コレジャナイ
コレジャナイ。
と、それを見たときクリスは真っ先に思った。
クリスの前に差し出された瓶の中には、並々と油が充されている。
クリスが欲しかった香水ではない。
いや結果的にはこれで良かった。
香水などを売ってしまったら、化粧品組合の既得権益に触れる。
殺し屋すら差し向けられるだろう。
だがこの香油は違った。
良い香りなどしない。
むしろ鼻が痛くなるほどの刺激臭がする。
「……これは何?」
クリスが自分以外の全員に問いかける。
部屋には、苦笑するアイリーンや、学者たち、それに瑠衣もいた。
アッシュもいる。
瑠衣と学者たちは、ニコニコとしている。
「これは画期的な香油だ。鼻の下や胸に塗ることで、鼻水や喉の炎症を鎮め、寝付きも良くする」
どこかで聞いたことのあるものだ。
「……はい?」
クリスは小首を傾げた。
もはやオーダーとは全く違う製品である。
「こちらは、皮膚に塗り込むと筋肉の疲れやコリを取る。こちらは香りで眠りが深くなる」
「……えーっと香水は?」
すると学者たちはクリスを取り囲んだ。
そして声を合わせて言い張った。
「「そんなの楽しくない!」」
クリスは無言でアイリーンを見た。
耐えられなくなったアイリーンは、「くっくっく」と笑っている。
「あきらめろクリス。もう彼らは止まらん」
もう何がなんだかである。
クリスは眉をしかめた。
「中身は違うんだろうけどさ、コイツもどこかの組合に喧嘩売っちゃうんじゃないの?」
クリスは不満げに言った。
「いいや、そうでもない」
アイリーンは笑いながら言った。
「そいつは当面アカデミーに卸す。どうやら画期的な効果があるらしい」
学者も捕捉する。
「これをもっと研究すれば、魔法の支援を受けられない地域でも、病気の治療が可能……だと思う」
自信はないが、クルーガー帝国の科学力はこんなものである。
それを聞いたクリスは、昔を思い出しながらつぶやいた。
「クリスタルレイクに着くまで何人も死んだからなあ……確かに怪我より病気の方が怖いもんな……」
クリスは、結構壮絶な体験をしている。
だから、「しかたないな」という態度で言った。
「それで、どうするの? 薬種問屋組合だって、問屋株がないと入れない既得権益ってやつだろ?」
「いや、研究の素材ってことで売る。植物学は最初から相手にされてないから、研究用途は採取が多いんだ。そこに食い込む」
完全に隙間産業である。
だがアイリーンは攻勢に出るつもりだった。
攻撃。攻撃。攻撃。
脳筋だが、たいていの場合正しいし、勝率も高い。
「お金あるの? いや……アイリーン姉……なにを考えているの?」
わざとクリスはアイリーンを「姉」と呼ぶと、学者たちを見た。
「ああ、問題ない。これから儲けさせる」
「どうやって?」
クリスは目を点にした。
クリスには、意味がわからなかった。
だがアイリーンはなにか企んでいる。
「青果と花きの問屋を、身代丸ごと買う。薬種問屋も買うつもりだ。組合員になってしまう」
「大丈夫なの? その株は無効とか言われない?」
アイリーンは「ふふんっ」と笑う。
「そこでアッシュだ。アッシュには名を名乗ってもらう」
「ライミ候?」
「違う。不死の傭兵アッシュの方だ。ライミ候アッシュと俳優アッシュはクリスタルレイクの関係者だが、不死の傭兵アッシュは違う」
いくつかのメディアは関連性があるのではと取り上げているが、そもそも新聞に信用はない。
不死の傭兵アッシュが、クリスタルレイクに住んでいることを証明する手段はない。
なにせ不死の傭兵アッシュの顔を知っている人間は限られている。
そして今のアッシュは、そのころの化け物のような姿とは違う。
品のある……悪の組織の総統に見えるのだ。
親しくなければ本人とはわからないかもしれない。
「どういう意味? どれもアッシュ兄ちゃんだけど分ける必要があるの?」
クリスには、アイリーンの言わんとしていることが全くわからない。
「不死の傭兵アッシュには、派手に暴れてもらう。そうだな。ブラックコングと抗争状態に入ってもらおうかな」
「ちょっと待って……それってやらせ……」
クリスの言葉にアイリーンは目を輝かせる。
