悪の帝王 1
都では奇妙な噂が流れていた。
スラム街に新しい組織ができたという噂だ。
都にはスラム街を統括する住民組織がある。
スラム街では『住民』とは言っても、そのほとんどが投獄経験のある札付きだ。
しかもスラム街では暴行や軽い傷害程度では官憲は動かない。
つまり、重犯罪者などのすねに傷を持つ連中ばかりなのだ。
おのずと、その住民による組織は犯罪組織という具合になる。
都には三つの住民組織がある。
どれも主な業務は似たり寄ったりだ。
上納金を取って犯罪者の身を安全を保障したり、賭場の経営をしたりである。
たまに裁判所の真似事や、他の組織と戦争もする。
小さな国家とも言える。中央に見捨てられた民に秩序をもたらすのが仕事と言えるだろう。
その住民組織にニューフェイスが登場したのだ。
それ自体は珍しいことではない。
組織の顔役よりも喧嘩が強ければ上に立てると勘違いしている若者は多い。
そんな若者たちは自分のための組織を作る。
そしてすぐに命を落とす。
それ事態は日常の出来事だ。
だが今回は違った。
新しい組織は不気味だった。
その組織は、ある日街の一角を領土にした。恐ろしいことに死人、いや怪我人すら出さずに。
普通なら顔役たちが黙っていない。
すぐに命を落とすだろうと誰もが思った。
だが誰も動かなかった。
顔役たちは誰もが同じ事を言った。
「あいつらはヤバい。手を出すな」
三人の顔役は誰もが顔を真っ青にし、強い口調で子分たちに促した。
その新しい組織の名前は『蜘蛛』。
その長は『甲冑潰しのアッシュ』。
戦場の伝説である。
男性住民のほとんどが従軍経験があるため、その名前には覚えがあった。
「敵味方関係なく見たら死ぬ」という意味で。
「そんなはずがない」とタカをくくった若者や、「どうせ偽物だろう。懲らしめてやる」と殴りに行った男たちは、数日後にキレイな目をして帰って来た。
彼らは皆一様に言った。
「労働って素晴らしい。ポク、ちょっと働いてくるね」
まさに怪奇現象である。
他の顔役の支配地域の住民まで恐怖したのだ。
そんな新しい組織の領地、スラム街の一角の日常を追ってみよう。
朝。
小鳥がさえずり、鶏も鳴く。
暖かい日差しが照りつける。
そんな路地に顔に入れ墨を入れたチンピラが立っていた。
頭は丸坊主。
額には『反省中』の文字が魔法で書かれていた。
彼らは箒を持って掃除をしている。
それは異様な光景だった。
そんな彼らを見守るのはやさしい目をした紳士だった。
帝都の元騎士団長ギリアンである。
彼の正体は瑠衣の配下の蜘蛛である。
そんな彼は一目で紳士とわかるオーラを出しているにも関わらず、ギリアンの服装は汚い作業着だった。
その手には箒を持っている。
率先して掃き掃除をしている。
ギリアンは微笑んだ。
「掃き掃除が終わったら川の掃除をします。サボったり逃げたら……わかりますね?」
それを聞いた瞬間、坊主頭の男たちがビクッと震えた。
恐ろしい目に遭ったらしい。
掃き掃除、ほとんどはタバコの吸い殻や生活ゴミを片付けると、ドブの清掃に移る。
ギリアンも率先して作業をする。
死んだ目をした坊主頭の男たちも作業をする。
「いいですか。ここをキレイにすればネズミや害虫が減ります。病気も減るはずです」
これは学者たちの説を採用している。
学者たちが言うには、病気は不潔なところから発生するのだ。
男たちは常に死の恐怖を感じながら、一日中作業をするのだった。
今度は別の場所である。
町外れの何もない場所。
悪魔の騎士三人組の一人、ゲイツが立っていた。
その周りには人間の姿をした蜘蛛たちがいた。
「ここにゴミ捨て場を作ります。まずは穴を掘りましょう。焼却施設も作ります」
アッシュのコンポストの巨大版を作るのだ。
