も死んでいるような状態だ。
セーフティネットのはずの徒弟制度も受け入れ可能な人数には限界がある。
教会も救済に乗り出すが、組織として金は持っていても、末端の教会にまでその資金は行き渡らない。
この末期的な状況に庶民は常に絶望していた。
戦勝ムードも貴族や商人だけのものだった。
そんな庶民街の中央道を馬車が走っていた。
それは一目で貴族のものだとわかるほど豪華な装いだった。
それが何台もいたのだから異常を通り越して珍妙ですらあった。
乗っているのは、セシルの桃龍騎士団の後援者たち。
……という名の瑠衣に散々脅されてセシル側についた有力貴族たちだった。
事実上のセシル派である。
彼らは桃龍騎士団のスラム街浄化作戦の視察にやって来たのだ。
「やはり臭いものですな」
しわがれた声の老人が言った。
「あのクリスタルレイクと比べるのは酷というものです」
彼らはクリスタルレイクに頻繁に足を運んでいた。
なにせ、美味い料理に美味い酒、帝都でも入手困難なバッグなどの特産物まである。(彼らは酒の生産地が帝都のスラムであることを知らない)
「第三皇子と会談をする」と言って遊びに来ても家族に怒られることはない。
「セシル様の紹介で入手困難な品を分けてもらった」と言えば喜んでくれるのだ。
風景も美しく、一部の貴族に開放されたショートカットがあれば日帰りも可能だ。
疲れたとき、一人になりたいとき、それに本当に打ち合わせをするときなど保養所として便利に使っていた。
異形の悪魔たちはそこらじゅうをうろついているが問題はなかった。
彼らは貴族よりも礼儀正しく紳士だ。
悪さをしなければ恐れることはない。
と、貴族たちは完全に骨抜きにされていた。
そんなクリスタルレイクによる帝都の劇場であれば、視察する以外の選択肢はない。
クローディア・リーガン、その音楽家としての弟子がデビューする公演なのだ。
プラチナチケットどころではない。
他の貴族に偉そうに自慢できることだろう。
文字通り大名行列は、庶民街を抜けスラムに入る。
すでに扉は開けっぱなしになっていた。
それほどスラムの治安が改善したのだ。
スラム街に入ると馬車は止まる。
貴族たちがゾロゾロと馬車から出る。
ここからが視察なのだ。
馬車から出た瞬間、貴族たちは度肝を抜かれた。
花の香りがした。
庶民街とは大違いだった。
まるで貴族の邸宅、いやもっと洗練されたものがそこにはあった。
貴族たちが大口をあけて固まっていると、馬車から降りたセシルがやって来た。
今日は白塗り化粧である。
「諸君、どうだろう?」
自信ありげにセシルは言った。
鼻息が荒い。
それほどまでに完成度が高かった。
「こ、ここまでやるのはどういった理由からでしょうか?」
「アカデミーの学者の説を取り入れて、ネズミや害虫を寄せ付けないようにしたのだ。なんでも不潔な環境で発生する病気を予防できるそうだ」
「な、なるほど……」
貴族たちはキョロキョロとした。
すると清掃をする作業員と目が合う。
顔に入れ墨のある男が不釣り合いなエプロンを着けて清掃作業をしていた。
貴族たちはそれを見て理解した。
(悪魔だ……)
セシルが笑った。
「減刑と引き替えに労働をしてもらっている。彼らの給金は税金代わりに各個人に共益費を負担してもらっているんだ。安いが生活を立て直してもらうのには必要なのだ」
セシルは機嫌良く笑った。
貴族たちも愛想笑いをするほかない。
なにせ悪魔の恐ろしさはよく知っている。
「諸君、それでは次に市場へ向かおう」
セシルが言った。
するとアイザックが会釈をする。
ここにいる貴族はアイザックの店の常連だ。顔なじみである。
体裁を整える意味があまりにもない。
「今回、護衛と案内を兼ねる桃龍騎士団団長のアイザック・クラークだ。よしなに……諸君らはすでに知己だろうがな」
アイザックが剣の入ったさやを自分の前で持ち、今度はそれを背の後ろに隠す。
次にもう片方の手を胸に手を当てて、その手を差し出す。
最後に片足を引き跪き、頭を下げる。
面倒な動作だが貴族向けの忠誠心を表す敬礼である。
貴族たちは、なじみの店主の姿に微妙な苦笑した。
「ではアイザック行くぞ」
「はっ!」
アイザックのあまりの完璧さにクスクスと笑いが漏れる。
「そうだ! 諸君、言っておくが、このアイザックの奥方は今話題のピンクドラゴンや淑女亭の盟主だぞ」
全員がピタリと止まった。
「あ……あのバッグや置物などの工芸集団の? 何度聞いても教えて頂けなかったあの?」
貴族の一人が震える声で言った。
「そうだ。仲良くしていた方が得だぞ」
それから先は、貴族たちはセシルの説明も耳に入らなかった。
とにかくどんな手を使ってもアイザックを取り込みたい。
全員が良い手はないかと考えていた。
「よし着いたぞ。諸君、市場だ」
次の瞬間、二人の貴族が怒濤の勢いで走った。
セシルはカラカラと笑う。
「だろうな」
「なにが、ですかな?」
よくわからない貴族たちは素直に聞いた。
「いや、売るものがないから試験的に新大陸の花きを卸……」
今度は半分ほどが本気で走った。
「こ、これは! 買う! 言い値で買う!」
「うおおおおおお! ワシも買う!」
「ここにあるもの全部くれ!」
植木。それはまさに魔の趣味である。
セシルはニヤニヤしていた。
「クリスタルレイクでは販売しませんでしたからね」
アイザックはニヤニヤしていた。
「そうだな。だがこれでプレ公演前の準備は整った。あとはオデットの仕上がりを見るだけだよ」
セシルも悪い顔をしていた。
それほどまでにクローディアを信用していたのだ。