「そうだ。セシルがバックについたブラックコングと、不死の傭兵アッシュの抗争。つまり八百長だ」
「ちょっと、もしかして……組合は……」
「抗争に巻き込む。適度に酷い目に遭ってもらうよ」
アイリーンは笑う。
アッシュはポリポリと頭を掻いた。
「アッシュ兄ちゃんはどうなんだよ? 名前を捨ててもいいのか?」
「俺は傭兵やめた。それに必要なんだろ?」
「ああ、必要だ。帝国は商売の方から締め上げるつもりだ。少なくともそうやって締め上げることは可能だ。だから脅しておく。なあに少々痛い目に遭ってもらうだけだ。アッシュの嫌がることはさせないよ」
「て、帝国が介入するんじゃ……」
クリスが聞いた。
これが一番大事だ。
「しないだろうな。そうだな、新大陸の向こう岸に到着する頃には、セシルが官僚を買収しているはずだ。ブラックコングの行動を見逃してくれってね。それに今回の件は、力を持ちすぎた組合の間引きだ。皇帝の利益になるよ。それに皇帝の視点から見れば、商人の代わりなんていくらでもいる」
そう言うとアイリーンは、いつもの人当たりのいい表情になる。
「私も心苦しいんだ。大好きなアッシュに汚名を着せるなんて」
と、言いながらアイリーンは笑った。
瑠衣も笑った。
クリスは最近思う。
この二人似てきてないかと。
「それで、まずはどうするの?」
クリスが聞くとアイリーンが答える。
「もちろん航海だ。不死の傭兵アッシュは、危険を恐れず一船員として新大陸を探索し、地図を作成して巨万の富を得た。凄いね新大陸。でもクリスタルレイクは関係ない」
クリスは渋い顔をした。
「無理じゃね?」
「いいや、新大陸がどこにあるかなんて9割は知らん。貴族も含めてな。知ってるやつらは抗争には興味がない。知識層の興味は、和平がご破算になったノーマンの動きだけだ」
「というわけで、まずは船だ。船員は三交代制で乗せる。8時間働いたらショートカットで戻ってくる。船長はカルロスとチェス、それに提督にお願いするつもりだ」
話はどんどん先に進んでいく。
クリスはもはや笑うしかなかった。
そして……話は動き出す。
それは、目指す先、向こう岸の話。
犬人の夫婦が男の子に話しかけていた。
「コリン。よく聞きなさい」
犬人の夫が息子、その男の子に言った。
「うん、どうしたの? お父さん」
男の子は椅子の上で「お座り」をした。
「実はコリン……父さんたちはお前に言ってなかったことがあるんだ……」
父親がそう言うと、母親がグシグシと泣き始めた。
コリンは大事にされてきたようだ。
コリンの表情が固まる。
「それって……」
「父さんたちは……お前の本当の両親じゃないんだ!」
犬人の夫婦が「わあっ」と泣き出す。
だがコリンは言った。
だってコリンは犬人たちよりだいぶ大きかった。
毛はモフモフだが尻尾は長すぎるし、背中には羽が生えている。
顔は似ているけど、毛はきれいな緑色だった。
白や黒や茶の犬人たちとは違う。
「うん……知ってた」
コリンは言った。
さすがに10年も村にいれば薄々わかる。
なんとなく、自分は犬人じゃないのかなあ……と。
「それでも父さんも母さんも、お前を本当の息子だと思っている!」
「うん」
コリンは二人に抱きしめられる。
「今、この村には……」
「『天使』たちが来てるんだね。学校の先生から聞いた」
『天使』は悪いやつらしい。コリンはそう学校で習った。
面白半分に村を焼き払っているらしい。
父は悲しそうな顔をした。
「ああ、そうだ。それで村のオババが言った。お前は運命の子だと」
オババは、村の長老で予言の力を持っている。
その言葉は絶対なのだ。
「なにそれ?」
「お前は10年前、空から降ってきた。だから運命の子だろうとオババは言った」
「うん……それで何をすればいいの?」
「救世主が海の向こうからやって来る。彼らを迎えに行くんだ」
そう言うと父は、剣を渡す。
「村の宝剣だ。まずは港に行け。わかったな」
「うん」
コリンは素直に返事する。
コリンは泣きじゃくる母親に別れを告げ、出入りが不自由になったドアを抜ける。
「じゃあね。すぐに戻るよ」
コリンは手を振った。
オババの予言は正しかった。
救世主はコリンたちの方へ近づいていたのだ。
三交代で。