先ほどのやりとりからもわかるように、アッシュたちはまず最初に区画をキレイにすることからはじめた。
何かを企んでいたわけではない。
ただ単にアッシュがきれい好きだっただけだ。
だがこれは、後に投資に対して莫大な効果を出すことになる。
さらに別の一角。
巨人がいた。
悪趣味かつ高そうな服を着て、顔を仮面で隠している。
ブラックコングが好きそうな悪そうな格好に殺人鬼を足した形だ。
巨人はもちろんアッシュだ。
アッシュはなにを思ったか、酒場のドアを蹴飛ばした。
「親父ぃ……うちのガキどもが来てやがるな」
アッシュは奥をギロリと睨む。
親父と呼ばれた店主が「ひいっ」っと声をあげた。
アッシュは店に隠れていた子どもたちの前に行く。
子どもたちはアッシュを見ると逃げだそうとする。
だがそれはうまく行かなかった。
一瞬で周りを蜘蛛たちに囲まれたのだ。
「だってよお、先生! 難しくてよう……俺たちなんてなにやってもうまく行かねえよ」
子どもの一人が嘆く。
アッシュはなにかを教えているわけではないが『先生』と呼ばれている。
なにせこのスラム、本当にどうしようもないほど教育とは無縁である。
日々、全く教育されてない子どもが社会に送り出されているのだ。
アイリーンもこの惨状を知った時は驚きすぎて固まった。
なにせ都市部というのは、どこかに雇われるか、自分で商いをするしか生きる道はない。
ゆえに読み書きと簡単な計算は必須のスキルなのだ。
だが彼らはそれを習わないし、ほとんどができない。
さらに常に汚れている。
ドレスコードも知らないだろう。
このままでは彼らを雇う者は少ない。
本人も社会にもマイナスになるだろう。
実際、このスラムは長年帝国から放置されてきたのだ。
だからアイリーンは、ブラックコングと組んでアッシュの支配地域の清掃と子どもの教育をすることにした。
すぐに効果が出るとは思ってないし、誰も楽観論からの明るい未来は想像してない。
だがスラム支配のついでに手を出すことにした。
要するにアイリーンもアッシュもブラックコングもお人好しなのだ。
そんな彼らだが、手を出したらやはりたいへんだった。
スラムの子どもたちは自分で自分に首輪を付けてしまっている。
「自分はダメなヤツなんだ」と自分で可能性を潰してしまっている。
ラベリングというやつである。
その卑屈な態度にアッシュも口調が荒くなる。
「泣きごと言ってんじゃねえ。読み書きと計算ができれば騎士団でも海軍でも入れる。傭兵になるよりは何倍もマシだ。兵隊が嫌なら商人にだってなれるんだからな」
まるで昔の自分を見ているようだ。
だから元傭兵であるアッシュは言いきった。
兵にも格差はある。
騎士が最上とすると、傭兵は最底辺である。
命を失う可能性が高く賃金は低い。
そんなアッシュに子どもは聞く。
「じゃあさ、先生の子分にしてくれるか? 俺、他の区域の連中に威張り散らしたいんだ」
アッシュは微妙な顔をした。
威張り散らすのは小物だ。
できれば、それがわかるようになって欲しい。
「オラ行くぞ!」
しかたなくそう言うと、アッシュは子どもたちを捕まえて連行していく。
大人たちは目を合わせなかった。
なにせアッシュの言ってること自体は正しい。それに誰もアッシュに喧嘩を売る度胸などないのだ。
アッシュが子どもたちを店から出すと、外でブラックコングが待っていた。
「コング、頼む」
「わかったぜ兄弟。おう、お前ら、この兄ちゃんの言うことは聞いておけ。さもないと蜘蛛に連れて行かれちまうぞ」
子どもたちは、口を開けて固まる。
なにせ本物のお化けである。
大人の聞かせる昔話ではない。
本当に連れて行かれるのだ。
「行く……」
こうして帝国を滅ぼすよりも難しいミッション。
「帝国の裏社会を牛耳る」が展開されていったのだ。……とても地味に。




